初心者同志 -26ページ目

そういえば関東ローカル ④

【第011回】

1988年.12月23日放送

構成作家:廣岡豊・和泉光晴・藤沢めぐみ

    〝〝クリスマス 今夜こそ決めてやる!〟〟


ユーミンの歌を唄いながらはじまる、危険なオープニングはいまだ続けら

れているものの、ピアノの前で毎回行われていた全員でのオープニング

トークは廃止され、歌い終わると同時にみんなでその日のテーマをコール、

そこから怒涛の勢いで次々とショートコントが披露されていくスタイルに

変わり、番組のテンポは一気に向上。

                     ✤ 

番組では初めての、最初から最後までを1人で演じきるショートコント、

【メリークリスマス】では、野沢はハイテンションでクリスマスの準備に

勤しみ、ツリー、シャンパン、ケーキと、準備万端となった部屋の中を

見回して、来客者の予定などない、1人きりの自分にポツリと、

「なにか足りない・・・・・・」

                     

【クリスマスプレゼント】では、恋人と一緒に歩きながら、プレゼントについて、

「サンタクロースに頼んでおいたから、今日は靴下を枕元に置いて寝るんだよ、

お祈りも忘れずにね」

と、ロマンチックに語る彼氏(内村)に、

「かわいい・・・」

と、盲目の愛で思わず賞賛もためらわない彼女(野沢)だが、照れるなあ、

と恥ずかしがりながら彼が打ち明けた一言、

「だって、ママに毎年、そう言われてるからさ」

に、自分が大きな過ちをおかしていたと、初めて気づく。

                      ✤   

放送日の翌日はクリスマスイブ、という華やかさがそうさせたのか、それ

とも、ただ番組が成熟してきた証なのか、その後、番組が11時台に移動

したあとも人気を獲得しつづけることになる、人気キャラクターたちのコント

が、何故かこの回の放送に集中する。

                       

第3回の放送で初登場を果たしたときから、すでに揺るぎないキャラクター

性を見せつけていた浴衣兄弟は、フォーマルな服装で決めている男女が

集まるホテルのクリスマスパーティーの会場にも、相変わらずの浴衣で

乱入し、会場のボーイ(内村)に、

「兄ちゃん、梅ワリは?」(松本)と訪ねるも、丁重に、ここには置いてござ

いません、と説明されると、

「何や、まるで神隠しにおうたみたいやな」

それ以外でも、

「アニキは○○でキューッとやるのが好きなんや」(浜田)

「サッサとおかえり!ナニワの浴衣兄弟!」(内村)

という定番セリフもすでに登場し、ノリノリで、場の空気を読めない兄弟を

アドリブで演じていく浜田、松本と、それらをどこまでも冷たくあしらいつづ

ける内村との強い対比は、脇役として後ろに登場していた他の出演者たち

に、余計な芝居を挟む余地を、まったく与えないほどの完成度を見せる。

                     

そして【クリスマスツリー】では、必死にクリマスツリーの準備をしている

息子(内村)に、帰宅してきた植木屋の父(浜田)が職人魂を刺激されて、

バランスが悪いな、とツリーをハサミでバッサリ。

「なにするんだよっ!」

と、当然の抗議をする息子に、

「ガタガタ抜かすなあっ!こちとら、江戸っ子じゃあ、ボケェッ!」

と、勢いあまって容赦ない関西弁が飛びだし、息子は思わず、

「本当の父さんじゃない・・・・・・」

と、悲しげに呟いて、この父ちゃんと息子の確執のドラマは、まだまだ続く

ことを予感させた。


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さらに、【タキシード】と、タイトルがそのままの、男性陣4人がお揃いの

タキシードを着て、1本のマイクでベタな漫才に挑戦する、タキシーズも

この回が初登場。彼らも11時台の放送時まで人気を継続させる人気

キャラクターになっていく。

                      ✤ 

のちの音楽コーナーにつながる、【ヤマタノオロチ合唱団】では、すでに

戸惑うことがないくらい竜の扮装に慣れ親しんでしまった出演者たちが、

コーナー開始早々、すでに今日は収録が1時間もおしていることを暴露。

しかも、「これまでの中で1番難しい」、という課題曲を事前の練習は一切

なしで歌い上げねばならず、半ばあきらめに近い態度と覚悟の中、1人、

楽なポジションにいてハリセンを振るだけの浜田を、全員で一致団結して

非難することにのみ力を注ぐ。

                      

