取材日時 2007年 8月15日
コメント・15日の一発目は、かねてから楽しみにしていた奔別炭鉱にやってきた。早朝の奔別の町は、人影も無く至って静かではある。しかし、全くのゴーストタウンではないので、正面突破は出来ない。迂回路を見つけてそこから凸することにした。遺物も多く残されており、やっと炭坑施設らしい空気に触れることができる。
取材日時 2007年 8月15日
コメント・道内でも屈指の歴史を誇る炭鉱がかつてはここにあった。1879(明治12)年に開削された道内最古の坑道跡があり、音羽坑口と呼ばれている。
当初は石炭を産出していたが、1896(明治29)年以降、排水溝に転換。 1987(昭和62)年の閉山とともに密閉されたという。
現在、周辺は三笠炭鉱の記憶再生塾「幌内歩こう会」が幌内景観公園として整備をしている。
俺がここに訪れた時には、丁度元炭鉱マンの斎藤さんが写真の個展を開いていて、その人に幌内炭鉱景観公園内を案内してもらったのだが、
本来であればこれは有料のサービスらしく(最少催行人数5人から・・・・後から知った)、同じ産業遺産を写真に収めたいと言う志に共感してくれたらしく、
こちらから頼みもしないのに案内をしてくれた。時間にして約30分だったが、灼熱の山中を草むしりをしながら案内してくれた斎藤さんに、この場をお借りしてお礼申し上げます。
取材日時 2007年 8月15日
コメント・ 夕張を一巡りした後、14日の昼過ぎには、美唄市郊外の「我路「」という集落のはずれにあるキャンプ場に幕営。
その日はそのまま町まで出て温泉に入ったり、買出ししたりして翌日に備えた。
15日は早朝から精力的に探索を敢行、奔別、弥生炭住街、幌内、南美唄を廻った。
ある場所から適当に幹線道路から離れ、地図に自分でマーキングしておいた場所に差し掛かると、その目印は直ぐに見えてきた。
普通の廃墟を探すよりも遥かに簡単に炭鉱施設は見つけ出す事ができる。
特に「立坑櫓」が残っていると、相当の遠くからでもその存在を確認する事ができるからだ。
空知エリアの晩年まで稼動していた保存状態のよい立坑櫓である。
炭鉱に詳しい人は、入気櫓(にゅうき)と呼称しているらしい。
物件番号と探索した順番が前後しているが、あくまでも物件番号は出発前に廻る順番として決めていた為。
取材日時 2007年 8月14日
コメント・夕張の中心街を朝から徘徊してみた。
お盆休みとは言え、ここも先日廻った「清陵町」と同様に、活気が無くなった町となっていた。
テレビで連日報道された財政破綻の実態を目の当たりにした日だった。
この町が息を吹き返す可能性は、今現在ではゼロである。産業が廃れ、次第に人が出て行き自治体も己の保身に躍起になっている。地域サービスは極限まで削減され、大幅な地方税の引き上げ、相次ぐ学校の閉鎖、病院の統廃合、今夕張を救う好材料は全く無い。
夕張を復活させる為のイベントも散発的に行われたようだが、そんなのは一時的なカンフル剤にしか過ぎず、根本的な問題が解決されていない今の状況では、やるだけ無駄だと思う。
とにかく、町全体が怒涛の勢いでダメになっていく、そんな空気感しか感じる事は出来なかった。
取材日時 2007年 8月13日
コメント・またまた前後するが、北海道二日目の一発目に探索した物件である。
現役の発電所であり、内部を探索する事は不可能である。
国道から入ると、ドライブインがあり駐車場と広大な公園もあるのだが、小川を挟んで向こう岸に物件はあり、普通は行く事は出来ない。
しかし、「ロバート調査団」の看板を守る組織員としては、ここまできて引き返すという事は有り得ない。
公園内で、草刈をしているオッサンの目を盗んで、小川を遡行(大げさ)し無事に対岸に取り付いた。
しかし、相手は現役の発電所。中に入れないので、撮影は極限られた場所からしか行う事は出来なかった。
今回は特にコメントするところがないので、スライドショーは画像のみとなります。
