たいがい、腹を括ったときには

『本当に?本当にそれでいい?』って運命さん的なモノに試される事件が起こります。


今回もそうです。


人は本能的に、ブラックボックスに興味を惹かれます。

これは脳科学的なものと、心理的な側面からと両方にいえることみたい。


つまり、『不安だな』と感じるほうに、より一層の興味を引かれるということ。

安心感を感じているものに、人は無頓着になりやすいのです。


だから、安心していたら、まさかという人に裏切られた!

とか

うちの旦那さま、もしくは、彼に限って浮気なんてありえないと思っていたのに!

なんてこともあるし

青天の霹靂、なんて言葉があるのも

安心感ゆえに、ってところがあるのかもしれないです。


でも、危機感があると別です。


つねに、相手がどう出るかに目を光らせて

相手の考えていることの先をいって、あわよくば損をしないように

できれば出し抜いて、ほらね、私の思ったとおりでしょ!

なんて、勝利宣言したい欲求も出てくるかもしれません。


それは『不安』を感じて、『怖い』から。


ニュートラルな状態の自分では、太刀打ちできないことを

心のどこかで感じているから。


だから、人は不安を感じると、そこに付随してくる予測の出来ない恐怖感に備えて

エネルギーをそそぎます。


でもじつは、不安にエネルギーを注ぐのって

不安という種火に、ガソリンを注いじゃうのと一緒なのです。

ちょろちょろとした種火でしかなかったそれは、自分が意識しだしたとたんに力を得て

まるでガソリンを注がれたように、勢いを増して種火から燃え盛る炎へとパワーアップしてしまいます。


小さな不安の炎をなんとか沈めたくて

自分なりにやってみたことなのに。

その問題に意識を集中して、ああでもない、こうかもしれないと考えてみた結果だったのに。

それなのに、自分では手のつけられなくなってしまった炎を目の前に、

ああ、もうだめかもしれない…

って途方にくれてしまうコトだって、もしかしたらあるかもしれません。


不安は、それを『問題だ』と捉えて、こねくり回すほどに

厄介な相手になっていくのかもしれません。


じゃあどうしたらいいの?


ってことになると思います。



わたしは、小さな炎を、見守ることだと思います。

自分の中の、不安という名の、くすぶっている炎の存在を、ただ、認めてあげること。

ただそれだけ。


そして、それを見守っている自分の状態を、ちゃんと把握してあげることだけ。


炎のそばで、炎を見つめている自分が、どう感じているか。

徐々に変化していくだろう園炎の燃え様を、じっと見守り続けて、それを自分が、どう感じているか。


気をつける点は、炎にエネルギーを注がないことと

自分と炎を、イコールの存在にしないこと。


炎がくすぶって、最初の勢いもなりをひそめ始めたとき、一番の堪えどころになります。


『もうこれだけ炎も小さくなったんだから、いいかげん消えちゃいなさいよ!』


待ちに待ったぶんだけ。

じりじりと、炎のそばで、何もせずに見ていただけのような気がする分だけ

もういいんじゃない?なんて

手を出したくなるかもしれません。


そう思ったとしたら、植木職人さんが仕事を終えて

脚立をを降りる最後の一段で、つるりと足を滑らさないように

一番の集中力を使っている、という話を思い出したいと思います。


不安のかがり火が、じりじりと炭に戻っていく様子は

炎が盛っているときよりも、いちばん長く時間がかかるかもしれません。

あせりも、苛立ちも、

このまま、くすぶってるだけで永遠に消えないのでは…

という新たな不安が沸き起こるかもしれません。


でも、炭に戻る日は必ず来ます。


待ちさえ、できれば。

私が、私でいることから、ただ、動かずにいられるのであれば。


そこでは、白か黒か、というわかりやすい形を望む心を手放して

グレーという、境界線のない、無限のバリエーションを

豊かさを愉しむ、という視点で受け取ることが出来るのかもしれません。


わたしは、もともとは白か黒か、という人間でした。

100か、0か。

オールオアナッシング。


でも、それではきっと、炎の横で、唯一無二の自分を保ちながら待ち続けることは

まるで苦行のようになってしまうことに気がつきました。

だって、早く消えて

はやく、まだなの?はやく~…!

って、炎の消える日がやってくることだけを心待ちにしてしまうことになるから。

少しづつ炭へと戻っていくさまを、愉しむことは、受け取れていないから…。


自分の中の不安から来る恐怖感と対峙することは

パワーもエネルギーも使う、長期的なチャレンジになることがほとんどです。


それならば、苦しむよりは、楽しく(^^)


白か黒か、の観念を手放して

グレーのその幅の広さ、バリエーションの豊富さ、変化する美しさを愉しもうって

そう思えたら、とても楽になりました。


イチかバチか、ここで間違えられない!

