未知の駅 總フサ

未知の駅 總フサ

千葉県=東国は蘇我氏に縁の地であったという痕跡を探し、伝承・神社・古墳など諸々を調べています。

百嶋神社考古学にご興味を持たれた方はブックマークの「新ひぼろぎ逍遥」さんを訪ねてみてください。

今回のマヤ暦は紅白出演で一気に名前が知れ渡った

アイドルグループ

M!LK

を観てみました~。

うちの娘もハマっており

佐野さんの風船チョコ爆発動画をみせられたり

「好きすぎて滅!」のフリを特訓されたりと

現在進行形で洗脳されております(笑)

そんなこんなで

関係性がおもしろそうだったので

観てみたら

すごっ!!!!!

 

でした、とにかく観てみましょう!

 

まず佐野勇斗さん

マヤ暦で使用されるKIN(キン)という番号でいうと

KIN24で太陽の紋章「黄色い種」

ウェブスペル「白い魔法使い」

銀河の音11です。

 

太陽の紋章は顕在意識

ウェブスペルは潜在意識

銀河の音は持って生まれた役割を現しています。

 

「黄色い種」=気づきを得ることで魂が磨かれていく、深みにはまる傾向にあるので研究者や学者に向いている

「白い魔法使い」=常にベストを尽くし人を魅了するセンス溢れる人物

「音11」=真逆の性質の紋章を持つため葛藤が多いが古き悪しきものを捨てさせる改革者、オンリーワン、エネルギーが高い

 

吉田仁人さんKIN136

「黄色い戦士」=困難に立ち向かい突破することで人生が開けるチャレンジャー

「青い猿」=サービス精神旺盛でユニーク、イメージ力が高い、年齢不詳

「音5」=自分の芯になるものが無いとぶれやすいが、目標が定まると倍以上の力を発揮する

 

塩﨑太智さんKIN146黒キン

「白い世界の橋渡し」=人と人とを結び繋ぐ役目、スケールが大きく活躍、どこか透明感がありスッキリとした印象が特徴、カリスマ

「黄色い種」=気づきを得ることで魂が磨かれていく、深みにはまる傾向にあるので研究者や学者に向いている

「音3」=仲介役・調整役、第三者として異なる視点から物事を見れる

 

山中柔太朗さんKIN94

「白い魔法使い」=常にベストを尽くし人を魅了するセンス溢れる人物

「黄色い人」=究める人、一芸に秀でる、人を感化させる力が強く多くの人々へ影響力を及ぼす紋章

「音3」=仲介役・調整役、第三者として異なる視点から物事を見れる

 

曽野舜太さんKIN225極性KIN

「赤い蛇」=自分の思いに正直、努力家、人見知り

「白い風」=メッセンジャー、感性豊かで音楽とともに生きることに向いている

「音4」=頑固な職人タイプ・スペシャリスト・本質を見抜く

 

塩﨑さんの黒KINというのは、宇宙の強いエネルギーが流れる日に生れた人で、強運の持ち主でありエネルギーが強い人です。

また曽野さんは極性KINといって、

このKINの人は1つの事をとにかく極める力があります。

 

個々のKINをざっと紹介してみましたが、

ここからは関係性についてご説明します。

マヤ暦には特別な関係性があります。

それは類似・反対・神秘・ガイドです。

類似KINは横並びの心地よい関係。いわゆる似た者同士ですね。

反対KINは背中合わせの関係。自分が見えないものを見せてくれる、互いに学び合う相手。

神秘KINは刺激的な惹かれ合う関係。

ガイドKINは人生の進む道を示してくれる相手です。

 

佐野さん

山中さんは反対KIN

曽根さんは鏡の向こうの13日間の関係

 

吉田さん

反対KINは塩﨑さん

神秘KINは曽野さん

 

塩﨑さん

吉田さんは反対KIN

 

山中さん

佐野さは反対KIN

塩﨑さんはウェブスペルで反対KIN
曽野さんは類似KIN

 

曽野さん

佐野さんは鏡の向こうの13日間の関係

山中さんは類似KIN

佐野さんはウェブスペルで類似KIN
吉田さんは神秘KIN
 

結構反対KINが多いですが

関係が上手くいっている時はお互いが学びの対象で

高め合っていく関係性になります。

上手くいかなくなると極端な例ですが

前回のマヤ暦記事でも書いた

オアシスのギャラガー兄弟みたくなってしまいます。

 

佐野さんと曽野さんの

「鏡の向こうの13日間の関係」というのは

過去世で縁があった関係です。

佐野さんと曽野さんは今世で何かを成し遂げるために

再び出逢った人達です。

M!LKをやる為に再び集まった、と考えると

すごいですよね!

 

次に宇宙の音の並びで見ていきましょう。

まず同じ音同士で共鳴し合う同調できる相手=同音関係

「音3」の塩﨑さん・山中さん

 

円滑なコミュニケーションや連係プレーができる関係=連携関係にあるのが

「音6」の吉田さんと「音4」の曽野さん

「音4」の曽野さんと「音3」の塩﨑さん・山中さん

 

一緒にいることで倍の力を発揮できる関係=倍音関係なのが

「音6」吉田さんと「音11」佐野さん

ビジネスに向いているリーダータイプな関係です

 

足して14になる関係を補完関係といい、

お互いの足りない部分を補い合える関係が

「音3」の塩﨑さん・山中さんと「音11」佐野さん

 

また協力して一つになることで大きな力を発揮する協和関係

佐野さん・塩﨑さん・山中さんです。

このチームは奉仕することを意識すると良いです

 

紋章の色もみてみましょう。

マヤ暦の紋章は「赤・白・青・黄」の4色があり、それぞれ意味があります。

メンバー中4人が持っている白色

精神性の高さやスピ能力を意味します。

純粋に技術を磨き自分を高めていく色です。

次に多い黄色は道を極めて一流になれる堅実さを持った色です。

メンバーのKINを観終わった時に

あれ?どこかのグループと似てるなと思ったら、

V6と持っている紋章の色と似ているんですよね。

各々が努力を惜しまないで前進を続ければ

確実に大きく活躍できる方達だと思います!

 

次に太陽チャクラで見てみると

佐野さん・山中さんは4チャクラで「広報」の役割

向いています。

吉田さん・塩﨑さんは1チャクラで「営業」の役割が、

曽野さんは0チャクラで「アイデア・企画・司令塔」の役割が向いています。

 

娘に聞いたのですが、曽野さんは自ら

「裏のリーダー」と言っているとか。

魂レベルで解ってていっているのかもしれませんね。

 

でもって今年、2026年はどうなのでしょうか?

まずグループのKINを観てみましょう。

M!LKは2014年11月24日結成とのことなので、

この日で観てみましょう。

 

M!LK

「白い犬」=家族と思っている人への意識と思いが大変強く、そのための犠牲は喜んで引き受ける

「白い鏡」=ビジネスの世界では最も成功者の多い紋章、約束を守らない・有言実行していないという事を特に嫌う

「音13」=仕上げ役・まとめ役、すべてを根本から変容させる力を持つ、多才で器用、集大成という視点で物事をみることができる

 

実は今年はグループの太陽の紋章「白い犬」の年なのですよ!

ウェブスペルが「青い嵐」で銀河の音は12で、

ガイドは「白い風」です。

自分と同じ紋章の年は追い風に乗っている年で、

力を発揮しやすくなります。

また「音12」は再構築、調和、安定、献身をあらわします。

そして曽野さんはガイドの紋章を持っています。

グループのガイドとして曽野さんが

力を発揮する年になるのかもしれません。

 

個々のメンバーを観ていくと

佐野さんが今年音13の廻りで最後の音の年になります。

仕上げの音なのでこれまで成長してきた経験を基に

次の年への準備をしたり、

最終的な完成を遂げたりする年になります。

予期せぬ変化やギフトがあったりも。

吉田さんと曽野さんも持っている紋章と同じ廻りの年なので追い風に乗っている年です。自分の能力を発揮しやすいので活動的に過ごすといい年になります。

そして塩﨑さんは今年で26才

自分の持っている紋章とは反対の紋章の年になるんですが、

大きな学びや出会いがある節目の年になります。

試練があったとしても前向きにトライしてほしいと思います。

 

さて、この後は脱退したメンバーの方達を

観てみようと思います。

NGな方はここまでで閉じてください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

脱退されたメンバーの方達も観てみました。

 

山﨑悠稀さんKIN198

「白い鏡」=ビジネスの世界では最も成功者の多い紋章、約束を守らない・有言実行していないという事を特に嫌う

「黄色い戦士」=困難に立ち向かい突破することで人生が開けるチャレンジャー

「音3」=仲介役・調整役、第三者として異なる視点から物事を見れる

 

板垣瑞生さんKIN190

「白い犬」=家族と思っている人への意識と思いが大変強く、そのための犠牲は喜んで引き受ける

「青い夜」=マイペースでプライベートは見せない、目的志向が強い、自分が夢を追うのと同時に夢と希望と勇気を与える人

「音8」=バランスや調和を重んじる

 

板垣さんは絶対拡張KINで、物事を広める力を持っていて、

周囲の人の能力を成長させてくれる存在です。

 

宮世琉弥さんKIN74

「白い魔法使い」=常にベストを尽くし人を魅了するセンス溢れる人物

「白い世界の橋渡し」=人と人とを結び繋ぐ役目、スケールが大きく活躍、どこか透明感がありスッキリとした印象が特徴、カリスマ

「音9」はワクワクドキドキが原動力

 

