自由

何であれ、「自由」というのは、それを自由だと主張することによって自由ではなくなるんだ。このことはしっかりと覚えておこう。いいかい、「私は自由だ」と他人に対して主張するということは、その人が不自由であるからに他ならないね。つまり、「私にはしたいことをする自由があるのに、したいことをする自由がないのだ」と。いったいこれは何を言っていることになるのだろう。
よいことをしたいのなら自由だし、悪いことをしたいのなら自由ではない。その善悪の判断を自分ですることをしないで、他人にその判断を求めているんだ。他人に自分の自由を求めているのだから、他人に与えられるような自由が、自分の自由であるわけがないじゃないか。
自由というのは、他人や社会に求めるものではなくて、自分で気がつくものなんだ。自分は自分のしたいことをしていい、よいことをしても悪いことをしても何をしてもいい、何をしてもいいのだから、何をするかの判断は完全に自分の自由だと、こう気がつくことなんだ。自分で判断するのでなければ、どうしてそれが自分の自由であるはずがあるだろう。自由は判断する精神の内にある。精神の内にしかないんだ。現在の自由主義社会の人々は、このことをほとんど理解していない。社会制度がどうなのであれ、精神さえ自由ならば、人間は完全に自由であり得るという普遍の真理についてだ。

引用:池田晶子「14歳からの哲学」


なるほど、ほんとうに自由ならば自由だと主張するまでもない。

主張するという行為。

「自由ということは、自分で気がつくもの」というのは、知らなかった。

何をするかの判断は完全に自分の自由だと、こう気がつくこと

自分の判断でしていると思っていることでも、どこか周囲の思惑のようなものにからめとられ判断してしまってはいないだろうか。

期待にそうようにとか。

そうしたことに、私たちは案外気がつかないのかもしれない。

気づくためには、ホント、考えるしかないのですね。

精神さえ自由ならば、人間は完全に自由であり得る

ほんとうにそうなのに、自分の思い込みによって自分で自分を不自由にしている。

そして、考えることをしないから、そのことに気がつかないままでいる。

何と愚かなことよ。

~つづく~