弓削道鏡の従者が開いた薬王寺 匝瑳市富岡 | 未知の駅 總フサ

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千葉県=東国は蘇我氏に縁の地であったという痕跡を探し、伝承・神社・古墳など諸々を調べています。

百嶋神社考古学にご興味を持たれた方はブックマークの「新ひぼろぎ逍遥」さんを訪ねてみてください。

今回も蘇我氏に関わりのある史跡です。

そして今回もお寺なんです。

 

 

東光山最勝院薬王寺

匝瑳市富岡808-1

 

小丘の上にあります

逆光でまったく見えませんが、山門に「東光山」と

書かれていました

昇りきると目の前に御堂

振り返ると昇って来た階段

御堂の右側

山門の脇に石仏がたくさん

反対側にも石仏やお大師様がたくさん

山門の境内側には寺紋でしょうか

九曜紋がありました

 

 

 

この薬王寺は「匝瑳郡誌」に記載されている由来によると

 

抑当寺並本尊薬師如来の根源を尋奉るに人皇37代孝徳天皇の御宇白雉4年法相宗の開祖定恵上人入唐し20余年の歳月を経て天武天皇白鳳6年帰朝の砌り唐土請来の霊像にて何人の御作と謂事を知らず帝王御信仰あらせられ代々内裏に伝う 清和天皇の御宇貞観5年菅相丞勅令を蒙り仁和寺境内に一宇を造立し尊像を安置し奉り源家守護の本尊とす 堀河院の御宇嘉保元年帝疱瘡を悩せ給うにより仁和寺性信上人に祈願を命じ八幡太郎義家に蟇目を命ぜらる義家勘定を蒙り此尊像へ祈願を込一昼夜精進勧行して参内し既に蟇目を鳴さんと欲するとき不思議なるかな薬師如来の十二神玉殿に影向し諸の魔軍を擢破す 天子御悩忽癒させ給うにより仁和寺性信上人を法親王に任じ八幡太郎願に依て薬師の霊像を拝領し夫より代々内仏壇に安置す 後白河院保元3年左馬頭義朝都をひらき関東へ下らんとするとき此霊像を山科安祥寺に隠し置 終に濃州野間の宇津美に於て家臣長田が為に害せらる 其後20年の星霜を過 高倉院の御宇治承4年文覚上人平家追討の院宣を乞請此尊像を尋求伊豆の国へ下り源頼朝に渡す 頼朝義兵を挙げ悉平家を平らげ天下静謐す 然共実朝仏法を不帰依 仏像を焼盡す折柄千葉家願に依て此霊像を拝領す 然して又代々千葉家に相伝う 正親町院の御宇天正18年太閤秀吉小田原陣の砌千葉家没落す 此折柄家臣飯島土佐守道済此尊像を隠し持福岡城の浪士ゆかりを慕い此所へ来り一宇の庵に一宿せり 是を弓削寺と名く 抑此弓削寺の由来を尋るに光仁天皇の御宇宝亀元年弓削道鏡大臣下野の国に流罪せらる 道鏡相果て後従者発心して諸国を廻り修に此所に一宇を造立し道鏡の菩提を弔遥年暦を過て飯島土佐守此地に身を忍び薬師の像を弓削寺へ納め檀家となり飯島市郎衛門と名乗終に承応2年巳の3月卒す 法名を道済居士と号す 天下泰平の後中根大守知行し此尊像の縁起由来を糺し御帰依に依て八畝歩の境内を除免し弓削寺を爰に移し東光山最勝院薬王寺と号す

 明暦三酉年八月 定海謹言

 

 

長っ(疲)

え~要約すると薬王寺の御本尊である薬師如来像はかつて定恵上人が唐から持ち帰った霊像で霊験あらたかであったことが説明されています。

最終的に千葉家の持仏となりましたが、天正18年の小田原征伐で千葉家が没落した際に家臣の飯島土佐守さん(一説には飯高土佐守さんとも)が持ち出して匝瑳まで逃れてきて、弓削寺に一泊します。

そして寺名の由来を尋ねたところ、あの弓削道鏡の従者主の菩提を弔うために開いた寺だと聞かされます。

飯島さんはこのお話に感銘を受けたのか、霊像をこの寺に納め檀家となりました。

その後中根さんがやはり由来を訊いて感銘を受けたのか帰依し、弓削寺を現在の匝瑳市富岡に移して名称を「東光山最勝院薬王寺」と号したそうです。

 

定恵は通説では中臣鎌足の子で藤原不比等の兄とされていますが、一説では孝徳天皇の皇子で有間皇子と兄弟であったといわれています。

出家したのは百済に人質として渡る際に「王位を継がない」という意思表示のためであったといいます。

孝徳天皇も蘇我大王家の血を引く方で、実は正妃は新羅の女王・真徳女王であったといい、その子である有間皇子・定恵・表米親王は蘇我王家と新羅王家の血を引くハイブリットだったという説があります。

 

その定恵が持ち帰ったとされる霊像ですが、偶然にも同じ蘇我氏の血を引く弓削道鏡の菩提を弔うために建てられた寺に置かれることになるなんて、なんという廻りあわせ何だろうと感動してしまいました。

道鏡も通説で言われるような人物ではなく、蘇我王家の血を引く皇子であり、やはり王位を継がないというアピールで出家します。自分の身を護る為にですね。それぐらい当時の日本は唐や百済の息のかかった勢力が圧倒的な権力を持っていたのです。

でも正当な王家である蘇我家に味方する勢力もまだあったと思います。それで道鏡と后である聖武天皇と孝謙天皇の遺児・高野内親王は抵抗しましたが、残念ながら敵わず、王位は百済の血を引く者に奪われてしまいます。

後世語り継がれている二人の関係に男女を匂わせている話は、日本を制圧している勢力がおもしろおかしく創ったデマカセです。

この時代だけでなく、妙に脚色じみた逸話の残る人物は、大体反対勢力によって辱められています。真の歴史を知るポイントでもありますね。

 

ここからは私の憶測のような妄想です。

江戸時代ぐらいまでは正史とされている歴史には残されていない真の出来事が語り継がれていたのではないかと思うのですよ。今でいう裏話ですね。現代みたいにテレビもラジオもスマホもない世の中です、言い伝えや口伝といったものがたくさん残っていた時代だと思います。

飯島土佐守さんが生きていた時代は太閤秀吉の時代ですから、蘇我氏の本当の正体とかまだ確実に伝わっていたと思うのです。

飯島さんは偶然泊った寺が弓削道鏡の菩提寺だという事や、主を弔うために寺を建てたという縁起を知って、従者に自分の姿を重ねたのかもしれません。それで定恵が持ち帰った霊像を弓削寺に安置することにしたんじゃないかと思うのです。

霊像が現在も同寺にあるかどうかは不明ですが、定恵がもたらした仏像が後に一族の者を弔うために使われた事は何よりも御供養になったのではないかなと思います。

 

今回も蘇我氏に関係のあるお寺の紹介でしたが

 

まだまだ

まだまだ

あるんですよ!

 

ホントになんで東国(=いなか)扱いだった千葉県に

蘇我氏関係の寺社とかが

こんなに?!

と思うんですよ。

でもこれこそが重要なヒントであり、

真実を拾うための手掛かりなんだと思ってます。

現地取材、がんばるぞーい!