【ババ抜きのババ】
前回「ナゴノ守は、アシタカと同じで、決して悪じゃない。」と話した。・・(ブリキにとって、タタリ神はアダルトチルドレンそのモノに見える。暴走するナゴノ守を過去の自分に、その解決方法を探すアシタカを今の自分に重ねてしまう。)
ナゴノ守に限らず、エボシやシシ神たちも善玉なのか悪玉なのかよく分からない。「もののけ姫」全体を通して、善悪が混然としている。・・
今回は、アダルトチルドレンが、どーして利他の罠にハマのるかを考える。・・そして、「利他」に注目しつつ、アダルトチルドレンにむごい苦しみを与えているモノが一体何なのかをブリキなりの眼(まなこ)で見定め、この呪いを断つ道がないか探る。
【止められない止まらない・・】
以前「安全基地がないと、子どもたちは成長できない。」と話した。
自然の摂理は厳しく、成長できない個体や種は大抵滅びてしまう。たとえば、子馬は生後直ぐに立たなければ猛獣の餌食になるだろう。・・・だから、「安全基地がない」(=成長できない)では済まない。
その切迫した状況下で、子どもたちは「安全基地(=愛)をもらえないのは自分のせいだ。自分が至らないからだ。」と捉え、心に刻み込む。(=マインドセットを形成する。)
このように自分に課題を課すコト自体は、「成長したい。もっと優れたい。」という人間の普遍的な欲求(=向上心)による正常な反応だと思う。
ただし、「愛してもらえないのは自分せいだ。」という認識(=課題設定)は間違っている。
(↑すでに罠にハマってる。・・・ちなみに、愛してもらえないのはこの子たちのせいではなく、環境側が未熟なせいだろう。・・・だが、子どもたちは、そんなコト知る由もないし、仮に知ってても為す術がない。)
【欲求段階と安全基地】
心理学者のアブラハム・H・マズローは「欲求5段階説」を提唱した。下から順に①生理的欲求、②安全欲求、③社会的欲求、④承認欲求、⑤自己実現欲求といい、低次ほど優先度が高く強い欲求だと言う。(↓スペイン語だけど、表紙絵はそのピラミッド図。)
赤ちゃんや子どもたちは、この低次の欲求を自分一人では解消できない。月齢や年齢が低いときほど、たくさんの支援(=高い上げ底、つまり安全基地)が必要になる。
ここで、ふつうの子たちは、この支援を受けられるので、高次の欲求(=⑤:成長欲求)に取り組み、成長していく。
一方、ふつうじゃない(環境の)子たちは、この支援を受けられず、自力で低次の欲求(=①~④:欠乏欲求)に取り組もうとする。(←アダルトチルドレンと呼ばれる所以だと思う。)
でも、その取り組みは上手くいかない。・・・もしそれができるなら、安全基地も、親も、子どもという成長過程もいらないだろう。
【悪魔との契約】
乳幼児期の「安全基地」とは、主に授乳、抱っこ、見守りなどで、子どもたちの一番欲しい(=必要な)モノだ。つまり、子どもたちにとって「安全基地」は「愛」に映る。実際「おっぱいが欲しい。抱っこして欲しい。」は「愛してほしい。」と同じだと思う。
そこで、ふつうの子たちは、日々の生活の中で「この世界には本物の愛、無償の愛がある。」と学ぶ。
一方、ふつうじゃない(環境の)子たちは、日々の生活の中で嫌というほど「この世界には無償の愛なんて無い。」と思い知らされ、替わりに「本物の愛を得るには代償が必要だ。」と学ぶ。(←間違った認識を積み重ねている。)
このとき、まだ何も身に付けていない赤ちゃんが、何も採れなかったうさぎが、差し出せるモノ(=代償)とは何か?・・・
それはもう「自分の身(=ココロやカラダ)」しかないでしょ。
そして周囲の人から「愛を得られない苦しみから抜け出すには、利己的ではなく、利他的になるコトが大事。」と言われれば、迷わずその代償を差し出すだろう。・・・
その子たちは「それを差し出せば、本物の愛を得られる。本当の仲間になれる。」と思っている。・・・