元メンバーの3人は現メンバーと同時期に

在籍していない方もいるので、そのあたり気をつけて

観てみました。

まず山﨑さん。

佐野さんは補完関係、自分にない部分を補ってくれます

同時に協和関係でもあり、奉仕することを意識すると良いです

吉田さんは同じ紋章を持つ似た者同士

塩﨑さんは倍音関係で主導もサポートもできるハイブリッドタイプで、佐野さんと同じ協和関係でもあります

板垣さんはウェブスペルで神秘kinで、

倍音関係で塩﨑さんと同じです

 

次に板垣さん。

吉田さんはウェブスペルで神秘KINで補完関係

塩﨑さんは倍音関係で主導もサポートもできる

ハイブリッドタイプ

山中さんはガイドKINで、倍音関係

曽野さんは協和関係で心が通じ合うことで結束します

山﨑さんは塩﨑さんと一緒で音のグループが同じ

宮世さんはガイドKIN

 

最後に宮世さん。

佐野さんは反対KINで、同じ紋章を持つ似た者同士

塩﨑さんはウェブスペルで反対KINで、

同じ紋章を持つ似た者同士

曽野さんは類似KINで倍音関係で、

極める力が倍増するスペシャリストタイプ

板垣さんはガイドKIN

 

板垣さんと宮世さんはお互いがお互いのガイドKINでした

しかも板垣さんには同時期に山中さんと宮世さんの

二人のガイドKINが傍にいたことになります。

自分が前向きな時だったらどんどん視野を広げていける

絶好の機会ですが、逆だった場合、

かなりキツイ状況かもしれません。

しかも板垣さんと宮世さんは鏡の向こうの13日間の関係で過去世で縁のあった魂でした。

また板垣さんの紋章は「白い犬」です。

グループで「白い犬」はめっちゃグループを

守ろうと踏ん張ります。

それも自分を犠牲にしてまでです。

私が知っている「白い犬」の人は

三宅健ちゃん、錦戸亮くん、重岡大毅くんです。

ファンの人ならわかりますよね、

グループを守る「白い犬」の使命が彼らに発動していたことを。

板垣さんの場合M!LKというグループの紋章も

「白い犬」だったこともあって、

グループの紋章の分も使命を背負わされてしまったのかも。

おそらくいろいろありすぎて疲れてしまっての

脱退だったのかもしれませんね。

 

脱退したメンバーも含めて白い紋章を持つ方が

本当に多い精神性の高いグループだなー!と。

今年はグループの紋章と同じ紋章の一年ですから

ますます飛躍していく年になるんだと思います。

私も現在進行形で娘に「好きすぎて滅!」のフリを

練習させられているのですが

サビができるようにがんばります(笑)

 

最後に板垣さんのご冥福をお祈りいたします。

 

 

 

緊急のお知らせです!

今年、丙午の年にだけ行われる

60年に一度の大祭が3月に行われます!!!!!

それがコチラ!

 

 

松﨑神社

多古町東松崎字稲荷山1747

 

丙午の今年、60年に一度の神幸祭が開催され、

東松崎から海(九十九里浜)までお神輿が渡御するという、

お浜下り神事があります!

WEB記事によると前回は昭和41年に開催された

そうなのですが、それから60年。

開催するにあたり資料が散逸していて

神事の手順などの準備が大変だったそうです。

 

 

 

 

それでも伝統ある神事を続けようと

氏子さん達、地域の方、行政の方もみなさん

とても尽力されての開催だと思います。

この機会を逃さずに、是非みなさん

神幸祭に足を運ばれてください。

開催日は

3月8日(日)です。

よろしくお願いします。

過去に何度か60年に一度の大祭を見逃して

悔しくて転げまわった経験のある管理人からの

ご連絡でした(笑)

 

ということで、取材もしてきました。

 

街並みの中に急にあらわれる鳥居

手水舎

境内が広かったです

そして大きな木が何本もあって圧巻でした

すごい大木だ~と思っていたら

由緒のある木でした

空海さんが逆さまに植えたイチョウだそうです

そしてドーンと拝殿

昔は坂東稲荷宮と呼ばれていました

御本殿を左から

男千木です 神紋は左三つ巴

うしろから

右から

 

松崎神社は「千葉県神社明細帳」によると御祭神は

宇迦之御魂命・邇々藝命・大宮比咩命で由緒は

社伝曰く光仁天皇之御宇宝亀3壬子年2月9日勧請 其の後建久2辛亥年社殿新に造営 旧号坂東稲荷本宮 明治2巳年12月3日松崎大神と改号 元社領朱印30石 明治6年8月元新治県に於て郷社に列す
大正6年10月白兎神社(未定)を合祀


「千葉県神社名鑑」によると

旧号坂東稲荷本宮。紀元1430年宝亀以前の由緒については詳らかでないが、石宮を祀ったといわれる。第49代光仁帝宝亀3壬子年に社殿を造営。東箱根以東稲荷宮として由緒あり、第50代桓武帝の平安初期、東国蝦夷平定の命で坂上田村麻呂が鏡面・征矢を奉献後、1688年平忠常の反乱で源頼信平定の時兵火に遭い社殿を焼失、その後朱雀帝長暦2年社殿復元、建久以後源頼朝が社田奉献、源実朝社殿修復、北条、里見ら武将の尊崇篤く、徳川家康は朱印地30石を寄進されるなど代々寄進状を下賜された。神職が4年ごとに登城し玉串を献じた。

当社は宝亀3年(772)に御鎮座されたとありますが、
じつは多古町デジタルアーカイブに記載されている
13代宮司の方が残された記録に興味深い事が
書かれています。
 
当社ハ神武帝之十八年鹿島神社香取神社(目下神宮ノ称アリ)ト同時、東国土蕃之穴居代神ト称シ蠢愚蒙昧ナル人種之石宮ヲ建テ奉斉セシヨリ、漸次開国ニ従ヒ蒼生神徳ヲ称ヒ純然タル一社ヲ為シ、紀元五百六十四年崇神帝之代宇迦魂之社ト号シ、日本武尊東征之砌木更津ヨリ新治ニ至ル間交通便利タリシヲ見テモ既ニ開化ノ域ニ進ミシヲ知ルベシ、延エテ歴代之久シキ当社古文書缼残シ、紀元一千四百三十年(七七〇)乃チ宝亀元年以前ハ悠遠知ラントスルモ能ハズ、已ムヲ得ズ宝亀以后口碑ニ伝ハリシト残本ニ依リ社伝ヲ編セリ見ル人諒セヨ

これは口伝として宮司さんに代々伝わっていた
事柄なのだと思います。

ちなみに

「東国土蕃之穴居代神ト称シ蠢愚蒙昧ナル人種之石宮ヲ建テ」

の意味は

「東国の土着の蛮人は穴居代神と称し、無知で愚かなる人種は石宮を建て」

となります。

この「穴居代神」とはサンカの人々が元祖としていた

穴居脱神」と一文字しか違わないので

同じ神ではないかと思います。

穴居脱神は「アナイヌケノカミ」と読み、

穴居をやめて地上に住んだ国津神のことを指すそうです。

サンカは元は縄文人だったといわれています。

言葉のチョイスはひどいかもしれませんが

この記録が書かれたのは明治時代なので

廃仏毀釈とかいろいろあった時代ですから、

蝦夷とかまつろわぬ民のこととか

本来は書き残せないと思います。

でもあえてこの一文を入れた宮司さんの

心意気ですよ!

真の歴史を残し、縄文時代という本当に古来から

神を崇めてきた聖地だったことを誇り、

後世に伝えたかったのでしょう。

 

そして縄文時代からの聖地である当神社には

境内に古墳があるのです!

その名も

北条塚古墳!

 

 

看板の後ろが古墳です

古墳らしい傾斜です

古墳の前方部にある祠

古墳に眠る方のためのものなのかな?

のぼっていける階段もあります

 

境内看板より

「北条塚古墳」

北条塚古墳は、松崎神社の境内裏手杉林の中に残されている通称「北条塚」と呼ばれる大型古墳である。

東西方向に軸をもつ前方後円墳で、西側が前方部である。全長約70メートル、高さは前方部6.5メートル、後円部7メートル、前方部には祠があり、本来は同じ高さであったと推測される。後円部と前方部の幅は、38メートルとはほぼ等しく、均整のとれた形をしている。古墳の形と採集された埴輪片の特徴から、造られた年代は古墳時代後期の6世紀中葉から後葉と推測される。

古墳は豪族の墳墓であり、この北条塚古墳に埋葬されている者は、およそ1400年前にこの地方を治めていた有力者と考えられる。本古墳は未調査のため、具体的事実は不詳であるが、当時の姿を今に伝える貴重な歴史遺産である。

弥生時代が終わり、3世紀半ばを過ぎると、奈良盆地に王墓と考えられる長大な前方後円墳が出現する。その後、各地の豪族の間でも盛んに古墳が造られるようになり、7世紀末頃を境に、仏教の普及とともに造られなくなる。

この古墳の造られた時代を古墳時代と言い、一般に、前期(3世紀半ば~4世紀)中期(5世紀)後期(6世紀)終末期(7世紀)と区分される。

平成22年3月 多古町教育委員会

 

海匝地区には境内に古墳がある神社多く鎮座しています。

学術調査を是非していただきたいんですけどね~。

当地域には古代菟上国王家がありましたし、

すんごい気になっているんですよね。

一日も早く調査が行われることを願います。

 

さて、最後に境内の石碑や境内社など。

 

坂上田村麻呂が奉納した木鼓だそうです

すごい!