と感じる瞬間ほど、

その炎にパワーを与えない自分。

炎を、炎として認めながらも、自分が自分としていられる私。

そして、炭火が、やがて、本当に炭化していくまでを、楽しめる私でいたい。


そう、思いました。


イチかバチかの日が近づいています。

ただただ、炎の横で、自分が自分として、立っていられますように。






さっき、ふと見てみたら

『無理だ』というタイトルで、もうがんばれない、と書かれた自分のブログがありました。


日付を見たら、8月13日でした。


今日が8月12日だから、もう、あれから一年たつんだなあ…。


さっき、お母さんと電話で話しをしました。

このところ、わたしに”問題”となってやってきている事を、お母さんが心配してくれたのです。


ほんの一年前なら、考えられないことでした。


あの頃、わたしは世界でひとりぽっち、という感覚を

ずーっとずーっと持ち続けていました。

大切な人がいても、大好きなお友達がいても、家族が生きていても、それでも、心の中は

いつも空虚で、孤独で、だれも、私のことを本当に分かってくれる人はいない。

だから、自分でがんばるしかない。

悩んでも、頑張れば、かならず光が見えるから…。

それを信じてがんばるしかない。


そう思っていました。


頑張るのって、いいことです。

わくわくするし、パワーも希望もみなぎります。

自身になることも、成長につながることも、たくさんあります。


でも、自分を追い込みやすいのは


この”誰もわかってくれる人はいないから”という前置きの部分です。


本当は、つらいわけです。

自覚がなくても。

心の底から甘えてもいい人がいるならば、かならず助けてくれるはずだと安心しきれる人がいるならば

迷わず”助けて!”といいたいのです。

自覚がなくても。

それくらい、この、”誰もわかってくれるはずがない”という分離感、誰かと自分が繋がっている感覚がないことは、感情を追い込み、麻痺させます。


それだけではないのです。


誰かと繋がっている感覚がないと、自分のことを、どんどん嫌いになっていくのです。

ちょっとずつ、ちょっとずつ。

そして、その思いは、「こんな私を、本気で誰かが思ってくれるはずがない」という感覚を育てていきます。


文字とおり、こうして意識できることは少ないです。

でも、現実には、素直に誰かに助けて欲しい、といえない自分、状況を作っていきます。


あの頃、本当にそうでした。


頑張れない、そう感じることさえ、私にとっては、人生や自分自身に屈服したような

屈辱感、敗北感と同じでした。


そんなこと、ないのにね。


でも、それくらい、一人でも頑張らなければ、死んでしまう!くらいの強迫観念を育てていたんですね。

無意識に。


いま、たくさんの問題と一緒に歩いています。


心理学を知って、自分の感情と向き合い始めて、一年。

一年たって、わたしはずいぶんと変わりました。


母親との心の距離は、劇的に変化しました。

お母さんと娘って、こんなにちょくちょく、電話できる関係だったんですねぇ…。

つらいから話を聞いて欲しい、なんんて、甘えても良かったんですね…。

お母さんの、つらい時代を、心から慰めて、誉めて、感謝して、そんな自分に、また自信をつけてもらえるなんて…

そんな、幸せな循環が、お母さんと娘の間に、存在するんですね…。


信じられない幸せと、問題山積みでも、「だいじょうぶ、幸せのほうを選ぶ。かならず。」という凛とした決意を、人としっかりとつながりを感じられるときって、持っていられるんです。


お友達がメールをくれたり。

プレゼントを贈ってくれたり。

気遣ってくれたり、遊びに来てくれたり、話を聞いてくれたり。

お母さんや、親戚の叔母さんや、いとこたちが、私のいないところで、私のことを考えてくれたり。


ほかにも、なんて色んな人たちに、私は支えられているんだろう。

支えられて、愛されて、大切にされているんだろう。


そんな、心のあったかくなるような感覚を、一年前の私は知りませんでした。

受け取れているようで、受け取れていなかったんです。


それは、自分を大切にする心に比例しているそうです。


自分を、自分で大切にしていたり

自分を、自分で好きになってあげること。


これが出来るようになると、はじめて、自分がどれだけ周りの人に愛されていたか感じられるようになるそうです。


それまでは、わかっているつもりで、その半分も愛情を感じられないんです。

一年前のあの頃、パートナーシップで大きくつまずいた私は、泣きはらした目で、そんな記事を片っ端から読みました。


いまは、それを実感しています。


だから、あの頃と同じような状況に自分が置かれても、なんだか根を張ったような安心感があります。


自分を好きになるって、自分を大切にするって、こういうことだったんだな…って

今は分かる気がします。

転じて、誰かを大切にしたいなら、まず、自分を大切にすること…って意味も。。


愛情を送ってくれる人たちの、その気持ちを無碍にしたら、きっとその人たちは傷つきます。

わたしたち人間っていうのは、どうやら、愛されないときに傷つくと思っているようで

すが、逆のようです。


自分の愛し方を、受け取ってもらえなかった…

自分の愛し方では、ダメだった…


と感じたときに、傷つくようなのです。


だから、自分を大切にして、自分を好きになること。

それはとっても大切なことのようです。

自分を好きになって初めて、周りの人たちから贈られている、気がつけなかった愛情の形に

ようやく気がつけるからです。


自分の知っている愛の形じゃないと、受け取れない!


自分を大切にしていないときは、こう感じます。


でも、好きになると、自分の知らない愛の形を、


これも、愛情なんだな…


って、受け取ることができるようになるみたいなのです…。

心って、感情って、不思議ですね…(^^)


もう頑張れない。


そう感じて、誰かを頼ろう、自分の引き出し以外の、何かを見つけよう。

もう無理だ。

去年の今頃は、あの私が、本気でSOSを出した日でした。

白旗をあげた日でした。


でも、それで良かったんだと思います。


カウンセリングって、そうとうにお尻に火がついた人が、最後の最後に頼るところみたいです。

とくに、日本では感情や、心の専門家のカウンセラーは

精神科医と混同されやすくて、まだそのポジションは、確立されていません。


どちらかというと、占い師とかと一緒のくくりにされることのほうが、まだまだ多いかもしれません(^^)


でも、人間が思考力より、感情で生きているということを知れば知るほど

わたしは、人が幸せになるためには

自分が思っている以上に、”自分の感情”に注目することは、とても大切だと思うようになりました。


ブログには、わたしのそんな経緯が、すこしづつ

時を刻むようにして載っています。


これからも、いまの問題が、どう贈り物に変化していくのかわからないけれど…。


でも、心のプロセスを、信じています(^^)

おまじないでも、魔法でもなんでもなく、心理学は、臨床です。

パターンは本当に人間の数ほどあるけれど、それでも、シンプルなパターンから、枝分かれしているだけです。


私の場合も、そうです。

そして、主人の場合も。


もうがんばれない、と思ったこの日を、大切な記念日にしておきたいです。


言ってみれば、今までのやり方で成功してきた自分全部を、捨てよう!と決心できた日なのですから(笑)

成功体験をすてるのって、案外怖いものなんですよ~

自分が、これが一番良い方法だ、って信じてきたやり方を、ぜーんぶ白紙に戻しちゃうだけのパワー

(私場合は、追いつめられた感です・笑)

が、必要になってくるから。


感謝をこめて。


わたしを大切にしてくれている、みんなみんな、みんな。

本当に、ありがとう。

みんなのおかげで、私、今日も立っていられます。

凛として、自分らしく素直に、生きて行きたいって、思いを強くできてます。


ありがとう。

ありがとうね。












最近、とても不安になることがあって、しばらく胸に引っかかった小骨のように

それは存在していました。


旦那さまと私、パートナーシップの問題です。


このところの私は、問題は、じつは贈り物と一緒にやってきているんだなぁと気がついて

だからでしょうか、あまりどっぷりと落ち込むことが少なくなったように思います。


もちろん、悩みますよ~

でも、いつでも希望の小舟が心の中につながれている感覚があるのです。

それは、わたしに「だいじょうぶ、何とかなる、今の私には見えないだけで、ある日この問題はとっびきりのプレゼントにぼぼん!て大変身するよ」って、ささやいて、励ましてくれます。


今回の”贈り物”は、わたしにとってどんなものなんだろう?


