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登場人物に対する孔子の評価(47)申棖、剛なるを得ん

 

子曰わく、吾未(いま)だ剛なる者を見ず。或るひと對えて曰わく、申棖(しんとう)と。

子曰わく、棖や慾(よく)あり。焉(いずく)んぞ剛なるを得ん。

 公冶長第五 仮名論語54頁5行目です。

   伊與田覚先生の解釈です。

先師が言われた。「私はまだ本当に剛い人に会ったことがない」

ある人がこれに対して「申棖(孔子の門人)がいるではありませんか」と言った。

先師が言われた。「棖は慾が深い。どうして本当に剛い人と言えようか」

 

この章は、申棖(しんとう)の事を孔子が評しています。

申棖(しんとう)、この人も孔子の弟子であるという説もありますが、よくわかりません。姓は申(しん)、名は棖(とう)、または党、棠(とう)、続(とう)とも言い、字は周と言います。魯の人です。論語の中にはここだけにしか出てきません。

「子曰わく、吾未だ剛なる者を見ず」・・・孔子が強い人間というものを、私は見たことがない。と言いました。「或るひと對えて曰わく、申棖と」・・・すると、ある人が、申棖はどうですか、とたずねました。「子曰わく、棖や慾あり。焉んぞ剛なるを得ん」・・・孔子は答えました。申棖には欲がある。強い人間ではありえない。と。

仮名論語198頁をご覧ください。7行目です。子曰わく、剛毅木訥仁に近し。無欲で心が強く、飾り気がなく、口の重いものは、仁そのものではないが、仁に近い状態にある。

孔子はそう言っています。強い人間と言うのならば、人間がなかなかなくす事のできない欲望を抑える事ができなくてはならないと孔子は考え、申棖にはまだ剛と呼ばれる資格がないと見たのです。

仮名論語38頁をお開きください。4行目です。子曰わく、冨と貴きとは、是れ人の欲する所なり。孔子は物欲も名誉欲も否定していません。しかし、私欲となると別物のようです。

私欲とは、「自分さえ良ければ」とする欲望のことですから、いざとなると、裏切り・抜け駆け・詭弁・欺瞞を生んでしまいます。人間は、この「いざという時」が肝腎です。

平穏無事の時には見せなかった正体を曝け出すのも、「いざという時」や「一大事」に遭遇した時なのです。

いざという時に物事に動じない人物を称して「度胸が坐った人」或は「胆力のある人」と言いますが、度胸が坐るには、修羅場をくぐってみたり、危難に身を投じてみたりして精神を鍛錬しないことには、中々「覚悟」というものが決まらないのです。

覚悟とは、心の整理をつけることですから、私心や私欲があったら整理どころか、己の保身が先に立って余計混乱するばかりなんですね。従って、孔子の言わんとする「剛なる者」とは、私心や私欲を放擲・なげすて、覚悟を決め、迷いを吹っ切り、度胸を据えて物事に臨むことのできる人、これを「剛者」・真の意志の強い人・芯のしっかりした人というのである。ということになるのでしょうか。

申棖は積極性もあり、強いところがあると、一般の人は思っていたのでしょう。「剛」は剛勇という意味です。申棖は非常に勇気があり、しかも、剛勇である。けれども、孔子は「申棖の強さは本当の義から出たものではない。欲の突っ張りで強いのだ」と否定しているのです。

難しいですね。剛者となるには。

 

つづく

                                                                               宮 武 清 寛

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