<画像:umiphotoさん / 写真AC>
【泥沼の中のスポンジ】
やっぱりタタリ神に手を出すべきじゃなかった。・・・ナゴノ守を悪者にしたままにできず、つい弓を引いてしまった。が、このテーマに向き合うたびブリキの中でアザが濃くなる。
何とか鎮まってほしいので、今回はこのアザ(=アダルトチルドレンの苦しみ)の意味をブリキなりに考え、手放していく。
いま一度、そのむごい有り様を見る。・・・
子どもを「スポンジ」に、未熟な養育環境を「泥沼」に例えると・・・
「スポンジを泥沼に置く。するとスポンジは泥水を吸う。」
たったこれだけで、もう罠にハマっている。理不尽だが、スポンジ側に為す術はない。 たとえ、いい子になろうが暴走しようが、泥水を吸ってハマるしかない。創造主による完ぺきな罠(?)・・・
これが「世代間伝播」または「世代間連鎖」と呼ばれる仕組みであり、アダルトチルドレンには「祟り」「呪い」「罠」に映るモノ。
この仕掛けと「泥沼」を前にして、祟られた右腕のアザは黙っていられるだろうか?
無理でしょ。・・・
どーしてこのアザは黙っていられず、そんなに荒ぶるのか? その理由(わけ)を探る。・・・
【自他の存在を認め、共存する】
前回「自己犠牲的な利他は偽物だ」と言った。では「本物の利他」とは一体どんなモノなのか?・・・それらの概念を並べて書いてみると。
1) | 利己・・・ | ・・・ | 自分 | ○ | 、 | 他者 | × |
---|---|---|---|---|---|---|---|
2) | 偽物の利他 | ・・・ | 自分 | × | 、 | 他者 | ○ |
3) | 本物の利他 | ・・・ | 自分 | ◎ | 、 | 他者 | ○ |
つまり、本物の利他は、自分に「○ (=◎)」を残し、かつ他者より優先していいとなる。・・・でも、それは「利他的」じゃなくて「利己的」では?・・・とモヤモヤする?(※補足1)
ここで1)~3)の「○」の意味を考える。
大抵「○は、その人を想うコト」と捉える。・・・が、「想うコト(=意識)」は、分散・並列化できないため3)は成り立たず、1)と2)の関係だと勘違いする。
そこで、「○は、その人の存在を認めるコト」と捉え直す。(←実は「基本的人権」)・・・すると「認めるコト」なら並列化でき、1)と3)の関係も成り立つ。
【アダルトにふさわしい振る舞い】
この「自他の存在を認めるコト」を基本ルールとして、3)の世界をイメージしてみる。
今度は、鳴門海峡のような「渦潮」の集まりを想像してほしい。一つ一つの渦がクルクルと回りながら併存している。
ふと、小さな渦が近くの大きな渦に飲み込まれそうになる。が、このとき大きな渦が小さな渦の存在を認め、共存できるよう支援する。・・・
これが本物の利他の姿であり、この支援が本物の愛(=安全基地)なんだと思う。
ここで、交通規則のように「原則大きい方が利他的になる」とする。相手のために自分の渦を消さないように。(※補足2)
ただし、渦の大小関係はアンとマリラたちのようにめまぐるしく入れ替わる。つまり、必ずしも大人が大きく、子どもが小さいとは限らない。
日々のやり取り(=力の作用と反作用)に注目すれば、大人も赤ちゃんから学び、助けてもらうコトが沢山あると気づく。大人も子どもも対等な存在だと。それが「本物の利他」なんだと。
それを実感し実践するほど、親子(または仲間同士)はメキメキと育っていく。
【共同体感覚】
「本物の利他」について、別の捉え方をしてみる。もう一度「意識」を使う。並列化できなくても、対象範囲を広げ、1つにすればいい。・・・概念を書き直すと。
3’)本物の利他・・・((自分)+他者A)〇、他者B×
つまり、自分の「心の境界線」を年輪のように徐々に広げ、「自己中心」から「自己超越」へと幹を太くしていく。
アドラーはこれを「共同体感覚」と呼び、次のように考えた。(「アドラー『人生の意味の心理学』 (100分 de 名著)」(岸見一郎さん著)より)
(共同体感覚における共同体とは)さしあたって自分が所属する家族、学校、職場、社会、国家、人類というすべてであり、過去、現在、未来のすべての人類、さらには生きているものも、生きていないものも含めた、この宇宙全体を指している。
また、「学問のすすめ」(福沢諭吉著)の「一身独立して一国独立す」も同じだろう。・・・全体が成り立たなければ、個も成り立たない。・・・つまり、成長は、自分一人じゃなく、みんなでしなきゃダメだと言っている。
【真水の池の中なら】
ここで、スポンジは本当にこの負の連鎖を断ち切れないのか? 逃げ道はないのか?を考える。が、
在るでしょ。・・・
スポンジを置く処が「泥沼」ではなく「真水の池」なら、この連鎖は止まる。