問題を抱えたとき、いつも私はそんな目線で見てみます。


私が気がつけていない、見てあげられていないとこって、どこだろう。

怖がって、近づかないようにしているとこって、どこだろう。


怖がっていたり、自分の心の痛みばかりがズキズキしてると

相手の愛情を、その半分もわかってあげられないことって、生活の中でよくあることです。


なんていうんでしょうねー


大きな傷から出血して、痛くて、どうしようもない!っていう傷が体のどこかにできていたら…

その部分が手当てもされずに疼いているとしたら…

なんか、自分の気持ちも、目線も、そこに行っちゃうじゃないですか。


だから、自分以外の、細やかなことに気がつけなくなっちゃうんです。

大まかなことは分かったとしても、繊細な優しさ、きづかい、周囲のひとなりの、優しさ…

そういうものに、気がつけなくなっちゃうんです。


余裕ないと、自分のことは分かっても

周囲のことって、見えなくなりがちっていうのは、私がそーなので

すごいよく分かります。


クローズアップで写真撮ると、自分はくっきり写るけど、まわりの風景の細かいところはぼやけちゃうのと、同じかもしれません。


わたしは今回、こんな経験をしたんだな、って初めて気がついたのです。


自分の傷ついたこと、腹が立ったことを注視するよりも

相手の感情や、思いに目を向けようと思うと、いままでの私は、”痛み”で繋がることならできていたのです。


だって、自分の痛みはめっちゃ分かるから(^^)

相手も、痛かったんだろうなあ…、って分かってあげられるわけです。


でも、自分の努力したこと、一生懸命やったことを本当に自分自身で認めてあげられてないと

相手が、相手の仕方で一生懸命だったんだ、ということに、気がついてあげられないんだということに

はじめて、実生活で気がついたのです。


なぜ気がつかないかって…


それは、『相手は自分とは違う人』、って事実が、ぼやけて見えているから。

気がつけていないから、です…。


こんな単純なこと、頭ではわかってるはずなんです。

だって、相手は私じゃないですから。


でも、これが、自分の傷だけを見ている状態なんだ、ってはじめてわかったんです。


自分が何かを一生懸命やって、裏切られたような気持ちになったとき、

わたしは、こんなに一生懸命な気持ちをわかってくれないなんて、と「自分の気持ち」だけを見てしまいがちでした。


それが、だんだん「相手の痛み」と繋がれるようになってきました。

『私がこれだけ痛いんだから、相手も、心のどこかが、同じように痛んでいるんだろうな』って。


でも、今回はもう一段、気がつけたのです。


私が一生懸命だったように、「彼も」私とは違う、私が得意にしているやり方や分野とは「違う分野で」うんと一生懸命だったんだ…!

ってことに。


それは、私にとっては、得意なことかもしれません。

得意なら、できて当たり前と感じているかもしれません。


でも、それが相手の、めちゃくちゃ不得意分野だったら…?


不得意ながらも、一生懸命に取り組んでいるんだとしたら…?


それが、まさに、私への愛情ゆえに、だとしたら、相手だって私と同じように思わないでしょうか。


「こんなに一生懸命やっているのに、あなたはわかってくれない」


って。


私だけがそう思ってるのではないのですね…。

相手も、私が、私の痛みばかりを見ていたなら、同じように「わかってくれない」と感じるんじゃないかな、って…。

そんな風に気がつきました。


不得意ながらに一生懸命やってくれたこと。

あまりにも不器用で、へたくそで、ちっとも上手じゃない。

いつになっても上達しない。


もし、自分の大切な人に、そんなところがあったら、どうしたらいいですか?

それが、自分にとっての、


できて当たり前

できない人がいるなんて信じられない

ていうか、出来ないなんて最低


って感じる分野だったら、どうしましょうか?


自分の大切な人が、いつまでたっても上達しないように感じる、そんな苦手分野に

出来ない自分と向き合って、取り組み続けてくれていた、とい事実に


これは、彼の愛情だったんだ


って、気がついてあげられるでしょうか。


それとも、こんなことも出来ないの?

あなたが出来ないことで、わたしがどれだけ傷ついているか、わかっているの?


と、責めるでしょうか。


わたしは、どっちを選びたいだろう。


『積極的に待つ』


という言葉が、すごく胸に響きました。


待つ、っていうのは、何にもしないことのような気がしちゃいます。

手を差し出す、助ける、相談に乗る、一緒に頑張る、のように「何かの行動をする」ことが

愛情のような気もしちゃいます。

実際、それはほんとうに豊かな愛情の形です。。


けど、待つ、ということには


”自分とは違うペースかもしれないけれど”


相手のしていること、チャレンジしていることを



『認める』



といことも、含まれるんじゃないかなあ…って、思うようになったんです。


小さな子供が、自転車の補助輪をはずすときのように。

何度も何度も、転ぶかもしれない。

ほかの子達は、あっという間に、補助輪なんてなくたって、自由に自転車を乗り回しているかもしれない。


わたしの大切な彼だけ、ずっと、ずーーーーっと補助輪なしの自転車を上手く乗れない。


ずっと、ずーーーーっと転び続けて、かっこわるい。


でも、もし、そのチャンレンジが、転んでも転んでもチャレンジするその姿勢が

私への愛情ゆえだったら?

それこそが、自転車を上手に乗ってやるんだ!っていう、モチベーションの元だったら?