看板の後ろにあった板のような石

もしかして古墳から出土したもの?

それとも石碑の割れたもの?

周辺の観光案内板

松崎重椎先生頌徳碑

不明碑

不明碑

安産神社とも子安神社とも浅間神社とも

御祭神は木花開耶姫です

白髭神社

左は昭和41年の神幸祭紀念碑

右は宮司平野翁碑

不明な石祠

松崎稲荷社

伊勢神宮四国関西巡拝記念

境内には社務所などあります

すべり台もあります

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

さて、ここからはスピ的なお話です。

オッケーですか?

いってみよう!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

グーグルマップの写真をスピ友に見てもらった時から

御祭神は男神さまだといわれていました。

実際いったら本殿は男千木だったので

あ、やっぱり違う人が祀られてるんだーと思って

スピ友に確認したら

 

「でも女神さまもいる」

 

とのこと。

古墳の前あたりでそんな話をしながら

古墳の方に階段でのぼる?と聞くと

 

「うーん、なんか畏れ多い」

 

とのこと。

珍しい事言うなぁと思いつつ

本殿の右側に移動しながら私が

「じゃあ男神さまって古墳の方なの?」と

聞いた、その時です。

その日は元々風の強い日だったのですが

びゅううううううう

と強風が吹き始めたのです

 

私はあれ?と思いつつもスピ友にさらに聞こうとしたら

「ちょっと、その話は今はやめよう」

とストップをされました。

 

帰り道に聞いたらすんごい圧を感じていたとのこと。

あの強風についても

「古墳の方から吹いてたでしょ、焦ったよ」

といっていて

「はじめて畏怖を感じた、怖かった」

と。

 

ストップされてからバラバラに境内にいたのですが

拝殿脇で建物を見ていたスピ友の視界の端に

白い影が入ったそうです。

え?と思って振り返るも

誰もいない・・・

 

「背後を取られたから焦った」

 

とのこと。

車に乗り込んでからもしばらく古墳の方を

振り返ってみていて非常に気にしていました。

スピ友曰く、

古墳の方はもう人ではなく神格化されているそうです。

そしてとんでもなくお力が強い方だそうです。

 

たぶん、我々がきちんとご挨拶をせず、

(古墳の前にある祠がお祀りしていると知らず

手をあわせていなかった!)

正体を詮索する様な事を言い出したので

 

無礼者め!

 

と思われたんだ。

でもその後も一人で取材を続けていたのですが

境内の雰囲気はとっても気持ちよかったので(鈍感)

次にお伺いする時には、いいお酒を持って

謝罪にいこうと思います。

 

 

 

あけましておめでとうございます!

新年二日目から謎の胃腸痛に苦しんでいたミツネです!

産土様の登渡神社に行ってお神酒をいただいたら

治りました°˖✧◝(⁰▿⁰)◜✧˖°

やはり消毒が足りなかった(笑)

 

2026年、令和8年になりましたね~。

昨年は宇宙がおもしろくていろんな記事を見ては

ワクワクしておりました。

宇宙も大きな出来事が多かったですが、

日本では遺跡からの大発見がいろいろありましたね!

個人的には昨年DNA検査をしてみました~。

それもすんごく驚くことがあったので、

そのうち記事にいたしますね。

 

さてさて、新年一発目は、

あの子身代わりの皇子についての考察です!!

 

以前記事にしましたコチラの続きですね

↓ ↓ ↓

スビ的な雑談 産土神社の神様から聞いたウワサ話

 

登渡神社の神様からお聞きした

「香取の身代りになった皇子」について、

ウラが取れたので(?)調査報告を

させていただきたいと思います。

 

隠された皇子の存在を知ってから気になっていたのが

下総にある2つの神社です。

一つは東庄町にある東大社

もう一つが香取市返田にある返田神社

両神社とも、なぜか「王子」がつく呼び名が

付けられているのですが、

明確な理由は伝わっていません。

 

まず、東大社は康和4年(1102)にこの地方に地震が起きたのを

鎮める為に臨時祭を堀河天皇に命じられ、神輿を海まで渡御、

すると海中から霊玉を得たので、「玉子大明神」の号を賜わったといいます。

 

そう、堀河天皇は

玉子大明神

と名づけているんですよ。

なんで玉子?と思いますよね。

これはおそらく海で霊玉=宝珠を得たことに因んで

「玉」を使用したのだと思います。

でもここで一つひっかかるのが、「玉子」にする必要がない点です。

玉はあくまでも玉であって玉子=卵ではないし、

それに関連するような事柄は、

この臨時祭において見受けられません。

 

なぜ「玉子」にしたのか?

実は一説によると東大社は元は「王子大明神」と呼ばれていたらしいのです。

呼ばれていたからこそ、堀川天皇は宝珠=●を得た、

という意味で王子の「王」に「●」を付け足して

玉子大明神としたのではないでしょうか。

末代の賢王と評され和歌にも優れていた

堀河天皇の雅な遊び心を感じます。

 

ところで元から王子大明神と呼ばれていた点に関して、

一つこれがヒントなのでは?

という事があります。

 

現在の御祭神は主神が玉依姫命で相殿に鵜葺草葺不合尊と

されていますが「東庄町史」には

 

「東大社史」が祭神玉依姫の「相殿は古来神秘と伝う」とし、続けて「近世に至り、その一柱は鵜葺草葺不合尊にましますと称せらるる」とした

 

と書かれているのです。

「神秘=秘密」だったのが、

なんでウガヤフキアエズになったのか?

そのヒントが「利根川図志」に掲載されています。

要約しますが、

 

東庄という村の鎮守では応神権現を祭っている。むかし外川の宮三夫(みやさぶ)の老母が浜辺でうつろ船にて流されてきた赤子を「ゆもじ」(昔の女性の下着)で取り上げて連れて帰り養育し、後にこの子を応神権現として祀ったという伝承があるそうです。

それで東大社の祭りの際に神輿が老母の家である宮三夫の家に立寄り休憩し、この家の老母が饗応するが、そのうち古い箱から「ゆもじ」を取り出し神輿の上にかぶせて揺り動かしながら「さあ、おうじんどの、おたちやれ、おたちやれ」といいます。すると神輿は担がれて帰途につくそうです。

 

このやり取り=儀式が現在も神幸祭の中に簡略化されて続けられているそうなのです。

これに似た伝承が「千葉県海上郡誌」に掲載されています。

 

一女子の乗れる独木船は外川の海外に漂着せり。山口宮三郎の養女、其の困憊の状を見て之を慰む。女曰く、我は海神の女、夫君を尋ねて海上に浮びしが、強風激浪の為遂に此処に到れり。願わくは我を波音遠き地に伴へりと。妻女之を導き桜井に至りしに、女一男児を分娩せり。乃ち桜井村民と謀り、之を高台の地に居らしむ。是即ち東大神なり。東大神が20年毎に外川海岸に神輿の渡御を行い、途次必ず宮三郎の居宅に休憩するは是が為なり。

 

こちらでは妊婦さんが船で流されてきたのを救助し、男の子を産んだ内容になっており、東大社創始の伝承になっています。

 

どちらも男の赤ちゃんが出てきますが、

一方では赤ちゃんを応神天皇に、

もう一方では東大社の神にしています。

おそらくこの「男の赤ちゃん」をウガヤフキアエズとすることで、老母をウガヤの姨(みおば)である玉依姫とし、

東大社の主神と相殿神の関係に正当性を持たせたんだと思います。

 

相殿神がウガヤになった経緯は判明しましたが、

結局ほんとうのところの相殿神は

「神秘」のままです。

 

一方で返田(かやだ)神社の方はというと、

御祭神は軻遇突智神、埴山姫神で

 

「千葉県神社明細帳」では

 

本社は香取神宮摂社にして同宮古文書等に注進下総国香取大神宮21ケ年度造替請社役所並雑掌人事上略一返田悪王子社一宇国司御沙汰又康永4年3月文書に一宇返田悪王子社と有之

又元禄13年旧幕府より改造に相成 社殿共に官営に預りし神社なり 明治10年3月21日内務省より香取神宮摂社に被定旨更に同宮江御達に相成候

 

「千葉県神社名鑑」では

 

創立不詳。当社は香取神宮第一摂社で、神宮大祭のうち霜月13日の返田祭には大宮司以下神官が参向して祭典を執行、明治維新後も辞宮の支配で祭典を行い、現在も神官より奉幣使が参向される。古来、当社を返田悪王子神社とも称し、長治3年の香取古文書に「寄進悪王子御社神田事合三段半在草那谷里云々」と記し、また康永4年12月の同古文書に「香取大神宮20年一度造替云々」の項に「一宇返田悪王子神社国司御沙汰の由」とあり、神宮と共に社殿が改造され、元禄より天明まで香取神宮の経費を以て奉祀された。

 

返田神社は「悪王子社」と呼ばれていた事がわかりますね。

でもなんで「悪」なのかというと、

「香取志」によれば

 

一説 カグツチ神を祭れりと云う。世人此神を悪王子神と云う。末社記にも然云えり。是は母ノ神所レ焦神退賜う故に然云と云へり。

 

軻遇突智神は産まれてくる時にその炎で母である伊邪那美命を焼いてしまい、それが原因で伊邪那美命は亡くなってしまいます。

だから「悪」王子社と呼ばれたというのですが、

だったら他の軻遇突智神を祀る神社も「悪王子」と呼ばれるはずですよね。

でも私は県内で他に「悪王子」と呼ばれている神社を

調査不足もあるかもしれませんが、聞いたことがありません。

(ネットで検索したら京都にありましたが、

御祭神はスサノオさんでした)

 

ということで、

東大社と返田神社が「王子」と呼ばれる「根拠」は

なんともハッキリしませんでした。

 

ここからは2社の周辺も含めて考察していきます。

まずは東大社に縁のあるこちらの神社。

 

代大神

東庄町青馬2008

「千葉県香取郡誌」によると

 

橘村青馬字代明神に在り 域内399坪 祭神由緒共に詳らかならず 或は曰く本村鎮座郷社東大神社は古へ此地に在りしを宮本に遷す 因て旧址に一社を建て代明神と称す 社南字榊に古榊樹一株あり 乃ち旧本社の遺址なりと

 

東大社の遷座地だったのか、元宮地だったのかは不明ですが

それであれば「仮」という字を用いると思います。

ですが「代」なのは何故なのか?