そして、【バックステージの人々】の最終回をうけて、先々週から新しく始

まった連続シットコム、【熱血記者 南原一郎事件ファイル】

今までにないくらい凝った小道具とセットで作られた、新聞社のデスクは

まるで本物さながらだが、実際にここで展開する物語はほとんどなく、

すでにほぼ、宝の持ち腐れ状態に。

前作から引きつづき顔にメイクをして登場した松本は、飲んでいるお茶を

「燃料のハイオク」と、うそぶき、使えない新人の南原には、ロケットパンチ

するぞ、と脅すなど、なぜか、人間かどうかも怪しいキャラクターであること

を強調するが、長続きしそうな気配はすでになく、これまでは二枚目の青年

役を数多く演じてきた内村が、ついに顔にメイクをして登場させたキャラクター、

ムラさんが逆に躍進。

以降、ずっと【夢で逢えたら】の中では、舞台を変えつつも、幾度となく登場

することになる名物キャラクターの、これが初登場となった。


そのストーリーは、真剣になって悩む上司たちに、自分だけが重大事件から

外されていると思い込んだ南原だが、実は彼らが迷っていたのは、来年の

年賀状の絵柄をどうするか、だったことが判明。

来年はヘビ年だから、「今年もよろしくニョロ、と書こう」、と言った松本は、

”ニョロ”、の語感が、思いがけず面白く響いたことで、笑いが起きたことを

見逃さない。

内村が低い声でナレーションをしてコントを締め、いくつかの可能性と、いく

つかの定番を生み出した、この回の放送を終わらせる。

                        ✤

エンディングでは、今年最後の放送ということで、これまでやってきた放送を

総括していくメンバー。

「最初に始めたころはどうなるんかな、と思った」と、松本は語るも、メンバー

同士の会話には、そろそろお互いへの変な敬語もなくなり、容赦なくツッコミ

も飛ぶようになっていて、最後、

「テレビをご覧んの皆様、来年もよろしくお願いしまーす!」

と言って番組を終わらせたのは、これまで番組の進行役らしいポジションに

いた清水ミチコに代わり、ついに自分が、最も力を発揮できるポジションを

確保しつつある浜田だった。


番組は間違いなく、誕生、変革のときを経て、進化と安定のときに向かって

動き出していることを予感させている。





                