だから、彼らは自分の身(=ココロやカラダ)がどうなろうとも、周囲の人たちのために尽くそうとする。「利他って、そういうコトでしょ。」と信じて。
でも残念ながら、その認識は間違っている。
たとえその身を捧げても本物の愛は得られない。そもそも本物の愛(=無償の愛)は、代償を払って得るモノじゃない。
だからこそ、アダルトチルドレンはその誤った信念(=自分のマインドセット)を見直す必要がある。
【不吉なコト?】
ヒイさまは、アシタカに「西の土地で何か不吉なコトが起きている。」と告げる。実際、平和な村を出て西に向かった途端、人間同士の醜い争いに遭遇する。・・・
だから、「不吉なコトが起きているのは、アシタカの村(=東の土地)では?」と疑う人はあまりいないだろう。
でもブリキはこの村が気になる。・・なぜなら、アシタカをアダルトチルドレンにした土地(=養育環境)だからだ。
ここで、長老たちの集会の場面を子育ての視点で見直す。たぶんこーだったらよかったんじゃないか(?)劇場・・・
≪先ず村を救ったアシタカに、「よくやってくれた。おまえは、わしらの自慢の息子だ。」と感謝を言葉にする。それから「死に至るアザ」のコトを伝え、抱きしめながら「悔しいな。」と一緒に悲しむ。
そして「これからの人生好きに生きろ。」と伝え、どんな道を選んでも応援すると励ます。
そのうえで、アシタカが真相を突き止めたいと言うなら、西の土地の出来事を伝える。さらに、旅立つときは何人かお共を付けて、村人全員で見送るだろう。≫
が、長老たちは、目の前の若者のコトより、「占い」「掟」「五百ゆう余年も昔のコト」の方が気になるようだ。・・・つまり、彼らの「態度」は、利他的じゃなく、成熟してないと言いたい。
【道の曲がり角】
2つの物語のエンディングは対照的だと思う。
「赤毛のアン」の終盤、悲しい出来事が起きる。突然マシュウが亡くなってしまう。マリラは、失意と失明の不安を抱え、アンにグリン・ゲイブルスを手放すつもりだと告げる。
すると、アンは、栄誉ある進学を辞退し、この家に戻り、教員になってマリラと家を守ると言う。(←かつてマシュウの「利他的」な振る舞いに救われたアンが、今度は自分が「利他的」になるという成長ぶりを示す。)
嬉しくもアンの将来を想って拒むマリラに、アンはこの判断は「自己犠牲」ではなく「自己実現」なんだと伝える。実際独学で勉強を続けると言い夢も諦めていない。
マリラの方も、アンの協力を素直に受け入れ、感謝や愛しいといった気持ちをしっかりと言葉にして伝え成長を示す。
一方「もののけ姫」の終盤では、アシタカが「サンは森で、私はタタラ場で暮らそう。」と言う。つまり、村には帰らないわけだ。・・・
一族の長となるべき若者があれほどの経験をしたのに・・・お供も居ないので、あの村には何も伝わらず、何も活かせず、何も変わらない。
やれ「占い」だとか「掟」などと言っている間に、折角の成長の機会を逃している。・・・自然や好奇心旺盛な5歳児は、成長しないモノにとても厳しい。・・・
【呪いを断つ道】
さて、見定めるべきモノは、一体何処にあっただろうか?
それは西の土地なんかじゃない。かと言って東の土地でもない。たぶん現代社会でも、家庭環境でも、(毒)親でも、ご先祖さまでもない。・・・自分自身の足元(=マインドセットの中で「自分の信念」だと思い込んでいる部分。)だと思う。
自分が赤ちゃんだったとき、窮地の中で、つたない手で積み重ねてきた土台の部分に向かって、「自分も背が伸びてちゃんと立てるようになったかな? 目の前の人のコトをしっかりと自分ゴトのように想い、少しは支えになれているかな? 自分はこれからどう成長したいかな?」と問うてみる。
「曇りなき眼でソレを見定めるなら、あるいはその呪いを断つ道が見つかるかもしれぬ。・・・ただ待つか自ら赴くかは決められる。」と、かしこみかしこみ思う。・・・<つづく>