鞆の浦に来たきっかけは、
朝鮮通信使が書き残した、
『日東第一形勝』
この言葉でした。
我が国より東で一番、景色のいいところという意味です。
どんな景色なんだろう?一度観てみたい❗
そんな好奇心から鞆の浦にやって来ました。
朝鮮通信使が通った道を見てみます。
今のソウルから日光まで、
韓国のソウルー釜山(プサン)ー対馬ー
壱岐ー相ノ島(あいのしま)ー下関ー
瀬戸内海ー三田尻ー兵庫ー大阪ー京都ー
江戸ー日光
だいたい、この道のりだったようです。
朝鮮通信使はこのような道程の中、数々の港に寄港しただろうに、鞆の浦の景色が一番だったと書き残したのです。
どんな景色だったのでしょう?
建物の柱が額縁がわりになって、3D絵画のようでした。ここに鳥でも飛んで来ようものなら動く3D絵画ですね~
しかし、当時の景観は今とは違ってたようです。
当時はこの寺の真下まで、海が迫っていて、その間に中之島という島があり、その島にはむくの大木が生い茂っていたそうです。
当時の景観は想像するしかないですが、思うにもっと自然を体感できる様子を見せていたのではないでしょうか?
遠くに山が見え、真下まで海が迫っていて、その間には七つの島があり、その島々には人を圧倒する大木が生い茂っている。
そして宴会が始まってしばらくすると日が沈んでいき、辺りを夕陽が赤く照らしていく。
絶景ですな~✨
そんな絶景に朝鮮通信使達はいたく感動した。
そして、彼等は数ある寄港地の中で、ここ鞆の浦の福禅寺の対潮楼の景色がダントツだったと言ったのです。
それがこの言葉です\(^o^)/
『日東第一形勝』
そして、この言葉を書にして残していきました。
人は美しく圧倒される景色に出会った時、心を動かされます。
不思議です。何故だろう?
私にはそれがとても不思議です。何が私たちの心にそんな感動をもたらすのか?
過去の賢人達の言葉に何かヒントがないものかと調べてみました。
いくつか言葉を拾ってみます。
★
自然は至上の建築家である。自然の一切は最も美しい釣り合いを持って建てられている。
ロダン(フランスの彫刻家『考える人』の作者 / 1840~1917)
★
人間が完全に自然から離れることはない。あくまで人間は自然の一部だ。
エーリッヒ・フロム(ドイツの社会心理学者、精神分析学者 / 1900~1980)
★
自然の中には、僕の愛に値しないものは何もない。一人の人間も、一本の木も。
ロマン・ロラン(フランスの作家、ノーベル文学賞受賞 / 1866~1944)
★
人間の心身は自然と密接に関連しあっています。だから、健全な心身を保ちたいなら、大自然のパワーを吸収する必要があります。
ジョセフ・マーフィー(アイルランド出身の宗教者、著述家 / 1898~1981)
★
自然が作り上げたものこそが美しい。我々はそこから発見するだけだ。
アントニ・ガウディ(スペインの建築家 / 1852~1926)
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自然は認識の対象でもなく、意志の素材でもない。自然はそのうちに人間を包んで生きているのである。
唐木順三(日本の評論家、哲学者 / 1904~1980)
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医術は患者を慰めることにあり、自然は病気を治す。
ヴォルテール(フランスの哲学者、作家、文学者、歴史家 / 1694~1778)
★
自然はわれわれの知性にとっては限りなく驚嘆すべきことを最高度の容易さと単純さとで行なっている。
ガリレオ・ガリレイ(イタリアの物理学者、天文学者、哲学者 / 1564~1642)
★
人はたとえ自然に反抗する場合でも、自然の法則には服従する。逆らってみようというときでさえ、自然とともに働くのだ。
ゲーテ(ドイツの詩人、小説家、劇作家 / 1749~1832)
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自然の風景に恍惚としたときなどに意識に切れ目ができ、その間から成熟を待っていたものが顔を出すらしい。
岡 潔(日本の数学者/1901~1978)
いくつか自然についての言葉を拾い読みしてみました。
人は疲れた時、自然の中で過ごすと癒されると言います。そういうパワーが自然にはあるのでしょうね。
そういえば、空海もお寺を建てる時は場所にこだわったと言います。景観を重要視しました。
ここ福禅寺は誰が建てたのでしょうか?
福禅寺は空也上人の開基にして平安期創建の古刹とあります。
空也上人でした。
数千年、数億年の月日を費やして出来上がった自然美を取り入れたお寺。
空也上人の言わんとするとこを感じとりたいものです。
空也(903~972)
平安時代中期の僧。阿弥陀聖(あみだひじり)、市聖(いちのひじり)、市上人と称される。口称念仏の祖、民間における浄土教の先駆者と評価される。
門弟は、高野聖など中世以降に広まった民間浄土教行者「念仏聖」の先駆となり、鎌倉時代の一遍に多大な影響を与えた。
朝鮮通信使の始まりは室町時代からで、江戸時代には12回来ました。
この『日東第一形勝』は8回目の通信使の時に書き残したものでした。