STATIONS OF THE 暮らす。

STATIONS OF THE 暮らす。

しがない新中年の何も起こらない日々

ここに、自分のプロフィールや、ブログの説明・運営している他サイトの情報、ブログの目次などを入れましょう。

新創刊された少年KING 1982年3号に読切作品『湘南爆走族』掲載。

 

 

なおX公式アカウントではこの号が発売された1982年8月20日を湘爆誕生の日及び吉田聡デビューの日としている。『天上界Story』で既に雑誌掲載は果たしているが「原稿料を貰って描くのがプロ」との観点から、この作品をプロデビュー作と定めたとのこと。

 

この読切版湘爆は82年中に3作描かれるが、翌年開始の連載版と設定が若干異なる言わばパイロット版。

後に大ヒット、一世風靡した『湘南爆走族』。ほとんどの読者は少年画報社版単行本からこの作品に入ったと思われるが、この世代にありがちなのが「アキラ達は最初弱くて地獄の軍団にやられてた」という認識。

 

 

これは連載前の読切版のみの設定だが、当時はこの話も単行本1巻に普通に織り込まれてたので勘違いするのも無理ない話。2007年発売の講談社完全版でようやく番外編という扱いで収録され、以降はこのカタチに。

 

 

読切版の江口たちの通う学校名は波打際高ではなく西湘高校だった。権田の通う高校は園都成高ではなく北湘高校。これらは単行本収録時に連載版の学校名に書き換えられている。

 

 

吉田先生インタビューで「実際の高校名は使えないから。その結果が波打際高校。これはまずないだろうってね」と発言あり。連載にあたって考慮した結果の変更と思われる。

ちなみに、園都成高校前身の北湘高校の名は後に『荒くれKNIGHT』牧 紅音の通う高校として登場する、とtwitter(X)フォロワーさんより指摘有り。なるほど制服も同じだ…

 

 

ツッパリ少年がヒロインを〝さんづけ〟するのはこの作品の大きな個性と思うが、読切版1作目では「津山」と呼び捨て。コレが普通の感覚。2作目では「津山くん」と森田健作チック。そして3作目で「津山さん」定着。女子に対する〝さんづけ〟が醸しだす絶妙な距離感、これは発明だと思う。

 

 

読切版津山さんのフルネームが“津山みゆき”だったのは当時の雑誌調べてて一番ビックリした。どういう心境の変化があって連載直前で“よし子”としたのか??それは神の味噌汁…

またこの話では江口達は高校3年生だが、連載開始から84年春までは2年生の設定(進級してそれ以降はいわゆるサザエさん時空へ突入)。

 

 

読切シリーズ『湘南爆走族』は好評だったようで、既に読者のお便りコーナーにも感想やファンアートが掲載。3作目最後のハシラにも以下のようなお知らせ有り→「83年に飛躍する吉田 聡先生の新連載が、新年2号より登場します。ご期待ください!!」

先月から今月にかけて、ここ数年で最も忙しかったかもしれない。ドッと疲れた。

長男の引越(荷物搬送及び大掃除、手続き等)、奥さんの実家の行事(岐阜〜伊勢志摩〜名古屋へ)、職場で上司から指導、次男の大学入学準備など立て続け…4月中旬になってようやく落ち着いてきた感じだ。


次男の第一志望は兄貴と同じ隣県の学校だったが失敗し、自宅からギリ電車通学できる範囲の第二志望校へ。この忙しさで次男の引越も重なってたらヤバかった。それに次男まで家を出るとなったら寂しくてやりきれないと思っていたので、彼には悪いが正直ホッとした部分もある。まぁ片道2時間近くかけての通学はなかなかにシンドいだろうが…


長男の引越のドサクサでいつも持ち歩いてた〝よっちゃん研究メモ〟を失くしてしまい、このブログ書くモチベもいっしょに失くすところだったが、長男の引越先(日立)にあったようでヨカッタヨカッタ。

この一年で縁ができた水戸〜日立はなかなか面白い場所なんで、いづれまたゆっくりと探索してみたい。



職場の同僚が上司に向けた「鳥山明亡くなったって」の言葉に僕の方が「ヴエェェェ!?」と声を上げてしまった(僕は普段職場ではワリと無口)。

鳥山明という存在が我が国の文化に空気や水の様に当たり前に浸透していて、実在の人間だということをすっかり忘れていたみたいだ。鳥山明が死ぬって、そんなことあるんだ...そりゃあるだろうなと。

 

『ドラゴンボール』の画集持ってたりする(これ『Dr.スランプ』時代のが出てたら最高なんだけど)。今日はこの画集をジックリと眺めていた。僕が言うまでもないことだが、相当に作画の巧い漫画家と改めて思う。人物に怪物にメカニック、もうダントツセンスの塊で80年代以降のスタンダードを確立してしまった。これが毎週雑誌連載してたってのはスゴい贅沢な時代だったんだなぁ。 

 

僕が小学4年生の頃に『Dr.スランプ』が「ばいちゃ」と終了。その次の号のジャンプで新連載されたのが我らがジョージ秋山先生『海人ゴンズイ』!

