東国満珠干珠伝説 その6 鵜羽神社 睦沢町岩井 | 未知の駅 總フサ

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千葉県=東国は蘇我氏に縁の地であったという痕跡を探し、伝承・神社・古墳など諸々を調べています。

百嶋神社考古学にご興味を持たれた方はブックマークの「新ひぼろぎ逍遥」さんを訪ねてみてください。

お待たせしました、東国満珠干珠伝説その6!

今回はコチラの神社です。

 

鵜羽神社ウバジンジャ

睦沢町岩井字宮ノ前831

 

一の鳥居

二の鳥居

御手水

御神木の板碑 後ろに見えるのが覆われてる井戸

この井戸は海までつながっているといわれています

どっかに繋がっている井戸、よくありますよね

階段下から拝殿

昇って拝殿

神紋は右三つ巴

海の神様を象徴する波の彫刻

背後に本殿

ちょっとここに不思議なものが

礎石があったんです

何か建物があった?もしかして境内社があった?

本殿を背後から

右側から

斜め前から

 

この鵜羽神社は上総十二社祭の玉前六社の一つで、おそらくこの祭りを開催する切欠となっている御由緒が伝わっています。

「千葉県神社名鑑」によると

 

古くは鵜羽山大明神と称した。縁起には、日本武尊が東征のおり、上総国一之庄祝郷の地を通り、諸軍は湧水で渇をしのいだ。それ以後岩井と改め、帝即位の時高殿の御湯引の清水をこの地から奉ったという。

大同元年豊田庄の海辺で一顆の玉を得て漁屋に納めて尊崇する者があり、住民が玉依姫の神霊として右大臣百川に上申した。

その頃平城帝の御夢に釣ヶ崎天孫降臨の故地に神霊を鎮め奉るようにとの御神託により、上総介に命じて八神六社を祀らせ別に二坐を祀り、鵜羽山大明神と称した。

 

 

もう少し詳しい内容が「長生郡郷土誌」に載っていました。

第二章東南町村部の第六節土陸村の項には

 

岩井区字宮前にあり。村社にして彦火々出見命、豊玉姫命、鸕「茲鳥」草葺不合尊の三神を合祀す。伝云う平城天皇の大同元年8月太東岬の麓、釣ヶ崎の沖に於て、夜々光輝を放つものあり、後海浜に漂着す、漁夫怪みながら到り見れば、光輝耀々たる八顆の玉なり、輙ち拾うて之を家に納む。その夜漁夫の夢に、玉精告げて曰く、吾は玉依姫の霊なり、汝速に上奏すべしと、漁夫驚いて之を京都に報ず、右大臣藤原百川為に天応に達す。時に天皇亦霊夢に感じ給い、直に上総国司に命じ、六社を建立して八個の玉を納めしむ。六社とは即ち一宮の玉前神社、下之郷の若宮神社、宮原の南宮神社、岩井の鵜羽神社、二宮の二宮神社、北山田の三宮神社是なりと。後玉前、鵜羽二神社より分璽して、太東岬の西方椎木、中原の二村に各玉崎神社を創建せりという。一説にこの社神武天皇の湯婆を祀ると、俗に玉前神の乳母を祀れると為し、乳母神様と称え、年々9月10日の祭日に当り、各戸甘酒を造りて、神前に供う。この日、本社の大宮、若宮の二神輿、一宮玉前神社に参し、祭典を挙げ、次で釣ヶ崎に渡御するを例とせり。

 

 

鵜羽神社の縁起では玉は8個あったことになってますね。

当社の縁起が上総十二社祭の発生した由来なのかなと思えますが、登場人物の生存時期が微妙なんです。

まず藤原百川は732年~779年で、平城天皇は774年~824年です。二人が同時にこの世にいた期間がたったの5年間なのです。

ちなみに百川は死後に右大臣の位を贈られているので、縁起は百川の死後に書かれたものなのだと考えられます。

百川が生存していたという前提で考えると平城天皇は最大でも5歳ですし、天皇という立場ではありません。

大同元年(806)で考えると百川は死後約30年ほどたっています。

死後30年もたっていたら、流石に東国の田舎にも百川の死は伝わると思います。

なので私は縁起の中に出てくる天皇は桓武天皇の間違いではないかという気がするんですよね。桓武の時代だと考えると、宝珠を発見して都の百川に連絡したというのは納得ができるのです。

 

でも東国の片田舎で起きた瑞祥にこんなに反応して社を建てることを認めてくれたりするのは妙だと思いませんか?

