若気の至り(後半) | baritontaroのブログ

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趣味の声楽などに関する勇み足風の
所感です。たまに本業の印章彫刻に
ついてもホンネを暴露します。

時に顰蹙を買うようなことを言います
が、何卒ご容赦のほどを。

真宗大谷派の集会で突然、清沢満之についての研究成果を語ってくれと言われた。急遽、話の内容をまとめたが、「清沢教徒」とまで揶揄されていた同朋衆のことである、通り一遍のことは誰もが知っているから面白くない。ここはあくまでも歴史学の立場から清沢をどう見るかということに絞ろうと考えた。

 

 

話の前半は清沢の厳しい信仰生活と学究的姿勢を褒め称えた。

 

長い封建の世にあって発展の契機を失っていた真宗教学に対し、清沢先生は西洋哲学の光を当てて再解釈し、近代人が理解しやすい普遍的な論理に組み立てられました。その学問的業績は、いくら評価してもしきれないほどです。

 

嘘ではない。本当にそう思っていたのだ。会場では私の言葉にいちいち頷く人も多かった。

 

 

この夜、登壇された児童文学者の国分一太郎氏(1911~1985)。

ネットからお借りしました。以下同じ。

 

 

 

しかし、後半で私が批判的な言辞を放つと、雰囲気は一変した。

 

清沢先生は、封建的な宗門体制に議会制を導入することを主張したように、民主的改革に熱心でした。しかし、当時日本全国に燎原の火のように広まっていた自由民権運動に対しては冷淡な姿勢を取ることで一貫していました。大谷派の僧侶・門徒の中には民権運動に参加していった者も数多くいたにもかかわらずです。そのあたりが清沢先生の社会思想家としての限界だったのではないかと思います。

 

 

頷く人はいなくなった。にこにこしていた顔が困惑の表情に変わった。

若気の至りとはいえ、「清沢教徒」の居並ぶ前で、清沢の限界を言ってのけたのだから、我ながら度胸がいいというか、空気読まないというか、怖いもの知らずだったなあと思う。

 

 

 

 

おかげで、それまで親切に案内してくれていた人が口も聞かなくなってしまった。

それでも大谷派には、割と真正直に物を言う人が多い。「なかなか鋭いところを突いてくれましたね」と言ってくれる僧職もあった。内部ではとても言えないという意味なのだろうと受け取った。

 

 

狡賢くなった今ならこう言うだろう。

 

当時日本全国に燎原の火のように広まっていた自由民権運動の意義を清沢先生は見逃しませんでした。議会制という画期的な改革案を宗門に要求されたのは、実に先見の明があったというべきです。

 

ははは、物は言いようというか、事実はひとつではないのである。宗教的立場と学問的立場。違って当然である。

 

 

清沢満之ゆかりの寺、愛知県碧南市の西方寺。

翌日、有志で訪れた。清沢のお孫さんに当たる方が住職を務められていた。そのお子さんの清沢のひ孫に当たる方(小学生)と一緒に写真を撮ってもらったのだが、残念なことに紛失した。

 

 

 

講演会後、与えられた宿泊室に行ってみると、男性3人と女性3人の相部屋だった。えっ、えっ、大谷派というのは、ここまで自由な気風なのかと驚いた。私以外のロートル男性2人は何となく嬉しそうな様子であった。

 

 

そこへ幹事がやって来て告げた。

 

「あのう、申し訳ない、部屋割を間違えました。女性の方3名は別の部屋に移ってください。その代わり・・・・」

言葉が終らないうちに一人のロートルさんが「いいんだよ、これで。もう決まったことなんだから」と言った。

別の一人も「そうだよ、もう浴衣に着替えちゃったんだから、移動は大変だ」とあまり説得力のないフォローをする。

女性陣は何も言わなかった。

「それじゃあ、しかたありません。特別にということで」と、幹事は去っていった。

 

 

そこまで自由な気風ではなかったのだ(笑)。

女性といっても、いずれも私の母以上の年齢である。二十代の私にとってはもはや女ではなかった。けれども、たとえ婆さんでも女性には華がある。心なしか爺さんたちも若やいで見えた。

 

 

 

「おおい、まだ風呂空かないのか?」と爺さんが、無遠慮に仕切りの蛇腹を開ける。

婆さんのたるみ切ったヌードが一瞬、目に飛び込む。キャーとも言わないのが仏道の修養ができている証だ。

 

 

煩悩即菩提

 

「願にほこりてつくらんつみも、宿業のもよほすゆへなり。されば、よきこともあしきことも、業報にさしまかせて、ひとへに本願をたのみまいらすればこそ、他力にてはさふらへ。」(『歎異抄』)

 

「本願にほこって罪をつくると偽善者たちはいいますが、この罪もすべて暗い前世からの業のつくれるもの、だからすべての善悪を業にまかせて、ひたすら本願をたのむべきであるということこそ、他力の信仰であります。」(梅原猛訳)

 

 

後半終わり。

 

長い間ありがとうございました。