それでも果敢に挑み、練習を進めていっても、指がついていかない、思う様に指が動かないと挫折することもあり、正しく打鍵すれば、目の前の楽譜に記された音楽に、わずかでも触れることができることを分かっているからこそ、その時のもどかしさも大きくなります。
しかしながら、この、指が動かないことを体がついていかないと捉えるのは、ピアノの場合、誤りなのではないかと思われます。
スポーツの場合、四肢をはじめとした体の動きにはある程度の大きさがあり、そこには、筋力や動きのスピードの問題が伴い、確かに体がついていかないという表現が当てはまる場合も多くあるのかもしれませんが、ピアノを弾くために必要な体の動きの中でも、特に大きな位置付けを担う指の動きは、比して動きとしては小さく、その打鍵に必要とされる力は数グラムです。
確かに、ピアノの指の動き、その速さを筋力の問題と捉える向きもある様ですが、握力は平均で成人男性40キロ、女性25キロ、それぞれ50歳を超えるあたりから衰えはあるものの、数グラムの打鍵に必要な力からしてみると、決して大きな問題ではなく、指自体を動かすスピードにしても、普通にグー、チョキ、パーでジャンケンできれば、特に問題ないことは、冷静に考えれば誰にでもわかります。
ピアノを弾く動きを運動として捉えると、鍵盤に対する左右への、腕、体の動きこそあるものの、主たる運動は指を動かすことと言え、そのコントロールには、手、手首、腕、肘、二の腕、肩、背中を経た全身が関わるものの、目的物への作用は打鍵時の指の動きと指先への力の集約が担い、要する力は、スポーツでの体の動きに伴う力に比べれば、かなり小さなもので、全身への負荷はスポーツに比べると概して大きなものとは言えません。
また一方で、スポーツ科学は先んじて、運動音痴は存在しないという考え方を確立しています。
つまり、スポーツの場合、楽しむ程度の水準であれば、誰にでも、その技術取得は可能とされていていますが、ピアノの場合、必ずしもスポーツとその捉え方は同じではありません。
加えて、ピアノが思う様に弾けないことを、体がついていかないと捉えてしまっては、今さら始める、再開するのは、まるで手遅れとでも言わんばかりとなり、大人がピアノを楽しむための活路は狭くなるばかりです。
しかし、考えてみればピアノの場合、いわゆる高齢とされる年齢になっても現役の奏者は数多く、単に筋力を中心とした、体の衰えを弾けなくなる、また、弾けない理由とするのは、合理性に欠けると思われます。
そこで、ついていってないのは体ではなく指をコントロールする頭=脳と捉えることで、可能性は大きく広がり、ピアノを演奏するにあたっての指の動きと付随する体の動きの非常に複雑な、そのコントロールこそがピアノの技術取得の本懐となります。
本来、脳を鍛えること、すなわち考える力は子どもより大人、しかも年齢を重ねるごとに強くなるので、ピアノを始めることに関して最重要事項を脳を鍛えることと捉えれば、大人、しかも年齢を重ねてからの方が、より有利なのですが、おそらく多くの方が年齢的に遅く始めることを不利と考える様に、いくつかの問題が散見されます。
考える力とは、取り入れた情報と、その取捨選択、この取捨選択は記憶という、海馬など脳の一部によって、睡眠という誰もが毎日行う行為によって自然となされる、誰もが持つ機能によるもので、取捨選択を経て積み重ねられた情報をもとに、実行する、しないを決める力のことを指します。
しかし、残念なことに、取り入れる情報が誤っていれば、考える力は育まれず、いわんや、考える力を削ぐ情報が広く流布されていれば、その情報の真偽を見極めるところから始めなければなりません。
幸いピアノに関して、特に独奏曲を楽しむためと範囲を決めて取り組む場合に限っては、その練習は自分一人で完結でき、必要があれば、外部の情報を意図的に制限できるので、必要に応じた必要な情報のみを取り込むことが可能になります。
もちろん、孤独を愛して他との接触なしにピアノを弾こうというのではなく、単に「そんな難しい曲弾けるはずない」などのマイナス方向の情報を遮断し、「何かしら取り組む方法があるはずだ」とプラス方向の考え方で練習に取り組むことが可能だという意味で考えています。
言ってしまえば、気の持ち様なのですが、脳内の神経ネットワークを構築してピアノを弾こうとする練習方法には、確信を必要とするので、こうして考え方を整理し納得することは、大切だと思います。
また、ピアノの中でもクラシックの曲は楽譜という絶対的な物的情報があるので、脳内神経ネットワークを構築する練習が比較的容易なジャンルとなりますが、脳はそれまで触れていなかった情報がうっすらとでも本当と感じると、怒りを覚える特徴を持っています。
これは、現状を維持しようとする脳の機能に由来するもので、「そんな曲弾けない」をウソすれば、このウソで現状は変化しませんが、「弾ける方法があるはずだ」を本当とすれば、これから行う取り組みが、もしかしたら挫折を伴うかもしれない、精神的に危険かもしれない、変化に対する防衛の様なものです。
こうした背景に基づいて、ピアノを練習することを考えると、練習の根拠は、誰もが持つ人としての機能であることが重要で、いわんや「才能」などという、実態のはっきりしないものは排除する方向へ舵を取ることが必要となります。
もちろん、専門家の方や、それに準ずる方と同等に弾こうとするのは的外れですが、せめて、個人で楽しむ程度に弾くための練習方法として、演奏を、指先から全身の型の定まった運動と捉え、その運動に対して脳内神経ネットワークを構築する方法は、ある程度の効果を期待できると考えます。