1.振り込め詐欺犯への「信」
ソースは忘れたが、振り込め詐欺に遭った老婦人の実話である。200万円だかを怪しい口座に送金しようとしているので、銀行員が「おばあちゃん、それね詐欺ですからやめなさい」と説得したのに、まったく聞く耳を持たず、「私はこの人に上げたいんです!」と強く主張し、とうとう送金してしまったというのだ。
ネットからお借りしました。以下同じ。
たいていの人は、ボケてるなあと思うことだろう。しかし私は、この老婦人の気持ちが痛いほど解る。そこには「信」というものの原初的な形があるからだ。彼女にとっては送金する相手が実在の孫かどうかはどうでもよくなっている。おそらく普段は無縁となった優しい言葉をかけられたことだろう。その「人」が何者であろうが、それに報いることこそが彼女の絶対的な使命になっているのだ。
2.キリスト信徒の「信」
イエスが処女マリアから生れ、死んで3日目に甦って天に昇ったという教義は実に荒唐無稽な話である。普通の理性を持った人なら、「はい、さよなら、バカめ!」で終わるところだ。ところが、この不合理を呑み込もうと必死になっているのがキリスト信徒なのだ。その過程は程度の差こそあれ、精神的には七転八倒である。むしろその内心の苦悶に「信仰を得る」ことの意味があるのだと私は思う。
ダリ『 十字架の聖ヨハネのキリスト』
私は、信仰とは教義の中身そのものではなくて、中身が役割を終えて流出した結果の「外皮」なのだと思う。信仰を促す原因は揺らいではならないけれども、結果にとって原因は痕跡的な意味しか持たなくなる。そして一たび結果としての外皮がつくられれば、それは世界に対する自己の在り方、姿勢として機能する。「信」が成立したのである。
3.などてすめろぎは人間(ひと)となりたまひし
三島由紀夫の『英霊の聲』の中のよく知られたフレーズである。そもそも祭司長でしかない天皇が信仰の対象となるのかどうかは措くとして、「英霊」にとって「信」の外皮はともかくも形づくられていた。しかし、その外皮を根底からぶち壊すような出来事が起こった。天皇の人間宣言である。そうなったら信仰者はどうするのか。
キリスト教に引きつけて考えてみた。
もしキリストが現代に現れて、こんなことを言ったらどうだろうか。「実は自分は嘘をついたのだ。私は大祭司とマリアとの間に生まれた不義の子であり、活動中は多少はいいことも言ったけれども、殺されて甦りはしなかった。墓の中で腐って土に返ったただの人なのだよ」
落胆してさっさとキリスト信徒をやめる人もいるだろう。でも、「いや、私のキリストはあなたではなく、聖書に記された『あの人』なのだ」と強弁し、ますますキリスト信仰を強める人も少数だろうがいるに違いない。そして、そういう少数者は信仰の証として命がけの行動を起こすかも知れない。信仰の純化された形は、この過激な心の在り方にあると私は思うのである。
こんなことを書いていたら、ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』の中の「大審問官」を思い出してしまった。あそこでもキリストが「現代」に現れるのだが・・・・この件についてはいささか任が重くなったので、またの機会に譲ろうと思う。スタコラ・・・・(笑)。
ありがとうございました。