身代りの皇子に関係する地だからと考えると、

「代」を用いることが明確になってきますが。

 

 

香取神宮

香取市香取1697

 

「小見川町史」におもしろい伝承が掲載されています。

 

香取様伝説

昔のその昔、まだ草や木がお話ができたころ、香取の神様が南のほうから来た。織幡の小高い所に立って四方を見わたすとみな従った。なくなって平石に葬ったが鹿島の見える香取神宮の所にまつった。明治の始めまで毎年神宮の神官が平石に来ておまつりしたそうだ。(以下略)

 

この伝説だと、香取の主神である経津主神の墓所が織幡にあることになります。

でも香取神宮主祭神の墓所の候補地はもう一つあります。

 

「神道山古墳群」です。

 

香取市ホームページには昭和3年に朝日新聞に掲載の記事の内容があります。

 

古ふん発見 香取神宮主の御陵墓か

考古学の研究者吉田文俊氏は千葉県の官幣大社香取神宮付近の史蹟踏査中、神土山と称する奥山に2800年を経た貴人の御陵墓とみられる大古墳と発見。16日県庁より富田社寺課蜀、豊澤千葉高等女学校校長同地へ出張精細調査の結果同古墳は香取神宮主神経津主命の御陵墓らしいとの観測がついたので、近く香取町より御陵墓発見届を正式に県に提出し県より内務省に報告し専門家の実地調査を経てご陵墓を決定することになった

 

結局御陵墓として決定はされなかったのですが、この古墳群は前方後円墳が1基、陪塚と思われる円墳が11基から構成されています。

そしてこの古墳所在地は香取神宮の神官所有地であった点、

神宮に近い点から何らかの縁故があるかもしれないと書かれていますが、香取神宮にはこれに関する古文書や伝説などはないというのです。

 

で・す・が

 

これを見てください

 

 

香取神宮と神道山古墳群を並べるとこういう状態なのですが、

一の鳥居と神宮の間に神道山古墳があります。

少し方角はずれますが、拝殿の前に立つと参拝者はほぼ神道山古墳の方を向いている形になります。

もっと言うと

織幡の方角を向いてないんです!

神道山古墳に墓所を移したんじゃないの?と思う方もいるかもしれませんが、明治初頭まで織幡の平石に香取神宮から奉祀しにきていましたし、明治期に改葬したというような事は、

どの本にも書かれておりません。

じゃあ神道山古墳に葬られた人は誰なのか?

 

スピ友にグーグルマップで画像を見てもらったところ、

 

「あー、たぶんその人だねぇ」

 

!!!!!

しかもかなり若い青年で身代りにされたあげく

皇子ではないことがバレて

殺害されているそうなのです。

なので全然納得できておらず、

今も古墳で自分の運命を受け入れられず

暴れてるそうです(汗)

 

これで自分が香取に行くと、

なんでかいつも具合が悪くなる理由が

わかった気がする…

(うちの本家の御祭神は鹿島神社)

東大社と返田神社に「王子」が付くのは

たぶん身代りの皇子と本物の皇子、

それぞれの一族の氏神なのではないかと思います。

東大社=本物の皇子一族

返田神社=身代わりの皇子の一族

 

でもって代大神の地は身代わりの皇子がニセモノだったことが

バレて幽閉されていた土地だったりするのかも。

もしかしたら殯(もがり)した地だったとか。

それを現わす「代」なのではないかと。

 

 

 

いや~、みなさん、どうでしたか?

皇子をゴリ押ししてるだけじゃんって

言われるかもしれませんが、

ホントに長年東大社が王子大明神だった意味とか、

返田神社の悪王子社とか未消化だったんですよ。

でも産土神さまのウワサ話が真実であれば、

あの辺のいろいろなハテナが繋がるんです。

 

しかも神道山古墳の前方後円墳は6世紀後半に作られたと

言われています。

西暦だと550~559年です。

その頃にあの辺りに皇子がいる王朝があって

何者かに皇子を差し出さなければならない状況に

追い込まれていて身代わりを立てたんですよ!

 

この王朝こそ菟上国(うなかみこく)で

あったのではないかと思ってます。

もーびっくりするぐらい痕跡を消されてしまっていますが、

大杉神社の捄総社(くぞうしゃ)の

鵜神社に祀られているのが

歴代のウナカミの王

という事実は隠せないですからね!

 

後裔といわれている他田日奉部は後裔ではなく、

祭祀氏族だっただろうと思ってます。

祭祀する人がいないとどんな事になるか、

侵略者側も崇神天皇の例で学んでますからね。

捄総社を建立したのも他田日奉部直神護ですから。

 

ここ数年下総の香取郡と海匝郡を調査し続けてたのですが、

今年は今回みたいな考察を自分が楽しいので(笑)

お届けしていきたいと思います。

 

最後に今年も産土様の登渡神社行ってきました。

お札をいただいたのですが、

こんなおまけもついていました~v

 

純金茶!

縁起がいい!

 

おみくじは久々の大吉でした

短気に気をつけよう

 

境内では毎年お神酒や甘酒もいただけます。

(気持ちでお賽銭をおさめます)

毎年参拝の方が増加していると感じているのですが、

寒い中お正月からご奉仕してくださっている

氏子さん達には本当に感謝です。

ありがとうございます。

 

そうそう、スピ友が言ってましたが

登渡神社の上空には大きな鳥が

飛んでいるそうです。

たぶん天日鷲命だろうとのことです。

 

 

 

久しぶりのマヤ暦鑑定!

今回は兄弟喧嘩で解散し

最近になって和解し奇跡の復活をした

オアシス

を見てみました~。

 

いや私もね、そんなにオアシス自体は聴いてなかったんですが

リアムとノエルの不仲は知ってました(笑)

兄弟で殺伐としてるなぁと思っていましたが

バンド組むぐらい絆があるのに

なんで喧嘩しちゃうのかな、と思って

興味本位でマヤ暦で見てみたら納得の結果だったのですよ。

 

脱退している方もいますが

復活メンバーでの関係性をいってみましょう♪

 

リアム・ギャラガーさん

マヤ暦で使用されるKIN(キン)という番号でいうと

KIN76絶対拡張キンで太陽の紋章「黄色い戦士」

ウェブスペル「白い世界の橋渡し」

銀河の音11です。

 

 

太陽の紋章は顕在意識

ウェブスペルは潜在意識

銀河の音は持って生まれた役割を現しています。

 

「黄色い戦士」=困難に立ち向かい突破することで人生が開けるチャレンジャー

「白い世界の橋渡し」=人と人とを結び繋ぐ役目、スケールが大きく活躍、どこか透明感がありスッキリとした印象が特徴、カリスマ

「音11」=真逆の性質の紋章を持つため葛藤が生まれるがそれを音楽やスポーツにぶつけることで高い能力を発揮、我が道を行く、改善者的役割

 

ノエル・ギャラガーさんKIN216

太陽の紋章「黄色い戦士」

ウェイブスペル「赤い月」

銀河の音5です。

 

「黄色い戦士」=困難に立ち向かい突破することで人生が開けるチャレンジャー

「赤い月」=常に新しい流れを作ろうとする改革派で自分の役割・使命に生きようとする、ここ一番の勝負に強い紋章

「音5」=自分の芯になるものが無いとぶれやすいが、目標が定まると倍以上の力を発揮する

 

ゲム・アーチャーさんKIN43黒キン

太陽の紋章「青い夜」

ウェイブスペル「黄色い太陽」

銀河の音4です。

「青い夜」=マイペースでプライベートは見せない、目的志向が強い、自分が夢を追うのと同時に夢と希望と勇気を与える人

「黄色い太陽」=リーダーや経営者に向いている、幼少期から大人びている、ひとりの時間がとても大切

「音4」=頑固な職人タイプ・スペシャリスト・本質を見抜く

 

アンディ・ベルさんKIN85黒キン

太陽の紋章「赤い蛇」

ウェイブスペル「青い嵐」

銀河の音7です。

「赤い蛇」=自分の思いに正直、努力家、人見知り

「青い嵐」=人を巻き込む力が強く思い込んだら嵐のようなエネルギーでやり遂げる、料理が上手、寝ないで働く働き者

「音7」=鋭い五感と第六感を持つ

 