これこそが、アダルトチルドレンの切望する「負の連鎖のない世界」だろう。・・・
でも、残念ながら「真水の池」は、この世界には存在しない。・・・たとえアダルトチルドレンとは無縁で、愛情一杯に育てられたとしても、この悲惨なニュースが飛び交う中で、泥と無縁ではいられない。せいぜい泥が濃いか薄いかの違いでしかない。(←自閉症がスペクトラムになる所以だと思う。)
なぜ無いのか?・・・それは、この世界がまだ成長途中で成熟してないからだろう。一人一人が成長を遂げなければ、全体も成長を遂げられない。
【完ぺきな罠?】
最後に、自分自身が立っている足元にある「泥沼」をもう一度観察してみる。
よーく見ると「泥沼」だと思っていたモノは、実は自分自身と同じ「泥水を吸ったスポンジの集まり(=屍の山?)」だと気づく。 また、自分自身もその一部になっていると気づくハズ。
ここで、「泥沼」は、「スポンジ」と「泥水」からできていると思い返す。・・・なお、スポンジは「人々(=子どもも大人も)」を表し、泥水は「間違った常識や信念、つまり未熟な社会スキル」を表し、真水は「正しい常識や信念、つまり成熟した社会スキル」を表している。
そして、このアザ(=むごい苦しみ)は、その社会の常識や個人の信念が「正しくないコト、間違っているコト」(←「無明」という。)を伝えようとしている。
それは、その人たちの信念が間違っている限り、絶対に止むことはない。つまり、これは、創造主による完ぺきな愛(=支援)だったわけだ。
【夢だけど、夢じゃなかった】
泥沼に置かれた以上、泥水を吸うコトは誰にも避けられない。でも、吸った泥を浄化するコトは、(本人がその気になりさえすれば)誰にでもできる。
この自分が吸った泥水を真水に浄化していくコトこそが、「個の成長」になる。
そして、一人一人が成長し、グループや世代を超えて積み重ね、いつしか「真水の池」を実現させるコトこそが、「全体の成長」になるのだろう。
「こんな理不尽でむごい苦しみを抱えた子(=汚れたままの自分も)なんて、一人も居ない世界、二度と生み出さない世界」は、夢だけど、夢じゃない。
その曇りなき眼に、その美しい心に、そんな世界が映っているだろうか? 苦しんだ分だけ、在り在りと浮かぶだろうか?・・・
だとしたら、それはアザのおかげだろう。それはずーっと見守り、叱り、黙ってなかった。「生きろ。」と、しかも「ボーッと生きてんじゃねーよ!」と。
「自分は自分らしく、他者は他者らしく、互いに支え合い、ちゃんと折り合いをつけて、みんなで生きろ。そして、それを脅かすモノに決して飲み込まれるな。」と。・・・
その声援に気づき応えるコトこそが、この呪いを断つ道なんだと思う。あとは、その曇りなき眼で物事を見定め、決めてほしい。掟(おきて?)に従い確証は持たぬ 健やかにあれ。
【補足1:泥に花は咲く】
昔々、われわれと同じコトを考え、同じようにモヤモヤした人たちがいた。・・・「セルフ・アサーション・トレーニング」(菅沼憲治さん著)の中から、青山俊薫さんのお話(原典は「サンユッタ・ニカーヤ」)を引用する。
古代インド大陸の、とある王国の王様は「この世界の中で、一番大事なものはなんだろうか」ということを、常に考えていました。・・・そうこうしているうちに、ようやく一つの結論にたっしました。それは「自分だ」ということです。
ところがそのような結論に達した瞬間から、王様はなぜだか居心地が悪くなってしまったのです。・・・お后様を呼んで「どうにかできないものか」と相談しました。・・・考えて考え抜いたあげく、お后様も王様と同じように、「一番大事なものは自分」という結論に達したのでした。・・・
この古代インド大陸には、シャーキアムニという評判の高い哲学者がいます。・・・(二人がこの師に相談したところ、尊師は)やおら口を開いてこういったそうです。
「あなた方の結論は正しいのではないでしょうか」と。さらに続けて「相手の人も同じように、自分が一番大事だと思っている。したがって、双方がその気持ちを大事にしていくことが、この世の中で一番大事なことではないでしょうか」
・・・泥沼だけど、泥だけじゃなかった。
【補足2:他人に迷惑をかけちゃダメ?】
自分の存在を脅かされたとき、周囲に助けを求めてもいい。これも大切なルール。
「他人に迷惑をかけちゃダメ」と言うのは間違った社会通念で、正しくは「誰もが他人に迷惑をかける、だから感謝や(成長の)努力を忘れてはダメ」だろう。
本物かどうかをアタマで見分けるには、「コレって共存に繋がるかな?」とチェックすればいい。もし、自他どちらかの存在を脅かすなら、それは「本物」じゃない。
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