 

あまりの怪作ゆえに最も有名な短命作品となってしまったが、当時の読者に強烈なインパクトを残したのは事実。そして『ゴンズイ』終了の次号に『ドラゴンボール』連載開始、史上空前のジャンプ653万部を打ち立てることになる。

『Dr.スランプ』と『ドラゴンボール』のちょうど狭間に『海人ゴンズイ』が連載というのは何か象徴的なものを感じる。 ジャンプが大爆発を起こす直前、 僕らは輝かしいジャンプ黄金時代を享受しながら、心の片隅に黒いトラウマを宿していたのだ。アチョプ!

 

世界に誇る日本漫画産業の象徴たる存在、鳥山明。その偉業に異を唱える者はいないだろうが、果たして当人はそれを望んでいたか。

19歳になった僕は昔の漫画にハマっていくうち、産業化を推し進めるジャンプがすっかり肌に合わなくなっていったが『ドラゴンボール』だけはどのように収拾をつけるのか見届けようと立ち読みしていた。

連載後期の展開に「コレ本当に描きたいものなのかなー」と痛々しさを感じていた。延々と繰り返されるバトルのつるべ打ちが鳥山先生の資質に合ってないように思えてならなかった。

そんな中、強く印象に残ったのが老界王神が命を落とし即起き上がる場面。そこに痛烈な自虐をみた。

 

それから程なくして『ドラゴンボール』連載終了。鳥山先生直筆の謝罪文になんとも言えない気持ちになった。いや、仲間にかなり文句を言い散らかしてたな。ふざけんな、晴れの最終回になに謝らせてるんだと。それからはもう立ち読みでもジャンプを読むことはなくなった。


僕は今でもアンチ少年ジャンプであると思う。世界的ヒット作品を量産する巨大メディア。それは日本にとっても業界にとっても素晴らしいものかもしれないが、あまりにも漫画を産業化しすぎてしまっているように思う。できるだけ漫画家のダイレクトな表現を読んでみたいと願う自分のような古い人間にはなかなか受け入れ難いものがある。

 

今回の訃報を受けて天才・鳥山明のエピソードに関するツイートを色々目にして大変興味深かった。あらためて、絶大な影響を与えていたんだなと。僕がtwitterやこのブログでよく採り上げている『湘南爆走族』にしても初期の湘南の描写にはペンギン村を感じることが多々あったりする笑

また鳥山先生に先んじる存在として鴨川つばめ先生が再評価されてたのも面白い。僕も鳥山明の登場は鴨川つばめなくしてはあり得ないと思っているが、鳥山先生のオリジナリティはマジで度を越していた。手元の画集を見てると溜息が出てしまうくらいに...

 

鳥山明先生お疲れさまでした。

ブログ全然更新できてませんが、別にサボってるわけじゃないし別にラリってるわけじゃない!

もう何回試しても「投稿が失敗しました」とエラーが出て更新できないんである。

あれからしばらく経ったのでテスト投稿を。


→投稿できた!

何が悪かったんだろ。画像重かったのか、内容がアレか…でも何か警告きたわけでもないし。とりあえずいくつか画像消してみたが。

アメブロの仕様について何も知らずに書いてたからなぁ。色々覚えないとな。

まぁゆっくりやっていこう。



漫画賞に入選の喜びも束の間、当の少年キングが休刊してしまう事態に…なので週刊少年サンデーに持ち込むつもりの作品をひたすら製作していたという吉田先生…

朝の8時には測量のバイト、夜はムッシュー・田中先生のアシスタント、深夜2時3時に帰宅してから自分の作品を描き、また朝にはバイトという過酷な日々。数々の幻覚におそわれ、ファンにはお馴染みの“ゴミ箱から拾ったソーセージで食中毒事件”もこの時期だ。


当時描かれた読切作品『天国と地獄』。



※現状読めるのは1985年のKING増刊号に初出の『改訂版』で、描き変え箇所複数有ると思われる(スペシャルサンクスとしてアシスタント石井氏のクレジットも)。

地獄拡張工事に勤しむ冥府設計(建設)は後の作品にも度々登場。


(↑『純ブライド』より)


