花火は,夏に限ったものではないが,やはり,真夏の夜,寄ってくる蚊を気にしながら,浴衣を着て,川土手に出て鑑賞する打ち上げ花火は格別だ。子供たちが小さかった頃は,自分自身が楽しむためという目的に加えて,これほど素晴らしい光と音の祭典を楽しむという経験をさせてやりたいという勝手な親心で,何度か,家族総出で花火大会に繰り出していたものだ。

 

バブル経済とかで好景気と言われていた時期は,僕もご多分に漏れず仕事が忙しかったが,さすがに盆と正月だけは家族で過ごすことができた。自宅から歩いていける距離の大きな河原に出かけて鑑賞したこともあるく,親元へ里帰りした時も,花火大会を見に出かけた。

 

花火大会の会場のすぐそばにあった親戚のお宅へ,何年か続けて,わざわざ花火大会の日程に合わせて,泊まりがけで行っていたこともあった。とにかく僕は花火が大好きなのだ。

 

 花火の魅力は,なんと言っても,一瞬の輝きと轟,そしてあっという間に散ってしまう儚さにある。単に目と耳を楽しませてくれるというだけではない。ひゅるひゅると淋し気な音を立てて上昇していく数秒間,まるで新たな生命が誕生するのを待っているかのような期待が胸に膨らむ。

 

   空中で大きく花開く瞬間は,まさに閉じ込められていた何かがこの時とばかりに咲き誇り,周囲を制圧する力を見せつける。一瞬遅れてくる大音響は,生まれた瞬間に死んでしまう悲しい呻きなのか,あるいはうまくやり遂げたという喜びの爆発なのか,それも観ている人の心の有り様によって,幾通りもの解釈ができる。そんな刹那が,人生の縮図を感じさせてくれると感じるのは僕だけなのだろうか。

 

   大きな音を立てて開いた花がしだれ桜の如く余韻を残しながら散り散りになって落ちていくさまも虚しさと名残を感じさせて風情がある。連続で打ち上げられるスターマインの色の変化は,楽しいことや嬉しいこと,悲しみや苦しみを表現していて移ろいゆく日々を振り返る気持ちにさせられる。ただ,ぼんやり眺めているだけなのに,そんな様々な情念が去来するうちに,何秒かして我に返る。

 

   その繰り返しの中で,いつの間にか目には涙が滲んでいる。毎年楽しみにしているのが,大曲の花火だ。これは,花火師の競技大会らしく,風流な名前のテーマやタイトルが告げられた後,数発から数十発の花火の組み合わせで,それを表現する。

 

   確かに地味だが,新しい試みもあるので,ちょっとだけ花火に詳しくなった気分にさせてもらえる。フィナーレの百花繚乱たるものすごい数の花火は,雑念を取り払って,心地よい世界へと誘いでくれる。毎年,8月の終わり頃に開催されるので,今年の夏も終わりだなあと感慨深い思いで見納めることができるのも,魅力なのかもしれない。

 

 先日,NHKの地上波でゴールデン・タイムに長岡の花火大会を放送していた。家族はどういう思いで見ていたか知らないが,震災からの復興を祈願して圧倒的スケールで打ち上げられたフェニックスは,平原綾香の「ジュピター」にもマッチして音と光の一大スペクタクルの芸術作品だった。こんなに素晴らしい花火大会があったとは。思わず肩が震えるほど感動した。

 

 ジュピターと言えば,モーツァルトの交響曲第41番が有名だが,ホルストの「惑星」からメロディを拝借したこの曲は花火大会にふさわしい悲し気な美しさを湛えた曲だ。ビートルズの曲を使うとすれば「ザ・ロング・アンド・ワインディング・ロード」かな。ピアノの「ジャジャーン,ジャジャーン」に合わせて二尺玉を連続で破裂させたら似合うと思う。どこかでやってくれんかな。