転んだっていいよ

きっとできるよ

また失敗した、って自分のこと嫌にならなくたっていいよ

俺ってかっこ悪いな、なんて思わなくていいよ

私には、王子様だよ


って、言えるんじゃないかって思ったんです。


わたしは算数が苦手です。

ほんとうに、ほんとうにできません。

苦痛すぎて、いつもやらなくていいように、逃げてきました。

掛け算でさえあやしい時があります。


けど、彼への愛情をモチベーションに、まいにちまいにち、数学の勉強できるかなって、想像してみたんです。

しょうじき、吐きたくなりました。

まいにち憂鬱だし、そんなことしないで、別のやり方で、何かないかなぁ、なんて

やる前から逃げ腰になりました。


旦那さまは、まさに、それをやってくれているのです。


これが私への愛情でなく、なんだというのでしょう。


わたしは、つい今まで、自分の痛みばかり見ていて、旦那さまがどれだけ自分のエンジンをふかし続けていてくれたか、気がつかずにいたのです。


もちろん、旦那さまが抱えている問題は

わたしにとっては、チョチョイのチョイ、で解けちゃう問題です。

なーんにも難しくないし、できない人がいるなんて、あきれちゃう、くらいの問題です。


でも、ここで思い出す必要があるのは


『私と彼は、まったくの別の人間』



ということなのでしょう。


こんなの当たり前だよね、は、じつは、世の中にはひとつも存在しないのだということです。


当たり前は、自分にとってだけなのです。

だから、当たり前なんてこと、ほんとは無いのです。


正しいとか、悪い、とかで判断すると、この「当たり前と感じる罠」にはまっちゃいます。


でも、この罠を抜けていきたい。

旦那さまが、苦手で苦手で、どーしようもなくずっと取り組んでくれている

その問題に向かう姿勢に、いつもいつも、一番の味方でいたい。


そんな風に思うようになりました。


ついつい、自分の傷だって痛すぎて、そこばかり見てしまいがちになるけれど…。

痛いもん。

気にならないはずも無いんだけれど…。


でも、愛する人の、何度も転んで擦りむけた膝の傷にも…

ちゃんと、目を向けて上げられる自分でいたいな、って思うのです。

そして、そのためにはまず、血だらけの自分の傷をちゃんと手当してあげること。

そうして、いつだって元気に動く手で、腕で、指で、彼の膝小僧の傷にガーゼを張ってあげられるような。

そんな自分になっていきたいと思う。


なによりも、出来なかろうが、苦手だろうが、失敗続きだろうが、それでも自分の足で立ち上がることを止めない、あきらめない、旦那さまの”強さ”と”愛情”を、もっともっと、信頼できる私になりたい…!



そんな風に、思ったのでした(^^)



旦那さま、ありがとう。

これからも私は、あなたの一番の味方です。




(折りしもBGMはミスターチルドレンの『くるみ』でした。この曲大好きなんだな~)












おわり



プロセスは次から次と、やってきます。


いまは旦那さまがチャレンジ中。


無意識とか、潜在意識と呼ばれている場所は、記憶や経験の押入れみたいなものです。

ここに詰めこまれた記憶は、ほとんど私たちは思い出せないし、ふつ~に生活してる中では、意識もしません。


ただ、私たちが、その瞬間、瞬間に何を選ぶかは、

多くの場合、無意識や、潜在意識がめちゃくちゃ命令してきます。


なので、「わかっていても出来ない」が発生してくるのですが…。


この、わかっていても出来ない、っていうのって、実はうま~くすり抜けて私たちって生活しています。


だから、自分が気分が悪いな、と感じる人たちとそれなりに距離を置ける学生時代は、まーそれでも何とかなるんです。

思春期の独特の悩みはあっても、自分が押し込めに押し込めた感情の、深いとこには直面しないですみます。


だって、学校行きたくなければ行かなくたって、生活には困りません。

親がいるから。

気の合わないクラスメイトとは、付き合わなければいいんです。

ほかにも気の合う友達いるし。


悩みの多くは


『家族のこと』

『恋愛のこと』

『自分のこれから』

『友人関係』


です。


これらの悩みが、大人になるにつれて

にっちもさっちも問題が大きくなってきた気がする!って感じるのは、学生時代とらべて、解決しないことには、死活問題だ…!って危機感が迫ってくるからです。



旦那さまは、これらの悩みぜ~んぶに蓋をして、蓋をすることで頑張って生きてきたタイプの人です。

どんなに辛くても、傷ついても、立ち直る筋道を、理論的に組み立てて

その力で頑張って生き抜いてきたタイプ、ようは


『超自立』


と言われるタイプの男性です。

(ちなみに私、同じタイプでした^^ 似たもの夫婦^^)


人間には、自立的な一面と、依存的な一面、両方あって普通なのですが

どちらか一方に傾いている人は、もう片方、つまり依存か、自立かを、極端に自分に禁止します。

旦那さまの場合は、依存心を、もう、これでもかぁぁぁぁ!!!ってくらい、自分に禁止するわけです。


そーすると、どーなるかというと。


まず、なんでも自分ひとりでやろうとします。

誰かに頼る、という発想は、まずありません。

そして、心の中で、ものすごい高くて厚い壁をつくりますから、容易に他人を信じなくなります。

心の距離を、ガッ!!ととるわけです。

そして誰にも頼ることなく、自分ひとりでもオールマイティにこなしますから、仕事なんかだと、ある一定の評価は受けます。

でも、チームワーク系の問題は、常についてまわります。


これは、超!!がつくくらい自立する理由が、『むかしに、近い距離感が心を傷つけた』

という記憶が、私たちの意識されないところで疼いているからです。

親子関係、失恋、のような大きなハートブレイクもそうですが、ほんの些細に思えることでさえ、感受性の強い人たちの心はビシリとひびが入ってしまい、その傷ついた距離をおぼえて、もうその距離には他人を入れないぞ、と決心したりします。

もちろん、無意識になのですけれど…。


とくに、生活面が超自立の人は、恋愛になると、今まで禁止してきた依存心がガガガーーーーーっと出てきて、その我慢に我慢させていた依存心が爆発しやすいです。


恋愛相手って、


「わかってくれる人」


って感覚、あるでしょう?


だから、恋愛相手に選ぶくらい、心の距離を縮めてしまうと、今までふつ~に生活しているだけなら、うまく依存心をコントロールして、出ないように~出ないように~、って自分の行動を制限できるんですけど、こと、恋愛!となってしまうと


制 御 不 能 。(ガガッ ピーーーーーーーーーーーーーーー…)


みたいに、自分が自分じゃないみたいに依存心がでてきて、ボッロボロになっちゃうことがあるです。



恋愛相手に


「わかってほしい!」

「あれしてくれない!」

「これしてくれない!」

「どうして私の気持ちをわかってくれないの!」


っていう、要求が増えるんですね。

(ちなみに、さらに深いところで、このわかってほしいを抑圧すると、不倫とか三角関係に走りやすくなります。本気でわかってくれる人を求めてしまうと傷ついてしまう、と無意識に感じるので、成就しない恋愛に安心感を持つのです)


でも、この依存心。


自分が依存的になっている、ってことに気がつくことも、わりと多いことではなかったり…。


とーぜんなんです。

だって、むかしむかしに、その依存心を出して、傷ついたことがあるからこそ、生活してる中ではそれを出さないようにすることで、自分の心を守ってるんですから…。

だから、自分から傷を見つけて、ここにあった、あそこにもあった、なんて…

今でも疼いている、治っていない傷を認めるのは、それはもう、しょーじき、しんどい作業以外の何者でもないのです…。


逆に、相手も依存的だった場合は、その依存的な態度を許せなくなります。


自分が、「そんなことしたらアカン!」と禁止している依存心を、べらぼうに見せ付けられるわけですから、腹が立つんですね。


「もっとしっかりしてよ!」

「何でそんなことくらいちゃんとできないの!」


みたいになるわけです。


意訳すると


「もっとしっかりしてよ!」→「私のほうが甘えたいのよ」

「何でそんなことくらいちゃんとできないの!」→「私に愛されてるって感じさせてよ、安心させてよ」


になるわけです。


こーなると、もう依存心の押し付け合いになります。

パートナーシプは、お互いが違う悩みを抱えているようでいて、じつは、まるきり同じ感情を感じていることが少なくありません。

だから、自分が絶望しているときには、相手も絶望を。

怒りを感じているなら怒りを。

悲しいときは悲しいし、わかってくれない、と感じるならそれを。

無力感を感じているなら、相手も無力感を感じています。


ただ、表現する方法に違いが出るだけなのです。


なので、問題を解決したい場合、まず、自分の感情としっかり向き合うと、本当にパートナーに必要なものがなんなのかがわかるのです。

(ちなみにこれは、親子関係でも同様です)