                  【夢で逢えたら】全放送レビュー中 》》

そういえば関東ローカル ③

【第001回】

1998年.10月14日放送 

構成作家:廣岡豊・和泉光晴

    〝〝 もうはじめてなんてコワくない! 〟〟


モノクロ映像の中、画面の手前に映し出されているバラの花だけが赤い

色をつけているという、ちょっと狙いすぎなオープニングから、ユーミンの

〔守ってあげたい〕を真顔で歌いつつ、スタジオの中心でピアノを演奏して

いる清水ミチコの周りに、ゆっくりと集まってくるメンバーたち。

そこからは、これからコント番組が始まるのだ、という兆しは何ひとつ感じ

られず、笑顔ひとつない出演者たちの表情に、見ているこちらが不安と

焦燥に苛まれる。

                   ✤   

まるでCG合成をするために、ブルースクリーンを前にして撮影をしている

のかと思うくらい、どこまでも殺風景なスタジオで、ベッドを1つだけ置いて

病室、ベンチを1つだけ置いて公園と、ほんとうに最低限といえる小道具

のみで、その場の状況を説明しながら、次々と披露されていくコント。


〝舌づかいの怪しい看護婦〟〝彼女と最後までいきたくて、恋愛の

マニュアル本を参考にする青年〟と深夜らしい、怪しいネタがつづき、

なんて低予算、なんて地味な番組なんだろう、と思っていると、小さな

テーブルの上にスタンドライトが1つだけが置かれた、コントでは定番とも

いえる状況で、スーツ姿の松本と、学生服姿の内村が向きあって登場する。

                    ✤

「隠しとおせるモンじゃないだろおっ!」

「おふくろさんが心配してるぞ」

とスゴむ松本に、ついに堪えきれず泣きだす内村。

「そうか、喋る気になったか」

とノートを開き、

「で、どこなんだ」

と訪ねたのは、じつは、第1志望の学校名。

第1志望は望みが高すぎて可能性は薄いが、第2志望には無難なところ

を選択していた学生の内村。

「その手があったか」

と、温和な指導者の顔で納得してみせて終わるかと思えたこのコントは、

松本がそこからアドリブを発揮して、さらに第3志望を訪ね、思わず返答

につまって笑ってしまう内村に、

「笑顔が戻ったじゃないか」

と突っ込む松本で締められる。


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                   ✤

それでもまだまだ、脚本どおり、予定調和らしいコントがつづく中、オール

キャストで披露された連続シットコムの第1回、【バックステージの人々】

松本がまだまだ控えめながら、明らかにアドリブなボケを絶妙な間で披露

しはじめると、それに感化されたように、他のメンバーもアドリブで応じだし、

世界観を広げていく。

コントはテレビ局の狭い楽屋内のみを舞台にしながら、歌謡界の大御所(松本)、

意外と生意気なその付き人(南原)、無知な新人アイドル(野沢)、腰の低い

そのマネージャー(浜田)、やる気のないAD(内村)、ベテラン女優(清水)が、

それぞれに、第1回から強い個性とキャラクター性を発揮。

ついに見守っていたスタッフからも笑い声を漏れだして、無名の新人たち

は、ようやく力強く、新しいお笑い番組の世界へと漕ぎだした。


