久々に蘇我氏関係のUPです。
ところで前に記事にした茨城の健田須賀神社の牛頭天王が
お約束を守ってくださったようで、ここのところいつもより
記事を読んでくださる方が多くいらしていて嬉しい限りです。
皆さま貴重な一日の時間を当ブログに割いてくださって、
ありがとうございます!
今後はマヤ暦もUPしつつ、ライフワークである蘇我氏関係の
寺社についての考察を記事にしていきたいと考えております。
でもね、またね、ゆっくり更新になったりすると思うので、
その時には「あ、また取材かな」と思っていただけると幸いです(笑)
さてさて、今回は廃寺です。
すんごい気になっていて、なんとか跡地も見つけ出せたので
ご紹介します!
楊湯山蓮花院円頓寺
旧南郷村下横地字西妻
現在廃寺となっている円頓寺については「山武郡郷土誌」に記載があります。
楊湯山円頓寺
南郷村下横地小字西妻にあり、真言宗に属す。大同4年敏達天皇の後胤井出左大臣橘諸兄公の末孫日和大膳大夫景吉公将軍地蔵を此地に鎮せしに創まる。
一旦廃絶せしを建治の頃再興せしが、明治維新後再び頽廃に帰し今や堂塔一宇の残存するものなく。名刹も其の跡を偲ぶに由なし、唯左の縁起書を得たるままに大略を掲げん。
楊湯山略縁起
楊湯山蓮花院円頓寺は人王51代平城天王、大同元癸敏達天王の後胤井出の左大臣橘の諸兄公の末孫日和大膳太夫景吉公の建立なり。則大塔本堂御影堂且寺内の西に大木楊の下耳青石の浴室を構え湯治の用を便ぜり、是則楊湯の因縁なり。時桓武天王御宇延暦16年丑7月田村季人将軍東夷退治の時、景吉公供奉仕則ち空海御作の三寸五分の地蔵を冑の真向に戴き軍の奉行たりしに、地蔵尊の感応によって武略の達者徒ならず、不日に東夷をたいらげ畢、季人将軍は守本尊千手観音、浴湯耳清水寺建立し、景吉公当寺を建立す、則怨敵摧
破の為耳寺内の西耳愛宕山を祭り、将軍地蔵の法怠らず、東には稲荷五社を勧請して、民安全の御祓を捧げ、南には十足の舞台を築き、舞楽を奏し梵天帝釈を諫め奉る、舞台塚と云旧跡是なり、内には伊勢神冥御丈二尺に造立し、聖朝安穏且万民豊穣の法寔に景吉公の勲功武射一郡の官領一山繁昌時を得たり。
さらに同市内にある円頓寺の末寺であった不動院について
Wikipediaによると
また、本寺の円頓寺は大同4年(809)に橘諸兄の末孫日和大膳大夫景吉が建立したとされる古刹であるが、一旦廃絶し建治3年(1277)に再興され、天和年間(1681~84)には荻生徂徠が朱子学の基本書ともいえる「四書大全」を学んだところと言われる。しかし明治維新で再び廃絶し現在は公民館になっている。
すでに廃寺となっているので元地がどこかわからないかな~と思っていたのですが、スタンフォード大学で公開されている帝国陸軍地図を見てみたらありました!
上の地図を見ると確かに卍マークがあります。そして、もしかして後を引き継いだのかなぁと思われるのがこちら。
興円寺
山武市下横地921
公民館と小道を挟んでお隣に建っているのですが、マップ上に「興円寺」と表示されました。下横地の寺院として「山武郡郷土誌」には寺名がなく、同書に記載があった下横地所在のもう一つの寺院とも名が違うので、とても新しいお寺なのかもしれません。
円頓寺と同じ真言宗なので寺名はもしかしたら「円頓寺の後に興った寺」という意味かも。
左が何かの仏様で右は馬頭観世音
天満宮の石祠
何かの小社
何故このお寺を取材したかと言うと、橘諸兄の名が出てきたからです。諸兄は敏達天皇の後裔ですが、この敏達天皇こそ、正当な大王家であった蘇我氏の天皇の一人だと目しています。
その後裔だということは旧王朝の血縁ですからね、当時の橘氏が政界で力を持つことが出来たのもそういう理由があった訳です。
縁起書に戻りますが、田村季人将軍とは坂上田村麻呂のことで、文中に出てきた清水寺とは京都の清水寺のことだと思います。御本尊も千手観音ですし間違いないですね。
なので橘諸兄の末孫である日和(ヒヨリ・ヒワ)景吉さんも現京都に在住だった方だと思います。実際に日和姓は京都に一番多い姓氏です。
そうすると当地に円頓寺を建立したことが不可解に思えてしまうのですが、彼が橘氏の血を継ぐ者であることを考えると、これも説明がつくのです。
当時東国はまだまだ新政権と抗う旧王朝の残党が力を持っていました。そこで東夷=旧王朝勢力を制圧するために新政権は武人を派遣します。目的は旧王朝を指示する人々の制圧でした。
これまでの調査の中で上総には橘氏系や秦氏系など旧王家の血族ともいえる人々の姿がチラチラと見え隠れしているので、山武市(当地は旧成東町)も同様だと考えられます。
そこから考えると橘氏系の日和景吉さんが当地に寺を建てる事は協力を得やすかったと考えられます。
