自由
不正な社会で正しい言葉を語り、そのことで殺されるとしてもそれは自由ですか、と問う人がいるかもしれない。答えよう。そうだ、自由だ。不正な仕方で生きることは、決して自分によいことではない。精神には生存よりも大事なものがある。それが自由だ。自分が自由であることだ。不正なことは精神の死だ。不正な生存が不自由なものであることを、精神は知っているんだ。
でも、だからと言って、これは精神の自由のために死を選ぶということではない。難しいけれども肝心なところだから、ゆっくりと考えよう。
もしも精神の自由のために死を選ぶ、不正な生存よりも死を選ぶのだったら、まるで精神は生に対するところの死というものが何であるかを知っているかのようだ。あるいは、生に対するものとして死というものがあるかのようだ。けれども、精神は、考えるほどに死というものが何であるかわからないのだったね。わからないものを怖れることはできない。考えることによってそのことを知っているからこそ、精神は自由なのであって、自由のために死を選ぶのじゃ、あべこべだ。だいいち、自由のために死ぬなんて、そんな不自由なことってないじゃないか。
引用:池田晶子「14歳からの哲学」
不正な生存が不自由なものであることを、精神は知っている
不正な仕方で生きることが自分にとってよいことでないと自覚できれば、そこから脱することができるが、その自覚がない場合はどうしようもないのか。
自分にとってよいことかどうかは、考えなければわからない。
そのために精神があるはずだ。
しかしながら、その精神のはたらきがうまくゆかないときは、どうしたものだろう。
精神には、自由が生存よりも大事なのか。
精神が手足を縛られてる様を考えると、窒息してしまいそうだ。
生存していても、生存している意味がないような気持ちにさせられる。
「心はどこにある」の章に精神について次の記述がある。
移ろい変わる感じや思いについて、動かずに観察、分析して、そのことがどういうことなのかを考えて知るのが、精神というものの働きだ。
その精神は、不正な生存が不自由なものであることを知っている
精神は自由であることを欲する、というより自由でなければ働けないのだ。
精神が自由であるということが、もっとも大事なことではないか。
~つづく~