未知の駅 總フサ

未知の駅 總フサ

千葉県=東国は蘇我氏に縁の地であったという痕跡を探し、伝承・神社・古墳など諸々を調べています。

百嶋神社考古学にご興味を持たれた方はブックマークの「新ひぼろぎ逍遥」さんを訪ねてみてください。

そうなんですよ

気が付いたらフォロワーさんが

増えたり減ったりしつつも

100人

越えておりました~(拍手)

 

ということで何かできないかなーと思い、

みなさんからのご質問にお答えするという企画を

してみようかと。

 

例えば県内のこの神社について教えてほしいですとか、

こういう伝承はありますかーとか、

いま気になっている神社ありますかーとか、

マヤ暦で占ってほしい有名人ですとか、

神社・伝承・マヤ暦関係でお願いします。

(神社・伝承は千葉県内限定でお願いします)

 

質問内容はこの記事にコメントとして記入してください。

こちらで承認しないと公開はされないので、

私しか見れない状態です。

なので具体的な事も書いていただいて大丈夫です。

(この記事のコメント欄は公開しないままにします)

 

ただし神社について知りたい場合、

結構御祭神以外は創建年代不詳な神社が多いので、

調べてみて記事に出来そうな場合のみ

回答いたします。

そしてここ一番重要!!

時間がかかるけど

いいですか?(汗)

 

今日から一週間、4月30日まで受け付けます。

万が一たくさんいただいてしまいましたら

途中で受付終了いたしますので、ご了承ください。

それでは、また♪

 

 

 

今回はまた将門さん伝説です。

まずはこちらの神社からご紹介♪

 

星宮神社

香取市白井字城の内384

 

 

星宮神社に関して「千葉県神社明細帳」も「千葉県神社名鑑」も御祭神まで「不詳」としかかかれていません。

でも「千葉県香取郡誌」には

 

星宮神社

神里村白井字城の内に在り 域内572坪 天御中主命を祀る 創建詳らかならず 伝えて葛原親王の勧請に係ると為す 域内末社四座あり

 

「小見川の神社」には

 

41.星宮神社

鎮座地 香取市白井字城の内

祭神 天御中主命

例祭日 1月第三日曜日

由緒沿革

創建年代などは不詳だが、伝えによると葛原親王(786-853)の勧請によるといわれる。

 

とありました。

この葛原親王とは桓武天皇の皇子で桓武平氏の祖となった

高見王の父です。

葛原親王が下総に来たことがあるのかは謎ですね。

でもこんな情報が「千葉県香取郡誌」にありました。

 

大宮台

乃ち白井砦址の辺を総称す 古えは附近原野に亘り方形の舘址形を存し規模頗る大にして常人の居址に非る如し 里人曰く平将門曾て此に館し又井を鑿ち之を大井戸と称すと 方四五間の井地尚ほ存す 或は曰く本郡油田牧は乃ち葛原親王荘園の地に属し 古え葛原牧と称し白井地方は其一部に接す 大宮台祀るところの小祠は乃ち新王の霊祠にして大井戸は玉井戸の誤りならむと 下総旧事考亦此説を載す同書には白井を神生と誤記往年村人此地の一桜樹を村寺に移植せむとし 樹下石郭の如きものを発見せりと余は墳墓誌に詳なり

 

ここは葛原親王の荘園だったようですね。

しかも古墳があったですってぇっ!!

それについてはコチラ。

 

白井古墳

神里村白井字王宮台及び大塚其他の各所に散在す 王宮台に在るものは小石祠を奉祀す 往時古櫻樹ありしが枯損せり 明治20年其萠孽を区内清涼院に移植せむが為め塚辺を掘りしに小甕中勾玉等を出せしことあり 因て更に之を埋蔵すと 又曰く其附近より往々陶器雷斧矢の根石等を発見せりと 里人は塚上神祠を王宮神祠と尊称せり 伝え曰う此地は古へ平親王の居りし地なりと 或は以て平新皇将門の館址となすも付会に過ぎず 大塚は旧記王塚と書せしも後世今の字を用う 同所に瓢形古塚あり 之を旧時に比すれば大に形状を損せしも東西約五間南北八間許に亘り松樹叢生す 文化中其一部より石郭を発見せしに 中に巨骨佩刀矢鏃等を蔵む 因て又之を埋葬し石を建て正面題して千古武将墓と刻し右側に文化6巳巳歳3月7日邑有 新葬将埋此也掘得石郭収有巨骨佩刀矢鏃不識何世何人雖然視儼然一勇将跡也又埋之文化12乙亥歳2月建石聊為表焉白井村善男善女と刻す 大正2年に至り又其一町餘の高所にて石郭を発見せしに中に金属の鏽蝕せるものと人骨に類するものを蔵せり 而して郭の石材は悉く之を村中里道の橋梁に用ゐたりと 此他近傍に尚数箇の古塚あり

按ずるに桓武天皇の皇子葛原親王荘園を本郡地方に有す 葛原牧は乃ち其一部にして後世之を油田牧と称す 白井は其区域に属せり 親王の子高見王はもと今の海上郡地方を領す 高見浦の称呼は蓋し王が宮号の因て起りし所以なり 王の子高望王は乃ち平氏闔門及び千葉一党の始祖にして本郡府馬村に王の墓と称するものあり 王の諸子中国香は常陸に封ぜられ 以て本州の北部を管し良将も鎮守府将軍と為り亦本州を管し良兼は下総介と為り本郡栗山川の下流屋形に居り 良文は本郡阿玉台に舘せし等皆此地方に関係を有せり 是に因て之を見れば白井古墳の平親王なる里人の伝説は平氏の始祖葛原親王若しくは高見高望諸王を指せしに非るか 同区内には字王宮台 王井戸 王塚(今は大塚) 御門みかど(今は帝)宮の下 君ヶ谷(今は相場) 新館 城の馬場等あり 皆貴人の尊称に関せざるはなし 而して同区の鎮守星宮神社は伝えて平親王の勧請に係るとなし古へ妙見宮と称す 妙見は千葉氏の鎮護神なるも其実は始祖親王が崇奉せしものならむ 又同所若宮八幡も同親王が京師より勧請せしものと為す 以上諸説を綜合するに同所古墳は親王及び其子孫に関するの遺蹟ならむも亦知る可らず 同区園了寺(今の清涼院)に其旧記ありしも火災の為めに之を失へりと

 

すごい情報過多なのですが、銚子市高神の旧称・高見浦

まさか高見王にちなんでいたとは!!

しかし古墳の石材を橋に使うとは・・・

昔はこういう事よくあったのだと思います。

書物に記録されている古墳のほとんどは

現在失われていますから。

星宮神社に関しても昔は将門さんの創建になっていたりして、

伝承の移り変わりが興味深いですね~。

 

さてさて、次に記事タイトルにも入れました

「白井の玉井戸」

をご紹介します!

星宮神社から少し離れた場所にあるのですが、

こちらも将門さん伝説の井戸です。

 

●現地の看板より

所在地 香取市白井

方形の井戸で、小見川地区では珍しい倶利伽羅不動(滝とか、水源地に祀られる水神)の石造物がある。また、この玉井戸は、常陸の神の池につづいているといわれ、昔から水が枯れたことがないという。白井の地名は、この井戸に雨が降り、風が起こすとする日の前は、白い煙のように立ちのぼることに由来するといわれる。多くの平将門伝説も残っている。

 

●現地の石碑より

白井の玉井戸は常陸の神の池につづくといわれ 昔から水が涸れた事が無い 日日色が美しく変わるが 汲むと清らかである 雨が降り風が起ろうとする日の前は 白い煙のようにかすかに立ちのぼるので いつしか白井村と名づけられたという 平親王将門のお子様が この里に御館を作って住んだ時 朝夕この井から水を汲みとらせたので 王井と言われた 王宮台には 方形館址がある 将門四世の祖父葛原親王は 常陸太子を兼ね葛原牧を持ち 星宮神社を勧請し 王宮台祠はその霊を祀る 御門 王塚 宮ノ下など尊貴な地名が多い

古歌

わき出る白井の水のにごりなき心を世々に伝へてよ人

昭和59年1月吉日

奉納 祭礼当番一同

 

なんと当地「白井」の地名はこの井戸が由来

なっているそうです!

それだけ古くからある井戸だということが

わかりますね!

ちなみに次のような昔話も伝わっています。

 

サギ草

昔平親王将門様が使ったあ白井の王井戸は、常陸の「神の池」まで続いでるそうだあ。平親王様はきづくて、天皇様のようなぁ、まねをしたあだあど。源の満仲という大将が、それを討つように命令ば受げで、軍勢を連れで元の香取町の多田に陣取った。満仲ば慕う白鷺姫という美しいお姫様が後を慕ってたどり着いた。

俵藤太に退治された大ムカデにうんと同類のハガジがいだあ。俵藤太は平親王を攻める方だ。ハガジは、満仲ばこの決戦に間にあわせめえとして、何千万もで満仲の軍兵に食いづいだ。軍団が上を下への大混乱になった時、白鷺姫の姿はたちまち数千の白鷺に変じて群がるハガジを食いちぎった。しかし満仲は将門征伐にとうとう間に合わなかった。万感の思いばこめで満仲はそごを故郷の名をとり多田と名づけて引上げだ。

今も多田のお寺にはまんじゅう塚が残っている、また今の西地区工業団地の北側の窪地一帯(ウサギ田)にサギ草の群生地があって、今にも飛び出しそうな可憐な花をつけでいだけっと、みんなが争って採ったがらもうなぐなっちゃった(小見川のむかしばなしによる)。

 

常陸の神之池ゴウノイケと繋がっているとありますが、

両池の間には利根川が流れてたりするからなぁ。

ちょっとありえないかなぁ。

こんなんやで

間に流れてるのは利根川だし

 

しかし井戸にまつわる話でちょっと遠方の池とかに

繋がってる伝承がよくありますが、

なぜそんなに繋げたいのか。

確か千葉市にも同じようなのがあるんですよ。

小実池と千葉城の井戸だったかなぁ、

繋がってるという伝承が残ってて。

昔の人からすると「どこでもドア」的な

ロマンの対象だったのか、

それとも抜け穴の匂わせだったのか。

んでも白井の井戸~神之池はありえねぇ!!

