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知・智(37)吾知ること有らんや

 

子曰わく、吾知ること有らんや。知ること無きなり。

鄙夫(ひふ)ありて我に問うに空空如(こうこうじょ)たり。

吾其の両端を叩(たた)いて竭(つ)くす。

 子罕第九  1142行目

 伊與田覺先生の解釈です。

先師が言われた。「私は、何でも知っていようか。いや知らないのだ。もしそう思われるとしたら、無知な人がきまじめな態度で私に尋ねた時に、物事のすみずみまで、よく聞いて、ねんごろに教えてやるからだろうか」

 

「知・智」はこの章では「吾知ること有らんや。知ること無きなり」と出てきます。孔子の言葉ですが、私は、何でも知っていようか。いや知らないのだと言っています。

「吾知ること有らんや。知ること無きなり」・・・謙虚な言葉ですね。孔子は、人々は私について物をよく知っていると言いますが、私はそんなに物知りであろうか、そのようなことはない。と、言っています。インテリの特権として、知識を自分だけの占有として人から問われた場合に、知識を出し惜しみしますが、孔子はそんなことはしません。

もってまわった解釈ですが、その方が後半部分につながります。

「鄙夫(ひふ)ありて我に問うに空空如(こうこうじょ)たり」・・・空空如というのは、真心のある様です。たとえば、ある無知な人が私の所に質問に来たことがあったが、その質問は素朴で誠実な態度でした。「吾其の両端を叩(たた)いて竭(つ)くす」・・・この部分は教育者としての孔子の優れた一面をよく伝えています。質問する人の質問そのものが不十分で、質問の態をなさない質問であっても、孔子は細かい点まで問い尽くし、質問の内容を察知し、その内容の両極端となるところを導き出して、その質問者が納得のいくまで十分にこたえています。

現代で行われている、教師の価値観だけを押し付け教え込もうとする注入主義の反対の教育法ですね。

見識の狭い人は、言葉の表現も一般的には下手ですから、自分の疑問や知りたいことを的確に表現できません。私も経験がありますが、要領の得ない話し方をされると、「一体何が言いたいの?」と、ついつい思ってしまいがちです。しかしそれでは相手を委縮させてしまって、本当に知りたいことを聞き出すことが出来ません。そして結局中途半端な問答になってしまい、両者に不満が残ることになります。

特に部下からの質問は、最高の指導のタイミングです。質問の背景や本当に引っかかっている点は何なのかを探りながら十分に応えてあげましょう。

「質問力」とかコーチングといいますが、相手が言いたいことを引き出すための、上手な質問のスキルがあります。部下を持つ管理職の重要なビジネススキルとされています。質問したいことが良く解っていない、自分で整理できていないというケースは、訓練を積んでいない者にはよくあることです。そのような相手に対して、的確な質問をして頭の中を整理させながら、質問の本質を明らかにしていく。質問の本質がわかれば、答えるべきこと、解決すべきことも明確になる。と言うことですね。

おそらく孔子も、このようなことを実践していたのではないでしょうか。

孔子の誠実なところは、そのような相手でも、聴き手の本心を上手く引き出して、理解できるように丁寧に教えた導いた所ではないかと思います。

孔子は確かに博識でしたから、鄙夫・凡人から見たら何でも知っているように見えたのでしょう。しかしそうではなくて、心ある者には、聴く側が理解できるように丁寧に教えるんだという、孔子の誠実さが察せられる一章です。

これらの誰の質問に対しても丁寧に答えるところをもって、物知りという評判が生まれたにすぎない。と、言っているのです。

この章はそうした謙遜の言葉をも表しています。

 

つづく

                               宮 武 清 寛

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