親鸞の『教行信証』を砂を齧るような気分で読んだのには、ある目的に資する意味があった。
私は当時、浄土真宗大谷派(東本願寺派)の学僧・清沢満之(きよざわまんし)についての論文を書いていたからである。
清沢満之は、真宗関係者や近代思想史を専攻する人以外にはあまり知られていないようだが、明治期の仏教を語る上ではとうてい無視できない人である。
清沢満之(1863~1903) ネットからお借りしました。(以下同じ)
彼の仏教思想については・・・・まあ省略しよう(笑)。
でも一つだけ言っておきたいことがある。『歎異抄』を再発見し広めたのは清沢なのだ。驚くべきことにそれまで『歎異抄』は真宗内部ですら禁書扱いであったのだ。
それはある意味当然だろう。「悪をもおそるべからず」などと仏教としてあるまじき教説が書いてあるのだから、封建的イデオロギーと相容れるわけがなかった。それを清沢は、善悪を超越した近代的自由の観念のもとに一般に開放したのである。
私は、清沢に惹かれ、主に京都の寺や大学を訪ね、史料を漁ったり清沢に詳しい人の話を聞いて回った。そうこうするうちに名古屋で大谷派同朋衆の一泊集会があるというので参加してみた。
京都・東本願寺
数百名も参加したのか、とにかく大々的な集会であった。夜、講演会があった。何人かの講演者は、名の知られた僧侶や研究者ばかりであった。
ところが、そこで私にとんでもないオファーが飛び込んだ。「清沢先生を研究しているのなら研究成果を演壇で語ってくれないか」というのである。私は一介の学生でしかないし、さすがに断ろうとしたが、是非にとの要請に結局引き受けた。(本音はやりたいんだよね。案外に目立ちたがり屋なんどすWW)。
前半ここまで。
ありがとうございました。