話がずれたので少し戻しますが、お互いの依存心が疼きだすと、どっちが先に相手の依存心を満たすか、という競争になります。


”あなたが私の要求を先に飲んでよ”

”いや、君が先にぼくの要求を飲んでくれたまえよ”


みたいな感じです。


この競争に疲れてしまうのが、『お互い大切で、大好きなはずなのに…うまくいかない…』ってゆーパターンです。

(うちもそーでした。きっぱり。)


ちなみに、パートナーシップは、問題点に先に気がついたほうが、そこに取り組みだすと


上手くいくのです…!!


私と旦那さまの場合も、お互いに生活スタイルは超自立でしたから、恋愛関係が深まるにつれて、相手に対してガンガン依存的になっていきました。

それこそもう、お互いが大好きで、大切なはずなのに、なんでこうなっちゃうのぉぉ…!!(号泣)の、繰り返しでした。


そーするともー最初に感じていた恋愛感情に、猜疑心だの、不安だの、実は自分だけが好きで相手はそーでもないんじゃないかとかっていうよーな「疑い」まで入り込んできますから、


さ ら に 依 存 心 は ヒ ー ト ア ッ プ 。


もっと愛してると示してくれえぇ

もっと大切にしてると証明してくれぇ


と、ほんとうに悲痛な感情を経験しなければならなくなります…。

(うちもそうでした…。あの頃は悲しかったなあ…。)


私たちパートナーの場合、まず、私が心と向き合うようになりました。

自分の感情の、なにがどーなっているのか、どうしたら幸せになれるのか、当時はがむしゃらでした。

瀕死、と言ってもいいかもしれません。

なんの余裕もなく、なにがどうなっているのかも分からず、ただ、なんとなく感じていたことといえば


『お互いが大好きだと感じているようなのに、幸せになれないのは、何かおかしい…』


ここだけでした。


この感覚だけを頼りに、わたしは自分自身と向き合うようになったわけです。

超自立だったおかげでなのか、なんなのか、わたしは昔から諦めだけは悪いんですねぇ…。

あとは、この再婚を信じてたっていうのもありますかね…。

う~ん…

最終的には、自分の感じる「彼」のほうを信じましたかねぇ…。

目の前におきていることと、自分が感じることに、ギャップを感じたんですねー。

んで、もんのすごく怖かったけど、自分の感じたことを信じたんだと思います。最終的に…。

だって、現実に目の前に起きていることだけなら、『自分にとっての安心材料』を意味するものは、何一つないようにかんじていましたから…。


そうこうしてるうち、私が自分の感情と向き合って、どんどん癒されて行くのを感じていきました。

ほんとうに癒されると、確実に行動パターンや、言葉、態度に変化が表れます。


単純に、「物事の感じ方、捉え方」がかわるので、「受け取り方、対処の仕方」が激変するんですね。


そーなると、今まで歩んできた自分の人生とは、180度違った人生がスタートしちゃうのは、当然といえば当然なのでしょう。

体のメンテナンスが必要なように、心や感情のメンテナンスも大事なんだな~って

思い知らされた気がします。


日本も「方法」じゃなくて、「理由」に目を向ける時代がくるといいなぁ。


さて、そんな風にちょっとずつ変化していくと、パートナーも変化していきます。

態度が違うんだから、相手も態度が変わるわけです。

そして、パートナーシップは、どこまでいっても、”根っこでは同じ感情”を共有”しています。


だからでしょーか。


旦那さまにもちょっとずつ変化が。笑


そしていま、旦那さまは、とうとう、今まで超ド級のぶ厚いマンホールで蓋をしていた

自分の感情と向き合うことに、チャレンジし始めました…。(^^)


見たくない、気がつきたくない、向き合ったらまた辛くなるだけ…、そういう感情だからこそ、頑丈な施錠をした蓋をするのです。超自立のタイプの人たちは。

もう、傷つくのが怖いわけです…。


それを開けようとする試みは、ほんとうに、ほんとうに、ものすごい勇気以外の、何物でもないのです。


旦那さまが荒れています(^^)


自分の感情に、向き合い始めた証拠です…(^^)


笑って眺めていられるような、生半可な感情ではありません。本人は、いま相当しんどいはずです。

でもそのチャレンジを、今度はわたしが支えてあげたいのです。


前は…


私は、旦那さまにひどい目に合わされていると思っていました。

でも違ったのです。

ぜんぜん、そうじゃなかった。

むしろ真逆だった。

ようやく、わかったのです。


自分の心と向き合うと、自分の傷や痛みをみつめることになるので、相当、辛い感情を経験します。

それは一人では耐えられない感情が出てくることもあります。


それらを超えて、はじめてわかったこと。


それは、私と旦那さまの間にあったことは、『問題』ではなくて『贈り物』だったということ。

旦那さまのしていたことは、私を苦しめることではなく、私を助けるためだったということ。

あの辛い感情を、旦那さまも共有していたのなら…

それをやり通した旦那さまの心の、奥の奥、根っこの根っこにあったのは、私への愛情以外の何物でもないということに、わたしはようやく気がつきました。


どうしてそー思うようになったのかは、また別の機会に記録できたらいいなあ…。

この気づきは、わたしの人生の宝物のひとつになったと思うから。。。


旦那さまは苦しんでいます。

でも、わたしは信じています。

旦那さまは、人一倍、勇気と決断力があり、ドがつくほどの豪胆で、実行力とリーダーシップを兼ね備えている人です。

なによりも、人を喜ばせること、楽しませること、笑顔にすることが大好きな人です。


本来の私から、遠く離れてしまったからこそ、私が生きずらかったのと同じように…。

旦那さまが生きずらいのも、本来の自分らしさから、離れてしまったからです。


離れるには、離れるだけの理由がありました。

傷ついた感情を守りながら生きるためには、自分自身を切り離して、蓋をして、どこかで仮面をつけながら生活しなければ、成り立たなかったからです。


旦那さまは、それを開けようとしています。

傷ついた自分と、もういちど対面するのはものすごく怖いです。

でも、幸せになりたい、その気持ちが後押ししているのです。


きっと、なにより、私と赤ちゃんのために…。

自分を応援してくれる人たちのために…。

自分では意識できなかったとしても、彼はまぎれもなく、自分を幸せにする選択肢を選ぼうとしています。


『幸せになるのは死ぬより怖い』


という心理学の格言がありますが、彼はその怖さを超えて、自分を幸せにしようと頑張っています。


表面的にはめちゃくちゃ荒れてますけどね(^^)

プロセスは、彼にとっても完璧。

彼ならだいじょうぶ。


信頼を、彼に送り続けたいと思います(^^)


がんばれ!


