村田沙耶香「コンビニ人間」文藝春秋2016 | 日々是本日

日々是本日

bookudakoji の本ブログ

 村田沙耶香さんがこの作品で芥川賞を受賞したのが2016年であるから今更な感じはあるが、村田さんの作品は読んだことがなかったので、やはりこの作品から読んでみた。

 

 その後の作品を見ても、社会の暗黙のルールにメスを入れていくタイプの作家に思っていたが、この作品もまさしくこの手の作品であった。

 

 そして、今までにはないタイプの主人公の作品でもあった。

 

▼村田沙耶香「コンビニ人間」文藝文庫2018

コンビニ人間 (文春文庫)

※単行本の出版は2016年

「普通」とは何か?
現代の実存を軽やかに問う第155回芥川賞受賞作

36歳未婚、彼氏なし。コンビニのバイト歴18年目の古倉恵子。
日々コンビニ食を食べ、夢の中でもレジを打ち、
「店員」でいるときのみ世界の歯車になれる――。

「いらっしゃいませー!!」
お客様がたてる音に負けじと、今日も声を張り上げる。

ある日、婚活目的の新入り男性・白羽がやってきて、
そんなコンビニ的生き方は恥ずかしい、と突きつけられるが……。

累計92万部突破&20カ国語に翻訳決定。
世界各国でベストセラーの話題の書。


【著者略歴】
1979年千葉県生まれ。玉川大学文学部卒業。2003年「授乳」が第46回群像新人文学賞優秀作となりデビュー。09年『ギンイロノウタ』で第31回野間文芸新人賞受賞。13年『しろいろの街の、その骨の体温の』で第26回三島由紀夫賞受賞。

 

※上記バナーの Amazon 商品サイトより引用

 

 まずこの、社会の暗黙のルールにメスを入れていくタイプの作品で、かつ、コンビニの歯車のような主人公の作品がこんなに売れるということに、時代の変化を感じずにはおれない。

 

 1979年生まれの村田さんは執筆当時、主人公と同じ36歳である。

 

 芥川賞受賞時のインタビュー動画がある。

 

▼村田沙耶香さん『コンビニ人間』芥川賞受賞記念インタビュー

 

 このインタビューでは、村田さん自身、今までの自分の作品とはちょっと違う作品であると言っている。

 

 自分自身をモデルにはしていないそうだが、コンビニはかなり好きらしい。

 

 主人公は、ただアルバイトをしていて恋愛はしたことがないというだけなのに、「なんでなの?」と訊かれてしまう人であり、この主人公に「なんでなの?」と訊くのはなんでなのかと問いたかったという。

 

 ということはこの作品を、主人公に「なんでなの?」と訊いてしまう側にいる人が読むと、「なんでなの?」と訊くのはなんでなのかと問われてしまうということである。

 

 これはそれなりに耳が痛いことだと思うのだが、多くの人は主人公に「なんでなの?」と訊いてしまう側にいるだろうと思う。

 

 それなのに、この作品がなかなか売れたという事実には、やはり驚く。

 

 自分の感想の中にこの答えを求めるなら、この作品には、自分が「なんでなの?」と訊いてしまう側いることの意味を自覚するという気づきがあるからである。

 

 多くの人が「個性が大切」と思いながら、自分の立ち位置が見えないでいるならば、このことが売れた理由だということはあり得るのではないかと思う。

 

 ということで、本題の感想に進みたいと思う。

 

以下、本題(ネタばれあり)

 

コンビニの描写の素晴らしさ

 まず感じるのが、コンビニの歯車であるかのような主人公の視点でのコンビニの描写が生き生きとしているということである。

 

 コンビニを利用する側の人、更にはコンビニでアルバイトをしたことがある人であっても、コンビニとはこんなに生き生きとした空間なのだと感じさせるものがあるほどに思われた。

 

 そこに、コンビニ店員になるために生まれてきたような主人公の心理的な説明が加わっていく。

 

 主人公の恵子は、

 