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【第002回】

1988年10月21日放送

構成作家:廣岡豊・和泉光晴

    〝〝 たまにはグルメのこと まじめに考えてみよう! 〟〟


相変わらず、出演者の戸惑いが、画面を通してストレートに伝わってくる

ような、全員でマジメに歌いながらの番組オープニング。

今回のテーマはグルメ、ということで、曲もユーミンの〔チャイニーズ・スープ〕

しかし、ピアノ前に集まって、早速はじめられたかと思ったオープニングトーク

は、相変わらず赤の他人同士が話しているみたいによそよそしく、浜田は自分

より年上の清水を当然のように、「清水さん」、と敬語で呼んでいるような始末。

その清水が、年上のお姉さんふうに番組の進行役を務めるという、かなり無理

がある役割設定も、視聴者の不安をさそう効果しか与えない。


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                   ✤

当時は2本録りで、まだ全員が顔合わせしたばかりの第1回と、じつは状況

が変わっていないのだ、と思えばそれも仕方ない、と納得してしまいそうに

なるが、これがコントとなると、すでに変化の兆しは見えはじめている。


これといって目を見張るような設定も、注目すべき中身もないコントばかり

なのに、ひとたびメンバーたちがアドリブをはじめると、最初に用意されて

いた予定調和は一瞬にして吹き飛んで、予想できない展開を見せはじめる。

                   ✤

【究極のグルメ野郎】では、お腹をすかして行き倒れている内村に、なにか

食べるものを用意してあげようとする浜田だが、内村が高級な食材ばかり

を指定するので、呆れた浜田が見捨てて立ち去っていく、というだけの単純

なショートコント。

しかし、内村が始まってすぐの長ゼリフに失敗をつづけると、浜田もついに

堪えきれず笑いだして、たて続けにNGに。

ようやく、よどみなく一気に言い切った内村は最後、空腹のために意識を

失っていく演技のあと、辞世の句でも残すように、「言えてよかった・・・・・・」

と、正直な気持ちを吐露する。

番組スタッフも心得たもので、最初のNGシーンも含めてこのコントを放送

することで、内村の最後の言葉を生かすと共に、ほとんど初めて顔をあわ

せたばかりの出演者たちがすでに結束し始めている様子を披露してみせた。

                    ✤

【バックステージの人々】の第2回では松本が、1番重要な自分の最後のオチ

のセリフを完全に忘れるという大失態をするも、周りのメンバーたちが一斉に

ツッコミながら誘導し、松本も、「そうか、あのページやな!」と尊大な大御所

のキャラクターを貫き、自分に非などない、と言わんばかりでいる為に、さら

にメンバーからつっこまれることになる。

しかし、そんなアドリブの応酬が繰り広げられる状況にあっても、お互いに

自分たちのキャラクターを忘れることなく、むしろ生かそうとするメンバーたち

の気迫は、コントに今までにない勢いを与え、スタジオ内はこれまでにない

大きな笑いに包まれていく。





                