 水木しげるなどのパロディ色が濃いのは当時ならでは。


吉田先生が好きな漫画家/影響受けた漫画家としてこれまで名前を挙げているのは、藤子・F・不二雄、萩尾望都、手塚治虫、石森章太郎、赤塚不二夫、永井豪、ジョージ秋山、小山ゆう、大友克洋、江口寿史 etc…。

初期の作風には少女漫画の影響が顕著だが雑誌としては『別冊マーガレット』のみ愛読していたという。
これは先生ご本人にお会いした時にも直接伺った。「高校ん時ね、みんなで教室の後ろで〇〇〇〇〇〇ながら読んでたよぉ」と語ってらした。当時の風潮に漏れずトッポい若者だったと思うが、ここで少女趣味が入ってくるのが面白い(個人的にはデフォルメに亜月裕作品の影響大と思う)。


『別マ』の影響か、当時吉田先生の中では「マンガというとやっぱりメルヘン」という意識があったようで、天上界シリーズやこの作品にもそれは表れているが、アポロンのリーゼントやバイク、主人公・三吉のハイウエドカン等、徐々に“自分”をのぞかせてきている。


少年キングはフレッシュ少年KINGとしてめでたくリニューアル創刊。吉田先生も受賞者として作品を求められ、再度持ち込むが何を描いても「何かが違う」と言われ採用されず。自分でもその自覚もあったという。

アイデアを出して出して全て出し尽くして、たったひとつ残ったのは“自分”のみ…。剥き出しの自分で次の勝負に出ていき、ついにチャンスを掴むのだった。

吉田聡先生のWikipediaより抜粋

(様々なプロフィール記事をもとに私がWikipediaに記載してます)

「師匠から「鶏口となるも牛後となるなかれ(強い勢力につき従うより、たとえ小さくてもその中で長となれという諺)」とアドバイスを受け当時の少年誌の中でも発行部数の少なかった『週刊少年キング』(少年画報社)へ作品を持ち込み。1982年(昭和57年)同誌の漫画賞である第4回まんが道大賞において『天上界Story』があすなろ賞を受賞。『週刊少年キング』は休刊するも、直後に発行された増刊号にて『天上界Story』掲載、デビューとなった。」



太陽神アポロンは後の湘南爆走族 江口洋助と同一のキャラ造形。不良、改造バイクと天上界の組み合わせは今見ても異色!

 

1982年4月に週刊少年キングが休刊。少年KINGとして新創刊されるまでの間に増刊号が2号発行。1982年5月28日発売号で第4回まんが道大賞入賞作品が発表された。

(授賞式は喫茶店でコーヒーを飲み、小切手を渡されて終了という慎ましいものだったという…)



あすなろ賞作品『天上界Story』は6月25日発売号に掲載。 『まんが道』の名が冠されるとおり、選考委員長は藤子不二雄Ⓐ先生。

『豪華本 湘南爆走族』4巻(1989年発行)に当時の印象を寄稿されている。


『天上界STORY』には別verの『天上界ストーリィー』があり、漫画賞に2本応募すれば熱意を買ってもらえるだろうという思惑があったとか。吉田先生はこちらの方がお気に入り。おそらくこちらの方が先に描かれていると思う。



 

『ANGEL and ANIMAL from WINDOW』に描かれた世界を拡大した天上界シリーズ。キャラクター設定もかなり練られており、6,7本のストックがあったという。


『湘南爆走族』がKINGでなくジャンプやマガジンで連載されていたとしたらもっともっとヒットしたんじゃないかとファンとしては思うことがありますが(現に湘爆フォロワー作品がメジャー誌でいくつも超ヒットしている事実)、『湘南爆走族』という作品は連載期間5年の中で少しづつ確立されていった作品。競争が激しく流れの早いメジャー誌では理解される前に打ち切られていた可能性もあり、ムッシュー・田中師匠の慧眼にほとほと恐れ入る次第。

デビュー前の吉田聡先生を知るうえで一級の資料としても必読の『七月の骨』。湘南に暮らす時田サトシ青年が漫画家を志し、デビューするまでを描いた“自伝風味漫画”である。

そこに登場する同じく青春の岐路に立つ友人たち。

「登場人物の大半は創作です」と最終巻のあとがきにあるが「実在の人物にも登場願いました」ともある。

この作品を読んでから『湘南爆走族』を初めから読んでみると色々と気づくコマがある。



“マルヒロ”“MARUHIRO”とはモリヒロのモデルとなった友人。手伝いに来た際に描いたコマだろうか。

“SHINJI”とはシンタローのモデルとなった友人のことだろう。沖縄に渡ったベーシストのシンジ氏については少年KINGの目次コメントでエールを送っていたり、86年の少年KING増刊号のエッセイでも触れられている。

(余談:湘南爆走族 桜井信二の名前の元ネタと推測…)

 

