「もしも『ロマンス』ではなくて『私たち』がA面になっていたら、岩崎宏美は回り道をせず、もっと早くに『思秋期』『聖母たちのララバイ』のような曲に出会っていただろう。そう考えると少々残念な気持ちになる」ーーー筒美京平先生は、生前このような趣旨のことをお話しになっている(『希代のヒットメーカー 作曲家 筒美京平』NHK、2011年放映)。

 

 「私たち」。言うまでもなく宏美さんの大ヒット2ndシングル「ロマンス」のB面曲にして、今なお宏美ファンに絶大な人気を誇る“神曲”である。作詞:阿久悠、作編曲:筒美京平。

 

 冒頭の京平先生の言葉の真意はなかなか測りかねるが、「私たち」が宏美さんのポテンシャルを意識した自信作であったことは窺える。「ロマンス」と「私たち」を比較して、榊ひろと氏は『筒美京平ヒットストーリー』で以下のように評している。

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(「ロマンス」は)リズムの構造とクラヴィネットやストリングスが刻む細かいフレーズなどは、確かにヴァン・マッコイの「ハッスル」を意識したものになっているが、コーラスの歌唱法や全体のサウンドは従来の歌謡曲的な側面を残しており、過渡期的な作品とも考えられる。ただし、同時期に録音されたB面の「私たち」では、完全にディスコ・サウンド/オーケストラル・ソウルの消化に成功していることから見て、A面ではあえて折衷案的なサウンドを提示したのではないだろうか? 事実、筒美としては「ロマンス」よりも、彼女の伸びやかな歌声を活かした「私たち」をA面に推したいという気持ちもあったという。

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 歌詞の内容は、A面の「ロマンス」について京平先生が「少し大人っぽ過ぎる」と言われたのと対照的に、16歳の少女らしい夢見る爽やかさに満ち満ちている。そして、それにピッタリのメロディーとサウンドなのである。

 

 そう言えば何かで読んだのだが、京平先生の作品にはAメロがヨナ抜き五音階(ドレミソラ)、サビになると全音階(ドレミファソラシ)で書かれている曲が多いと言う。いくつか思いついた曲を脳内再生してみると、平山みきさんの「真夏の出来事」や麻丘めぐみさんの「芽ばえ」など、確かにそうである。郷ひろみさんの「男の子女の子」に至っては全曲通してヨナ抜きである。こんな単純な音階で名曲を次々に生み出した京平先生を改めて凄いと思うが、実は「私たち」もそうなのである。限られた音階の中で、こんなに素晴らしい楽曲が書けるのも、京平先生が先駆的だったという、メロディーだけでなくサウンドも同時に構築してゆく作編曲方法ゆえだった、という見方もできるであろう。

 

 

 私は、デビュー時のキャッチフレーズ「天まで響け」と、ファーストアルバムのタイトル『あおぞら』は、宏美さんの声から連想された共通のイメージだと思っている。そして、その“天まで響け”と“あおぞら”のイメージに一番ふさわしいのが、この「私たち」だと確信しているのだ。

 

 イントロの突き抜けた青空に響き渡るようなトランペットの音、そして「♪ あなたをいっぱい 愛していますー」のハイD、「♪ きっときっと 結ばれるでしょうー」のハイCの天まで届くような一点の曇りもない宏美さんの伸びやかな声、自然なビブラート。ツーコーラス終わった後の間奏の高揚感。私は初めて買った宏美さんのレコードである『岩崎宏美 ベスト・ヒット・アルバム』でこの曲を知り、その魅力の虜になっていた。

 

 

 昨日の「スローな愛がいいわ」のブログでも触れた私にとって初めてのコンサートで、「私たち」についても備忘録の記載があった。「メーン・イベント/ファイト」「シンデレラ・ハネムーン」「月見草」「療養所」「万華鏡」「スローな愛がいいわ」「そばに置いて」に触れた後、「そしてアンコール、聞き覚えのあるイントロだなァ、と思っていると、『私たち』でした。もう嬉しくて、嬉しくて…。家についてもまだ、頭の中で『私たち』が回っていました」とのこと。