                  【夢で逢えたら】全放送レビュー中 》》  

そういえば関東ローカル ②

【冗談画報】とは、1985年10月から深夜0時25分にフジテレビで放送

されていた番組。

”笑いと音楽の融合””テレビとライブの融合”を標榜としていて、毎回

スタジオにお客を入れ、ライブハウス風に何もないステージの上で、お

笑いに限らない幅広いジャンルから、まだ世間一般ではほとんど認知

されていないような新人ばかりを呼んで、自由にパフォーマンスを披露

させるという、とても珍しい番組だった。


当時の出演者を見てみると、いずれもまだ無名だった、あの米米クラブ

がいる、いとうせいこうがいる、てつ100%がいる、中島らもがいる、と、

その先見性には思わず唸らされてしまうような、錚々たる顔ぶればかり。


この番組に、ダウンタウン、ウッチャンナンチャン、野沢直子、清水ミチコ

もそれぞれ個別に出演しており、【夢で逢えたら】が関東ローカルとして

開始されるまでに、全員がそれぞれ2回ずつ、出演を果たしていた。


当時、新番組を構想していたプロデューサーの佐藤義和は、この番組に

出演していた6人を見て、それぞれに出演を打診。

新人の芸人たちによる番組だから、敢えて番組の製作自体も、新しい人

に任せようと、同番組のディレクターをしていた、星野淳一郎、吉田正樹

という2人に、全面的に番組を任せることにする。


それが、【夢で逢えたら】の始まりだった。


番組のタイトルである【夢で逢えたら】は、1966年までNHKで放映され

ていた音楽バラエティー、【夢で逢いましょう】から。

この番組は生放送で、唄、ダンス、朗読、コントなどを披露していくという、

当時のNHKにあっても非常に珍しい形態をした番組で、あの坂本九も

参加していて、番組内で『上を向いて歩こう』や、『こんにちは赤ちゃん』

といった名曲が生み出されたことでも有名。

フジテレビで【笑っていいとも】【オレたちひょうきん族】といったバラエティ

番組に携わってきた佐藤義和にとって、この番組は〝バラエティの原点〟

であり、【夢で逢えたら】を作るうえでも大いに参考にしたということを、

後に本人が明かしている。

つまり、【夢で逢えたら】が番組当初から、コントだけでなく、音楽との

関係も深めていくことになるのは、このタイトルがつけられた当初から、

すでに決定づけられていたことだったのかも知れない。


ちなみに、【夢で逢えたら】が放送を開始した以降に、たびたび使われ

るようになっていく言葉に、


『お笑い第3世代』


と呼ばれるものがある。


これは当時、計算され尽くしたドリフの笑いに対して、アドリブで作り

出されていくひょうきん族の笑いがあり、そのどちらにも含まれない、

新しいお笑いを作り出している芸人たちの台頭を指して、使われだした言葉。

ネット上ではこの言葉を用いながら、第1世代がこの人たち、第2世代は

この人たちを指す、という書かれ方をされることがあるけれど、じっさい

にはこの『第3世代』と呼ばれるようになる以前に、具体的な誰かが該当

していた、ということではなく、『ドリフ世代』『漫才ブーム』『ひょうきん世代』

というように、その時代のお笑いの1つのムーブメントを総称するために

生み出された、新しい用語だった。


さらにもう少し詳しく調べてみると、この、『お笑い第3世代』がよく使わ

れるようになる少し前の段階に、もう1つ、当時のお笑いブームを総称

していた言葉が、とくに関東圏には存在していたことがわかる。

【夢で逢えたら】が放送を開始するより少し前、1988年の前半ごろに

放送されていたいくつかの情報番組では、それ以前から登場してきて

いた新しい芸人たちのことを、


『お笑いニューウェーブ』『都会派』『シティ派』


などと呼称していて、そう呼ばれる芸人たちの定義として、主に

〝師匠がいない〟〝下積み経験がない〟〝普段の日常を笑いにしている〟

の3つをよく上げていた。


その代表格として常に挙げられているコンビが、


ウッチャンナンチャン

ピンクの電話

ふらみんご

B21スペシャル

ABブラザーズ

ダチョウ倶楽部

シューティング

松竹梅

チャイルズ


といった人たちなのだが、今、改めて見てみると、この人だれだろう?

というコンビ名も、中に若干混ざっていることに気がつく。


これは、一時期『ニューウェーブ』などと呼ばれていた、新人のお笑い

芸人たちが、『第3世代』と呼ばれるようになるころには、すでにその

何組かは存在感を失っていて、本当に人気を得られるコンビというのが

絞られていた、ということであり、実際、元ABブラザーズの中山秀行は

その当時のことを回想し、


「コンビ結成直後は、テレビをやれば、翌日からは毎日のように

ファンレター山のように届くし、ライブをやればチケットはあっと

いう間に売り切れるという、すごい状況だった。

でも、あるとき、第3世代と呼ばれるお笑いの波が来て、ダウンタウンとか

ウッチャンナンチャンという人たちが活躍しだすと、仕事が一気に

減ってしまって、僕らはあっという間に古臭くなっっちゃったんです」


とインタビューで語っている。


また、当時ラ・ママ新人コント大会を主催するなどして、当時から事務所の

垣根を取り払って、新人のお笑い芸人たちの活動を支援していた渡辺正行も、

そういった、新人芸人の新しいムーブメントを紹介している番組の中で、


「漫才ブーム時代は面白いことがすべてで、面白ければテレビにも

出られた。でも、いまは面白いのは勿論だけど、テレビにどう使って

もらえるか、というキャラクター性も重要になっている」


などと語ってもいる。


まさに、そんなテレビに使ってもらえる芸人として、当時の【夢で逢えたら】

のメンバー6人が集められた。


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そして、ついにはドリフや、ひょうきん族と比較されるような、『第3世代』という

