「ブッダ最後の旅」はEテレで放送している「100分de名著」に取り上げられた本である。
そして「100分de名著」の紹介記事を書いた。
※「100分de名著」ではタイトルを「最期のことば」としている。
出典本を読むタイミングはもっと先のことだろうと思っていたのだが、
今年の誕生日を迎えた折に、
「もろもろのことがらは過ぎ去っていく。」という、
ブッダの最後の言葉に触れたくなった。
出典本を読んでから、もう一度「100分de名著」の放送を観直してみると、
「100分de名著」は出典本から現代に活かせそうな内容を上手く紹介しているということが分かった。
確かに、出典本を読んで各々が現代に活かせそうな内容をピックアップするというのは荷が重いが、 出家しているのでもなければ、現代に活かせそうな知恵を得られなければなんのために読むのかということになってしまう。
現代に活かせそうな知恵を得るのであれば、「100分de名著」は大変参考になるだろう。
出典本を読む意味は別のところに各々にあるのではなかと思う。
---以下、ネタばれありの感想---
第一章はこの詩句で終わる。
「沼地に触れないで、橋かけて、(広く深い)海や湖を渡る人々もある。
(木切れや蔓草を)結びつけて筏をつくって渡る人々もある。
聡明な人は、すでに渡り終わっている。」p40-41
インパクトがあった。
理由を考えてみた。
最初は、「聡明な人」は世俗の余計なことに拘泥しないからだと思った。
詩句の最後に「世俗の余計なことに拘泥しないから」という部分を加えて読み直してみる。
なかなかしっくりきたが、もう一度読み直した。
詩句の最後に「渡ることを目的としないから」という部分を加えて読み直した。
更にしっくりきたが、禅的すぎるだろうか。
さて、ブッダは教えを説きながら旅を続け、第五章でクシナーラーの地に入り、身を横たえて涅槃を待つに至る。
そこにクシナーラーの地にいたスバッダという行者がやってきてブッダと対話する。
ブッダは言った。
「他の論議の道(=他派)は空虚である。──〈道の人〉を欠いている。スバッダよ。この修行僧たちは、正しく住すべきである。そうすれば、世の中は、真人たちをかくことの無いものとなるであろう。」p151
この部分についての、翻訳者である中村元による注はこうである。
「歴史的人物であるゴータマはその臨終においてさえも、仏教というものを説かなかった。かれの説いたのは、いかなる思想家・宗教家でも歩むべき真実の道である。ところが後世の経典作者は右の詩に接続して、仏教という特殊な教えをつくってしまったのである。」p291
ここに原始仏教の核心があるように思われた。
そして第六章の前半で、いよいよあの最後の言葉に触れることになる。
「もろもろのことがらは過ぎ去っていく。
怠ることなく修業を完成せよ。」p158
「怠ることなく修業を完成せよ。」という部分について、翻訳者である中村元は注で別の訳も紹介している。
「ぼんやりと放心することなしに、気をつけて、一切のなすべきことを実現せよ。」p295
実に意義深い出典本の旅であった。