そして

ハガジ!

調べたらこれはゲジゲジの別名でした。

今回調べたことで長年謎だったムカデとヤスデの違いが

わかりました(笑)

サギ草は真っ白い花をつけるランの仲間で

花弁の形がサギが羽を広げて飛んでいる姿に似ている花です。

昔は自生していたなんて、きれいだったろうなぁ。

 

最後に。

将門さん伝説が白井地区にテンコ盛りでしたが、

将門さんだけでなく、その祖先の方々も関係していた

平氏にとっての縁の地であったことがわかりました。

後裔となる千葉氏が崇拝した

妙見神が祀られていた

星宮神社があることも納得なのでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今回は隕石をお祀りしている石祠の

ご紹介です。

 

祟石大明神

多古町方田字石畑163

 

この石祠について「多古町史」の旧常盤村の項に

次のように載っています。

 

崇石大明神 字石畑一六三番地にある。村落の東端で、畑の中に取り残されたように立っている。古くは天神の森の一隅にあって、参道には寄進された鳥居がびっしりと立ち並び、その下をくぐり抜けるようにしてお参りしたものだという。

 石の祠は横三〇センチに高さ四五センチほどで、正面に「崇石大明神」横に「明治九年子十二月日 方田村願主人宇井庄兵衛宇井忠兵衛」と刻まれている。

 村では「しょうせき様」と呼んで、粗略に接するときは神罰があると畏怖をもって崇敬されており、村へ嫁入りした人は、鎮守をお参りしたのち必ず詣でなければならない習慣であった。

 社の由緒などについては不詳であるが、口伝を総合すると次のようになる。

 ある夏の夜に、突然音もなく昼をあざむくほどの光が村全体を包んだ。天の異変に不安な夜を過した翌朝、草刈りに出掛けた人によって、見たこともない赤茶けた石が二つ天神の森の一角に落ちているのが発見された。以来、天から光を放って飛んで来た神秘の石として、落ちた所に丁重に祀られ、今も石祠の内に御神体として納められている。のち、天神の森の開拓によって鎮座の場所が変えられ、現在地に落ち着いたものであるという。

 今次の調査によって、法光寺から「崇石大明神」の護符の版木が見付かり、『過去帳』の一節に「崇石大明神勧請 文化九年(一八一二)と記されていることが判明したことから、右のことがらはおおむね同年代の出来事であろうと推察される。

 

隕石が落ちた場所は天神森だったようですが、

後に遷宮して現在地になったようですね。

グーグルマップだとこんな感じです。

 

 

崇石さまは畑の中にポツンと石祠が建っているので、

現地に行けばすぐにわかると思います。

付近には隕石にちなんだ店舗名が確認できるので

この伝承はいまも「生きている」伝承なんだなと感じました。

 

「星明りテラス」カフェ

「多古の星キャンプ場」

 

地図の一番左にある「祟石大明神」

元々の鎮座地なのではないかと思います。

そしてなぜ村人はこの隕石を「祟石」と名づけたのか?

 

隕石が地面に衝突した時の光や音を畏れたからなのか、

お祀りしてから「祟り」だと認識するような事象があったのか、

多古町史の外には祟石大明神について

書かれた書籍を発見できていない為、不明です。

何か判明しましたら、またご報告したいと思います。

 

 

 

 

 

 

 

今回ご紹介するのはコチラの神社です。

 

矢刺神社

旭市三川字上川田3719-2

 

鳥居です

境内はこんな感じです

拝殿と狛犬たち

別角度から拝殿

扁額

本殿を左側から

背面は忘れたか撮れなかったかです

本殿を右側から

でもって左側にはリアルな鬼がおります

 

 

この神社はいろいろと私を興奮させる要素が

盛りだくさんな

神社なんですよっ!!!

(落ち着け自分!!)

まずは詳細についてですね。

「千葉県神社明細帳」だと

 

当社者天気(天喜)康平之際、源姓之武将難刺矢而して祭之文献不足而して不詳 其の旧跡□輿興廃也 天文5丙申10月迎遷神祠於て見在の地而して以降 明治6年神社御改正之際列村社

 

「千葉県神社名鑑」だと

 

詳らかでないが、天文5年(1536)丙申9月に、源某武将が矢を射、その矢の突き刺さった地に建造されたものと「神社明細帳」に記載されている。

 

と情報量が少ないのですが、境内にある看板には

 

「市指定有形文化財 矢刺神社本殿」

平成13年4月12日指定

矢刺神社は、旧三川村の鎮守で、御祭神は応神天皇(品陀和気尊)・神功皇后(息長垂媛命)・竹内宿禰(高良玉垂尊)の三柱である。 棟札によると、平安時代から室町時代にかけては台地上にあり、石宮権現、若宮権現と称されていた。天文5(1536)年に現在地へ遷座して若宮八幡宮と称され、天保8(1837)年に再建されて、名称も矢刺神社と改称された。 本殿は、間口八尺四寸の一間社流造りで、ケヤキ材を使い、様式手法は江戸時代末期の特徴をよく表している。

平成21年11月 旭市教育委員会

 

やっとここで平安時代からあったこと、元は別の場所にあったことや社名も異なっていたことが判明しますね。

しかも御祭神に高良玉垂命がおられるということは、

福岡県久留米市の高良大社から勧請したということなのかな?

下総は九州から勧請した古い神社が多い気がします。

やはりこれも九州から分れた隼人の一族がいたからなのでしょうか?

元の名称に「石宮権現」とあったということは、

もしかすると元は古墳をお祀りする神社だったとか・・・?

むーん、謎が多いなぁ(ワクワク)

 

さてさて、貪欲にさらなる情報を探したところ

「千葉県海上郡誌」に

 

矢刺神社

三川村大字三川字上川田に鎮座す。祭神は息長垂姫尊、品陀和気命、高良玉垂命にして、康平年間源義家奥羽征討の帰途、当国を経て上総国に至るの途次、当村を基点として、一里毎に一本の矢を刺し、所謂九十九里を計り、其の矢の根を以て玆に祭れりといへるも、旧記なきを以て分明ならず。天文5丙申年10月の勧請にして明治6年村社に列せらる、村内に氏子380餘戸あり。境内1537坪老樹鬱蒼として神徳の高きを成す。社殿は東向にて間口一間二尺奥行一間一尺、拝殿間口四間三尺奥行二間三尺。鳥居は木造にて高一丈五尺冠木一丈九尺太さ三尺五寸。境内には寛政5年8月15日建立の石燈籠一対、文久2年建立の手洗鉢、明治44年3月建立の狛犬一対あり。
 

おっ矢刺神社の神名由来になる部分がわかりましたね!

そうなんですよ、伝承調べていると矢を挿して九十九里を測ったのは頼朝ではなく、義家で伝えられているものもあります。

さらに「飯岡町史」には

 

矢刺神社棟札(天喜年間~弘化4)

矢刺神社沿革 下総国海上郡三崎庄横根郷三川村迎畠鎮座

当社濫觴者起干天喜康平之際而其旧地及興衰不詳矣 中古当郡三谷椎柴台鎮座 多賀谷正平得石卵於笹曲野以納之是些可証也 按家系大永中伯位大膳吉忠去京師卜居於海上郡三崎庄横根郷三谷祀干岩裂神根裂神及石宮権現矣 天文丙申10月遷座若宮権現於迎畠之地号八幡宮 郡吏岩井内匠助納干神鏡一面請取神主大内蔵吉信其外有觧魔道士2名焉 永禄甲子及元和戊午修繕而至延宝乙卯神主出雲吉久之子長弘勧請同戊午遷宮 工匠辻内善重八木六兵ヱ以来元禄己卯造神輿及享保丁酉修繕至天保丁酉秋9月修造之巧竣而遷宮 神主往古常陸吉方 供僧吉祥院技栄也 従天文歴1330餘星霜而天運如環往古而号矢刺神社矣 神風掃空再拝天日之清朗矣于時

聖替著雍執徐□初七遁甲

曩祖伯位大内蔵吉信12代正嫡往古常陸藤原吉享敬誌

 

訳 当社の創建は天喜(1053~1057)・康平(1058~1064)の頃であるが、その興衰旧地は証でない。中古当郡三谷椎柴台に鎮座し、多賀谷正平が笹曲野で石卵を拾い奉納した。大永中(1521~1528)大膳吉忠なる者が、京都を去り、居を海上郡三崎庄横根郷三谷に決定し、この地に岩裂神根裂神と石宮権現を祀ったと、旧牌に記録してあった。天文丙申(1536)10月若宮権現を畠の地(現在地)に遷座し八幡宮と号した。郡吏岩井内匠助が神鏡1面を奉納し、神主大内蔵吉信が受取った、その外に魔道士2名がいた。

永禄甲子と元和戊午に修繕され、延宝乙卯に神主の出雲吉久の子である長弘が同戊午に遷宮。工匠の辻内善重、八木六兵ヱは元禄己卯年(1699)神輿を作り享保丁酉年(1717)に修繕し、天保丁酉(1837)秋九月に修造し遷宮した。神主や吉祥院の供僧は技を発揮した。

天文歴1330年以上が経ち、星の年月が流れ、天の運命は循環して古代に向かう、矢刺神社と号した。神風が空を掃いて、天日が輝く美しい日に再び拝む。

聖は雍を代わりに執り、徐に七日目の遁甲を初めて開始した。

 

棟札から石宮権現のことや遷宮して八幡宮になったことなどが判明しましたね。

んんんっ!?ちょっ!

魔道士???