ではなんの為に建てたのか。
これは縁起書にもあるように湯治目的であったと思われます。
聖徳太子も湯治で四国の道後温泉に行っていますから、当時から治療として取り入れられていたのでしょう。
東夷征討の戦いで傷ついた同胞が傷を癒したりできるようにしたのかもしれませんし、日和景吉さん自身が傷を負ってしまい京都に戻れなかったのかもしれません。山号になるぐらいですから当時としても珍しい施設だったに違いありません。
また湯治の目的と同時に慰霊のためという意味もあったと思います。
新政権の命令で同胞に刃を向けなくてはならなくなった日和さんの心情を思うと、大変辛い任務であっただろうと思います。
彼は上司の田村将軍が新政権の為に東夷征討を清水寺に祈願し、無事に成就したので御寄進したのを知って、東国の同胞の為に動いたんだと思います。
そんな円頓寺でしたが、この建立を良く思わなかった新政権側の人間による妨害などで早い時期に廃絶してしまったのだと思われます。
時が経ち新政権の監視の目も緩んだ頃、彼が橘氏であり正当な旧王朝の流れであると知っている人の手により復興します。
でも結局明治になって廃寺になってしまうんですね、本当に残念です。なんかこの流れが前に記事にした土気の高海親王の菩提寺の展開とすんごい似てるんですよね。
闇を感じますね~。
これで円頓寺についても終わりかな、と思った方!
終わりじゃないんです(笑)
実は付近の別のお寺に名残があることを突き止めたんです!
それがこちら。
妙雲山密蔵院延寿寺
山武市上横地4532
寺院らしからぬカラフルな山門
山号は妙雲山
本堂
中には仏様が うーん、よく見えない
そして問題はこちらなんです
たぶん聖観世音菩薩像
嘘でしょう?
なんで外に出されてるの?
かなりお痛みです
境内の奥にありました
コレハナンダロウ
お寺の名前がある
覗いたらお大師様と目が合いました
いままでこんなに南国系な大師堂はなかったな
ここも境内なのかな?神社がまとめられてました
でも可哀想な状態でした
お寺とは管轄がちがうのかなぁ
なぜ延寿寺に来たのかと言えば、このお寺は廃寺となった円頓寺と同じ真言宗だったからです。
何か手掛かりがあったりしないかな~と思ってきてみたのですが、
ありました!
この板碑の裏に
「円頓寺之末寺」と刻まれています!
開山は足利時代とありました。
ここも円頓寺の末寺だったんですね。
引用で紹介した不動院も円頓寺の末寺であったので、
円頓寺はたくさんの末寺を抱える大きなお寺だったことがわかりました。
さらにこちらの石碑に説明文がありました。
延寿寺本堂改築記念
妙雲山密蔵院延寿寺本山を京都東山総本山智積院末寺として慶安4年1648年阿弥陀如来を本尊として儀式行事を行い正法興隆聖業に務め明治2年火災に逢い堂宇が灰燼に帰す 其の後仮本堂にて正法興隆に務め昭和46年住職並びに総代信徒相計り堂宇の改築に着手 昭和50年堂宇並びに山門完成に至る
残念ながら延寿寺についてしか刻まれていませんね。
でも円頓寺の末寺だったということは、廃絶の時にこちらに寺物が移動されたかもと思ったのですよ。
そこであの外にある仏像の存在です!
もしかして元々延寿寺の仏像ではないから
外にこのような形で置かれているのかなぁと。
円頓寺の後身の可能性の高い興円寺にも
持っていく事はできなかったんでしょうね。
千葉県の蘇我氏に係る痕跡は高海親王の高海寺や、
この円頓寺のように現代まで残っている物はほぼ無く、
跡形もなくきれいに忘れ去られています。
書物に記録が残っているのも奇跡だと思います。
これからも蘇我氏に関する地道な掘り起こし作業に励む所存です。
だってこんな風に消されている事が本当に疑問だし、
古代史において未開の土地扱いされていた千葉県に
こんなにたくさん煌びやかな方々の痕跡が残ってるなんて
信じがたい事じゃないですか!
絶対歴史的に隠されてる事がたっくさんあるんですよ!
的外れな妄想だと笑われても、いままで体験したことから
確信があるので、最後まで全うしたいと思います。
余談ですが、
先月の中旬ぐらいだったか、急に寒くなった日に
通勤電車の中から富士山見えるかな~と思って
窓から外を見てたんです。
で、ふと富士山は木花開耶姫がガッチリ守ってるっていうしなぁと考えながら富士山を見ていた時、富士山を両手で包む女神様のお姿が見えて、しかもご尊顔も、というか目元ですね、ぶわっと映像が見えたんです。仲間由紀恵さんみたいな、とっても美人さんでした。
神々しいっていうのはこういうことなんだー!と実感しました。
そんな事が朝からあって一日ルンルンでした(笑)