「室町幕府は鞆で興り、鞆で滅んだ!」
前回、室町幕府が鞆で興ったというのを書きました。
では今回は鞆に滅ぶを見ていきましょう。
第1代将軍、足利尊氏から
時は流れ、流れて~
第13代将軍、足利義輝(よしてる)の時代。
時は下克上(げこくじょう)の時代でした。
下克上(げ こく じょう ) とは?
下の者が上の者を倒すこと。
特に,室町中期から戦国時代にかけてあらわれた。
伝統的権威・価値体系を否定し,力によって権力を奪い取るという社会風潮。
国一揆や戦国大名の多くはこうした風潮の中から生まれた。
家臣が主君を倒して権力を手にする時代、
そんな下克上の時代、
第13代将軍、足利義輝は家臣に殺されます。
そして、家臣たちは将軍のいとこにあたる義栄(よしひで)を第14代将軍にすえました。
その時、
怒ったのは足利義輝の弟、
義昭(よしあき)です。
↑第15代将軍、足利義昭
義昭は弟である自分が将軍になれなかったことに怒りました。
義昭は有力大名に手紙を書き、自分を将軍に据えるよう頼みます。
しかし、誰も相手にしてくれません。
しかし、ただ一人、立ち上がった人がいます。
織田信長です。
二人の野望は一致します。
(もちろん京に攻め上るまでですが~)
こうして、
1588年、信長は義昭を将軍に立てて京へ上りました。
しかし、二人の思惑はすぐに衝突します。
義昭は野心家でした。
飾りだけの将軍職に満足する男ではなかったのです。
足利義昭『信長を打て!』
義昭は諸大名に「信長を打て!」とさかんにたきつけました。
また実際に兵をあげたので信長はこれを包囲し、義昭は降参しました。
しかし、信長は許さず、義昭を追放しました。
ここで毛利(もうり)が出てきます。
織田信長は天下統一を目前にしていました。
しかし、その前にたちはだかっているのが中国地方の覇者、毛利でした。
その毛利が義昭を受け入れます。
毛利元就(もうりもとなり)
安芸(現在の広島県西部)の小規模な国人領主から中国地方のほぼ全域を支配下に置くまでに勢力を拡大、中国地方の覇者となり「戦国最高の知将」などと後世評される。
用意周到かつ合理的な策略及び危険を顧みない駆け引きで、自軍を勝利へ導く稀代の策略家として名高い。
子孫は長州藩の藩主となったことから、同藩の始祖としても位置づけられる人物である。 wikiから引用
毛利は中国地方の覇者でした。鞆の地も毛利が支配していました。
そういう訳で、毛利に拾われた足利義昭は鞆へ逃げて来たのです。
そんな毛利家には毛利元就(もうりもとなり)からの遺言とそれにもとづく戦略がありました。
それは、
「二、三か国取られてもよいから一発勝負をかけて中央に進出してはならぬ」
というものでした。
義昭を保護したのも政治的判断、人道的配慮からで、信長と違って義昭を利用して天下を取ろうとは思っていなかったのです。
(毛利家、何か面白そうですね。)
しかし、義昭にしてみれば、毛利のやり方は手ぬるく、もどかしく感じます。
義昭は再興したいのです。
足利は鞆で興った!
ここで、再興するのだ!
しかし、毛利は動きません。
義昭は再興の夢が遠ざかるほど、厳しい表情になっていきました。笑いを見せることも無くなりました。
そんな日を過ごしていたころ、
1582年、本能寺の変が起きます。
本能寺の変~
明智光秀が謀反を起こし、信長を倒したのです。信長は本能寺で亡くなります。
ついに信長は死んだ!
義昭は笑いが止まりません。
「これで誰も自分を阻む者は無い!
天下は自分のもの!」
だが‼
しかし‼
BUT ‼
世の流れは義昭の思いとはるかにかけ離れて動きます。
豊臣秀吉は電光石火のごとく動き、光秀は滅び、天下は秀吉のものとなりました。
義昭が喜んだのも、ほんの数日のことでした。
天下は義昭のもとに来ることはなかったのです。
足利の落日…
義昭の室町幕府再興の夢は消えた。
室町幕府130年余り…
足利は滅びます。
「足利は鞆に興き、鞆に滅ぶ…」
鞆二千年の歴史の一ページでした。
~鞆の歴史話、次回は大伴旅人です。