ちなみに台地上にあった三川郷に関しては、

同書にには次のように書かれていました。

 

この棟札は、天文丙申10月の銘から、矢刺神社が台地から現在地に遷坐した時のものとみて間違いあるまい。ここに記されている乗光、恵成である。(中略)天喜・康平の期に鎮座したという海上郡三谷椎柴台は、現在のどの辺になるか不明であるが、石卵を拾って奉納したという笹曲野は、猿田駅の東方の橋を笹曲橋といったことがあるので、この附近であったと考えられる。大永中大膳吉忠という者が神官となり、石宮権現を祀ったという横根郷三谷は、三谷椎柴台と同じ地と思われる。第三章第二節四の熊野権現・猿田明神三川御幸の項で述べる三川里より猿田明神に奉納の銅板銘からも、三川と猿田明神の古来からの関係が窺がえる。

白石町の畑にある三川の鬼門神、矢刺神社の棟札、三川里より猿田神社奉納の銅板銘等より、三川の本拠は前掲第四図の横根郷の北の狢野八十六町歩といわれている地と、その西に連なる台地であったことが推測できる。前述したように獅子見には、広い地域に土師器・須恵器の破片が散布している。台地南の平地が農耕に適するようになると集落は次第に平地に移り、村の鎮守の若宮権現も中世末期の天文5年(1536)に現在地に遷宮になり、三川集落は台地から姿を消したと考えられる。

 

旭市狢野は現在、畜産業や企業が建ちならぶ地となっています。

往時古墳があったとしても、いまは開鑿されてしまっただろうと思います。

矢刺神社の前身である石宮権現は一体どなたを祀った神社であったのか、謎は謎のままですね~。

 

さてさて、そろそろお楽しみの

魔道士

いきますかっ!!!

矢刺神社に魔道士がいたのは室町時代後期ということなのかな。

当時は豊臣秀吉の弾圧により、

それまではエリート国家公務員的扱いだった陰陽師も、

リストラされて苦難の時代に入ります。

諸藩の武家などに雇用されるのは一握りの陰陽師だけでした。

多くの下級陰陽師たちは加持祈祷や占いだけでは

食べていけなくなり、

営業活動のために同業他社と差別化をはかります。

当時流行りの猿楽や曲舞などを披露しつつ

占いや祓いもする呪術性も兼ね備えた芸人となっていき、

呼び名も「唱聞師しょうもじ」と変化します。

そして華々しかった「陰陽師」というブランド職は

いつの間にか漂泊民扱いされるまでに落ちてしまいます。

 

そんな中で「魔道士」がどういう立場であったかというと

明確に記載されているものは見つけられなかったので、

推測ですが陰陽道に道教の技術(奇門遁甲や霊符など)も

ミックスさせた術を使う人だったのかなと。

というのも千葉県って圧倒的に妙見信仰が強い地盤なのですが、その形態が調べてみると陰陽道と道鏡がうまーく融合しているんですよね。

 

当時の村人がよくそんな怪しい人を受け入れたなと

思いますか?

だがしかし!

この辺りには

あの、スーパー陰陽師

安部晴明

が関わっている神社もいくつかあるんですよ!

それに三川の近くにある見広の雷神社も

神道だけでなく陰陽道とかが入ってる感じが

するんだよなぁ。

前に記事にしましたが、こちらの宮司さんは

本当に真っ新な感じの

ほんっとうに良い方です。

以前取材した時にお祓いのご依頼を受けた時について

詳しくお話をしてくださったのですが

依頼された方の状況を考えながら、

どのように取り組むかを試行錯誤し続けて

ご自分の中でそれを受容してお祓いの方法が固まるまで

時間を掛けているとおっしゃってました。

なので案件によってはかなりお祓いまでに時間がかかることも

あると言っていました。

とっても真摯に向き合われている真の神職の方だなぁと

当時は感銘を受けました。

また今思い出してみると御守の種類の多さに関しても

人々のさまざまな心配事に寄り添われていて

その点に関しても、神道だけでなく他の視点も

入っているのかなと感じました。

こちらの御守、シンプルなんですけど

お力がめちゃ入ってるんですよね。

でもって神様は宮司さんのこと、めっちゃお気に入りでした。

褒めちぎっていた(笑)

いい方だなぁって思うと

そうだろう、そうだろうって満面の笑みでうなずいている感じ。

また行かなきゃなぁ。

もしかしたらこの地域は晴明がきていた名残りが

いまも息づいているのかもしれません。

 

※今回参考資料として使った2冊です。

 

 

 

 

 

 

 

あと気になっているのが神紋についてですね~。

矢刺神社の神紋が「下がり藤」なのです。

通常神社の神紋に「藤紋」が用いられることはないです。

藤原氏から授けられたか、宮司家に都から派遣された藤原氏の一族の者の血が混じったりしない限りは。

 

これは本当に考えすぎって言われるかもですが、

千葉県の藤紋の神社は藤原氏の監視対象になった神社だと

考えてます。

いくつか藤紋の神社を把握してますが

遷宮していたり詳しい由緒がわからなくなってたり

というところばかりなんですよね・・・

藤原氏が焦るぐらいすごい神様を祀っていた神社なのか

手に入れたくなるほど利点があったかは不明です。

 

藤原氏についてはまたゆっくり触れたいと思います。

んでは最後に境内社!

字が摩耗してしまっていて全然わからなかったので

「千葉県神社明細帳」に記載されていた境内社の説明をば!

 

阿夫利神社/大雷神・大山祇神・高雷龍神

北野神社/菅原贈太政大臣

祖霊社/藤原要莝

祠掌一族の祖先を祀る其の年代不詳

 

 

 

旭市の三川は地名からして謎が多い地なんだよなぁ。

また何かわかったら追い記事上げます。

 

 

 

 

 

 

またまた実家のある横芝光町の記事になります。

 

今回はあの

平将門さん

が一時期横芝に滞在していて

その時に鬼門除けとして作ったという神社についてです。

まずは「広報よこしば」昭和39年発行の第19号より

 

ふるさとの話題 鬼門除の神と獅子舞

下総の自領、堺の館を逃れ上総の国栗山川の畔に館を構えた平の将門は、聞くともなく家来達の話声に耳を傾けていた。今日は半路とない荒海の潮騒も遠く、家来達の話も手にとるように聞えて来るのだ。

「下総から此の地に来てもう一歳余りになるのう」

「道理、道理、殿が下総の堺に似ている、上堺の堺と呼ぼうと仰せられたのが確かに花の盛りの頃でおじゃったが最早花の時期もすぎて青葉が、それ、あのように青々と萌え出しておるわ」

「したが、野山のたたずまいといい、里人の気質といい、ほんとうに似ているのう、堺の町に……」

「いや、より好い位じゃ、川伝いに上って行くと半路で玉のような水が溢れる泉があり、更に逆上れば戦いに欠くことの出来ない勝栗の実が豊かに実り、兵糧にはもって来いじゃ、そればかりか、二里程奥の田で穫れる米のうまさは、都人でさい、舌をぬらす程のものじゃというぞ」

「お強く、智恵もあり、その上吾等にはおやさしい殿はきった神のご加護があり、此の地を再帰の場所とされて、次の風雲を呼び起こし、武運の強さをお示しになる日も近かろうぞ」

「それにつけても憎いは、卑怯極まる伯父君良兼殿じゃ、殿の成人の後は渡してくれ、と仰せられた前殿の言葉に違反するばかりか、再三ならず京の帝に讒訴し、あまつさえ殿の無罪が判明されると今度はその帰りを待ち伏せての急襲じゃ、それも殿の御脚の悪い御様子を察してのことと聞く……」

家来の話しは何時果てるともなかったが、これ以上聞いているには余りにも自分がみじめに感じられて来た将門はわざと足音を立てて家来達の溜りに近づいた。それとなく目と目でうなずき合って話を止めた家来達は、心から仰ぐように将門に向ってひざまずいた。

「かまうな、かまうな、ゆるりとせい…どうじゃ、今朝程部落の長が許しを受けに参った、鬼門除の舞を見物せぬか…供をせい」

想いつきではあったが、事実鬼門除の舞を見たい気にもなっていた、それは、今朝早く郎党の某を通じて、

「毎年6月15日に風神鎮めと鬼門除を兼ねて近くの祠に舞を奉納するしきたりになっているので今年もやりたいから許してもらいたい」

と中出て来たのである、勿論心よく許可を与えてあった。祠は館の傍にある松林に囲まれた空地にあり舞はその前で行われている筈であった

将門の一行が近づいた頃は舞は一段とたけなわで里人も祭りの演に酔いしれていたが、さすが長老達は将門等に気がつき、新しい党将の為一番高い広い場所を開けていんぎんに一行を招いた。舞は三匹の獅子に扮した三人の童子が無心に踊り狂っていた。

或る時は突如として猛々しく舞い、或る時は静かに歩み、それは丁度将門が、父を失い肉親の伯父に誘殺されようとして辛うじて逃れ、更に讒訴に遭い乍ら武蔵の守高麗王に助けられて知遇を受け、再び伯父の追撃を逃れて現在の地に活を求めている過去の身の上を物語るように想われた

三匹の獅子は、二匹が相携いて一匹の獅子を疎んじて何時か姿を消えさせ、更に二匹の獅子は互いに争いを続けて遂に最後の一匹が勝ち残る、というものであった。見物の者達は「やんや、やんや」と拍し称えていたが、将門は何かを決するように立ち上がった。

「うん、力じゃ、力じゃ、人の力は頼みにならぬ、今の舞は神の教えじゃ、神の教えと己の力だけが信りじゃい」と臍を噛むような声でつぶやいた、そして、「誰か居らぬか、近う近う」と呼びよせ、「何事?」と覗う家来達に、

「此の祠から栗山川沿いに一線をひけ、そしてその線上に水の祈り、栗の祈り、そして米の祈りの祠を祭れ、これを我が鬼門除けの神とあがめ、今後此の地を神の栄、上の堺と呼び我が家再興の地としようぞ…」と矢つぎ早に命令を下した。

伯父国香、良兼、良正等の妨げにより是といった官職も持ち得なかった将門が自分の力だけを頼む以外の術を知らず、止むに止まれぬ立場に追いつめられて下野、上野の国守を攻め、折から現れた伎女の宣託を信じ、自ら「天位は将門に授かる」と呼豪し「平新皇」と称えて王宮造営の悪夢を見るに到ったのは此の獅子舞を見てから四年目、弟高将等の謀反によって栗山畔の館を伯父良兼に奪われて此の地をはなれて僅か一年半のことであったという。波乱の生涯を送った将門が少しでも平和な日を送ったのは栗山河畔の二年半程の間だけで、鬼門除の神威が現れていたものであるという。