だんなさま!


愛してるよっ。笑








おわり








わたしは我慢をしている、という感覚が、だいぶ麻痺している人でした。


それに気がついたのは、20代の最後の頃です。



でも、自分で気がついたのではありません。


そんなに近しくない友人が、わたしに対してふいに言った言葉だったのです。



「りこちゃんは、我慢を我慢て感じてないんだろうね、だから頑張ってる感覚もないから、やれちゃうんだろうね」


今でも覚えています。



”そんな風に見えてるんだ、ふ~ん。ぜんぜん我慢なんかしてないけど。やりたいことやってるし”


私は、友人の言葉を、なんの感慨もなく「それぞれの見方のひとつ」として捉えました。

でも、その割りに、いつまでもいつまでも、その言葉はわたしの記憶に残り続けたのです。


友人と何気ない話をすることなんて、たくさんあります。

他愛もないおしゃべりだからこそ、その言葉たちは、その場にとどまることなく、とりとめもなく流れ去り、楽しい空間のエッセンスとしてあるのでしょう。


でも、なにかの言葉が、ずっと胸に残るなら、もしかしたら、それは私たちの意識できない深い部分が、揺らいだ証拠なのかもしれません。



わたしは、自分が我慢しているとは思っていませんでしたから、友人に指摘されても

ちっとも傷つきませんでした。



「へー、そう?」



そう思っただけでした。

むしろ意外に感じたくらいです。だって、やりたいことをやっている人生だと思っていたから。



ですが、とうとう気がつくときが来てしまいました。



わたしは、母親への愛情ゆえに、我慢を友人にしていたのです。


それは、友人というような、自分自身と切り離した存在ではなくて、わたしそのもの、わたしの分身といってもいいかもしれないほどでした。


わたしと我慢は、イコールだったのです。



これに気がつくまでには、本当にいくつものプロセス、みちのりを歩いてきたと思います。

自分の人生が、自分のしたいことをしているようでいて、なぜか生きずらい。

親しい人も、大切な人もいるのに、なぜか一人ぽっちの感覚が消えない。

まわりの人のことは良くわかるのに、自分のことはよくわからない。

自分なりに一生懸命なのに、なぜか報われない。

っていうか、今の私、なんか私じゃない気がして好きじゃない…。

っていうか、いっぱい私がいすぎて、どれが本当の私なのかもーわかんない…。



なんでなんだろう?