個々のKINをざっと紹介してみましたが、

ここからは関係性についてご説明します。

マヤ暦には特別な関係性があります。

それは類似・反対・神秘・ガイドです。

類似KINは横並びの心地よい関係。いわゆる似た者同士ですね。

反対KINは背中合わせの関係。自分が見えないものを見せてくれる、互いに学び合う相手。

神秘KINは刺激的な惹かれ合う関係。

ガイドKINは人生の進む道を示してくれる相手です。

 

まず弟リアムさん

ゲムさんは類似KIN。

アンディさんは神秘KIN。

兄ノエルさんはガイドKINでもあり、

ウェブスペルでは反対KINになります。

 

次に兄ノエルさん

太陽の紋章が弟リアムさんと同じなので

類似KINはゲムさん

神秘KINはアンディさん

反対KINは弟リアムさんと、

ウェブスペルでアンディさん。

 

ゲムさんは

類似KINは弟リアムさん、兄ノエルさんと

ウェブスペルでアンディさん。

 

アンディさんは

ウェブスペルで類似KINはゲムさん

神秘KINが弟リアムさん、兄ノエルさん

ウェブスペルで反対KINはノエルさん。

 

まずギャラガー兄弟。

彼らは喧嘩ばっかりしていて

すんごい不仲なのにもかかわらず、一緒にバンドを組み、

大成功しています。

不仲の影響は兄ノエルさんも弟リアムさんも

太陽の紋章「黄色い戦士」がマイナスに働いてしまっていた

からかもしれないです。

黄色い戦士が持つスキルは「挑戦・信頼・実直・戦友」ですが、マイナスに働くと例えば人と争ってしまったり、

思いやりに欠けて人を傷つけたりして

人間関係のトラブルが発生しがちになります。

しかも兄ノエルさんにとって弟リアムさんは反対KINなので、

より強く影響が出てしまったと思います。

反対KINはプラスに働くと互いに高め合える存在となるのですが、マイナスに働くと分かり合えない関係になってしまいます。

一方弟リアムさんにとって兄ノエルさんは

これまたビックリな

ガイドKIN

です。

ガイドKINとは人生の導き役です。

しかもこの兄弟、音の関係がビジネスがうまくいく関係性

なのですよ!

そのうえ弟リアムさんは

絶対拡張KINの持ち主!

このKINを持つ人は物事を広めるパワーの持ち主です。

弟リアムさんがいる事でオアシスの成功は決定していたと

言っても過言ではないのです。

 

さて、メンバー達は傍で兄弟喧嘩している彼らに

なんでウンザリしなかったのでしょうか?

ゲムさんにとってギャラガー兄弟は似た者同士の類似KINです。

アンディさんにとっては互いに惹かれあう神秘KINです。

異性であれば恋人関係に発展する可能性が高いですが、

同性同士ならば刺激し合い、レベルアップさせてくれる相手です。

しかもゲムさんもアンディさんも宇宙のエネルギーが強い

黒KINの日生れなので、周囲に与える影響力は

二人の方が強いのです。

だから傍でゴチャゴチャ揉めていても

気にならなかったのかも(笑)

 

しかも兄ノエルさんとゲムさんは鏡の13日間の関係です。

鏡の向こうKINは260ある中でたった1つだけの存在です。

出逢う事が奇跡と言われていて、

もし出会えたらお互いの潜在能力を引き出す

特別な存在です。

鏡の13日間となると、そこまでの影響力はありませんが、

過去世で繋がりがあったとされていて、

出会ってから覚醒していきます。

 

そう考えると兄ノエルさんとゲムさんが

オアシスにいるのは過去世で成し遂げられなかった事を

今世で叶えるためだったのかもしれないですね。

 

音もみてみましょう。

この他宇宙の音の並びで見ていくと

円滑なコミュニケーションや連係プレーができる関係=連携関係にあるのが、

「音4」のノエルさん、「音5」ゲムさん

 

共通の意識を持って繋がりを感じる関係=協和関係

にあるのが、

「音7」アンディさん、「音11」リアムさんで

反発し合うほど活発に動くタイプです。

この関係は奉仕に意識を向けると良いです。

 

紋章の色もみてみましょう。

マヤ暦の紋章は「赤・白・青・黄」の4色があり、それぞれ意味があります。

黄色は成熟させる力を持っていて青の変容を取入れて土台を固め、赤がスタートする切欠になります。

すんごいバランスのいいグループなわけです。

 

 

今回ギャラガー兄弟を取り上げましたが

ガイドKINでも紋章の影響がマイナスに働くと

解散したり絶交したりに繋がるという事を

事例としてご紹介できて、自分も勉強になりました。

同時に世界的に高名なバンドのメンバーは

やはり関係性が違うなぁ~とも思いました。

 

また面白い関係性があったら、ご紹介していきますね!

 

 

 

 

 

 

 

 

かなり前記事から間が空いてしまいましたが、

今回の⑥番で最後になりますので

おつきあいいただけると嬉しいです。

高市皇子を探し続けて数年、最後にご紹介するのは

コチラの神社です!

 

諏訪神社

流山市駒木655

 


併設されている駐車場側にある参道の鳥居です

おー!千葉にはあまりない感じの参道ー!

随身に御挨拶をして、いよいよ拝殿へ

おおおっ再び門を潜るのね!

なんかすごい~!

どーんと拝殿

本殿はちょっと取れませんでした、残念

拝殿に掲げられている扁額

味のある文字ですね~

 

なぜ突然この神社のことを取り上げるのかというと、

実はこちらは高市皇子の子孫の方々が創建した神社なのです!

 

「千葉県神社名鑑」や「千葉県神社明細帳」では

そのことに一切触れていないのですが、

境内にある神社の説明板では「高市皇子」のお名前が

記載されています。

 

 

『諏訪神社 流山市指定有形文化財

遠い祖先以来「おすわさま」という名で親しまれている 諏訪神社は社伝によると大同2年(807年)天武天皇の皇子であります高市皇子(たけちのみこ)の後裔が大和(奈良県)より関東に下向、この駒木を永住の地と定めて守護神として信州諏訪大社から額面を遷し祀ったのが創建とされています。

祭神は「健御名方富命(たけみなかたとみのみこと)」で別に古事記や旧事記には「健御名方神」とも記されております。

この神社の境内は約一万坪にしてうっそうと大樹が繁り千二百年の歴史を今に伝えております。

社殿は本殿・幣殿・拝殿からなる相の間造りであります。本殿は、桁行奥行とも一間の本体に向拝を設け組物肘木天井などは唐物の手法を見せております。

幣殿は桁行三間梁行二間でありますが、前面柱間は実寸三間もあり、向拝柱もその延長に達など前面の柱配置とそれに対応する梁の巨大さに特長があり本殿と共に文政9年(1826年)に完工されております。棟梁は国の重要文化財にも指定されている建築の作者多古の文蔵であります。また拝殿は幣殿の前部に位置し間口四間奥行二間半、弘化3年(1846年)に完工され作者は当地方の名工八木の文蔵であります。共に銅板葺にして、これらは江戸時代建築の典型的な権現造りで優雅を極めております。

平成18年(2006年)に御鎮座千二百年を迎えました。

昭和55年指定 流山市教育委員会』

 

上の説明文の中に出てきましたよね。

 

「社伝によると大同2年(807年)天武天皇の皇子であります高市皇子(たけちのみこ)の後裔が大和(奈良県)より関東に下向、この駒木を永住の地と定めて守護神として信州諏訪大社から額面を遷し祀ったのが創建とされています」

 

そうなのです。

高市皇子の御子孫が下総に来て永住を決めたというのです。

諏訪神社と高市皇子の御子孫の方々に関する情報は他の書物も調査しましたが、これ以上は得られませんでした。

 

で・す・が。

そんな事で挫ける管理人ではありませーん(笑)

地域に拡大して調べたところ、

神社の鎮座地である駒木の新田区を開設した人物として

高市兵庫

という人物と、

駒木区にある通法山成顕寺(じょうけんじ)は当初は天台宗でしたが、弘安年間に里正の

高市重次

が日蓮宗に帰依して当寺を日蓮宗に改宗したそうです。

 

土地を開拓するのも、村の宗教を変更するのも、

コミュニティの中で有力者じゃないと出来ない事です。

やはり村の中で御子孫の方々は一目置かれていたのではと

思いました。

 

さて、次に御子孫の方々がなぜ下総まで下向されたのか、

その理由を考えてみました。

大同2年というと時代が桓武天皇から平城天皇に

代わった直後です。

私は高市皇子は実は旧蘇我大王家の生き残りと考えています。

その視点で推測すると、代替わりした関係で朝廷も通常より

混乱していたのではないでしょうか。

その隙に監視の目を潜り抜けて旧交があったであろう、

印西の隼人を頼って下総へ避難してきたのかもしれません。

 

さて、高市皇子に係る調査はこれで終了です。

でもまた発見しましたら記事にいたしますので、

お楽しみにしててください。

 

 

さて、次は境内社のご紹介です。

姫宮神社・八坂刀賣神

お邪魔した時はすんごい怒っていましたが

お話しているうちに穏やかになられました

雷神社・別雷大神

靖国の英霊をお祀りする招魂之社

大鳥神社・日本武尊と弟橘比賣命

恵比寿神社・水蛭子神

祓戸大神

國魂神社・遠い御祖先

元は現豊四季駅前の地に鎮座していた

通称「道灌さま」

天神社・菅原道真

稲荷神社・宇迦之御魂神

雅?王大権現 寛政3辛亥年4月吉日に建立

調べても出てこなかった・・・

詳細ご存じの方いらしたら情報ください

 

