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論語全章を読む(201

 

述而第七-8 158憤せずんば啓せず  

 

子曰わく、憤せずんば啓せず。悱(ひ)せずんば発せず。

一隅を挙げて三隅を以って反(かえ)らざれば、則ち復(また)せざるなり。

述而第七   仮名論語824行目です。

伊與田覺先生の解釈です。

先師が言われた。「自分で理解に苦しんで歯がみをする程にならなければ、解決の糸口をつけてやらない。

言おうとして言えず口をゆがめる程でなければ、その手引きをしてやらない。

一隅を示して他の三隅を自分で研究するようでなければ、二度と繰り返し教えない」

 

「憤せずんば啓せず」・・・・心が一杯になって噴出するぐらいの熱意を持っていなければ、指導してやらない。「悱せずんば発せず」・・・・言いたいのに表現のすべを知らず、いらいらしているぐらいでなければ、教えてやらない。

「一隅を挙げて三隅を以って反らざれば、則ち復せざるなり」・・・・一つの例を挙げてやると、三つの例で問い返してこなければ二度と教えない。

厳しい教育方針です。しかし、教育の本質をよく表していると思います。

「憤」は、理解しようとしても出来ず、心で苦しみ憤(いきどお)ることです。

「悱(ひ)」は、心では理解してもうまく表現できず、口ごもってもどかしいことです。

「啓」は、ひらく、教え導くこと。

「発」もひらく、教えて明らかにすることです。

皆さんご存知のように、「啓発」という熟語はこの章から生まれたものです。

「一隅、三隅」は、四角いものにたとえて、一つの例を挙げれば、同様な例を三つ自分で推理し、あるいは応用して、これらもそうですねと問い返してくることです。

教育は相手が自分で悟るように仕向けるのが第一です。

自分の意思が伴わない、詰め込み教育は無駄なことです。

手取り足取りで、何から何まで教えるというのでは成果はあがりません。

教育の方法としては困難の多いことですが、第一の方法であることは間違いないでしょう。

ここでも強制するのではなく、本人のやる気が一番大事だということを言っているのです。

そんなことを孔子は言っています。

そんなこともあり、門人達は積極的に質問することが多かったのでしょう。

 

子曰わく、之を如何、之を如何と曰わざる者は、

吾之を如何ともする末(な)きのみ。

衛霊公第十五   仮名論語234頁7行目です。

伊與田覺先生の解釈です。

先師が言われた。「これをどうしよう、これをどうしょうと常に問いかけないような者は、私にもどうしようもない」

 

孔子は学ぼうとする意欲や積極性を最も重視していました。

「之を如何、之を如何と曰わざる者は、吾之を如何ともする末きのみ」・・・どうしよう、どうしたらいいんだろうと自分から問いかけるような者でなければ、「吾之を如何ともする末きのみ」・・・私の方から、どうこうしてやることは出来ない。

自分からその気になり、疑問を提起するくらいでなければ、学習効果はあがりません。教える側が何もかもお膳立てしても、本人のやる気は出てきません。その気が有るのと無いのとでは、成果はまるで違います。

「吾之を如何ともする末きのみ」・・・孔子の言葉は、突き放したようにも聞こえますが、本人のやる気が重要だと強調しているのです。

やる気がない者は教えようがないのです。

 

つづく

                        宮 武 清 寛

                                            論語普及会 

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