 コンビニ店員として生まれる前のことは、どこかおぼろげで、鮮明には思い出せない。

※村田沙耶香「コンビニ人間」文藝文庫2018, p11

 

とまで言う。

 

 このコンビニの描写と心理的な説明に全体の四分の一が費やされるが、なかなか退屈しないで読めた。

 

 この後、アルバイトの新入り男性・白羽が登場したところから、話は徐々に動き出す。

 

 

社会の暗黙のルールの自覚

 アルバイトの新入り男性・白羽は、自分自身が35歳でアルバイトという状況でありながら、コンビニ店員を見下している。

 

 そして、トラブルを起こして辞めていくのだが、この白羽の一件を通して、主人公の恵子は社会の暗黙のルールを自覚していく。

 

 店を辞めさせられた白羽さんの姿が浮かぶ。次は私の番なのだろうか。

 正常な世界はとても強引だから、異物は静かに削除される。まっとうでない人間は処理されていく。

※村田沙耶香「コンビニ人間」文藝文庫2018, p84

 

 自分をまっとうでない人間だと思っている主人公・恵子はこう思うのであった。

 

 そして、恵子は世間を納得させるために白羽と偽装同棲をするに至るが、このこと聞いた妹の反応から更にこう自覚する。

 

 そうか、もうとっくにマニュアルはあったんだ。皆の頭の中にこびりついているから、わざわざ書面化する必要がないと思われているだけで、「普通の人間」というものの定型は、縄文時代からかわらずにずっとあったのだと、今更私は思った。

※村田沙耶香「コンビニ人間」文藝文庫2018, p84

 

 この主人公・恵子が社会の暗黙のルールを自覚していく過程を読むことで、読み手も社会の暗黙のルールを自覚していく。

 

 この後から恵子は、正常な世界をそこにいる人基準で「こちら側」、自分のいる側を「あちら側」と言うようになる。

 

 個人的には偽装同棲をするに至る展開が唐突に感じたが、それは自分が「こちら側」の視点から解釈しているからであって、「コンビニ人間」においては偽装同棲の相手を探すのに手間をかけることはないのだと思い直した。

 

 そして、紆余曲折があり恵子はコンビニを辞め、白羽が探した会社の面接を受けに行くことになる。

 

 しかし、途中で寄ったコンビニで事態は急変する。

 

 コンビニの「声」を聞いた恵子は、見ず知らずのアルバイト店員が本社の社員と思うような采配をし、駆け付けた白羽にこう言って決別する。

 

私はコンビニ店員なんです。人間の私には、ひょっとしたら白羽さんがいたほうが都合がよくて、家族も友人も安心して、納得するかもしれない。でもコンビニ店員という動物である私にとっては、あなたはまったく必要ないんです。

※村田沙耶香「コンビニ人間」文藝文庫2018, p159-160

 

 そしてコンビニを出た恵子は、ガラスに映った自分の姿を見て、初めて、自分を意味のある生き物だと思って物語は終わる。

 

 私はふと、さっき出てきたコンビニの窓ガラスに映る自分の姿を眺めた。この手も足も、コンビニのために存在していると思うと、ガラスの中の自分が、初めて、意味のある生き物に思えた。
「いらっしゃいませ!」
私は生まれたばかりの甥っ子と出会った病院のガラスを思い出していた。

※村田沙耶香「コンビニ人間」文藝文庫2018, p161

 

 私が新生児室にいる赤子のように生き生きと躍動できるガラスの箱、それがコンビニだということであるように思われた。

 

 序盤の説明の通り、まさしく恵子はコンビニ店員として生まれていたのである!

 

自分らしくあるのはどちら側か

 さて、ここからは内容を振り返りながら作者の創作意図について考えていきたい。

 

 そのために、村田さんのインタビュー動画で語られた創作意図を再掲する。

 

 主人公は、ただアルバイトをしていて恋愛はしたことがないというだけなのに、「なんでなの?」と訊かれてしまう人であり、この主人公に「なんでなの?」と訊くのはなんでなのかと問いたかった。

 

 まず、主人公に「なんでなの?」と訊くのはなんでなのかを問うということはどういうことだろうか。

 

 最早、標準的であることが昔ほど当たり前ではなくった現在において、定職について恋愛や結婚をするのが当たり前という社会の標準を押し付ける「こちら側」の人々に対して、

 

標準から外れる人を認めてあげてもいいんじゃないの?