 

 

 

さて、ここからはスピ話になりますので

大丈夫な方だけ どうぞ↓

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

こちらを取材した帰り道。

車内で急激に眠気に襲われて目を閉じました。

そしたら夢の中で目の前に一人の男性が立ってました。

彼の後ろの方、私から5mぐらい離れたところには

一列に並んだ老若男女が2、30人ぐらいかな

立っていました。

みんな着物姿で、比較的動きやすい感じの着こなしでした

(十二単とかではなかったです)

なんだろーとぼんやりしていると

目の前の男性(30代ぐらい)が

両手に持った一枚の白い用紙を私に向って

うやうやしく差し出してきました

それを見てなんでか私は督促状的なものと感じて

いやいやいや受取れませんと右手で静止しながら

首を振りました

するとなんでか私が勘違いしているのが皆さんに伝わっていて

どっと笑い出しました

違いますよ~的な雰囲気が伝わってきて

私もあれ?ちがうの?と思います

そうすると目の前の男性は再度うやうやしく

賞状を渡す時のように両手で白い用紙を差し出しました

紙をじっと凝視しても光ってる感じなのか

何が書かれているのか内容が目ではわかりません

それでも後ろの人達がニコニコしながら

受取って~、という感じが伝わってくるので

私は両手でその用紙を賞状をもらうときのように

受取りました

そうしたら後ろの皆さんも渡してくれた男性も

みんなすんごい笑顔でニコニコしながら拍手してくれたんです

私はなんだかわからないけど照れる、というとこで

目が覚めました

 

実は諏訪神社に向う道中、

「これで県内の高市皇子関連の神社はコンプリートだ!」

と思ってたんです。

もしかしたら御子孫の方々は

調査している私を労ってくださったのかもしれません

 

なのであの白い用紙は感謝状とか

コンプリートしたらもらえる認定証のような物なのかも?

とりあえず御子孫の方々がニコニコなのでよかったです

 

 

 

とんでもなくご無沙汰しております。

お久しぶりです、皆さま(汗)

いや~、元々放置気味でしたが、

こんなに長期に渡り放置していて

自分でもビックラ(ビックリの最上級)です。

 

ちょっとリアルでいろいろバタバタが続いていて

そっちに力を注がないとならず、

ホントに今年は取材も全然いけてないし(あああ)

なんかいろんな事が停滞しまくっていて(おおお)

自分としても反省してます(嘆息)。

 

もうほぼ今年も年末ですけれども、

態勢を整えて来年はもうちょっとマメに

更新したいと思ってます。

お伝えしたいこともいろいろありますしね。

 

と こ ろ で

初の女性総理大臣・高市総理が誕生されましたね!

高市皇子との関係もささやかれていますが、

追っている私的には天命なのかな、と思ったり。

往時唐の介入で乱れた大和と非常に似ている状況の現代日本。

その建て直しに立ち上がってくださったのが

高市総理だなんて、出来すぎ!と悶えてます。

また中国の方が総理の首をどうこうの発言もありましたよね。

それについても過去の事を踏まえた上での脅し

(私は首を落とされたのは入鹿ではなく

高市皇子だったと考えてます)だとしたらと

勘ぐってしまったりとかして

一人で無駄に妄想を膨らませています。

そうそう、スピ的な話になるのですがOKな方だけ

進んでください。

 

 

 

 

 

 

 

 

伊勢神宮にムスリムの方用の礼拝所を設ける話がありましたが

中止になった事がニュースで流れていた時。

スピ友と一緒の時に

「そういえば知ってる?」

と件の話をしたのですよ。

そうしたら途端に彼女に何かが

ゴウッ

て感じで降りて来て。

「なにそれ!!許せない!!!」

と激高していたのですが、

その時の彼女から発される圧(オーラ?波動?)がすんごくて。

例えるならキャンプファイヤーのような大きな焚火が

あったとして

至近距離でその前に立ってる感じ。

でもその発している波動が伊勢神宮に行った時に

感じたものと一緒だなと思ってたら、

我に返ったという感じのスピ友も

「いま、急にキタ」って驚いてて。

 

友曰く、伊勢の御眷属ではないかと。

直接伊勢から来たんじゃなく、

近くの天照皇大神をお祀りするところから

来たんじゃないかと。

しかもめちゃくちゃご立腹だそうで、

伊勢に他宗教の施設なんて建てたら

全員許さない的な感じだったそうです。

なので計画が頓挫してよかったなって思います。

本当に造ってたら間違いなく神職始め関係社全員の命が、ね。

他の場所ならともかく、

伊勢は天照皇大神を奉斎している神域ですから。

他にも御眷属にいろいろ言いつけてたら、

もっとヤバイ事いってたんですが、

それは流石にここには書けない(笑)

 

 

 

前回までは上総の高市皇子の痕跡についてご紹介しましたが、

今回からは下総を綴っていきます。

といっても上総ほど数は多くないです。

でもですね~、複合的に見ると上総よりも深いんですよ~。

そもそも私が高市皇子を追う事になったのは、

印西市鹿黒の地名由来が切欠でした。

 

「角川日本地名大辞典12千葉県より

かぐろ 鹿黒〈印西町〉

多賀沼南東部の丘陵地上に位置する。地名の由来に関し、蘇我入鹿が殺された時その縁者が入鹿の首を携えて来て葬り、ここに住居したことによるとする説がある(印旛郡誌)。」

 

まだ私が家系ルーツ探索に限界を感じ

方向転換して自分が住む千葉県の地名調査を始めた頃に

知った地名由来でした。

短いながらも、いろいろと想像を掻き立てる数行が

長く忘れられずにいました。

 

地名調査が一段落する頃には

地名由来という伝説伝承の知識がかなり蓄積していて

それを深堀したいなという気持ちが高まっていました。

そこで知ったのが「神社考古学」でした。

私が言う神社考古学とは

その土地にある神社を調査し、祭神・伝承などから

どのような氏族が奉斎したかや土地との係り、

王朝との関係性などを調査する分野です。

なので神道考古学とはズレてます。

 

勉強している過程で九州の故百嶋先生が遺された

研究データを戴き、神様達を奉斎する氏族の系統があることや

一柱の神様に幾つものお名前があることを知って

目からウロコでしたね~。

 

その次に目からウロコだったのが、とあるブログで

スピ能力のあるコメンテーターの方による

蘇我大王家についての書込みでした。

小学生の時から聖徳太子になぜか惹かれていた自分としては

本当に納得のいく霊視?考察?内容でして、

そちらを拝読して天智・天武両天皇時代の歴史改竄や

揉み消されている唐の大和王権の簒奪という事実に

気づかされました。

 

それらを踏まえての鹿黒の入鹿伝説です!

「鹿黒」という地名について、私は当初

「鹿=入鹿」を指していて、

「黒」とは都から運ばれてきてかなり痛みが進み黒くなってしまった

入鹿の首を指す、というなんともグロイ想像をしていたんですよ。

 

でもいろいろ下総の事を調査していて、

見解が変わってきていまして、

「鹿=入鹿」の鹿で

「黒=喪に服す」という意味、と変じています。

古代の總国は九州とは違う流れの隼人や秦氏が多く住んでいたことが現在までの神社調査で浮かび上がってきています。

ですが大化の改新後政権が替わり、

東国の住人は新政府に弾圧されたと思います。

個人的には鹿島神宮・香取神宮は大化の改新あたりで

一度再建というか、手を入れられていると感じてます。

カガセオの伝説もあの辺りを総べていた「菟神国ウナカミコク」の

王家の人物だったのではと考えています。

 

茨城県稲敷市阿波鎮座 大杉神社の境内社

捄総社

複数の社を祀っていて、その中にある鵜神社は

歴代のウナカミの王と、これに連なる菟上国造の御霊を奉斎している

 

 

そんな土地であったにも関わらず旭市倉橋には

蘇我氏に縁の者が逃げて来て土着した伝承がありますし、

大友皇子の妃・耳面刀自が逃げる途中で薨た地もあります。

これらから考えると、新政権の支配下にあっても東国はなかなか

監視が及ばなかったのではないかと。

だから入鹿の首を携えた縁者は逃避先に下総を選んだのだと思うんですよ。

 

結論としては、首を運んだ縁者が鹿黒に来たのは

史実

だと思います。

 

でも・・・

1つ違うんじゃないかと思う点があります。

首は入鹿の物ではなく

高市皇子の首

だったんじゃないかと・・・

 

そう考える根拠は残念ながら通史にはありません。

ただ前述したブログのスピリチュアルコメント(霊視)の中で

高市皇子の実父は蘇我赤兄で、母は蘇我連子の長女であり

出雲蘇我王家の女王であった氷上皇女でした。

彼は真の皇統の人物であり、その拠点はなんと

熊本の大津だったというのです。

九州といえば隼人の本拠地です。

彼と隼人は密接な関係があったと考えられます。

 

他にも以前当ブログでご紹介した富津市の日月神社に残る

天羽姫伝説

憶えていらっしゃいますか?

