東国満珠干珠伝説 その5 一宮玉前神社 一宮町一宮 | 未知の駅 總フサ

未知の駅 總フサ

千葉県=東国は蘇我氏に縁の地であったという痕跡を探し、伝承・神社・古墳など諸々を調べています。

百嶋神社考古学にご興味を持たれた方はブックマークの「新ひぼろぎ逍遥」さんを訪ねてみてください。

東国宝珠伝説も後半戦!

どうも後半の方が前半よりも断然長くなる予感(汗)

取り合えず始めましょう!

 

その5は旭市の玉崎神社と対になっていると言われている、

こちらの神社です。

 

上総国 一宮 玉前神社

長生郡一宮町一宮字宮ノ台3048

 

過去写真を使いまわし

使いまわし2(笑)

 

九十九里浜は両端にタマサキ神社が鎮座しております。

旭市には玉崎神社が、一宮町には玉前神社があり、両神社とも日本武尊が創ったという伝承があります。

玉前神社については過去に記事にした際、御祭神や祭祀などに関して迫ったことがありました。

 

過去記事 上総国の龍宮 一宮町 玉前神社

 

前回は御祭神の神武天皇の母上である神玉依姫命と近隣神社との関係などを御報告させていただきましたが、今回は玉前神社とその周辺神社に伝わっている宝珠伝説を中心に見ていきたいと思います。

 

初めての方もいるかもしれませんので、

ここでまた玉依姫について説明しておこうと思います。

 

神社の御祭神になっている玉依姫。

百嶋神社考古学では実は3人います。

 

一人目は神武天皇の産みの母である玉依姫。

 

二人目はウガヤフキアエズの乳母であった玉依姫。

 

三人目は鴨玉依姫の娘である玉依姫。

 

 

千葉県にはそれぞれ彼女たちをお祀りする神社がありまして、

活玉依姫はこちらにおられます。

 

高滝神社

市原市高滝字加茂1

 

 

 

 

鴨玉依姫はこちら。

 

東大社トウタイシャ

香取郡東庄町宮本字八尾山406

 

 

そして神玉依姫がおられる玉前神社です。

 

 

玉前神社は創建年代ははっきりとしていません。

各書物の由緒を参照すると「千葉県神社名鑑」には

 

日本武尊が東征の際、宮地・社殿を寄進して東国鎮護を祈願、また景行天皇御巡幸の際ご親祭遊ばされた。

 

「千葉縣誌」には

 

社伝に云う、景行天皇東幸の時親祭せらると、或いは云う、創建は其の以前にありと

 

と、上記の様に記載があり、タケルが来た時に創建したのか、既にあったのかハッキリしません。景行天皇が来た時には確実にあったようではあります。

しかも現在の鎮座地は元々の鎮座地ではない可能性が高い!

永禄5年里見氏と北条氏の対立による戦禍で社殿・神宝・古文書の一切が焼失。

その20年後に里見義頼が社地を寄進し再建されたのが現在地です。

 

訪れた方はわかると思うのですが、玉前神社は安房国の一宮といわれている安房神社、下総国の一宮の香取神宮と比較すると社地が非常にコンパクトに感じられます。

戦禍の後、御神威を恐れた里見氏が別の場所に遷宮して再建したとするなら納得できるんですが、真相はどうでしょうかね。

少なくとも日本武尊が東征してきた時期には現在地は海の底だったので、間違いなく別の場所に神社があったと考えられます。

 

なんでそんな事が断言できるんだよ!と思う方もおられると思いますので、次の地図をご覧ください。

 

 

FloodMapにて日本武尊が東征の際、乗っていた船を着けた場所として伝わっている茂原市押日の船着神社の近くまで海面を上昇させたものです。

現在よりも20mほど海面が高かったようで、平地はほぼ海の底です。

そして現在の玉前神社も海中となります。

ちなみに下総国一宮の香取神宮と安房国の一宮とされている安房神社は20m海面上昇しても台地上にちゃーんとあります。

このことから社伝にあるようにタケルが祈願し宮地などを寄進したとするならば、絶対にもっと高い場所であって現在地ではないのです。

 

「延喜式神名帳」には

 

埴生郡一座 玉前神社

 

とあり、現玉前神社とは異なる郡に鎮座していたことが判ります。

この埴生郡ですが上埴生郡とも呼ばれ、伊甚国造の本拠地だと考えられています。比定地は現在の一宮町・長生村・長南町・睦沢町・茂原市辺りとされています。

 