言葉を生み出すまでの、新しいお笑いの流れを作り出していくことになるのである。




< そういえば関東ローカル ③ > につづく。

そういえば関東ローカル ①

前回、第1回の放送から、と書いておきながら、今回はいきなり番外編。

実は、【夢で逢えたら】には全国放送がされる前、関東ローカルでのみ

放送されていた、もう1つの【夢で逢えたら】が存在している。


1988年の10月から始まったこの番組は、放送時間が木曜日の26時

という、とても深い時間帯に放送されていた番組だった。

まずは、こちらの【夢で逢えたら】から、簡単に紹介しておきたい。


その前に、そもそもこの番組が放送を開始した当時、ダウンタウン、

ウッチャンナンチャンという2組のお笑いコンビは、いったい、どんな状況

にあったのかについても、明記しておこう。


まず、ダウンタウンは、すでに関西でいくつもの出演番組を抱えていると

いう状況だった。
【4時ですよーだ】のような、自分たちがメインを務めるレギュラー番組も

持っていて、いくつもの漫才コンクールで最優秀賞、新人賞を獲得するなど、

関西においてはすでに高い知名度と人気を誇っていた。


しかし東京では、【笑っていいとも】の前身番組であった、

【笑ってる場合ですよ!】の、『お笑い君こそスターだ!』というコーナーで、

5週を勝ち抜いてチャンピオンになり、そのことで当時の東京のテレビ関係者

に注目されるようになっていたものの、その後、いくつかの番組に露出は

するが、レギュラーと呼べるような番組までは持っていない状況だった。


対して、ウッチャンナンチャンは、番組が始まるわずか3年前にコンビを

結成したばかりの新人で、1988年4月に、【お笑いスター誕生!】

オーディションを受け、見事出演を果たすが、それが2人にとっての、

テレビデビューでもあった。


ちなみにこのとき、初めてオーディションを受けにいった2人は、番組の

プロデューサーの前でネタ見せをしているダウンタウンを目撃し、すで

に同番組で見て、2人のことを知っていたウッチャンナンチャンは、

「うわ、本物だ」、と思った、と後に語っている。

実際に会話などは交わしていないものの、実質的に2組のコンビの最初

の出会いだった。


この、【お笑いスター誕生】でウッチャンナンチャンは見事、優勝も果たす

ものの、コンビとしてはそれ以外にテレビの仕事も一切なく、ようやく手に

入れた【オールナイトフジ】の仕事も、「面白くなかったため」(本人たち談)、

わずか半年でクビになっていた。


つまり、番組が始まる時点では、2組は東京においてはまだ、ほとんど

無名の新人といっていい状況だった。

そんな中で、そこに野沢直子、清水ミチコという、やはり、当時新人で

あった2人を加えて、深夜とはいえ、まったく新しいお笑い番組として

【夢で逢えたら】をスタートさせることになった理由とは、いったい、

なんだったのだろうか。


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これについては、【夢で逢えたら】を作りだしたそもそもの発案者で、番組

のプロデューサーでもあった佐藤義和が、それ以前にディレクターとして

製作当初から携わった番組、【オレたちひょうきん族】の放送回数が、

300回を迎えようとしていたのを期に、


「そろそろ、次の時代のひょうきん族を作らなければいけない」


という思いから構想を練りはじめた、と自身のコラムの中で述懐している。


また、当時の構成作家や、出演者自身でさえ、知らされていなかった

という、この6人からなるレギュラー陣の選考についても、やはり自身

が当時、プロデューサーを務めていた番組、【冗談画報】が大きな役割

を果たした、と告白する。




< そういえば関東ローカル ② > につづく。

【夢で逢えたら】全放送完全レビュー。②

1970年代、フジテレビで【夢で逢えたら】が放送を開始するより20年前

のテレビ界は、ドリフターズの【8時だョ!全員集合】が絶大な人気で日本

中を席巻していた時代だった。

この番組は、現在では到底考えられないような、国民的な人気を博した

お笑い番組で、最高視聴率50%、平均視聴率も30%以上を常に記録し

つづけるような、お化け番組だった。

 

しかし、そんな圧倒的な支持を獲得しつづけたこの番組も、その他の様々

 

な番組と同様、長くつづいていく中で人気が徐々に低迷していくことは、

避けることができなかった。

とくにそれは、【8時だョ!全員集合】の裏番組として、1981年にフジテレビ

【オレたちひょうきん族】の放送を開始すると、より顕著になっていく。

 

【オレたちひょうきん族】と、【8時だョ!全員集合】がまったく同じ時間に

放送されていた期間は、わずか4年程度である。

しかしその4年間は、【8時だョ!全員集合】の視聴率が下がりつづけ、

【オレたちひょうきん族】の視聴率が上がりつづけた期間だった。

両番組の視聴率はあっという間に逆転し、【オレたちひょうきん族】は、

その時代の国民的大バラエティだった、【8時だヨ!全員集合】をついに、

放送終了へと導くことになるのである。

 

まさに、新しい、”次の時代のお笑い番組”として、当時の視聴者に

 

【オレたちひょうきん族】が選ばれていった時期だった。

 

そんな【オレたちひょうきん族】が終焉を迎えることになるのは、放送

開始から8年を経ていた1989年10月、【夢で逢えたら】が放送

を開始してわずか半年のころ。

 

そもそも、【オレたちひょうきん族】、とは、当時の漫才ブームによって、

一気に注目されだしていた漫才師たちを東西問わずに集結させ、

今までにない番組を作ろうという思いから生み出された、まったく新し

い形のバラエティ番組だった。

そんな番組が終わることは、まさに、”1つのお笑いの時代の終焉”を、

象徴するような出来事だったのだ。

 

【夢で逢えたら】で、ディレクターを務めることになる吉田正樹は、それ

以前には、【オレたちひょうきん族】でずっとADを務めており、番組が

終了した当時のことを、

 