高市皇子は姫と吉野詣で出逢ったといいます。

もしも、その吉野が九州の吉野だったとしたら、

姫の出自は隼人だったかもしれません。

そうだとすれば、彼女が東国に逃れ住んだ事も納得できます。

高市皇子と隼人の深い繋がりは婚姻関係も含めた

強固な物であったかもしれません。

 

次に東国に運ばれて来た首が誰の物であったのかです。

入鹿の首であったのか、高市皇子の首であったのか。

高市皇子は赤兄の息子であると書きましたが、

その赤兄の父が入鹿なのです。

つまり高市皇子からみて、入鹿は祖父になります。

 

兵庫県朝来市にある表米神社に伝承がありますが、孝徳天皇の忘れ形見である日下部表米は新羅の賊と戦って追い返したといいます。

ですが一説では攻めてきたのは唐の李元祥で

表米と一緒に戦って戦死したといいます。

また別説には山田寺で自刃した石川麻呂は入鹿の別名であり、本当は入鹿は宮崎県の串間で自害しており、彼の菩提寺として

山田寺は建てられたといいます。

ここで注目するのが両説ともに首を落とされたとは伝わっていない点です。

では斬首されたのは誰であったか。

私はこの人物こそ、当時唐の簒奪政権の監視下にありながらも、

機智と皇族としての誇りを以って、生き残った一族を護ろうとした

高市皇子だと考えます。

 

皇子は酷い拷問の末、薨ったといいます。

罪人のように斬首し、遺体が侮辱されたのは容易に想像できます。

京都の法隆寺の側にある中宮寺の弥勒菩薩半跏思惟像の

モデルは高市皇子という説がありますが、異様に黒いこの仏像の理由も、死者を辱めるためにされたのではないでしょうか。

 

印西市鹿黒に話を戻します。

「印西市誌」に鹿黒の住人による蘇我入鹿の伝承が載っているのでご紹介します。

 

蘇我入鹿

これは645年6月12日、ちょうどこの日は三韓から貢物が届けられた日ですが、大化の改新という国の政治が大きく変わる事件がおきたのです。その結果今まで朝廷の中で飛ぶ鳥も落とすという大きな権力を持っていた、蘇我入鹿は改新派の中大兄皇子、中臣鎌足らによって殺害されてしまい、屍は筵を掛けられて置かれていたという。

その時に入鹿に仕えていた隼人の一族が、主君の首を携えてはるばる東国へ下り、印西の地に来てこの地こそが主君の首を葬るのにふさわしい所であると首を埋めたというが、これが「入鹿の首塚」と呼ばれているもので、そこにはいくつかの古い墓塔が立ち並んでいる。ここに出てくる隼人とは古代九州にいた一族で勇猛果敢な性質で知られ、奈良時代の初め頃までしばしば反乱を起こしていたが、一部は帰順して朝廷や天皇の護衛にあたっていた。

ここに来た隼人の一族も主君の菩提をとむらうために近くに住居を構えて住んだといわれ、そこを「隼人屋敷跡」といっている。また首塚の脇には「隼人の供養塔」というものがあり、いくつかの墓塔が建てられている。なお鹿黒という地名の起こりは入鹿伝説に基づいているという。

 

伝承の中の隼人一族と入鹿とされている高貴な人物は、強い主従関係で結ばれていただけでなく、おそらく乳母一族であったのではないかと思います。だからこそ危険を侵して首だけを携え、東国に逃れてきたのだと。

伝承に出てくる「入鹿の首塚」や「隼人屋敷跡」の場所はわかりません。

ですが鹿黒にはこの神社が鎮座されています。

 

八幡神社

印西市鹿黒字入谷津315

 

この神社こそ

以前「初めて境内に入れなかった」神社なのでした

いまだに再訪してません

この時は鳥居の手前までいったんですけど

頭の中で「ヤバイ!」って感覚がして入れませんでした

 

 

鹿黒の八幡神社は「千葉県神社明細帳」によれば祭神は応神天皇命で由緒不詳です。

ですが「印西町史」によると、この神社には「地玉権現」を合祀したと記載されています。

この地玉権現とは、どのような存在なのでしょうか?

私の妄想ですが、「地玉=高市皇子の御霊ミタマ」の意味だったんじゃないかと。それを他の人が聞いてもわからないように略している内に

地玉になったのではないかなぁ~と。

鹿黒という地名についても同様な見解です。

実は千葉県には良い例があります。

袖ケ浦市三黒の「三黒」は海に入水した弟橘姫の骸が流れ着いた地で、姫の骸を指す「御骸ミムクロ」が変化して「ミクロ」となったといわれているのですよ。

鹿黒もやっぱり高市皇子の骸がある事を隠さなければならなかったので、「彼の御骸カノミムクロ」とか言っていたのが変化して「カグロ」になったんじゃないか?と考えてます。

 

他にもこの地が「高貴な方に関わっている」と感じられる要因に、

御奉射オビシャ神事での「謡ウタイ」が上げられます。

普通オビシャは弓で的を射て、その結果からその年の作物の出来不出来を占う神事なので、通常謡はありません。

ですが鹿黒ではオビシャで謡があり、しかもその謡曲は雅楽の一つとされる宮廷音楽であり、大変由緒のあるものだといいます。

何故、鹿黒の御奉射で謡われるようになったのかは

伝わっていないようです。

しかもこの謡があるのが「頭渡し」と呼ばれる

県内のほか地域では「直会ナオライ(神事後の宴会)」と

呼ばれる神事の中で行われるのです。

私は直会を頭渡しと呼んでいることにも大注目してるんですよっ!

 

妄想してください。

往時、遥か都から高市皇子の首を携えた縁者である隼人の方が

当地の遠縁の隼人を頼って逃亡してきた時、もしかしたら追われていたのかもしれません。

勇猛果敢で知られる隼人の精鋭達が追手を弓矢で追い払い、

使者は鹿黒の隼人の長に皇子の御首を渡し、

労をねぎらわれて歓待されたことでしょう。

そういう通史にはない史実を、忘れないように子孫に伝えていく為、

神事に盛り込んで残していったんじゃないかなと感じるんですよ。

 

他にも鹿黒には有名な盆七夕があります。

旧暦の七夕と盆綱引きがミックスした神事で、毎年8月のお盆の時期に行われます。

盆綱引きというのは御先祖の魂の乗り物として藁で龍や蛇を造り、それを子供たちが引いて町内を回る行事で、茨城県・千葉県東総地区で行われています。

全国的にもあるのかと疑問に思い調べてみた所

九州でしかされていませんでした。

う~ん、ここでも隼人繋がりを連想してしまうな~。

要約すると盆綱引きは慰霊の行事なのです。

 

一方、鹿黒で用いるのは「御太刀オダチ」と呼ばれる木製の太い剣で、結ばれた綱を持って子供たちが町内の家々を回り、三回地に剣を打ち付ける振りをして魔を払うという厄払い行事になっています。

御先祖をお迎えする乗り物としては昔は真菰で馬を造っていたようです。

 

何故鹿黒だけ「御太刀」を用いるのか?

またまた妄想爆発☆なのですが、そもそも首を切り落とされた高市皇子は帯刀していない状況で殺されてしまったのではないかと。

それで「剣さえあれば・・・!」との思いから、御霊をお迎えするお盆には剣を作製し、邪気=敵を払うという形式になっているのではないかと。

もしかしたら護衛であった隼人達もその時に剣を持っていない状況だったのかもしれません。もしくは皇子の側にいない状況で起きてしまった事件だったのかもしれません。

私はこの行事は高市皇子の御霊を慰めるための

行事としか思えないんですよね。

「印西町史」には皇子の首塚を護った隼人達の供養塔もあったとあります。主の菩提を弔うために当地に移り住んだ隼人はどんな想いだったのでしょうね。

 

なんで隼人が印西の方に?と思われる方もいるかもしれませんが、

当時は交通網が「船」ですし、香取の海周辺は当時の人からすれば

いまでいう東京駅だったんだと思います。

下總でもまだまだ勢力のあった隼人族は

それなりの権力や武力を有していたので朝廷勢力も

迂闊に手を出せなかったのではないでしょうか。

そうでなければ都から皇子の首を携えた隼人達が頼って訪れないだろうと思います。

 

そうそう!八幡神社ですが、ものすごい慰霊システムが組まれているのではないかと。

こちらをご覧ください。

 

上の画像は鹿黒の地図ですが、左の赤丸から八幡神社、

印西大師西光寺、大森の火皇子神社となっています。

線を引けば一直線なんですよ。

御祭神に隼人のおじいちゃんを祀る火皇子神社

古代は香取神宮の境内社でした。

現在は外されてしまっており、神社も一見廃神社みたいになってます。

でも隼人のおじいちゃんに聞いたら外された事を

知らなかったみたいで

どおりで人がこないわけだ、みたいな事を言ってたと思います。

神様たちは我々のいる現実と時間の流れが違うみたいです。

 

そのおじいちゃんを祀る火皇子神社の拝殿前に立つと、

遠くにある鹿黒の八幡神社にも顔を向けている状態になります。

なのでおじいちゃんに対して祈ると、八幡神社にも祈ってる形になります。

重要なのが間にある西光寺で、大きなお寺ではなく、大師講の弘法大師を祀る祠があるだけなのですが、この祠も八幡神社を拝する形で設置されています。

私はこの直線で配置されている理由に、西光寺と火皇子神社への祈りのパワーが八幡神社の高市皇子に届いて、御供養となるようになっているのではないかと思うのですよ。

なぜなら、元々西光寺は八幡神社と同じ地域である字入谷津にあったのです。しかし今はかなり離れた場所に設置されています。

これもその為に態々この場所に持って来たんじゃないかと思えてしまうんですよ。

しかも火皇子ヒノオウシ神社には同じ字で読み方の異なる

火皇子ヒメコ神社があるのですが、

次の画像を見てください。

 

この二つの神社は地図上で一直線上にあるのです。

つまりヒメコ神社の祈りのパワーをヒノオウシ神社に

送っている形になるのです。

 

そうすると八幡神社には西光寺とヒノオウシ神社、ヒメコ神社と、

三カ所の祈りのパワーが注ぐ形になります。

すんごい慰霊システムだなぁと思って。

これなら確実に怨霊化せずに成仏できると思います。

おそらく優秀な陰陽師がいたんだと思います。

海匝地区には安倍晴明が来たという伝説もあるので、

もしかしたら晴明が何かやってくれたのかもしれませんね。

 

今回も妄想☆炸裂な回でしたが、いかがでしたでしょうか?