伊甚国造といえば安閑天皇元年(534)に起きたゴタゴタです。

内膳卿・膳臣大麻呂が伊甚国造にの献納を命じたが期限に遅れたので捕縛しようとしたところ、国造伊甚稚子は春日山田皇后の寝殿に逃げ隠れたため、皇后が驚き失神しました。それで罪を問われ稚子は贖罪として皇后に伊甚屯倉を献上したという事件です。

 

この時に膳臣が求めた珠は真珠ではないかという説がありますが、私は宝珠だったのではないかと考えています。

神宝ですから献納することは出来ず、伊甚国造も相当悩んだと思います。しかも自分が罰を受けて失脚した後、次の国造も同じ要求をされることは目に見えています。

そこで一か八か、皇后の寝殿に入るという当時としてはトンデモナイ事をワザと仕出かしたのではないでしょうか。

皇后も巻き込んで大事にすれば膳臣が無茶な要求をしていた事が明るみに出ますし、御神体の珠ですから、皇后も止める筈です。

もしかしたら安閑天皇の耳にも入るかもしれませんし、そうしたら神宝を手に入れようとした膳臣の方が罰を受けることになったでしょう。

 

結果、国造伊甚稚子は屯倉を手放すことにはなりましたが、膳臣も珠のことは口に出来なくなったでしょうからミッション成功だったんではないでしょうか。

 

永禄年間に里見VS北條の戦の時も、どさくさに紛れて宝珠を狙った輩がいたのではないかと思います。

当時の神職達は命懸けで旭市の玉崎神社の神職を頼って宝珠を避難させていますしね。

旭までの逃避行の証拠が東金市にある玉崎神社であることは過去記事にも紹介しております。

 

さて、そんな大人気な玉前神社の宝珠、伝説はどのように残っているのか見てみましょう。

 

御祈祷待合所にある宝珠

 

 

「房総の伝説」平野馨著には

 

長生郡一宮町玉前神社の御正体に関係したことが、鎌倉時代の古今著聞集に記されている。これによると、延久2年8月3日上総一宮の御託宣に「懐妊の後、既に3年に及ぶ、いま明主の国を治むる時に臨んで若宮を誕生す」と仰せられた。そこで海浜をみると一つの明珠があった。あの御正体と同じであった。不思議な事だ、とある。

時代が降って江戸時代の宝暦年間に、中村国香が著した房総志料によると、土地の人の伝えるところとして、昔、ここに塩汲みの翁がいたが、霊夢に感じて海辺を逍遥していると、東風が起こって明珠が一つ波間に漂い光っている。翁は不思議に思いながら海藻でこれを包み、家に帰って壁間にかけたが、夜になると大変に光り輝いたので、翁は恐れて玉前神社に納めた、とある。

なお、この玉前神社の御祖神ミオヤカミといわれる鵜羽神社にも、ほぼ似た内容の社伝がある。ただ、ここでは大同元年8月のこととし8個の玉を得たとしている。

 

とあります。

「日本傳説叢書 上総の巻」では漁師をしている翁が12個の珠を得たので玉前明神に奉納したとあります。

また別説に8月の晩に一宮の五兵衛という男に夢のお告げがあり、次の朝、弟と海に行くと東風が吹いて光る錦の袋が流れてきた。袋の中には光る珠が入っていたので、神社を建て珠を納め、風袋フウタイ姓を名乗ったというものがあります。

珠の数は12個で、珠を納めた神社が玉前神社だったといいます。
 

それぞれの伝説によって珠数が全然違うのですが、なぜか2個というものがありません。

下総の方の宝珠伝説は満珠と干珠の2個の伝説が主体となっていたのに対して、一個だったり8個だったり果ては12個だったり・・・自由すぎる!(笑)なんですかね、数字に意味があるのかな。

 

ちなみに珠伝説に関連した祭事があります。

玉前神社には釣ヶ崎海岸に集合して行われる「上総十二社祭」というお祭りがあり、近隣にある神社と合同で行われるもので、参加社が以下。

 

玉前神社(一宮町一宮)

鵜羽神社(睦沢町岩井)←江戸期は橘樹神社(茂原市本納)

南宮神社(一宮町宮原)

二宮神社(茂原市山崎)

三宮神社(睦沢町北山田)