「当時携わっていたスタッフはみんな、【オレたちひょうきん族】だい

たいのことをやってしまった、という思いがあって、お笑いの世界で、

できることは、もう何もないなあ、というくらい気持ちだった」

 

と、後に回想している。

 

ドリフターズの番組が終わり、あのひょうきん族までが終わった。

 

次代のお笑いは、いったい、どんなお笑いになるのだろう。

 

そんなことが、少しずつ世間で注目されるようになっていた時代。

 

そんな中で、【夢で逢えたら】は放送を重ねていくことになるのである。

 

出演者はまだ当時、ほとんど無名といってもいい、新人の6人。

 

閉じられたスタジオの中で、次々とショートコントを披露していくという、

今までにない番組のスタイル、そして深夜の11時半という番組の放送

時間と、ただでもいくつかの悪条件を抱えてのスタートだった。

 

すでに【8時だョ!全員集合】などの洗礼を受け、小さな子供のころから

様々なお笑い番組を見て育った人たちにとって、そんな【夢で逢えたら】

は、当時はまだ、新鮮すぎて、若々しすぎて、荒削りすぎただろうことは、

想像に難くない。

 

かと思えば、いざ放送を開始してみれば、第1回の放送ですでに16.8%

という視聴率をとっていた、という事実も存在している。

 

後々に、”伝説の番組”なんて呼ばれるようになることも含め、なぜ、

 

この時の【夢で逢えたら】は、こうも最初の段階から、そこまでの注目を

浴びることなったのだろう。

 

それはやはり、当時の”新しい世代”を果敢に取り込んでいったから以外

 

に考えられない。

 

新しい次のお笑いが切望され、世間一般で、それらを生み出すことになる

のはいったいどんな人間なのか、と思われていたとき、多くの人たちは

まだ、過去に人気を獲得した人たちが再び作り出した番組に注目していた。

ドリフターズであれば、志村けんや加藤茶という2人が新しい番組を始め

ていたし、ひょうきん族からも、明石屋さんまや島田紳助、山田邦子と

いった顔ぶれが、それぞれに自分の番組を始めていたときだった。

 

しかし、そうしたお笑いに影響を受けなかった若い人たちもいた。

 

そのときのダウンタウンや、ウッチャンナンチャンと同世代、あるいはそれ

よりも更に下の世代だったそんな人たちこそが、

 

”自分たちが共感できる、新しいお笑いの人たち”

 

として積極的に、【夢で逢えたら】を歓迎していったのである。

 

 

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新しいお笑いをためらうことなく受け入れた、新しい人たち。

 

そうした人たちの絶大ともいえる支持を、結果的に【夢で逢えたら】は、

 

ほぼ一身に受け止めることになる。

しかも、それに決して迎合することなく、自分たちが目指す番組の形を

愚直なまでに崩すことなくやり続けていくことで視聴者の期待に応えていっ

た結果、番組はさらに多くの視聴者を獲得していくことになるのである。

 

前述した、小松純也が語った、視聴者が番組に持っていた”愛”とは、

 

そうした過去にはなかった番組を望んだ、新しい世代の人たちが番組

を視聴しながら、熱狂的に送りつづけた、新しいお笑いに対する”熱”

あり、当時の出演者、内村光良が、

 

「番組は、このまましておいたほうがいい」

 

 

と語る理由も、たとえ今、番組がDVD化がされても、そんな当時の

 

”熱さ”までも、そのまま再現することはできないだろうから、というような

思いが込められているように感じられる。

伝説だとか、奇跡的だとか言われることもある、この番組の真実の姿

は、当時のそんな時代の”熱さ”を抜きにしては、語れないものだからだ。

 

そうは言っても、【夢で逢えたら】を、当時ほとんど見たことがない人に

 

とっては、いったいどんな番組だったのか気になるという人も多いはず。

そこで、運良く譲っていただけた全放送分のビデオテープを振り返りながら、

この【夢で逢えたら】という

番組の真相に、少しでも迫ってみたい思う。

 

次回より、放送回の紹介レビューを掲載していく予定。