って思っていました。



この感覚は、わたしが、歳を追うのに比例するかのように、

経験する内容はハードになっていって、

感じるしんどさは、どんどん大きくなっていきました。


でもそれでも、わたしは「我慢している」という感覚を持っていませんでした。



「やるしかない」



そう思っていました。



まるで何かの戦いに挑み続けている、戦士か何かのように、わたしは自分に「あきらめる」ということを許しませ

んでした。


そういえば、当時の私の一番嫌いな言葉は、「無理」「できない」「あきらめる」でした。



心理学をすこし知り始めた今ならわかりますが、これは私が、自分に対して禁止していることを表しています。

自分は絶対にしないぞ、と心に固く誓っていることを、人は自分に(そして他人にも)求めるのです。


禁止したくらいですから、かならずそこには心の痛みや傷があります。



もう意識できる範囲では忘れ去ってしまっているかもしれませんが、心には「時間」という観念がないので

傷ついてしまったことは、癒されるまでは、いつまでもいつまでも覚えているのです。


わたしが、自分があきらめる、ということを禁止したからには

自分がやらないことで、自分自身が傷ついたことがあるのです。


そしてそれは、「我慢」をしていると感じる心を麻痺させてまで、達成しなければならないほど、大切なことだったようです。



それほどまでに大切にしたかったこと。


それは、私にとって、






誰かの笑顔、でした。






私は、仕事でも、相手の笑顔を最優先にしました。

相手が笑ってくれるなら、自分の時間を、労力を割くことを惜しみませんでした。

どうしたら喜んでくれるんだろう

どうしたら嬉しいだろう

そればっかりを優先して、チームワークを乱すこともいっぱいしました。



友人関係でもそうでした。


相手の食べたいものって何だろう

行きたいお店って何だろう

ここでどんな言葉を言ったら、笑ってくれるだろう、喜んでくれるだろう

泣いている顔を、笑わせてあげられるんだろう

寂しい思いをさせないですむんだろう

一人ぽっちにしないですむんだろう



恋愛もそうでした。


彼にとって必要なことって何だろう

何をしたら役に立つだろう

喜ぶことって何だろう

彼の魅力や才能を、もっと伸ばしてあげるにはどんなことがいいだろう



仕事でも友人関係でも、わたしは一度も我慢を感じたことはありません。

むしろ、相手が喜ぶ姿は、わたしの何物にもかえがたい喜びでさえありました。




ですが、こと、恋愛に関しては

ときどき、我慢が顔を出すことがありました。



もう我慢できない



そう感じることが、あったのです。



これはパートナーシップの特徴でもあります。

何度か書いてきたように、パートナーシップ、ようは

「人と人との恋愛関係」ほど心の距離が近くなることは、心にとって




『親子関係』




くらいしか、ほかに、ないのです。



親子関係でつくられた傷や心の痛みは、かならず、恋愛関係に出てきます。

そして、いろいろなパターンの問題を作り出してしまいます。


それくらい、親子関係と、恋愛関係は、感情レベルで言うと似ているのです。

小さい子供の最初の恋が、お父さんだったり、お母さんだったりするのと同じくらい近い距離で

パートナーシップというものは、組まれるからです。


お父さん、お母さんへの愛情と同じくらいのレベルで、相手を自分のパーソナルスペースに入れる、もしくは、入るのが、恋愛関係なのです。

現時点で、どれだけお父さん、お母さんを、うとましく思っていても。

そんな感情を抱いたことはない、と思っていたとしても、です。

子供にとって、お父さんとお母さんは、世界そのもの、だった時期が、必ずあるのです。



そして、言葉や、態度、行動、すべての選択肢で、お父さん、お母さんとの関係で心に刻んできたパターンは、

無意識に、恋愛の相手に対して出てしまいます。



わたしにとって、「誰かの笑顔のために」のもともとの出発点は





『お母さんを笑顔にしたい』





だったのです。



あれだけ憎んだお母さん。

あれだけ、あんなふうにだけは、絶対になりたくない、と誓っていたお母さん。

あんなお母さんに育てられた私が、子供を生んだら、同じように不幸な子供にしてしまう。

それだけはイヤだ、どうしてもイヤだ、と泣いて泣いて、泣き崩れるほどだった妊娠がわかった頃。

暴君のように見えていた

わたしを自分の生活のために利用しているようにしか感じていなかった

それでも、ひとりの母として、尊敬していたお母さん。

うまくいっている、と思っていた、お母さん。



わたしの意識していることは、今の年齢になるまで、こんなものでした。


でも、違ったのです。



わたしは、職場で、恋愛で、友人間で、すべての行動パターンで、誰かを笑顔にしたくて、したくてしたくて

どうしようもない衝動を抑え切れなかったほど


わたしの母親を、笑顔にしたかったのです。


そのためには、我慢をしている、と感じる自分は邪魔でした。




甘えたい

わがまま言いたい

もっと話を聞いてほしい

ほめてほしい

一緒にいてほしい

一緒のお布団で寝てほしい

優しくしてほしい

遊んでほしい

注目してほしい




そんな子供らしい感情は、邪魔でしかなかったのです。



子供は、思考が発達していない分、感覚だけで生きています。

喜んだり泣いたり、感情を思い切りだせるのは、そのためです。

だから逆説的に、環境や状況に合わせて、見事なまでに感情を切り離すことも、するのです。

(もちろん、大人になってからもします)


子供が感情を切り離す、一番の目的は、お父さん、お母さんの笑顔のためです。


お父さん、お母さんが仲良くしてくれるように

お父さん、お母さんが、いつでも笑っていられるように


ぼく、わたしのできることって


なんだろう…。



それだけを願うのが、子供なのです。


お父さん、お母さんが、自分の世界のすべてだからです。

その優しくて、温かい世界を守ろうと、小さな自分にできるすべてことをしようとします。



子供の場合、ほとんどの手段として



「我慢」



を使います。



私の場合も同じでした。

ここまでは、今までの私も、わかっていました。



なんて犠牲的な愛情の形なんだろう

なんてかわいそうなんだろう



そう感じてしまうからこそ、わたしは、大人も子供も、お互いの気持ちを汲み取れずに苦しんでいる姿を見ると

どうしても子供の味方になってしまったのでしょう。

大人はわかってない

そう感じてしまったのでしょう。



でも違った。




私が、我慢という手段をつかって、母を笑顔にしたかったように。

母も、同じ手段を使って、おじいちゃんと、おばあちゃんを、笑顔にしたかったのです。




子供は、親と同じラインに立つか、立とうとしてできなくて、引きこもったり、問題児になったりして

その表現方法は違っても、親への愛情を一心に示す行動に出ます。


わたしは、お母さんと同じラインに立ったのです。



『お母さんを、ひとりで戦わせない。わたしも戦う!』



これが、わたしの選んだ道でした。



”一人になっても、生きていけるようになりなさい。”



