日本旅行 瀬戸内の旅 鞆の浦⑤ 大伴旅人 | 韓国旅行記

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鞆(とも)の「対潮楼」の石垣の下に歌碑が立っています。

万葉歌人 大伴旅人(おおとものたびと)が詠んだ「むろの木」の歌です。



  わぎもこが見し
  鞆(とも)の浦のむろの木は
  常世(とこよ)にあれど
  見し人ぞなき

     ……万葉歌人 大伴旅人


「対潮楼」を見学した後、石垣の下にこんな歌碑が立っているのを見つけました。

こんなところで大伴旅人の歌碑を見るとは思ってもみませんでした。

ここに何で大伴旅人の歌碑が?
そしてこの歌の意味は?

どうも気になります。

大伴旅人という歌人は
どんな人だったのか?
そしてこの歌はどんな内容なのか?
どんな状況で詠まれたのか…。

調べてみることにしました。

奈良時代は727年ごろ~

大伴旅人は九州の大宰府(だざいふ)の長官に任じられ、船で瀬戸内海を九州に下っていました。はっきり言えば左遷ですね。

その奈良の都から九州の大宰府への道の途中、潮待ちの港・鞆へ立ち寄ったのです。

その頃、ここには大きなむろの木がありました。(今はありません)




旅人は左遷され九州に向かう途中、ここ鞆で潮待ちをします。

左遷され九州に向かう道中でありながら、
妻と子を連れていた旅人はこの大きな、むろの木を見ながら潮待ちの時を楽しく過ごします。

潮の流れが変わり、旅人は鞆を後にして九州の大宰府へ赴きました。

さて、旅人の大宰府での生活はどうだったのでしょうか~

旅人は大宰府に来て、はじめて和歌を作り始めます。

『この世にし
 楽しくあらば
 来む世には
 虫にも鳥にも
 われはなりなむ』

まあ、なんという歌でしょうか。
旅人の人柄が伺えます。

「楽しくいきましょう。楽しく!」

そんな旅人のセリフが聞こえて来そうです。


旅人が九州に左遷された時、左遷の先輩がいました。
山上憶良(やまのうえのおくら)です。

憶良は一足さきに、ここに来ていました。

さて、憶良はどんな人だったのでしょうか?

憶良は、真面目で厳しい倫理観の持ち主でした。

山上憶良は、他の誰にも見られない独特の歌を歌い続けました。

憶良は儀礼的な歌を歌わず、
叙景的な歌をも歌わず、
万葉人がそれぞれに心をこめた愛の歌も歌わなかったのです。

そんな人がいたとは少しビックリです。

では、何を詠んだのか?

彼が歌ったのは、世の中の貧しい人たちの溜息であり、子を思う気持であり、老残の身の苦しさでした。

山上憶良の歌も旅人と同じくここ大宰府に来て書かれたものがほとんどです。


旅人と憶良、二人の性格は真反対でした。

しかし、二人は不思議によく気が合いました。

旅人
『役にもたたないことを
 思ってもしかたがない。
 それより、
 一杯の濁り酒を
 飲むがよろしい』

旅人の歌からは人生を明るく、楽しく、笑いながら生きる生き方を感じます。


それに比べて、憶良は?

憶良
『貧窮問答の歌』
を詠みます。憶良の代表作でしょう。

この長歌は、貧者が別の貧者に語りかけるという構成をとって歌われます。

まず、貧者が己の身の貧しさを歌い、
その問いかけに応える形で、もっと貧しい貧者が、己の悲惨さを歌う。

この貧者たちは、億良その人とは無縁の、名もなき庶民たちです。

しかし、憶良は庶民の生活苦に目と心がいき心を痛めるのです。

憶良は人生の最晩年に、地方長官として庶民の生活にじかに接し、その困窮振りに心を動かされてしまうのです。

そこに、山上憶良という人がどういう人だったのかが見えてきます。

そして、この時代の庶民の生活が塗炭の苦しみであったことを知ることが出来ます。

憶良のような歌は、ほかの万葉歌人には決してみられません。

しかも、地方長官の立場にありながら、人々の生活の悲惨さを詠んだ歌を朝廷の高官に提出し、その惨状を訴えようともしたのです。

あり得ない事を憶良はします。

憶良は六十代後半、もはや先のない人生ではあったでしょう。でも、燃え尽きるようにしてこのような行動に及びます。

そんな行動をする山上憶良とは、希に見るスケールの大きな人物だったのではないでしょうか。

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このように憶良と旅人は正反対な人柄でした。

人々の暮らしに心を痛める憶良と違い、人生は楽しくが旅人の生き方でした。

そんな明るく楽観的な旅人でしたが、やって来た大宰府で、しばらくして、妻を病で亡くします。

この時から旅人は変わります。あの明るく楽しくがモットーの旅人が世の無常を歌い出すのです。

『世の中は空しきものと知る時し
 いよいよ、ますますかなしけり

妻を失った旅人は悲嘆の中にはまりこみます。

この頃、奈良の都では、
藤原氏が長屋王の追い落としに成功し、長屋王は自害します。

藤原氏は政敵を完全に取り除いて権力を手にしました。

政治が藤原氏のもとで安定し、旅人は大納言に任じられ、都へ帰ることになりました。

730年、旅人は大宰府を立ちました。

そして再び鞆へ立ち寄ります。

あの時と変わらず室(むろ)の木が生い茂っています。

数年前、私の横には妻がいてこの室の木を一緒に見たものだ。今、その妻はいない。

旅人の目から涙があふれます。後から後から涙があふれでて来ます。



「常世※を知るか、室の木よ。
 妻がいまどこにいるのか…
 教えてくれ…。

常世※
~死後の世界、永久に変わらない神の域。

そして、歌を詠うのです。

『わぎもこが見し
 鞆の浦の室の木は
 常世にあれど
 見し人ぞなき

 ※わぎもこ~わが妻

歌の意味
~私の妻が見た鞆の浦の室の木はいつまでもあるだろうが、それを見た妻はもうこの世にいない。

他にもこんな歌を残しました。

「鞆の浦の磯のむろの木を見るたびに、
共に見た妻のことを忘れられるだろうか

「磯の上に根をはわすむろの木よ、
妻はいまどこにいるかと聞けば教えてくれるだろうか。

妻を失った旅人はもうボロボロの感じです。

旅人は都へ帰りますが、翌年、妻を追うように亡くなります。

  (大伴旅人の回 終わり)
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