玉垣神社(睦沢町下之郷)

 

ここまでが「玉前六社」と呼ばれています。

この他に

 

中原玉崎神社(いすみ市岬町中原・和泉)

椎木玉前神社(いすみ市岬町椎木・一宮町綱田)

 

この二社四地区が「山之内四社」となっています。

現在はここに谷上神社(いすみ市岬町谷上)が入っています。

 

この中には宝珠伝説がない神社もあるのですが、

なるべく全部ご紹介しようと思っています。

いつもの如く更新はおっそいと思うので、

気長にお付き合いいただければと思います。

 

最後に、玉前神社の御祭神の謎について少し。

現在の玉前神社では玉依姫命となっており、百嶋先生の考察の通り神玉依姫で間違いないと思います。

ですが神玉依姫は元々の御祭神ではなかったのではないかという疑念がありまして。

その根拠は様々な書物に、これまた様々な神名が記されているからなのです。

 

「日本傳説叢書 上総の巻」には

 

玉前神社の祭神に就いては、高皇産霊神孫玉前命と言っているけれども、詳らかではない。「大日本風土記・上総」には『今案尭皇魂弟生産霊子也、号前玉命掃部連等祖也、神司田中河内。』と見え、「巡詣記」には、『二座生産霊尊尤前玉命、天正中、長柄一萬石本多正信に給わる。』と見えている。「延喜式神名帳」には、『埴生郡一座、名神大。』と見え、其後長柄郡に並せられ、今長生郡一宮町に所在している。

 

「和漢三才図会」にも、『玉前大明神、祭神一座、前玉命、高皇産霊尊弟、生産霊尊一男、貞観9年7月従5位上、玉崎神社任四位下。』と見え、玉前神に神位を授けられた事は、「三代実録」に見えている。

 

とあります。

どうやら往古、御祭神は玉依姫ではなかったようで、玉前命とも前玉命とも記されています。

前玉命と書くならば、埼玉に前玉神社があります。

この神社は埼玉古墳群の中に鎮座していて、御祭神が前玉彦命と前玉姫命なのです。

 

また出ましたね、

埼玉繋がり!

 

内房方面にある姉埼神社も神社名が埼玉の「埼」だったり、市原市山倉の古墳からは埼玉で作られた埴輪が出土していたりします。

縄文時代の千葉県市原市~一宮町のラインが、埼玉縄文文化と懇意にしていた名残なのでしょうか。

 

 

 

また玉前命(前玉命)には特徴があって、度々御託宣をされています。

宝珠伝説の中にもありましたが、他に「和論語」にも玉前大明神神託というものが載っていて

 

もろ人よ、理にさかう事なかれ、理にさかへば、天の神の心にたがうぞ、理というは、天なり、地なり、神なり、思うべし

 

とあります。

御託宣というと県内で有名な、あの預言書を思い出してしまいますが、それはまたの機会に。

では玉前命(前玉命)は誰なのか。

 

百嶋神社考古学では前玉姫=木花開耶姫命です。

木花開耶姫の別名に鹿葦津姫命がありますが、この鹿葦津姫の旦那さまが瓊瓊杵尊なのです。

では前玉彦(別名・速甕之多気佐波夜遅奴美神ハヤミカノタケサハヤジヌミカミ)とはニニギのことなのでしょうか?

 

別名の速甕之多気佐波夜遅奴美神で追ってみると、父は国忍富神、母は葦那陀迦神となっています。

国忍富神は大国主の子孫だそうで、となると出雲系です。確かに前玉彦の別名からもそれが解りますね。

一方母の葦那陀迦神の別名は八河江比売ヤガハエヒメといいますが、「江」の文字を使っている辺り、どうも大陸っぽい感じを受けます。

なぜかというと「江」は川という意味なのですが、川は川でも大陸にあるような川幅が広くて大きい川に用いる字です。

 

ニニギの祖父は高木大神=高皇産霊命ですが、百嶋先生によれば大伽耶国の王族であり、その祖は許氏であったそうです。

とすると葦那陀迦神は大伽耶国の姫だったことになります。

ニニギの別名に向山土本毘古王ムコウヤマトホヒコオウがあるのですが、向山土とは海を挟んだ地にある倭国という意味で、往古倭国の領土は大陸にもあったということになります。

 