高市皇子シリーズは次でラストなのですが

その神社ですんごい事が起きているので

早く記事にしてお届けしたいなと思います。

 

最後に鹿黒取材時の画像をご紹介。

 

西光寺はいつ廃寺になったのか不明な寺なのですが

地図上だと鹿黒集会所の近くに

 

西光寺にあったであろう大師講の御堂があります

 

こちらですね

 

印西大師第4番になっています

 

大師像

 

元は西光寺にあったのかなぁ

この付近にはたくさんの石仏などがありました

 

十字路の向こう側にあるこの建物の裏にも

 

こんなに一列に並んでいました

 

同所にあった道しるべ

 

 

 

これは去年の話です。

その日はスピ友が遊びに来ていて

何の事だったか忘れてしまったのですが

産土神様に聞いてみなよって事で

対話が始まって、質問に答えていただいて、

一段落した時のことだったと思います。

 

私たちが鹿島神宮について最近ちょっと空気悪くなったよねーとか話していて、要石いじってたからかねーとか雑談しつつ、

流れで香取神宮の事になったときだったと思います。

突然スピ友が

 

「産土神様があそこは身代わりになった皇子を祀ってるって言ってる」「噂で聞いたって」

 

と私に教えてくれました。

 

えーっ!!!

(阿部サダヲ風)

 

実は心当たりがありまして。

以前香取神宮について記事にした事があるのですが、

取材に行った時にすーんごいイジイジのスネスネの青年と

話した事があってですね。

もー本当にネガティブな、だってだって~、でもでも~な、

そんな感じの青年で(苦笑)

当時の私は御祭神は女神様だと思っていたので

彼は神社に関係の強い人なのかなー、ぐらいにしか

思ってなかったんですよ。

でも産土神様の言葉を聞いて彼の事を思い出しまして。

しかも当時、彼に「誰なのか」聞いたんですよ。

でも教えてくれなくて。

言えない、と。

なんでなのかシツコク聞いたら、

名乗ったら自分の存在を消されちゃうからって、

なんだか怯えている感じだったんですよね。

 

本物の皇子の身代わりとなり、

今は香取神宮に祀られている「皇子」。

単純に考えても怨霊にならないように祀られたって事ですよね。

(つまり侵略されたってことです)

時の朝廷に従わなかったカガセオが当時の香取地方の王族の皇子だったとして、その身代わりになった青年だったのかな~とか、イロイロ妄想が止まりませんでした。

なんかホントに我が県は掘り起こすとブラックな歴史ばかりだぜ☆

 

それとは別に、神様も噂話するんだぁ~、と感心してしまったというお話でした。

香取神宮の本殿

男千木だしね

拝殿正面に五三桐があったから

すっかり女神様だと思ってました

もしかしたら身代わりだから五七桐は使わせてもらえなかったのかな

 

香取神宮はいろいろとイジラレテいて、

真の姿がまったく見えてこないですねー。

同じように香取地区の神社はどこも手が入ってる感じが否めない。

まぁ千葉県は全体的にそんな所ばっかりなんですけどもね。

古い時代に書かれた書籍を資料に、スピリチュアルとか、

いろんなツールを総動員していかないと、

真実にはとてもとても辿りつけないです。

今年もヒントを探して県内をウロウロ彷徨います(笑)

 

 

 

前回からかなり間が空いてしまいましたが

「高市皇子を探して」シリーズの続きです。

実は取材自体はもう数年前でして、

いろいろ零れ落ちてきてしまっているのですが、

可能な限り思い出してお伝えしたいと思います。

 

さて、今回はもう一つの「小高神社」であるコチラです。

 

東小高神社

いすみ市岬町東小高字宮ノ下6

 

取材に行ったのはあの2019年の台風の

1年後です

鳥居近くの木が伐採されているのはその時の爪痕なのかな

あの時はたくさんの御社が倒壊・半壊して

本当に無残な状況でした

その後再建した社殿もあれば

石宮に変わったところもあります

元の状態にするのは資金面で大変なのだと思います

そういえば山根のお稲荷様はどうなったかしら

あそこも台風の時に拝殿が倒壊しちゃったんだよなぁ・・・

鳥居潜って直ぐにお手水がありました

この階段が結構急でして

振り返るとこんな感じなんです

ひぃはぁ

階段を昇ると開けた場所にぽつんと社殿がありました

境内には鳥居はありませんでした

ちょっと特殊な構造ですよね

小さな扉からしか出入りできない構造

中を極力見せない配慮がされてる感じ

神紋も入ってなかったんじゃないかと

御手水と台風で折れたのかなぁという木の幹

少し盛り土してある上に石碑と奥に祠

浅間神社

こちらは何の祠かな~?

乳母神様(玉依姫命)でした

 

 

こちらに来た順番は確か

大宮神社

小高神社

当社

だったので、こちらでも引き続き高市皇子とお話しながらの

取材だったと記憶しています

皇子によると、ここは子孫の方が隠れ住んでいた

砦のような場所だったと言っていたと思います

 

当時新王朝により旧大王家関係の人々は

地方に移動させられて監視されながらの生活であったり

政治的に手駒として使える者は「飼殺し」にされたりと

本当にご苦労されていたようです

 

こちらに逃れてきた一行も高市皇子の地縁の土地に

皇子の人脈を頼ってきた人々であったと思われます

当時は「誰が味方で誰が敵かわからない」

そんな時代です

昨日の味方は今日の敵という状況も有りえるのです

 

忠臣・小高氏とともにやってきた皇子の親族は

人目を避け、新王朝のスパイにみつからないように

この要害の地を選んで隠れ住んだのではないでしょうか

境内までの階段の傾斜もすごかったですが

下から上の境内に階段以外からあがることは

かなりの傾斜なので至難の技だと思います

またかなりの高台になるので、

木がまだ大きくない時であれば周囲を見渡せて

敵が攻めてきた際に備える事も容易い地であったから

当地に潜んだのではないかと

 

考察はこれぐらいにして、資料を見ていきましょう。

「千葉県神社明細帳」だと御祭神は高市皇子で

正暦2年(991)の創立です。

 

「角川日本地名大辞典」によると当社は元は小高神社と呼ばれていました。

 

「岬町史」によると

 

東小高区字宮ノ下にあり。正暦2年(991)10代の孫・真人朝臣成忠、其の祖・高市親王を祭る小高神社之なりと。うっそうたる森に間口5間半、奥行3間の社殿あり。境内118坪あり。明治37年4月14日実測3畝18歩をも編入し、外に山林6段6畝26歩を有し、氏子36戸あり、境内に八坂神社、疱神社あり、何れも方三尺の祠なり、此の地小高き丘上にして、その突角は眺望に富む。これ小高城址にして口碑によれば、高市親王の居城たりしという。『長者町誌』

 

高市皇子から10代の孫の成忠が創建したとありますね。

この人物は式部大輔・高階成忠のことだと思います。

高階一族は高市皇子の子・長屋王の5男・安宿王が高階真人姓を与えられて臣籍降下したことから始まっています。

間違いなく高市皇子の子孫です。

 

でもそれだけでなく、成忠の父・良臣の母は橘澄清の娘ですが、

この澄清は橘諸兄の子孫です。

橘一族は往時は副大王家とも言えるほどの家格ですから、

成忠が一族に纏わる口外できないイロイロを聞かされて

育ったであろう事は容易に想像できますね。

ですから自分がしっかりとした位を授かり、

周囲の横槍が入らなくなった段階で、

当社を創建したと考えられます。

そして成忠が当地に高市皇子を祀る神社を建てた事実から、

古代に当地に高市皇子の姫が逃れてきた事は事実であったと

確信できるのです。

 

 

 

 

 

2025年になってしまいましたが、

皆さんいかがお過ごしでしょうか?

昨年の秋頃から更新がストップしているのですが

実はコロナに罹ってしまい、その後咳がなかなか抜けず、

もしかしたらマイコプラズマ?と思ったんですが

それは違ってたんですけど

リアルのお仕事も人が代ったりして忙しくなってきて

でも咳が落ち着いてきたなぁなんて思っていたら

年末にインフルになりまして・・・

踏んだり蹴ったりの2024年でした涙

 

もー今年に望むことはただ一つ

健康

に尽きますね!

 

いろいろ書きたかった記事も文字に出来ないまま

年が変わってしまいましたが、

今年は絶対アウトプットするぞ!と

決意も新たに、いろいろと情報をUPしていきたいと

思っておりますので、どうぞよろしくお願いします。