取材日時 2007年 8月13日
コメント・人がいない。
まさにその表現しか出来ない町。
かつての史料をみると、取り囲む山肌に立つ無数の炭住の明かりが、周囲の夜空を明るくするほどに埋め尽くしていたとあったが、
いまはその面影すらも無い。
日中でも、外を出歩く人の姿は皆無に近く、子供の姿を見ることも無かった。
目に付くのは、老人と通過していくほかのエリアからの一般車だけ。先日みた、夕張の廃墟群と同じように、ここにも人の住んでいない住宅が殆どを占める。
中には、一棟にたった一世帯だけ住んでいる所もあるが、おそらく移転したくても出来ない人なのだろう。
とにかく活気が全く無い、典型的な炭鉱の有った町だった。




取材日時 2007年 8月12日
コメント・物件番号の順番は前後するが、鹿ノ谷倶楽部を探索する前に、夕張の町を巡ってみた。
この色々な意味でダメになってしまった町に、どれくらいの廃墟廃屋があるのかを、まずはウォーミングアップとして見て廻りたかったからだ。テレビで放映されていたのは、シャッターを下ろしたままの商店街や、人気が無くなったメロン城などの、比較的程度の良い物件ばかりだったのだが、いざ街中に足を踏み入れてみると、想像以上に朽ちた建物が多いことに目が止まる。
こんなに、当たり前のように廃墟、あるいは空家が林立している町はそうそう無いと思う。
このまま財政状況が改善しない限り、また来年さらに次の年と、町の中には次々と廃墟が増えていくのは間違いないだろう。
取材日時 2007年 8月12日
コメント・
6年ぶりの北海道ツーリングが、廃墟探索。
前回のロングツーリングを終えた時点で、おれがこのような形で再び北海道に上陸するとは予想だにしなかっただろう。
今の職場で働くようになってから5年。有給休暇もそこそこに溜まってきた、病床の母の容態もいまは殆ど変化が無くなった、一時期ヒートアップしていたオネイチャン遊びも今は落ち着いている。
となると、プライベートでやる事と言ったら、廃墟探索とツーリングという二大イベントをやるしかない。
で、この数年間自ら封印してきた「北海道ツーリング」を今年いよいよ解く時が来たのだ。
その最大のキッカケは、夕張市の財政破綻のニュースが駆け巡った2006年である。この時点で何度もテレビには、ゴーストタウンと化した夕張市が映像として放送され、俺の中にある「探検心」に一気に火かついたのである。
「よし、北海道に行くしかねぇ・・・・・」
思い立ってから、計画を立てるまでにそう時間は掛からなかった。
目指すは、廃鉱が山のようにある空知一帯。ネットでそれに関する情報を集め始めたのだが、まさに戦慄を感じるほどの充実振りだった。
とにかく、息の根を止めたヤマの多いこと多いこと。早くにこの状況を知っていれば、程度の良い廃鉱をもっと見ることが出来たかもしれない。
それだけでも、独立したサイトを立ち上げる事は可能だったかもしれない。
そして、ゴールデンウィークローラー作戦を完遂したその後から、6月に航空機の予約をすませ、いよいよこの日、俺は相方弐号機G/Sと共に、6年ぶりの蝦夷の道を走り始めたのである。
その記念すべき一発目の物件は、廃墟ではなく管理物件ではあるが、夕張のヤマの歴史を語る際には決して外す事の出来ない重要な施設である。
これを見て思い浮かべるのは、足尾銅山の「古河掛水倶楽部」だろう。内装の絢爛さは掛水倶楽部に軍配、規模の大きさは鹿ノ谷倶楽部が上回っていたとおもう。
それにしても、この暑さは一体なんなんだ?
気温34度って、北海道くんだりまで来て、それは無いでしょ?(汗
廃墟探索の基本は涼しいところで、冷や汗をかきながらやるもんでしょうがよ、汗だくですよ。
テンションも下がるっての、でもここまできたらトコトンまで探索するしかない。
厳しい遠征の幕開けである。関連画像はこちらhttps://photos.app.goo.gl/1zKToEn3ndTugSfX9