そして、将門が祀ったという鬼門除の神社は屋形の四所神社、北清水の清水神社、栗山の鹿島神社、本町の四社神社の四社がそれで、神栄の里は、何時か上総の堺に戻って上堺として地名に残っていると今でも里人は信じているという。

(本稿は、四社神社周辺の古老に語伝えている伝説であり実録とは異なることが多いと思う、尚主催については屋形荒場、早川倉吉氏の労を煩わせたことを感謝いたします。)

〇45年前館後という附近から白骨が現れて話題を巻きおこしたが、将門の館に関係の有無は知る由もない。

 

ちょっと長い伝承でしたが、

短くまとめるとニュアンスが違ってしまう気がしたので、

そのまま載せています。

横芝というと将門さんよりも

平良兼の方が有名なんですよね。

というのも地名の「屋形」は良兼の「館」が

あったことに因む地名だからです。

良兼さんに関しては、また別の記事にしようと思います。

 

さて、将門さんが祀った鬼門除の神社4社

屋形の四所神社

北清水の清水神社

栗山の鹿島神社

本町の四社神社

ですが地図でみるとこんなことになってます。

 

 

地図の中央を流れる川は栗山川です。

川沿いに神社が4社鎮座しているのが

わかると思います。

ほぼ一列に並んでますよね。

これは川からの侵入を防ぐためでもあったと思います。

 

上から順にご紹介すると

四社神社

山武郡横芝光町横芝981

御祭神

伊波比主命、須佐之男命、別雷命、菅原御霊

由緒

●境内看板より

当四所神社の御創建は詳らかならずとも大同2年(西暦807年)の創建と伝えられる。現在の御本殿は寛延3年(1750年)再建と御棟札に記される。造りは一間社流れ造りの建築である。

 

鹿島神社

山武郡横芝光町栗山3210

御祭神 武甕槌命

由緒 不詳

 

清水神社

山武郡横芝光町北清水5058

御祭神 天児屋根命、須佐之男命、別雷命、菅原道真朝臣

由緒

●千葉県神社名鑑

四柱の神を勧請したのは二条天皇の御宇、平治元年9月10日と口碑に伝えられる。嘉永2年10月5日神祇官より清水神社四社大明神と呼称され、幣帛並びに祝詞を下附される。昭和3年7月27日神饌幣帛料供進の指定を受ける。

 

四社神社

山武郡横芝光町屋形921

御祭神

速須佐之男命、天津児屋根命、別雷命、菅原道真

由緒

●千葉県神社明細帳
郷社四社神社は武射栗山川を囲み東北に境し沿岸に鎮座す 四柱の大御神を奉勧請也 往昔より古老の口碑に曰く源頼朝公当地経へ旅館を設け浦辺湾内実検すと云々 其所以は里程の壱里と称するは六町を以て壱里と云 湾成の緯度九十九里矢指浦云 原舘の地名を舘と称し南北に舘門を築造す 此地名を南北総に木戸村于今明瞭なり 郷人舘を終に屋形と云々 然りと雖も勧請年紀の由緒等は天正度北条氏の臣坂田郷の領主井田氏落城の砌兵火に罹り悉く焼亡すと云々 享保4年5月7日神祇官領卜部兼敬殿より奉幣旦御告文あり 旧号正一位四社大明神と奉称 明治2年四社神社と改更す 因て由緒年暦網紀の概を略記す
●千葉県神社名鑑
平常天皇の大同元年、速須佐之男命を奉斎、その後、朱雀天皇の時平将門が乱を起こした折、京軍の水師が今の九十九里に上陸、当社に拠り、別雷命、天児屋根命、菅原道真公を配祀して戦勝を祈った。これより四社明神と称した。天正年間坂田城主井田氏の時兵火に罹り、元禄元年霜月朔日に本殿・拝殿を再建。享保4年神祇官領卜部兼敬の奉幣あり、正一位四社大明神と称した。明治2年四社神社と改称、同6年郷社となる。

 

御祭神がそれぞれの神社で変動がありますが、

元々は同じ神様をお祀りしていたと思われます。

たぶん戦禍で焼けてしまったりした神社も

あったのではないでしょうか?

戦が終って平和になってから戻ってきた人々が

新に神を勧請してお祀りしたところもあるのでは?

 

創建年代がまちまちなのは、

戦禍で失われて再建したとかですかね。

ただこの鬼門除けをしたのは将門さん伝説の他、

つくったのは平良兼だとする説もあります。

まぁ証明できるような記録はないので、

こんな伝承もあるんだなぁと受けとめていただければと

思います。

 

 

ちなみに「屋形村縁起(抄)」にいろいろな伝承が載っているのですが、横芝町栗山にはむかし栗山郷があり、国司がいるような郷だったそうです。

将門さんとの戦争時に、この国司の屋敷も兵火に罹り将兵も多く亡くなりました。その亡骸を埋めた場所が字柳田、字鴻の巣で戦前までは大塚があったそうです。しかし昭和12年に陸軍の飛行場をつくるために壊されたそうです。

また村長であった栗山某は村の旧記を携えて常陸国河内郡須賀津村に逃れたそうです。家系は存続しているそうなので、もしかしたら旧記も残っているかもしれませんね。

また国司がいた地はヤシキノマエと呼ばれ、元々朝廷の官人が住む屋敷があったところだろうと考えられています。

 

最後に、地元にまで将門さんの伝承があるとは

思っていませんでしたよ~。

千葉県のいろーんなところに将門さんの伝承はあるのですが

地元にも来ていたと思うと感慨深いですね。

 

最後にやっとGETした「かんだ守り」♡

 

 

ネットでこの御守をみて珍しく

すんごく欲しくなってしまったんですよね

今年は将門さんの記事をバンバンあげようと

思っているからなのかなぁ

 

 

 

 

今回は次の職名についての考察です。

 

かこせこねこ

 

 

何のことか、わかりますか?

かことは「楫子」で船乗り、船頭のことです。

 

せこ「勢子」で狩猟で鳥獣を狩りだしたり、

逃げるのを防いだりする人夫のことです。

 

そしてねこ。

ねことは「根子」と漢字で書きます。

この根子についてだけ、諸説あって明確な答えが

今のところわかっていないのです。

 

地名で「根ね」という言葉は陸上だと山の麓を意味したり、

何かの源のことであったりします。

海だと岩礁を差したりします。

日本の姓氏は地名姓が多いので、根子さんも存在します。

読み方は「ねこ・ねご・ねっこ・ねし」で

全国におよそ600人ほどいらっしゃるようです。

秋田県北秋田郡阿仁町に多いそうです。

 

姓氏ではありませんが古代の天皇の諡号にも

「根子」は使われています。

一番最初に「根子」が入っている諡号をおくられたのは

孝霊天皇で大日本根子彦太瓊天皇(おおやまとねこひこふとにのすめらみこと)です。

この諡号の中の「根子」は本来は「禰子」であったのではないかともいいます。

というのも、神社の禰宜さんの「禰ね」という言葉は

「労(ね)ぐ」で神の心を慰めて加護を願うという

意味なのです。

古代の王は祭祀王と政治王とが一対であり、

大抵夫婦となって国を治めたといいます。

女性が巫女として神に仕える場合もあれば

男性が巫覡(ふげき)として使える場合もあります。

神を慰める=(労ぐ)役割をしていたからこそ、

「ねこ」という言葉が贈られたのかもしれません。

 

では何故「禰子」ではなく「根子」という漢字に変化したのでしょうか?

私は「根子」というのは楫子・勢子と同様に、

肉体労働に携わる人たちの「職名」だと考えます。

そしてそれは古代の製鉄民に関係していると思ってます。

そう考えるのは「ネコ車(運搬用手押し一輪車)」の存在です。

あの一輪車をなぜ「ネコ車」と呼ぶのか?

ネットで由来を調べると

「猫が通るような狭い足場も移動できるから」

「練り子(ねりこ)を運んでいたから」

など諸説あります。

ということは後年生れた説であって、

元々の由来ではない可能性が高いのです。

 

私見としては「一輪車」という形状に理由があるのではないかと考えています。

というのも古代の製鉄民は過酷な職場で働いていたため、

高温な炉の火を見過ぎたため片目になってしまったり、

たたらを踏み過ぎて片足を痛めてしまったりと、

2つあったものが1つになってしまうという

肉体的特徴をよく目にします。

この「1つ」と「1」輪車という点が、

結びついて「ネコ車」と呼ばれるようになったのだとすれば、

ネコ車は本来なら根子車と表記するものであった

ことになります。

 

また「根子」の表記は山腹に坑道を掘り、

土中深くまで潜って鉱石を採取していたことによると思います。

そのすばらしい採鉱知識と製鉄技術は

国力増強の一端を担い、近隣諸外国への

牽制にもなったでしょう。

天皇が軍事力を持っていたことを示すために

諡号に「ねこ」を取入れたという一面もあったのだと思います。

 

そんな根子たちに関して、

現代では辞書にも載っていない「言葉」に

なってしまっているのは何故なのでしょうか?

 

おそらく彼らの仕事に伴うデメリットに原因があると思います。まず彼らの見た目です。

先ほども説明しましたが長く過酷な仕事を続けていると、

片目・片足になる確率が高いです。

また製鉄による環境破壊も問題視されたと思います。

製鉄時に発生する水銀で川が汚染され、

中毒者が出てしまったり、

死亡者が出たりしたかもしれません。

高温の炉を使うため山を切り開き多くの木が伐られ、

ハゲ山となってしまい動植物の無い土地に

なったかもしれません。

 

その見た目と環境問題から次第に彼らは疎まれる存在となり、

「根子」は差別的な言葉になってしまった可能性があります。

そのため楫子や勢子のようには言葉が残らないという

現象が起きてしまったように思います。

 

そんな彼ら根子の痕跡は民間伝承の中で見られます。

市原市大桶には次のような伝承が伝わっています。

 

「市原市誌」より

猫山

之を古老に問うに今より凡そ二百年前の頃、東は庁南伊勢屋の猫、西は相川村新左衛門の猫を始めとして、数百の猫集りて盛宴を張ることあり、秋夜月清く虫鳴く頃、その歌舞の状を目撃することありしと、今はこの山の周囲青年団のために伐採されて開墾する所となり、山頂の平地に4・5の老椎を存するに過ぎず。

 

庁南とは現在の長南町長南・坂本・蔵持辺りで

相川村は現市原市相川のことです。

 

 

 

この伝承の「猫」が「根子」だとしたら

山中で仲間が集まって宴会をしているのも

頷けますよね。

宴会に山中を選んだことも差別されていたと考えると、

辻褄があうんですよね。

辛い思いをしていた彼らも楽しいひと時があった事が

こうして伝わり残っているのは貴重なことです。

 

ちょっと待って!

