メールのお返事 千葉市稲毛区弥生町の地名由来 | 未知の駅 總フサ

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千葉県=東国は蘇我氏に縁の地であったという痕跡を探し、伝承・神社・古墳など諸々を調べています。

百嶋神社考古学にご興味を持たれた方はブックマークの「新ひぼろぎ逍遥」さんを訪ねてみてください。

 

hs-x1さんへ

 

メールありがとうございました。

お返事は誠に勝手ではありますが、画像なども見ていただきたいのでコチラにてさせてください。

 

千葉市稲毛区弥生町の地名由来情報、ありがとうございました。

そうなんです、全国的には「弥生」という地名の由来は大抵弥生式土器が絡んでいます。ですが千葉市稲毛区弥生町に関しては由来がはっきりとしておりません。

 

「千葉市の町名」という市が発行している本でも弥生町の由来は不明となっています。

では弥生町という土地はどのような経緯を辿っているのでしょうか。

「角川日本地名大辞典 12千葉県」の記載を箇条書きすると、

 

昭和11年 新大字名設立

昭和17年 同地に東京帝国大学第二工学部が開設

昭和26年 東京大学生産技術研究所と改称

昭和37年 同研究所移転跡地に千葉大学教育学部が移転開始

昭和39年 一部が穴川1丁目・轟町2丁目となり、同時に黒砂町の一部を編入

昭和40年 一部が黒砂台3丁目となる

 

という感じで、戦後に地名や区画がたびたび変更になっている典型的な市街地の変遷をたどっています。

 

ではそれ以前はどうだったのかというと、「千葉市の町名」によれば元々は旧千葉郡千葉町大字寒川の一部であったそうです。

現在の寒川町は、弥生町からはかなり離れているのでピンときませんが、寒川の地は天正以前まで結城ユウキと呼ばれ、結城野と呼ばれている広大な土地でもあったようです。

結城や結城野という地名は残念ながら残っていませんが、数件ですが建物の名称として使用している所もあります。嬉しい事ですv

 

さらに「千葉市の町名」では議会関係の資料に「更始一新の趣旨に則り弥生町と為す」と記載があります。「更始一新」とは「新しいことを始めるときに古い物を新しくすること」という意味です。

その土地に関するイメージを払拭するということなのかなと思ったのですが、そうなると「更始一新」とは戦争と関係しているかもしれません。

 

現在ではまったく感じられませんが第二次世界大戦までは千葉市はかなり軍の施設がありました。

現在の弥生町も大正時代の地図だと画像の通りです。

 

国土地理院地図 千葉 一万分の一 大正6年(1917)

 

画像の場所が現千葉大学やその周辺です。

昔は陸軍歩兵学校や鉄道聯隊材料廠(てつどうれんたいざいりょうしょう)、工兵作業場などがあり、演習線路習志野線という線路が走っていました。

総務省のHPを見てきたのですが、当時は「軍郷千葉市」と謳われるほどの軍都だったようです。なんとなく聞きかじってはいたのですが、こんなに軍の施設があったんだと驚きました。千葉市は空襲でひどく攻撃されたと聞いていたのですが、これは攻撃されるなぁと思いました。昭和20年の二度にわたる空襲で千葉市街地は焼け野原と化したそうです。本町の小学校はその時の影響で現在もかなり彷徨う魂が出るそうです。

 

 

ではもっと前はどうだったのでしょう?

明治42年(1909)作成の地図がこちら。

 

まだ陸軍に開発される前です、線路も建物も何にもないですね。

明治27年(1894)に日清戦争、明治37年(1904)日露戦争がありました。

まだまだ落ち着かない世の中であっただろうことは明白で、大正3年(

1914)から第一次世界大戦に入っていきます。

その流れの途中、明治42年(1909)から大正6年(1917)の間に千葉の開発が進んだようです。

 

 

弥生町の沿革はこのぐらいにして、地名由来の元かもしれない「弥生式土器」は発見されているのか?

弥生町は立地が台地上なので縄文時代も海進の影響を受けていません。古墳や遺跡が実際にあるのでしょうか。

 

赤丸が弥生町の位置(海面上昇が20mの地図です)

 

 

「千葉県埋蔵文化財分布地図2」を見てみると、弥生町に隣接する穴川4丁目にある放射線医学総合研究所の敷地内に遺物散布地があります(画像中央の赤い枠)。

 

画像の中央赤い枠が弥生遺跡

上の赤丸は向原遺跡で地下式石室のある円墳

 

ここからはヒスイ管玉が出土しています。

なぜここを取り上げたかと言うと、穴川は昭和39年(1964)に出来た新しい大字で、成立時に弥生町の一部を含んでいます。

穴川4丁目の散布地は弥生遺跡という名称なので、元々は弥生町であった土地だと考えられます。

 

「千葉県埋蔵文化財分布地図2」だと弥生町付近には他に遺跡や古墳は記載がありませんでした。

でも西千葉駅の稲荷神社にまつわる話の中に、昔稲荷神社の近くに古墳があったというものがあります。

弥生町周辺は古代も台地上なので、おそらく学術的な調査が入る前に削蹄されてしまった古墳も存在したと思います。

千葉県では明治大正期に制作された市町村誌などにも消滅した古墳の存在が記録されていることがありますし、近年では宅地開発や道路開設時に遺跡が発見されることも多いです。

 

現在の弥生町を見てみると京成線沿線でもあり市街地でもあります。

最初の大開発は陸軍が施設を建設した時だと思うのですが、戦争が続いていた時代でもありますし、急を要するような形で割と強引に工事したんじゃないかなと思います。古墳があったとしても、構わず壊すような。お国の為に必要な施設を作ることが目的ですからね、古代の遺物とか顧みられなかったと思います。

でももしかしたら価値の判る人がいて、当時の考古学関係の方に託したりしたかもしれません。しかし既に出土地は削蹄され再調査することも叶わないため、きちんとした記録が残せないので、「千葉町寒川の鉄道聯隊附近から出たそうなんだよ」と話していたのが伝わって、「弥生町」に繋がったかもしれません。

 

 

ということで、地名由来について、結局何一つ特定できていないのですが(汗)、久しぶりに踏み込んで調査してみたのでご報告させていただきました。

 

いただいた情報ですが、「このような情報もあります」という形で「千葉市稲毛区の地名」の記事に追記させていただきたいと思います。

情報提供ありがとうございました♪