自由

さあ、精神の自由とはどういうことなのか、なんとなく実感できてきたかしら。そう、精神の自由とは、何よりもまず「怖れがない」ということだ。怖れがあるところに自由はない。わかるね。「したいけれどもできない」と言う時、したいことをできなくしているのは、その人の怖れ以外の何ものでもない。言いたいことを言えないのは、他人にどう思われるかということへの怖れだし、イヤな仕事を辞めたいのだけれど辞められないのは、生活できなくなること、つまり死ぬことへの怖れだ。
死への怖れが、人間の中では一番大きな怖れだ。これが人生を最も不自由にしているものだ。死ぬことを怖れて、人がどれだけ人生を不自由にしているかを想像してごらん。生き「なければならない」、食べ「なければならない」、みんなと合わせ「なければならない」、あらゆることがこの怖れから出てきているとわかるだろう。でも、死は怖れるべきものではなかったのだったね。考えれば、人は必ずそのことに気がつく。そのために精神というものがあるんだ。精神は、考えて、自由になるためにこそ存在しているんだ。

引用:池田晶子「14歳からの哲学」


死は怖れるべきものではなかったのだったね。考えれば、人は必ずそのことに気がつく。そのために精神というものがあるんだ。精神は、考えて、自由になるためにこそ存在している

とりわけ響いてくる言葉だ。

考えて自由になるためにこそ存在している精神ならば、それを活かすに尽きる。

確かにどんな怖れも行き着く先は死ぬことだ。

死ぬことの怖れがなくなれば、ほんとうにパ~ッと目の前が開けてくるだろう。

「~なければならない」人生が自由であるはずない。

死ぬことを怖れて、人がどれだけ人生を不自由にしているか

全くだ。

死ぬこと、死とは何かわからないのに、怖れているなんて、ほんとうはおかしいはずなのに、人間はわからないことを怖れる心性を持っている。

予め予測してそれに対処するというやり方で怖れを軽減させる。

自分が死ぬということを正面から考えることを避けたがる。

それこそ、あらゆる不自由の源なのだから考えなければならないことなのに。

考えれば、自分の肉体は朽ちるが、考える精神において自分がないということは考えられない、とわかるはずなのだが。
(詳しくは「死をどう考えるか」の章で)

精神は考えて自由になるために存在しているのだから、死ぬこと、死について、考えられるところまで考え抜くことがやはり必要なのではないだろうか。

考えることは決して怖いことではないはずだ。

~つづく~