あくまで猫だから!

夢を壊さないで!

という方もいるかもしれませんが、

まあこの考察も一つの説として

読んでいただけたらと思います。

 

 

 

 

 

 

え~今回は以前

とんでもなく障った

ことをちらっとお伝えしたまま放置していた

お寺についての記事になります。

 

記事を読んで行ってみるのは自由ですが

「知って」行くのと「知らなくて」行くのでは

やはり影響が違うので

ご自分なりに身を護りながら準備して行かれてください。

ちなみに私はあれから一度も行ってません。

 

霊通寺

山武郡横芝光町坂田740

 

取材に行った時に写真も撮ったのですが

何か影響があると嫌なので載せるのは控えておきます。

替りにこちらをどうぞ☆

 

ヒンナヒンナ♡

 

 

はぁ、いろいろ思い出すとしんどいけど

いきますか!

 

「横芝町史」の横芝町寺院一覧によると

 

17霊通寺

末寺 長徳寺末

宗旨 新義真言宗智山派

本尊 如意輪観世音

堂宇間口×奥行 三間×四間

所在地 坂田字奥

檀徒人員 ―

霊通寺末 12観音寺

     15長寿院

     16最勝院

 

「山武地方誌」によると

 

霊通寺 坂田 真言宗(智山派)

天文3年(1534)に成った縁起に成った縁起書の写によると、往時泰川勝内という者が内勅を奉じて寺格を正し、坂田城主三谷氏、井田氏の帰依深く本郡、香取、印旛の三郡に亘り末寺14を持っていたといわれる。

 

そうなんですよ。

この霊通寺、なんとあの

泰川勝

に関連があるお寺のようなのですよ。

残念ながら縁起書は確認できなかったのですが、

泰川勝の関係者が内勅を持ってきて寺を整えたって

凄い事ですよね!

 

それほどの格式を持つ霊通寺は、

実は元々は神通寺といったといいます。

「広報よこしば」の昭和39年に発行された第15号に

次のような記事があります。

 

ふるさとの話題

禁猟区に指定された坂田池の背後に小高くそびえている坂田城跡にまつわる悲恋物語りが今も里人に語り伝えられている。

生温かく湿気の多い夜であった。如意山、神通寺(現の霊通寺)の屋根の上に向って北の空から青白い火の玉がふわふわと音もなく現れると、時を同じくして南の空から同じような、しかし少し小さい火の玉が現れた。そしてこの二つの火の玉は、寺の茅葺屋根を中心にして、軽くからみ合い、たわむれるようにしていたが、やがて数刻の後に、それぞれ元の空に消えていった。きっと別れの時期だったのであろう。小さい南の空に消えた火の玉は坂田城の方向に飛んで行くのであった。

このような現象が再度ならず起きたので村人の噂をにぎわした。そして誰謂うとなく北の方から来るのは、芝山大台城の若殿の生霊だと言った、大台城の若殿という人は、城主井田友胤の二男信孝と呼ぶ聡明で美男の評判の高い22才の美青年。この青年と坂田城主、三谷信慈の一人娘、これも麗利の誉高い、絶世の美女清姫の幽魂との密会だと噂した。

両人が初めて知ったのは、天正15年春弥生、桜花爛漫も咲きほこる大台城下金光寺であった、此の日坂田城一族は揃っての参拝と観桜を兼ねての来山の日であった。誰にも珍な美男美女、心ときめく花の下、物語りはあまりにも、此の日は寒からず暑からず絶好の花見日和の一日、淡い花曇りの、しっとりとした良い日だった。

大台城下、金光寺前に、美麗な駕籠からおりた妙令の美女、名に聞く、清姫の現実の姿なのであった、芳き将に17才の春であった。

この有様を、高台の所見室から直視していた信孝は近従から、美女清姫の素性を聞かされ胸打たれるものがあった。そして直ちに筆を染めて恋文を達筆な美文にめんめんと綴り長々と書き上げた。

これは、文字通りの一目惚れの鯉だった。それ程清姫は美人であったのだ。信孝の腹臣からの恋文を目にした瞬間清姫は顔を紅に染めて、信孝の居るであろう窓辺を見上げて恥らうのであった。

その後、幾日も経ずして、信孝と清姫の息づまるような逢びきは、おぼろ夜の坂田城の木陰に、岩かげに、綿々たる蜜語と抱擁、そんな逢瀬が重ねられて行った。が、その事実を知った清姫の父親は烈火の如く怒って「直ちに切って捨てろ」と家来に厳命した。

其後父の怒りを知った姫は心許せる家臣に手紙を託し、神通寺(今の霊通寺)境内での逢瀬が又つづいた。しかし二人の幸は長くは続かなかった。或る水無月の宵「今宵も慕わしい清姫に~」といるもの如く、薄闇の山道を町原の坂に差しかかった時、待ちかまえていたように走りよった坂田城士の為に、あたら22才の信孝の命は消え去った。此の悲報を耳にした、清姫の悲嘆やる方なく、遂に城内二の丸近の深い堀に自らの命を投じて果てたのは、信孝の暗殺されて後数日と経たない夜のことであったーーーーー

そのことあってから間もなく、夜ともなると、神通寺院内の空低く、幽魂の呼び遭う様子が坂田郷の人々の噂となり誰言うともなく神通寺は霊通寺と呼ぶようになり、坂田城主も二人の悲恋を哀れみ、二の丸の庭に二人の遺体を共に埋葬してその霊を慰めたのであった。それが今に残る姫塚で、里人は今尚その塚に詣で二人の霊を慰めているという。

 

二人が眠るという姫塚は別名・悲恋塚とも呼ぶそうです。

寺名からして曰くのある霊通寺ですが、実はこのお寺は

坂田城家老職・神保家の菩提寺でした。

「広報よこしば」昭和48年発行の第111号より

 

横芝の碑(その14)坂田城家老職の墓石

多古県道沿いの坂田池を左に見ながら1キロメートル程進みますと左手に水資源開発公団の事務所が坂田城址の堅崖を背景にして建っています。

公団の手前の一帯、城跡の崖下から県道までは、塔婆や墓石群が哀愁を漂よわせています。この辺りは寺方と呼んでいますがその名の通り昔から光台寺、真珠院、円光寺、霊通寺等と寺院が多く、中でも霊通寺は如意山神通寺とも称され、天文2年の縁起書によれば「往時、泰川勝内という者あり、勅を奉じて社格を正し、坂田城主三谷、井田両氏の帰依深く、山武香取、印旛三郡に亘り末寺14を数う」(山武郡地方誌より)とあり、昭和46年9月に房総半島を襲った25号台風で倒壊するまでは往時をしのぶ様な高い床と広さを持った建物が残っていました。ここは役場の予防注射や選挙の投票所等にも使われていました。その霊通寺の跡が墓石の原なのです。丁度公団事務所の塀際辺りが正面になっていた様に思います。

霊通寺にまつわる物語は本紙でも紹介したことがあった筈ですが、この寺が坂田城主井田氏の家老職であった神保家累代の菩提寺である、ということは余り知られておりません。

神保家累代の墓石は水資源開発公団の塀際を真直に入った一番奥の左手に霊通寺歴代住職の墓石に囲まれるような形で建っているのです。

戦国の昔、築城にはまず飲料水の確保が第一の要件とされました。坂田城の家老職であった神保氏もまた用水確保には少なからず心を砕いたものと思われます。その墓石と隣り合わせに現代の水資源確保企業団の事務所が建ったということは何か不思議な因縁めいたものを感じます。

写真は霊通寺歴代住職の墓石に囲まれるように建っている神保家累代の墓石で、内側になっている神保家の墓石には、○徳翁院聖誉覚応居士、徳厚院広誉大覚善大姉天保四歳甲乙四月廿日、神保大内蔵宗重、○先祖代々、(梵字)月弓院大覚性大居士、天延元癸酉天七月十四日、俗名神保長門守泰宗等と刻まれ、また、外側の霊通寺歴代住職の墓石には、○(梵字)権大僧都、○如意山三十世、(梵字)法印神快和尚位等と刻まれています。

 

泰川勝の関係者が訪れたのが何時頃なのか不明なので、

泰氏と神保氏がどのような関係なのかはわかりません。

ですが神保氏とあの有名人が関係あることは判明しています。

その人物とは

 

伊能忠敬!

 

「広報よこしば」昭和38年発行の第12号には

このような記事が載っています。

 

②位牌二基

測量の神様とまでいわれ、その名を海外にまで知られている伊能忠敬(幼名神保三次郎)は、その青年期を横芝町小堤に送った。忠敬の実父を神保貞恒といい、当時にはめずらしく諸般に通じて、すべて物事を合理的、計画的に処理する才能をもたれていたことは、その遺品によって、深くうかがい知られる。忠敬は、この父の素質を充分に受けついで、あのような偉業をなしとげたといわれる。しかも、その祖先は、戦雲濃き、天正年間の武将神保長門守泰宗で、当地区の遺跡、坂田城とは深い関係にある。(掲載の写真は、左のものが泰宗のもので、右のものは、その嫡男泰清、次男泰之のものであり、いずれも当時のものである。)他にも巻物数十巻があり、小田原城主が関八州を統治していた頃の状態を知るのに、実に貴重な資料であると、県の関係者はいっている。

 

坂田城家老職の神保氏は伊能忠敬の御先祖になるんですね!

すごい繋がりだわ~。

実際のところ、伊能忠敬といえば佐原の人という認識なので

地元ではあんまり取り上げられていないのですが

当時の人と人の繋がりの広さに驚かされますね。

 

後はスピ的な話です。

苦手な方はここで終わりにしてください。

大丈夫な方だけGO!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

車を降りてまず御本尊に御挨拶と思って

呼びかけてみたのですが

まったく返事もないし気配もない!