実は藤原百川と桓武天皇が関わっていたと考えると、状況は変わってきます。

この二人はめちゃくちゃ祟られています。

早良親王を始め、井上内親王他戸親王、そして賀茂神社です。

長岡京から平安京に遷都したりと、かなり必死だったことは記録から読み取れますよね。

こんな状態の時、瑞祥と思われる事象があったら絶対縋ると思うのです。も~少しでも祟りから逃れようと、神様の恩恵を授かろうと、彼らは必死ですから全力で即対応なのは間違いないのです。

怨霊に怯え捲くっていた彼らは宝珠の事を聞いて、直ちに祀れ!!!となったと思いますし、もしかしたら金銭面の援助もあったかもしれません。こうして現在祭でも代表格となっている六社が創建されたのではないでしょうか。

 

ただ、鵜羽神社は遷座しているのです。

「睦沢村史」によると現鎮座地の南隣の谷は古宮と呼ばれていて元宮地だと書かれています。

 

海面を20m上昇させた地図 赤丸が元宮地の周辺

拡大したのがコチラ

バツ印が現鵜羽神社

赤枠が元宮のあったという古宮と呼ばれる南隣の谷地

 

 

海からみて丁度見えない位置になっていて、県内の古社にある「海の側」はまあクリアしているものの、「古墳がある」という条件が満たされていません。

ではこの地はなんだったのか?

「睦沢村史」には古宮と呼ばれる元宮地の側にある「祓戸の松」が紹介されています。「祓戸」と呼ばれているということは穢れを払う場所、またはそれに準ずる聖地があって、後年海が後退し井戸が発見されたことから禊をするために遷宮されたのかなーと。

またこの井戸は九十九里海岸に繋がっていると伝えられているのですが、上の地図を見ると海、すぐですよね。この海岸線が古代の九十九里海岸ですから特段驚くことではないのです。

 

上総十二社の主要な神社は、ほとんどがこの地図上の台地部に鎮座しており、かつ地図上の海岸線沿いにあります。

このことから地図上の半島部分を根城としていた氏族に関係した神様を古代から祀っていた社であることが推測できます。

 

特殊御饌を用いる神事もある鵜羽神社ですが、その事に関しては余所様でたくさん記事が上がっているので特段書くことはないかな~と思うのですが、一つだけ。

十日祭で一宮町の八雲神社に鵜羽神社の神輿が渡御するのですが、なんでだろうと思って調べてみたら、八雲神社のある土地の小字が「祓所」なんですね。だからなのかー!とスッキリしました。

なんだろう、鵜羽神社は「祓う」ということに縁がありますね。

そういう所だから、そういう必然があるのかな。

 

十日祭の紹介の看板

 

 

ところでウバ神社のウバは「乳母」という意味とのことですが、県内にあるウバ神社は「鵜羽」と表記する神社は他にはありません。

「姥」と表記しています。

 

●姥神社

市原市椎津字北ヘタ

御祭神…伊弉諾命・伊弉册命

 

●姥神社

市原市門前字人市場

御祭神…不詳

 

●姥神社

富津市花香谷字姥神下443

御祭神…志那都比古命・志那都比賣命

 

●姥神社

君津市内箕輪法木作入会地字高嵜

御祭神…不詳

現在塞神社境内社

 

●姥神社

長生郡長南町長南字愛宕町

御祭神…大光日

 

●姥馬神社

館山市犬石字尾馬1740

御祭神…不明(手名椎命とも)

 

 

ウバ神社に関しては見事に御祭神がバラバラです。

これは大きな神社の境内社の姥神社も含めて言えることです。

この現象は地域によって姥神の存在が異なっていた結果によるのか、元々の姥神の名が失われてしまったので各土地で当てはめた結果なのかはわかりません。

ですが姥=乳母であれば女性なのに男神が祀られていたりすることを考えると、元々の女神の名が隠されてしまってわからなくなってしまったと考えていいと思います。

個人的には姥=石凝姥命のことで製鉄民に関係したんじゃないかなーと。富津の姥神社の御祭神がシナツヒコさんですし、風神を祀るのも製鉄民です。野蹈鞴関係かなーと思うんですけどもね。

 

 

では最後に境内社のご紹介。

 

境内の拝殿の左側にあった石碑

浅間神社と彫られています

同じく境内にある建物

内部には小さなお社が三つ

神明社(皇太神)

八幡神社(誉田別命)

八雲神社(須佐ノ男命)

春日神社(天兒屋根命)

道祖神社(八衢比古命、八衢比女命、久那戸神)

 

 

鵜羽神社はウガヤを祀るとあるので神社名もウガヤになぞらえて変化したのだと思います。「茲鳥」草葺不合尊の「ウ」である「ウ」と、ウガヤを出産する時に豊玉姫が産所に鳥の羽を使ったということから「羽」を当てて「鵜羽神社」

しかし御祭神のウガヤにあてはめるなら、ウガヤ神社でいいはずです。なのに「ウバ」を貫くということは、元々は姥神社であったことの証拠だと思います。

そして御祭神も現在奉斎されている方ではなく、別のどなたかだった。

もしかしたらこの地の氏族の勢力図が塗り替わってウガヤを祀ることになったタイミングで遷宮したのかもしれないですね。

 

 

次回はこの調査の中で一番ぬお~っ!とフルエタ神社をご紹介します。っていうか本当は鵜羽神社よりも先に記事にしたかった!!

でも玉の伝承的にこちらが先でないとおかしいのでウガヤさんからにしました。ちなみに鵜羽神社は確かに男神さまでした。