 

 その後、何度もコンサートに足を運んだり、ライブ盤を買い集めたりするうちに、この「私たち」が宏美さんのコンサート終盤になくてはならない曲であることが判ってきた。「♪ 両手をひろげて 足りないくらい/あなたをいっぱい 愛しています」の観客一体となった振り付けも、現在のように宏美さんの“指導”のもとに練習したりはしなかったものの、当時から宏美さんの振りに合わせて自然にやっていた。

 

1983年 リサイタルより

 

 私の知る限り、「私たち」は事務所独立を機に歌われなくなった。宏美さんの固い意志があったのかどうかは不明だが、1984年春のツアーで歌われて以降は実質的に“封印”状態になった。長ーい長い封印が解かれたのは、2010年の35周年のコンサートの折りであった。実に四半世紀ぶりに歌われた「私たち」を、われわれ往時からのファンは歓喜の涙で迎えた。そして宏美さんは40周年時に再び歌ってくれることを約束してくれて、それも実現したのである。

 

 そして「そんなに喜んでくれるのなら」と言うことで、以降は毎年のツアーで歌ってくださるようになった😍。それも練習付きで(笑)。この曲を知らない観客にために、メドレーの前に「立てとは言いません。だいたい年齢層分かってますから」の口上付きで自ら振り付け指導。ステージ上から撮った観客全員が両手を挙げている写真が、宏美さんのSNSにアップされることもしばしばあった。

 

宏美さんのSNSより

 

 一昨年新型コロナウィルス感染症の流行が始まった。4月に予定されていたデビュー45周年コンサートの国際フォーラムが中止、NHK大阪がフェスティバルホールに会場を変更して12月の平日に飛んでしまい、私は参加できなくなった😭。そんな頃、8月にオンラインでファンクラブのミーティングが開催された。その折りに、何と参加者全員1人ずつ宏美さんにお声かけする機会が与えられたのだ。私は「12月2日のフェスティバルホールにはヨシリンが登場すると踏んでます。平日で行かれないので、ブルーレイ出してください❣️」とお願いしたのだ。見事に予想が的中しヨシリンと「にがい涙」をデュエット、ブルーレイも発売された。😍

 

 行かれなかったフェスティバルホールでは、もう一つのサプライズがあった。ブルーレイの宣伝動画で「私たち」が一瞬流れたのだが、それが2番前半の歌詞だったのだ! コンサートではメドレーの最後に披露され、サイズはいつもワンハーフ&ハーフであり、2番の前半は歌われないはず。ちょうどその動画を見た日にお仲間でzoom飲み会があった。そこで私は真っ先に確認、「もしかして、フェスティバルホールでは『私たち』フルコーラスだったの?」と。答えはYES❣️

 

 私が生でフルコーラスの「私たち」を聴くことができたのは、2021年4月のルネこだいらでのコンサートのこと。芸映時代のリサイタルでも、1982〜3年は「私たち」はメドレーに組み込まれており、フルコーラスではなかった。調べてみたら、私が「私たち」のフルコーラスを生で聴いたのは82年8月の新宿厚生年金が最後だった。なので実にほぼ40年ぶりのことであった。しかもコロナ禍で「宏美ちゃん!」コールができない。40年ぶりのフルコーラス、イントロが鳴った途端にウルウル、「♪ 名も知らぬ 花が咲いています(宏美ちゃん!)」と、声に出せない分振っているペンライトに力がこもる。声援のない「私たち」に涙腺が決壊、号泣したのだった。😭

 

 宏美さんには、声の続く限りこの「私たち」を歌い続けていただきたいし、われわれも手が動く限り両手を上げ続けます!そして一日も早く、また「宏美ちゃん!」と安心して声をかけられる日々が戻ってきますように。🥰

 

 

(1975.7.25 シングル「ロマンス」B面)