え、仏さまいない?と焦ったものの

まあ大丈夫だろうと取材続行したのが運の尽き。

その後、家族が次々体調不良で寝込み、

同行したスピ友も夜な夜な妖怪の様な者達と

戦う事になりましたとさ☆

(事前に言わずに急に寄ったので後日めっちゃ怒られた)

 

スピ友曰く

城址のある山の上の方が

不気味な紫色に見えていたそうです。

坂田城は戦で落城しているんですが

スピ友によると

「まだ戦ってる」

とのことでした。

やっぱ古戦場は怖い!

 

この一件で「事前調査」の大切さと

「ネットの画像で確認する」というスキルを

身につけられたので結果オーライとします(笑)

でも現地取材は本当に気を付けましょう(汗)

 

ちなみにミツネ家が次々コロナになりダウンしていく中、

スピ友は毎晩漫画の「犬夜叉」に出てくるような

体が蜘蛛で、その頭部から女性の胴から上が生えている妖怪とバトルしていたそうです。

数日の間ずっと戦ってると、その場で他にも戦っている人が

いることに気が付いたそうです。

そのうち他の妖と戦っていた陰陽師みたいな男性が加勢してくれて一緒に蜘蛛女と戦ってくれたそうです。

でもってなんとか蜘蛛女を斃し、数日後にはそこにいた妖怪たちをすべてやっつけたそうです。

一か月後くらいに会った時に聞いたら

その陰陽師がまだ夢に出てきていて

別の妖を斃す手伝いをさせられている

と言ってたんですが、それも終わった後は

なんかいろいろと教わったり修業みたいなことを

させられていると言ってました。

「起きるとあんまり覚えてない」

と言ってましたが、1つだけ聞いたのは

壺の中に入った貝を選び取る修業?なのか、

覚えてないけどさせられたといってました。

何の為にしていたのかは全くわからないと言ってました。

 

千葉県は城跡も多いですが古戦場も多いので

そういう場ではいまだに戦闘中なのかもしれないですし、

そういう負のエネルギーに引き寄せられた

妖怪とか魑魅魍魎がうじゃうじゃいるのかも汗

マジで気をつけようと思います。

 

 

 

 

 

 

またまたおめでたいニュースが

飛び込んできましたね!

神尾楓珠さん

平手友梨奈さん

のお二人がご結婚とのこと。

マヤ暦で見てみたら

あ、これは結婚するよ

と納得な結果だったのでご報告したいと思います。

併せて他御夫婦も少しみてみました☆

 

まずは神尾さん&平手さんから

神尾楓珠さん

マヤ暦で使用されるKIN(キン)という番号でいうと

KIN68で太陽の紋章「黄色い星」

ウェブスペル「白い世界の橋渡し」

銀河の音3です。

 

太陽の紋章は顕在意識

ウェブスペルは潜在意識

銀河の音は持って生まれた役割を現しています。

 

「黄色い星」=プロ意識で仕事を芸術的領域まで仕上げてくれる仕事師

「白い世界の橋渡し」=人と人とを結び繋ぐ役目、スケールが大きく活躍、どこか透明感がありスッキリとした印象が特徴、カリスマ

「音3」=仲介役・調整役、第三者として異なる視点から物事を見れる

 

平手友梨奈さんKIN173

「赤い空歩く人」=世のため人の為という意識が強い、良識的で女性なら姉御肌、不思議な物が好きで探究心旺盛

「白い犬」=家族と思っている人への意識と思いが大変強く、そのための犠牲は喜んで引き受ける

「音4」=頑固な職人タイプ・スペシャリスト・本質を見抜く

平手さんは産まれた日の宇宙エネルギーが強いとされる

黒KINです。

 

お二人の関係性をみてみると、

平手さんにとって神尾さんは太陽の紋章で似た者同士の類似KINであり、刺激しあって惹かれあう関係の神秘KINなのです。

また神尾さんにとっても太陽の紋章で類似KINであり、

神秘KINの関係なのです!

音でみると、音4と3は連係関係で円滑なコミュニケーションや連係プレーができる関係にあります。

 

しかもお二人は太陽チャクラも同じ「3」で、

お金に困らない特性があるのです。

紋章の色でみてみても、

神尾さん「黄」と平手さん「赤」神秘の関係

惹かれあうのは必然なのですよ~v

こんなにお互いに似ていて惹かれあう関係なので

そりゃあ結婚するよ!と納得のお二人なのでしたv

 

そしてなんで今年ご結婚にいたったのか。

それもマヤ暦でみてみると驚きの結果が。

まず平手さんにとって昨年2025年は黒KINの年でした。

黒KINの年は節目の年といわれ、

良くも悪くも記憶に残る年になります。

しかも平手さんの太陽の紋章「赤い空歩く人」と

同じ紋章の年でもありました。

自分の力を発揮しやすい一年となりますし、

本来の自分に引き戻してくれる年です。

 

神尾さんにとっては節目である「26歳」の年でした。

26歳は特別な反対KINの年で、

大きな学びや出会いがある年になります。

そう、神尾さんはまさに

出逢って

しまったんですね!

そして2026年の今年、

平手さんにとっては「決断」や「自立」の年であり、

仲間や家族を守ることや自分のスキルや内面を磨くのに

いい年になります。

神尾さんは夢の為に動くとお金が入る年です。

これまでの結果を出す音4の年でもあるので、

家族を得たことでよりお仕事に専念すれば

もっと輝ける年になります。

今後のお二人に期待大ですね!

 

 

ちなみに最近ご結婚された他のご夫婦もみてみたら

お互いに神秘KINだった方たちがいます。

波瑠さん&高杉真宙さん

長澤まさみさん&福永壮志さん

ご夫婦です。

 

波瑠さんKIN155

「青い鷲」=観察眼に優れ物事を客観的に見ることができる、戦略家、心のつながりを重視する

「黄色い種」=気づきを得ることで魂が磨かれていく、深みにはまる傾向にあるので研究者や学者に向いている

「音12」=問題解決能力に長けた相談役

波瑠さんも黒KINです。

 

高杉真宙さんKIN177

「赤い地球」=絆を大事にし人の心に訴える説得力を持つ、またリズムと共鳴するためさまざまな踊りをやっている人が多い

「白い犬」=家族と思っている人への意識と思いが大変強く、そのための犠牲は喜んで引き受ける

「音8」=バランスや調和を重んじる

 

お二人はお互いに神秘KINであり、音の関係では心の繋がりを感じると結束する協和関係でもあります。

結束=結婚に繋がったのかもv

 

長澤まさみさんKIN241

「赤い龍」=生命の尊厳に関りが深い、プライドが高く決して弱音を吐かず倒れるまで働く、血のつながった同族に対する思いが強い

「青い鷲」=観察眼に優れ物事を客観的に見ることができる、戦略家、心のつながりを重視する

「音7」=鋭い五感と第六感を持つ

 

福永壮志さんKIN75

「青い鷲」=観察眼に優れ物事を客観的に見ることができる、戦略家、心のつながりを重視する

「白い世界の橋渡し」=人と人とを結び繋ぐ役目、スケールが大きく活躍、どこか透明感がありスッキリとした印象が特徴、カリスマ

「音10」=プロデュース力に長けている

そしてKIN75は極性KINといって、

一つのことをとにかく極める力があります。

 

福永さんが映画監督なのは紋章からみてみても

ピッタリすぎて驚きでした。

お二人は同じ「青い鷲」を持っていることで類似KINのような関係でもあり、お互いに神秘KINでもあります。

 

神秘KIN同士だと惹かれあうエネルギーが強くでて

結婚という形になるのかもしれないですね。

でも、次のご夫婦はかなり特殊でした!

 

カズレーザーさん&二階堂ふみさん

 

カズレーザーさんKIN217

「赤い地球」=絆を大事にし人の心に訴える説得力を持つ、またリズムと共鳴するためさまざまな踊りをやっている人が多い

「赤い月」=常に新しい流れを作ろうとする改革派で自分の役割・使命に生きようとする、ここ一番の勝負に強い紋章

「音9」はワクワクドキドキが原動力

 

二階堂ふみさんKIN46

「白い世界の橋渡し」=人と人とを結び繋ぐ役目、スケールが大きく活躍、どこか透明感がありスッキリとした印象が特徴、カリスマ

「黄色い太陽」=リーダーや経営者に向いている、幼少期から大人びている、ひとりの時間がとても大切

「音7」=鋭い五感と第六感を持つ

 

このご夫婦はなんと!

鏡の13日間の関係なのです!

鏡の13日間の関係とは過去世でも出逢っていた魂で、

今世でご夫婦になった場合は

過去世でやり残したことをやり遂げる為に結婚した、という

奇蹟の出会いを果たしたお二人なのです!!

すごいですよね!!

でも私が何よりも感動したのは

カズレーザーさんの紋章が太陽もウエブスペルも

「赤」の紋章

だったことです!

まるで自分のカラーがわかっているかのようですよね。

ちなみに「赤」と「白」は類似KINのような関係になるので

カズレーザーさんと二階堂さんも似た者同士な

お二人なのです。

 

今回はおめでたかったので勢いでマヤ暦鑑定してしまいましたが、やはり惹かれあう関係には理由があるんだなぁと

実感しました。

今後も勉強のためにちょいちょいみてみようと思います♪

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今回のマヤ暦は紅白出演で一気に名前が知れ渡った

アイドルグループ

M!LK

を観てみました~。

うちの娘もハマっており

佐野さんの風船チョコ爆発動画をみせられたり

「好きすぎて滅!」のフリを特訓されたりと

現在進行形で洗脳されております(笑)

そんなこんなで

関係性がおもしろそうだったので

観てみたら

すごっ!!!!!

 

でした、とにかく観てみましょう!