『七月の骨』を読むとやはり自分の青春時代と地元の仲間を思い出す。もっとも作中の彼らの様にみんな何かに向かっていたかといえばそんなことはなかったが…今思えばただただもがいてたような…あがくでもないもがき。その息詰まるような苦しげな感覚は『七月の骨』にも共通して流れている。懐かしき青春のもがきだ。

吉田聡作品には〝幻の処女作〟と銘打たれた作品が2作ある。

少年KING増刊に特別掲載された『ANGEL and ANIMAL from WINDOW』と『七月の骨』1巻の巻末付録『パラノイヤ キューピー』。

おそらく『ANGEL〜』の方が先に描かれてると思う。

 


『ANGEL and ANIMAL from WINDOW』

アパートでの男女の諍いは後の『純ブライド』を彷彿。

天使アニーと犬のヨハネは2000年に描かれたキャラ集合画にも描かれており、やはり思い入れは相当深いと思われる。『七月の骨』でも重要な役回りを演じた。

 


『パラノイヤ キューピー』

『ANGEL〜』とは打って変わって近未来が舞台のSFアクションコメディ。

 

デビュー前に描いた作品については『七月の骨』作中でも断片的に情報が出ているが、個人的に気になるのは『ユーガット・ミー!』(オバサンがテニスやってるまんが)これスゲー読みたい。

 


『ユーガット・ミー!』

ギャグじゃなくてラブロマンスらしい??

この作品は当時の原稿未公開。作中再現漫画のみ。※なので実際に描かれていない可能性有



『接線・DRY POINT ACT2』

COMに掲載されてそうな感じのシュールで叙情的な作品。後の『ジナス』にも通じている?

 

ここまで見ても見事に作風がバラバラ。デビュー前から既に色々なジャンルにチャレンジしていたことがわかる。

また『ぱふ』84年のインタビューでは「仲間で集まってコピー誌など出して遊んでた」と発言あり、現存してるなら是が非でも見たいなぁ。

吉田聡先生は漫画家になるまでの経緯からして数奇だ。

方々で語られているプロフィール記事から来歴を要約してみる。

 

まず吉田聡といえば湘南!という印象だが、出身は福岡で、3歳の時から湘南地域へ移り住んでいる。たまに出る方言ギャグや『Good-ばい!』『走れ!!天馬』あたりに福岡方面の影響が窺える。

 

高校卒業後、「何者かになりたくて」入った東京デザイナー学院商業デザイン科は面倒くさくなり半年程で中退。スキー事故で全治6か月の骨折入院中に漠然と漫画家になることを決意。元手がかからないのが大きな理由。

本屋で手塚治虫、森田拳次の著した漫画入門書を購入したがワク線の引き方ではなく精神論が書いてあったという笑

(石森先生の本はよくきくけど森田先生の本挙げるヒトは珍しい)

 

 アイスクリーム店でアルバイト中、常連客からの情報を辿って押しかけた地元の漫画家ムッシュー・田中に師事、チーフアシスタントを務める。おそらく1981年頃と思われる。

(これもスゴい出会いだと思う。まさに運命的)

 

ムッシュー先生の作品にもクレジット有。


作品内にも登場。


散々な目にあってますが…




↑後に自伝風味漫画『七月の骨』で車の事故が描かれており、関連が気になるところ(ないよ)。

 

2018年の浜岡賢次先生との誌上対談で、ムッシュー・田中(田中善之助)の名前が出てきた時はそれまで知らなかったので衝撃だった。

プリンス田中名義の作品(エロ劇画)にも参加してるのか確かめたい…

2024年あけましておめでとうございます

…ってもう2月の半ばだよ。

 

相変わらず何も起こらない日々、何もしない日々。

次男は受験を頑張ってる。長男は来月引っ越しだ。手伝い面倒だがやるしかないなぁという落ち着かない日々。

(一番落ち着かないのは次男だろうが)

 

自分は少年期に多大な影響を受けた吉田聡作品の研究(っても主に図書館で当時の雑誌をあたる程度)をしてて、ちょいちょいtwitterに記事をあげたりしてるんですが、色々思うところありコッチをメインに挙げた方がいいんじゃねえかなと。

twitterって見たくない人の目に触れたりもするでしょう。それが結構気になったり…なのでこっちの方が思う存分書けるんじゃないかなーと。

 

それに長い目でみたらブログの方が後々まで残る気がする。ほぼ誰も見てないブログだけども、ある日『湘南爆走族』やその他吉田聡作品について興味をもった人がここを見つけて、共感してくれたり、ちょっと違うんじゃねえかなと思ってくれたりしたらウレシイ。

 

とりあえずしばらくはこれまでのツイートの再録からやってみます。

(もちろん公式様から怒られたらすぐ止めます)