認められないのだとしたらその理由はなに?

 

と問うているのだと思う。

 

 具体的な生活様式が多様化した割に、我々の社会の標準に対する意識はあまり変わっていないという指摘は既にされていることである。

 

 しかし、「コンビニ人間」はこの為に生まれたのではない筈である。

 

 社会の標準の外にいる「あちら側」の代表として「コンビニ人間」を描いた意味が、更にある筈である。

 

 この理由を私は、社会の標準の外にいる「コンビニ人間」の方が自分らしい生き方をしているのではないかということを示すためであると思う。

 

 この意味では、「あちら側」の代表として「コンビニ人間」ではなく別の「〇〇人間」でも良かった訳だが、現代の利便性を追求した生活の象徴であるような「コンビニ人間」は打って付けであろう。

 

 そこに、著者のコンビニ好きが見事に活かされている。

 

 現代においては、コンピニという商業スタイルに特化して適応できるということは、自分はITの仕事が向いているからプログラマーになる、というのと同じくらい自分らしいと考えることができるのではないだろうか。

 

 だとすれば、「コンビニ人間」は職人である。

 

 しかし、社会の標準からすると定職としてのプログラマーは良くて、アルバイトとしてのコンピニ店員をし続けている人は社会の異物と見なされるようになっていく。

 

 この事態を自分らしさという観点から見た場合、問題の核心は、例えば定職としてのプログラマーである「こちら側」の人が「コンビニ人間」に「なんでなの?」と訊いてしまうのであれば、自分が定職としてプログラマーをやっている理由に社会の標準の側にいたいという動機が含まれているということではないかと考える。

 

 それ故この作品は、「あちら側」にいるコンビニ店員を職人である「コンビニ人間」として描くことによって、「こちら側」にいる定職に就いている社会人よりも自分らしく生きている可能性を提示しているように思う。

 

この作品のメッセージ

 以上のことからの作品の発しているメッセージについて考えるならばそれは、具体的な生活様式が多様化した割に我々の社会の標準に対する意識はあまり変わっていないという従来通りの批判ではなく、具体的な生活様式が多様化した割に我々の社会の標準に対する意識はあまり変わっていないという現代において、自分らしくあるとはどういうことかということであると思われる。

 

 そして、自分らしくあるとはどういうことかということについて、この作品は二つの試金石を提示している。

 

 一つは、自分が「コンビニ人間」に「なんでなの?」と訊いてしまうかどうかによって自分がどちら側にいるかが試され、もう一つは「コンビニ人間」を受け入れるかどうかによって自分の自分らしさの内実が実は社会の標準であることによって形成されているかどうかが試されるからである。

 

 それ故この作品は、現代において自分らしくあるということは、「こちら側」にいることによる安心感から脱して、「コンビニ人間」を受け入れることができて、かつ、「コンビニ人間」を前にしても揺らがない生き方をしているということである、と言っていると思うのである。

 

 さて、最後に書いておきたいのは、この生き方は新しいものではなく芸術家の生き方は昔からこうであっただろうということである。

 

 社会の標準の中にいる没個性的な状態から抜け出して、自分らしくあるということが許される現代では、普通の会社員であっても心理的な意味では自分らしさを追求した生き方ができる。

 

 しかし、本当に自分らしくあるための難しさも自分の心理的な内面にある。

 

 このことを描くためには「あちら側」の代表は芸術家では駄目で、「コンビニ人間」でなくてはならなかったのだ。

 

 それ故、この自分らしくあることの現代的な意味を、敢えて「コンビニ人間」という生き方を通して描いているところが、この作品が評価された理由であると思う。