 

まず佐野勇斗さん

マヤ暦で使用されるKIN(キン)という番号でいうと

KIN24で太陽の紋章「黄色い種」

ウェブスペル「白い魔法使い」

銀河の音11です。

 

太陽の紋章は顕在意識

ウェブスペルは潜在意識

銀河の音は持って生まれた役割を現しています。

 

「黄色い種」=気づきを得ることで魂が磨かれていく、深みにはまる傾向にあるので研究者や学者に向いている

「白い魔法使い」=常にベストを尽くし人を魅了するセンス溢れる人物

「音11」=真逆の性質の紋章を持つため葛藤が多いが古き悪しきものを捨てさせる改革者、オンリーワン、エネルギーが高い

 

吉田仁人さんKIN136

「黄色い戦士」=困難に立ち向かい突破することで人生が開けるチャレンジャー

「青い猿」=サービス精神旺盛でユニーク、イメージ力が高い、年齢不詳

「音5」=自分の芯になるものが無いとぶれやすいが、目標が定まると倍以上の力を発揮する

 

塩﨑太智さんKIN146黒キン

「白い世界の橋渡し」=人と人とを結び繋ぐ役目、スケールが大きく活躍、どこか透明感がありスッキリとした印象が特徴、カリスマ

「黄色い種」=気づきを得ることで魂が磨かれていく、深みにはまる傾向にあるので研究者や学者に向いている

「音3」=仲介役・調整役、第三者として異なる視点から物事を見れる

 

山中柔太朗さんKIN94

「白い魔法使い」=常にベストを尽くし人を魅了するセンス溢れる人物

「黄色い人」=究める人、一芸に秀でる、人を感化させる力が強く多くの人々へ影響力を及ぼす紋章

「音3」=仲介役・調整役、第三者として異なる視点から物事を見れる

 

曽野舜太さんKIN225極性KIN

「赤い蛇」=自分の思いに正直、努力家、人見知り

「白い風」=メッセンジャー、感性豊かで音楽とともに生きることに向いている

「音4」=頑固な職人タイプ・スペシャリスト・本質を見抜く

 

塩﨑さんの黒KINというのは、宇宙の強いエネルギーが流れる日に生れた人で、強運の持ち主でありエネルギーが強い人です。

また曽野さんは極性KINといって、

このKINの人は1つの事をとにかく極める力があります。

 

個々のKINをざっと紹介してみましたが、

ここからは関係性についてご説明します。

マヤ暦には特別な関係性があります。

それは類似・反対・神秘・ガイドです。

類似KINは横並びの心地よい関係。いわゆる似た者同士ですね。

反対KINは背中合わせの関係。自分が見えないものを見せてくれる、互いに学び合う相手。

神秘KINは刺激的な惹かれ合う関係。

ガイドKINは人生の進む道を示してくれる相手です。

 

佐野さん

山中さんは反対KIN

曽根さんは鏡の向こうの13日間の関係

 

吉田さん

反対KINは塩﨑さん

神秘KINは曽野さん

 

塩﨑さん

吉田さんは反対KIN

 

山中さん

佐野さは反対KIN

塩﨑さんはウェブスペルで反対KIN
曽野さんは類似KIN

 

曽野さん

佐野さんは鏡の向こうの13日間の関係

山中さんは類似KIN

佐野さんはウェブスペルで類似KIN
吉田さんは神秘KIN
 

結構反対KINが多いですが

関係が上手くいっている時はお互いが学びの対象で

高め合っていく関係性になります。

上手くいかなくなると極端な例ですが

前回のマヤ暦記事でも書いた

オアシスのギャラガー兄弟みたくなってしまいます。

 

佐野さんと曽野さんの

「鏡の向こうの13日間の関係」というのは

過去世で縁があった関係です。

佐野さんと曽野さんは今世で何かを成し遂げるために

再び出逢った人達です。

M!LKをやる為に再び集まった、と考えると

すごいですよね!

 

次に宇宙の音の並びで見ていきましょう。

まず同じ音同士で共鳴し合う同調できる相手=同音関係

「音3」の塩﨑さん・山中さん

 

円滑なコミュニケーションや連係プレーができる関係=連携関係にあるのが

「音6」の吉田さんと「音4」の曽野さん

「音4」の曽野さんと「音3」の塩﨑さん・山中さん

 

一緒にいることで倍の力を発揮できる関係=倍音関係なのが

「音6」吉田さんと「音11」佐野さん

ビジネスに向いているリーダータイプな関係です

 

足して14になる関係を補完関係といい、

お互いの足りない部分を補い合える関係が

「音3」の塩﨑さん・山中さんと「音11」佐野さん

 

また協力して一つになることで大きな力を発揮する協和関係

佐野さん・塩﨑さん・山中さんです。

このチームは奉仕することを意識すると良いです

 

紋章の色もみてみましょう。

マヤ暦の紋章は「赤・白・青・黄」の4色があり、それぞれ意味があります。

メンバー中4人が持っている白色

精神性の高さやスピ能力を意味します。

純粋に技術を磨き自分を高めていく色です。

次に多い黄色は道を極めて一流になれる堅実さを持った色です。

メンバーのKINを観終わった時に

あれ?どこかのグループと似てるなと思ったら、

V6と持っている紋章の色と似ているんですよね。

各々が努力を惜しまないで前進を続ければ

確実に大きく活躍できる方達だと思います!

 

次に太陽チャクラで見てみると

佐野さん・山中さんは4チャクラで「広報」の役割

向いています。

吉田さん・塩﨑さんは1チャクラで「営業」の役割が、

曽野さんは0チャクラで「アイデア・企画・司令塔」の役割が向いています。

 

娘に聞いたのですが、曽野さんは自ら

「裏のリーダー」と言っているとか。

魂レベルで解ってていっているのかもしれませんね。

 

でもって今年、2026年はどうなのでしょうか?

まずグループのKINを観てみましょう。

M!LKは2014年11月24日結成とのことなので、

この日で観てみましょう。

 

M!LK

「白い犬」=家族と思っている人への意識と思いが大変強く、そのための犠牲は喜んで引き受ける

「白い鏡」=ビジネスの世界では最も成功者の多い紋章、約束を守らない・有言実行していないという事を特に嫌う

「音13」=仕上げ役・まとめ役、すべてを根本から変容させる力を持つ、多才で器用、集大成という視点で物事をみることができる

 

実は今年はグループの太陽の紋章「白い犬」の年なのですよ!

ウェブスペルが「青い嵐」で銀河の音は12で、

ガイドは「白い風」です。

自分と同じ紋章の年は追い風に乗っている年で、

力を発揮しやすくなります。

また「音12」は再構築、調和、安定、献身をあらわします。

そして曽野さんはガイドの紋章を持っています。

グループのガイドとして曽野さんが

力を発揮する年になるのかもしれません。

 

個々のメンバーを観ていくと

佐野さんが今年音13の廻りで最後の音の年になります。

仕上げの音なのでこれまで成長してきた経験を基に

次の年への準備をしたり、

最終的な完成を遂げたりする年になります。

予期せぬ変化やギフトがあったりも。

吉田さんと曽野さんも持っている紋章と同じ廻りの年なので追い風に乗っている年です。自分の能力を発揮しやすいので活動的に過ごすといい年になります。

そして塩﨑さんは今年で26才

自分の持っている紋章とは反対の紋章の年になるんですが、

大きな学びや出会いがある節目の年になります。

試練があったとしても前向きにトライしてほしいと思います。

 

さて、この後は脱退したメンバーの方達を

観てみようと思います。

NGな方はここまでで閉じてください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

脱退されたメンバーの方達も観てみました。

 

山﨑悠稀さんKIN198

「白い鏡」=ビジネスの世界では最も成功者の多い紋章、約束を守らない・有言実行していないという事を特に嫌う

「黄色い戦士」=困難に立ち向かい突破することで人生が開けるチャレンジャー

「音3」=仲介役・調整役、第三者として異なる視点から物事を見れる

 

板垣瑞生さんKIN190

「白い犬」=家族と思っている人への意識と思いが大変強く、そのための犠牲は喜んで引き受ける

「青い夜」=マイペースでプライベートは見せない、目的志向が強い、自分が夢を追うのと同時に夢と希望と勇気を与える人

「音8」=バランスや調和を重んじる

 

板垣さんは絶対拡張KINで、物事を広める力を持っていて、

周囲の人の能力を成長させてくれる存在です。

 

宮世琉弥さんKIN74

「白い魔法使い」=常にベストを尽くし人を魅了するセンス溢れる人物

「白い世界の橋渡し」=人と人とを結び繋ぐ役目、スケールが大きく活躍、どこか透明感がありスッキリとした印象が特徴、カリスマ

「音9」はワクワクドキドキが原動力

 

元メンバーの3人は現メンバーと同時期に

在籍していない方もいるので、そのあたり気をつけて

観てみました。

まず山﨑さん。

佐野さんは補完関係、自分にない部分を補ってくれます

同時に協和関係でもあり、奉仕することを意識すると良いです

吉田さんは同じ紋章を持つ似た者同士

塩﨑さんは倍音関係で主導もサポートもできるハイブリッドタイプで、佐野さんと同じ協和関係でもあります

板垣さんはウェブスペルで神秘kinで、

倍音関係で塩﨑さんと同じです

 

次に板垣さん。

吉田さんはウェブスペルで神秘KINで補完関係

塩﨑さんは倍音関係で主導もサポートもできる

ハイブリッドタイプ

山中さんはガイドKINで、倍音関係

曽野さんは協和関係で心が通じ合うことで結束します

山﨑さんは塩﨑さんと一緒で音のグループが同じ

宮世さんはガイドKIN

 

最後に宮世さん。

佐野さんは反対KINで、同じ紋章を持つ似た者同士

塩﨑さんはウェブスペルで反対KINで、

同じ紋章を持つ似た者同士

曽野さんは類似KINで倍音関係で、

極める力が倍増するスペシャリストタイプ

板垣さんはガイドKIN

 

板垣さんと宮世さんはお互いがお互いのガイドKINでした

しかも板垣さんには同時期に山中さんと宮世さんの

二人のガイドKINが傍にいたことになります。

自分が前向きな時だったらどんどん視野を広げていける

絶好の機会ですが、逆だった場合、

かなりキツイ状況かもしれません。

しかも板垣さんと宮世さんは鏡の向こうの13日間の関係で過去世で縁のあった魂でした。

また板垣さんの紋章は「白い犬」です。

グループで「白い犬」はめっちゃグループを

守ろうと踏ん張ります。

それも自分を犠牲にしてまでです。

私が知っている「白い犬」の人は

三宅健ちゃん、錦戸亮くん、重岡大毅くんです。

ファンの人ならわかりますよね、

グループを守る「白い犬」の使命が彼らに発動していたことを。

板垣さんの場合M!LKというグループの紋章も

「白い犬」だったこともあって、

グループの紋章の分も使命を背負わされてしまったのかも。

おそらくいろいろありすぎて疲れてしまっての

脱退だったのかもしれませんね。

 

脱退したメンバーも含めて白い紋章を持つ方が

本当に多い精神性の高いグループだなー!と。

今年はグループの紋章と同じ紋章の一年ですから

ますます飛躍していく年になるんだと思います。

私も現在進行形で娘に「好きすぎて滅!」のフリを

練習させられているのですが

サビができるようにがんばります(笑)

 

最後に板垣さんのご冥福をお祈りいたします。

 

 

 

緊急のお知らせです!