ところで新羅の皇子・天之日矛が追いかけた阿加流比売神の神名は、「日の出の太陽を表す赤い瑪瑙の珠の化身」という意味だという説があります。

実は瓊瓊杵ニニギの「瓊」も赤色の玉という意味なのです。

赤い玉にどのような意味が込められているのかは解りませんが、ニニギのルーツが大陸にあったことは間違いないですね。

ちなみに天之日矛が新羅で娶った妻の子が多遅摩母呂須玖でこの系統にタジマモリがいます。

半島出身であっても遡ると血縁であり、古の大陸版倭国の出身者であるのかもしれません。

 

結局のところニニギが前玉彦なのかは不明ですが、玉前命(前玉命)の親族に高皇産霊命が出てくるのは、玉前命の父がニニギであり、半島の王族であった出自を暗に示しているのではないでしょうか。

 

さて速甕之多気佐波夜遅奴美神(ニニギ)と前玉姫(サクヤ)の間には甕主日子神ミカヌシヒコが産まれます。

「甕」の字がついているのは前玉姫の父が天乃甕主神(大山祇命)で「甕」の字を継承したのでしょう。

 

彼らに何故「甕」の字が使用されるのでしょうか。

それは大山祇命が酒造の神様だからだと思います。

酒造りには甕が必要です、大事な仕事道具を名前に用いたのではないでしょうか。

 

甕主日子神の名前からはサクヤの系統の情報しか拾えません。

別名だと思われる神名に神主玉命があり、百嶋先生は神主玉の別名を酒解子としているので、酒造繋がりで考えると甕主日子=神主玉であっていると思います。

 

でも実はサクヤ姫にはニニギとの間に古計牟須姫コケムスヒメがいます。コケムスヒメは御年神と夫婦となって遠津年魚眼眼妙媛トオツアユメマグワシヒメをもうけます。

遠津年魚眼眼妙媛はなんと、崇神天皇の妃となり、豊城入彦の母となるのです。

 

サクヤの子である神主玉命と古計牟須姫。

コケムスヒメの父はニニギだと百嶋先生の資料からも確実にかけるのですが、神主玉の父に関しては判然としません。

 

実はサクヤはニニギと破局した後、別の方と夫婦になっています。

それが小若子です。

え、誰?と思う方もおられるでしょう。

実はこの方は別名・豊玉彦なのです。

さらに豊玉彦の別名に鴨建角身もあるので茨城県桜川市に鎮座する鴨大神御子神主玉神社の神社名に鴨大神と付いているのも納得できます。

ですが豊玉彦が神主玉の実父なのかというと・・・これまた判然としません。

 

玉前命(前玉命)は神主玉なのか、古計牟須姫なのか?

それとも神主玉=古計牟須姫で同一人物なのか。

玉前命自体が男神なのか女神なのか不明なので、

なんともいえません。

ただし現在祀られているのが女神さまであることを考えると、過去祀られていたのも女神様で、可能性としては埼玉の縄文文化に繋がりのある人達が千葉県に移住してきて社を作って姫神をお祀りした線が強いと思います。

 

 

記紀と全然違うじゃん、と思う方もおられるとおもいますが、

記紀は、私からみれば創作物語です。

物語のベースはいろいろな氏族の先祖神や伝承ですが、藤原氏に都合の悪い事実を捻じ曲げたり、虚構を書き足したりした結果、史実とはかけ離れたフィクションとなってしまった物だと思います。

 

現に千葉県内の神社も、元は神社を祀っていた氏族の祖先神が祀られていただろうに、時代と共に激しく変容しています。

権力者の力で元の神の名を隠されてしまったり、元々の神様をどかして権力者の推している別の神様を祀ったり、神社名がこれだから祀っている神様はこの神様であると、元々の神様の名前を勝手に変えてしまったりと、いろんな事が起きています。

書き間違えなんてかわいいものです。

 

私の所属している神社考古学研究チームのベースは九州ですが、千葉県は九州とは祀られている神様がまったく異なっているので、どの氏族なのか、古代にどんな事件があったのかという事から、地名、伝承、言い伝え、古墳や遺跡、出土物といろいろな方向から光をあてていかなければヒントも見えてこない状態です。

数年を経て、ようやく点と点が繋がってきつつありますが、まだまだ真実には遠いなぁ~と感じています。

 

コツコツ調査していこうと思っておりますので、

時間がかかると思いますが、東国は未開の土地であったという嘘を、

突き崩せたらいいなと思っております。