今年、丙午の年にだけ行われる

60年に一度の大祭が3月に行われます!!!!!

それがコチラ!

 

 

松﨑神社

多古町東松崎字稲荷山1747

 

丙午の今年、60年に一度の神幸祭が開催され、

東松崎から海(九十九里浜)までお神輿が渡御するという、

お浜下り神事があります!

WEB記事によると前回は昭和41年に開催された

そうなのですが、それから60年。

開催するにあたり資料が散逸していて

神事の手順などの準備が大変だったそうです。

 

 

 

 

それでも伝統ある神事を続けようと

氏子さん達、地域の方、行政の方もみなさん

とても尽力されての開催だと思います。

この機会を逃さずに、是非みなさん

神幸祭に足を運ばれてください。

開催日は

3月8日(日)です。

よろしくお願いします。

過去に何度か60年に一度の大祭を見逃して

悔しくて転げまわった経験のある管理人からの

ご連絡でした(笑)

 

ということで、取材もしてきました。

 

街並みの中に急にあらわれる鳥居

手水舎

境内が広かったです

そして大きな木が何本もあって圧巻でした

すごい大木だ~と思っていたら

由緒のある木でした

空海さんが逆さまに植えたイチョウだそうです

そしてドーンと拝殿

昔は坂東稲荷宮と呼ばれていました

御本殿を左から

男千木です 神紋は左三つ巴

うしろから

右から

 

松崎神社は「千葉県神社明細帳」によると御祭神は

宇迦之御魂命・邇々藝命・大宮比咩命で由緒は

社伝曰く光仁天皇之御宇宝亀3壬子年2月9日勧請 其の後建久2辛亥年社殿新に造営 旧号坂東稲荷本宮 明治2巳年12月3日松崎大神と改号 元社領朱印30石 明治6年8月元新治県に於て郷社に列す
大正6年10月白兎神社(未定)を合祀


「千葉県神社名鑑」によると

旧号坂東稲荷本宮。紀元1430年宝亀以前の由緒については詳らかでないが、石宮を祀ったといわれる。第49代光仁帝宝亀3壬子年に社殿を造営。東箱根以東稲荷宮として由緒あり、第50代桓武帝の平安初期、東国蝦夷平定の命で坂上田村麻呂が鏡面・征矢を奉献後、1688年平忠常の反乱で源頼信平定の時兵火に遭い社殿を焼失、その後朱雀帝長暦2年社殿復元、建久以後源頼朝が社田奉献、源実朝社殿修復、北条、里見ら武将の尊崇篤く、徳川家康は朱印地30石を寄進されるなど代々寄進状を下賜された。神職が4年ごとに登城し玉串を献じた。

当社は宝亀3年(772)に御鎮座されたとありますが、
じつは多古町デジタルアーカイブに記載されている
13代宮司の方が残された記録に興味深い事が
書かれています。
 
当社ハ神武帝之十八年鹿島神社香取神社(目下神宮ノ称アリ)ト同時、東国土蕃之穴居代神ト称シ蠢愚蒙昧ナル人種之石宮ヲ建テ奉斉セシヨリ、漸次開国ニ従ヒ蒼生神徳ヲ称ヒ純然タル一社ヲ為シ、紀元五百六十四年崇神帝之代宇迦魂之社ト号シ、日本武尊東征之砌木更津ヨリ新治ニ至ル間交通便利タリシヲ見テモ既ニ開化ノ域ニ進ミシヲ知ルベシ、延エテ歴代之久シキ当社古文書缼残シ、紀元一千四百三十年(七七〇)乃チ宝亀元年以前ハ悠遠知ラントスルモ能ハズ、已ムヲ得ズ宝亀以后口碑ニ伝ハリシト残本ニ依リ社伝ヲ編セリ見ル人諒セヨ

これは口伝として宮司さんに代々伝わっていた
事柄なのだと思います。

ちなみに

「東国土蕃之穴居代神ト称シ蠢愚蒙昧ナル人種之石宮ヲ建テ」

の意味は

「東国の土着の蛮人は穴居代神と称し、無知で愚かなる人種は石宮を建て」

となります。

この「穴居代神」とはサンカの人々が元祖としていた

穴居脱神」と一文字しか違わないので

同じ神ではないかと思います。

穴居脱神は「アナイヌケノカミ」と読み、

穴居をやめて地上に住んだ国津神のことを指すそうです。

サンカは元は縄文人だったといわれています。

言葉のチョイスはひどいかもしれませんが

この記録が書かれたのは明治時代なので

廃仏毀釈とかいろいろあった時代ですから、

蝦夷とかまつろわぬ民のこととか

本来は書き残せないと思います。

でもあえてこの一文を入れた宮司さんの

心意気ですよ!

真の歴史を残し、縄文時代という本当に古来から

神を崇めてきた聖地だったことを誇り、

後世に伝えたかったのでしょう。

 

そして縄文時代からの聖地である当神社には

境内に古墳があるのです!

その名も

北条塚古墳!

 

 

看板の後ろが古墳です

古墳らしい傾斜です

古墳の前方部にある祠

古墳に眠る方のためのものなのかな?

のぼっていける階段もあります

 

境内看板より

「北条塚古墳」

北条塚古墳は、松崎神社の境内裏手杉林の中に残されている通称「北条塚」と呼ばれる大型古墳である。

東西方向に軸をもつ前方後円墳で、西側が前方部である。全長約70メートル、高さは前方部6.5メートル、後円部7メートル、前方部には祠があり、本来は同じ高さであったと推測される。後円部と前方部の幅は、38メートルとはほぼ等しく、均整のとれた形をしている。古墳の形と採集された埴輪片の特徴から、造られた年代は古墳時代後期の6世紀中葉から後葉と推測される。

古墳は豪族の墳墓であり、この北条塚古墳に埋葬されている者は、およそ1400年前にこの地方を治めていた有力者と考えられる。本古墳は未調査のため、具体的事実は不詳であるが、当時の姿を今に伝える貴重な歴史遺産である。

弥生時代が終わり、3世紀半ばを過ぎると、奈良盆地に王墓と考えられる長大な前方後円墳が出現する。その後、各地の豪族の間でも盛んに古墳が造られるようになり、7世紀末頃を境に、仏教の普及とともに造られなくなる。

この古墳の造られた時代を古墳時代と言い、一般に、前期(3世紀半ば~4世紀)中期(5世紀)後期(6世紀)終末期(7世紀)と区分される。

平成22年3月 多古町教育委員会

 

海匝地区には境内に古墳がある神社多く鎮座しています。

学術調査を是非していただきたいんですけどね~。

当地域には古代菟上国王家がありましたし、

すんごい気になっているんですよね。

一日も早く調査が行われることを願います。

 

さて、最後に境内の石碑や境内社など。

 

坂上田村麻呂が奉納した木鼓だそうです

すごい!

看板の後ろにあった板のような石

もしかして古墳から出土したもの?

それとも石碑の割れたもの?

周辺の観光案内板

松崎重椎先生頌徳碑

不明碑

不明碑

安産神社とも子安神社とも浅間神社とも

御祭神は木花開耶姫です

白髭神社

左は昭和41年の神幸祭紀念碑

右は宮司平野翁碑

不明な石祠

松崎稲荷社

伊勢神宮四国関西巡拝記念

境内には社務所などあります

すべり台もあります

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

さて、ここからはスピ的なお話です。

オッケーですか?

いってみよう!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

グーグルマップの写真をスピ友に見てもらった時から

御祭神は男神さまだといわれていました。

実際いったら本殿は男千木だったので

あ、やっぱり違う人が祀られてるんだーと思って

スピ友に確認したら

 

「でも女神さまもいる」

 

とのこと。

古墳の前あたりでそんな話をしながら

古墳の方に階段でのぼる?と聞くと

 

「うーん、なんか畏れ多い」

 

とのこと。

珍しい事言うなぁと思いつつ

本殿の右側に移動しながら私が

「じゃあ男神さまって古墳の方なの?」と

聞いた、その時です。

その日は元々風の強い日だったのですが

びゅううううううう

と強風が吹き始めたのです

 

私はあれ?と思いつつもスピ友にさらに聞こうとしたら

「ちょっと、その話は今はやめよう」

とストップをされました。

 

帰り道に聞いたらすんごい圧を感じていたとのこと。

あの強風についても

「古墳の方から吹いてたでしょ、焦ったよ」

といっていて

「はじめて畏怖を感じた、怖かった」

と。

 

ストップされてからバラバラに境内にいたのですが

拝殿脇で建物を見ていたスピ友の視界の端に

白い影が入ったそうです。

え?と思って振り返るも

誰もいない・・・

 

「背後を取られたから焦った」

 

とのこと。

車に乗り込んでからもしばらく古墳の方を

振り返ってみていて非常に気にしていました。

スピ友曰く、

古墳の方はもう人ではなく神格化されているそうです。

そしてとんでもなくお力が強い方だそうです。

 

たぶん、我々がきちんとご挨拶をせず、

(古墳の前にある祠がお祀りしていると知らず

手をあわせていなかった!)

正体を詮索する様な事を言い出したので

 

無礼者め!

 

と思われたんだ。

でもその後も一人で取材を続けていたのですが

境内の雰囲気はとっても気持ちよかったので(鈍感)

次にお伺いする時には、いいお酒を持って

謝罪にいこうと思います。