これが繰り返し言われた、母からの教えだった私。

母は、これをおじいちゃんから、教えられて育ちました。


母は、人生をかけて、おじいちゃんの教えを守り抜いたのです。


自分の、父への愛を貫き通したのです。



わたしには、そんな姿が、お母さんが泣いているように感じられたのでしょう。

子供は、親の悲しみを自分のことのように感じ取る能力があります。

それを自分のせいだと思ったり

自分が笑顔にしてあげようと思ったり

その子供によって、大きく分けて5つのパターンで、親を助けようとするのです。



わたしは、自分が我慢をすることで、お母さんのしている我慢を減らして

笑顔にしてあげることを選びました。



ある時期には、可愛がられてどうしようもないくらい、可愛い子供でいることで、笑顔にすることもしました。



ある時期には、自分が家族から距離をとることで、笑顔を保とうとしました。



でも、一番効果を感じられたのが、自分が我慢をすることだったようです。



お母さんを一人ぽっちにしない。

ひとりっきりで戦わせない。

こんな辛い、厳しい生き方を、一人でなんかさせない。

お母さんが、ひとりで背負ってきた我慢を

わたしも背負うから、どうか、少しでも笑顔になって。



そう感じたようなのです。



私は、母に我慢させられている、と今まで感じていましたが、本当はそうではありませんでした。

私が自ら望んで、我慢することを選んでいたのです。



戦うしかない

できないなんて、言わせない

やるしかない



そう固く誓いを立てて、「我慢」を、自分の戦友にしていたのです。


そして、その固い誓いを、私より先に立てていたのは…、お母さん、その人だったのです。



お母さんは、やりたい放題やっているように見えました。

娘の私より、自分のことを優先しているように、見えていました。


ですが、心のどこかで、わたしは、お母さんが、自分のしたいことができる時間を

喜んでいたのです。



わたしがその分の負担をかぶったとしても

その時点では、迷惑をかけられている、愛情を感じない、大切にされていない、なんて感じていたとしても。


それはすべて、意識できる範囲内のことでした。



わたしの無意識は、喉から手が出るほど


お母さんの自由。

お母さんの笑顔。

お母さんの楽しそうな姿。


これらを渇望していたのです。


そしてそれを実現するためなら、どんな我慢もいとわなかったのです。

すべては、自分で選択していたことだったと、気がついたのです。



でも、それで納得がいきます。


わたしは、なぜか小さなときから、「戦い」に興味を持っていました。

強くなる方法を、探していました。

ボクシングを習いたいと、とても小さな子供のときに、なぜだか思ったことさえあります。

寂しそうな人をみると、強迫観念的に、笑顔にしなきゃ!という使命感のようなものを感じる理由も。

言いかけたことを、なぜかふっと止めてしまう癖も。

なんの接触もなかった、おじいちゃんのことを、なぜだか好きになれなかったことも。



お母さんと一緒に戦うため。

お母さんを笑顔にする使命をまっとうするため。

お母さんを傷つけると感じる人を、許せなかったためだったのです。



誰かに何かを言われたわけでも、そう思い込めと言われた訳でもなく

こんな感情に気がついてしまったことに、ほんとうに、心のそこから、驚いて、そして、母親を、今までとは違った意味で、尊敬し、感謝し、そして、もう、怒っていません…。




お母さんは、やりぬいた人だったのです。




自分の父親(母は早くにお母さんを亡くしています)に教えられたことを。


我慢は、愛情の形だ、と。


それを人生をかけて、自分の父親への愛をかけて、やりぬいた人だったのです。



そして私は、そんな母の、苦しくて、つらくて、さみしい、でも、戦い抜いてやる、という決意を感じ取って、わたしも戦うラインに、立ったのでしょう。



でも、気がついたことは、もうひとつあります。




我慢は…


誰も、幸せにならないということです…。



愛情のひとつの形ではあるでしょう。


でも、本当にお母さんを幸せにする方法。


子供のときは、我慢することしか、お母さんを笑わせる方法はなかった。


その引き出ししか、もっていなかった。



今は違います。




私が、幸せな人生を生きること。




これこそが、お母さんが、本当に幸せになる方法なんだと、表面上ではなく

心の底から気がついたのです。



私が幸せになったとき、お母さんは、きっと、一番の幸福感を感じるでしょう。


大切な、宝物のような私を、泣かせたり、ぶってしまったり、我慢をさせてしまった自分を、お母さんは、どれだけ責めたでしょう。

どれだけ自己嫌悪に陥ったでしょう。

こんな母親は失格だ、お母さんは、そう、自嘲気味に話すことがよくありました。

笑い話のような中で、さらりと口にしたその言葉に、どれだけ自分を責める気持ちを隠していたでしょう。



今ならわかります。



お母さんを、本当の、本当に、幸せな笑顔にするためには、私が幸せになって




お母さんの子供でよかったわ

ありがとう

こんなに幸せよ

お母さんの子供は、こんなに幸せなのよ




そう、言ってあげられる自分になることです。



我慢という古い方法は、わたしも、子供の私を卒業するのと一緒に、もう置いてきてしまっていいのです。



心理学に出会ってよかったと、心から思います。

自分と向き合い続けて、良かったと思っています。


問題が起きたとき、それは、”問題”に見えて、じつは”贈り物”なのかもしれません。




”この傷を癒して”




そう心がメッセージを送ってくれている、幸せへのノックなのかもしれません。



親子関係が癒されると、それはおのずと、恋愛、すなわちパートナーシップへと

大きなくくりで言えば、人間関係全般に、大きな変化が現れます。


もちろん、良いほうに…(^^)






お母さん、ありがとう。

わたしは、昔からの願いである、お母さんの笑顔を

自分が幸せになる方向を、選び続けることで、達成します。


そうして、あの子が私の娘なのよ、と、嬉しそうな笑顔で話す日を、実現させます。




だんな様と

赤ちゃんと

私と。




今まで、わたしに誤解されたままで、それでも、ずっとずっとずーっと、愛情を注ぎ続けてくれたことに

心の底からの、感謝をこめて。

怒り、という感情と、セクシャリティは、ものすご~く深い関係があるというけれど…。


そうかあ…!


そうだったの~!


心はバランスをとりたがる性質があります。

わたしの母親は、とにかくヒステリックで短気、暴力的で、暴言、放置しほーだいの人だったのですが

(そのぶん、アホかってほど自由で、クリエイティブで、自分にまっ正直な人でもありました。笑)

心の距離の近い人間が感情的だと、その相手は感情を殺す、感情を切り離していくタイプになります。

もちろん、自分ではそうしているつもりはありませんし、これが自分だ、くらいにしか思いません。

その状態がふつーですから。


なので、私は昔から、手のかからない子供に育ったわけです。

わがままいわない。

言うことよくきく。


うん、そういう記憶、めちゃくちゃ、ある。


ですが最近、あれ?と思うことがふえたわけです。

そーゆー性格なのかと思ってましたが、どーも最近、違和感を覚えてきているのです。


あたしって、そんないい人だったか…?


だって、わたしは頑固です。まず。

自分の気に入るようになるまでしつこく成し遂げようとするし

「わたしが気に入るように」じゃなくちゃ、納得しないわけですよ。

勝手で、マイペースで、じゆ~うに過ごすのが大好きで

楽しそうなことを見つけると、その時にしてることを放り投げて、そっちにいっちゃいます!

それを邪魔されると、友達にさえ、もー帰れ!って言っていたそうです。(母親談)


そんな自分を知ってる、もしくは、なんとなく知ってる、そういえばそうだったような…はるか昔は…。


って、感覚がむくむくと意識にのぼってきたんですね。


ま、お世辞にも「いい人」でも何でもないっつーか。


たんに自由奔放で、やりたい放題の人。


大人になる過程で、たくさんの人とめぐり合って、これではいけないんだな、ダメだったんだな、って

自分にダメだしをして今のわたしが作られていきましたが、もともとは破天荒で、我慢がきかない、我の強い子だったのです。


大人になってからの私の評価とくらべるとよくわかります。


優しい人

いい人

穏やかな人

怒ってるところを見たことがない人

いつも誰かのために泣いて、自分のために泣かない人

相手に合わせてくれる人


……

……

……。


ちがう。気が、する…。


これは、もともとの私ではない気がする…。


もちろん!

大人になってからそう評価されるからには、わたしは、きっと今までに巡り合ったたくさんの素敵な人たちから、それをたくさん、たくさん、学ばせてもらったのでしょう。

だからこそ、それを自分の魅力として、魅力引き出しを増やせたのかもしれません。

それはとってもとっても、素敵なこと。

とっても、とっても、感謝してること…!!


でも、本来の、自由で奔放で、頑固で、我が強くて、自分の思いとおりじゃなきゃ気がすまないんだも~ん!!!


って私は…。


どこへいっちゃうの?


それが本来の私。

それが、私らしさ。

私らしさという土台が無い上に建てた、優しさや、いい人、なんていう建物は、きっとモロくて、無理があって、いつか崩れてしまうんじゃない…??


自由で、奔放で、頑固!

我が強くて、気に入らないことは気に入らない!


そんな自分を大切にしながら、優しさや、相手を思いやる心、感情的になりすぎないこと…そんな、今までに増やしてきた引き出しを使うことができたなら…。


それは、とっても楽で、素敵なことなんじゃない…?


「私ってダメだなあ」じゃ、なかったんだ…。

「私にプラスすると、もっと魅力的になるものって、なにかなあ」だったんだ…。


そうだったんだ。

今までのこれらは、きっとそうだったんだ…。


自分に厳しい点数をつけて、減点方式でダメだしをするのは、ふつうによくあることです。

私も含めて、ほとんどの人は、自分に対して否定的で、自己嫌悪にまみれています。


でも、もしそれが、誤解だったとしたら?


ほんとうは、今までの自分がおーるおっけー!!、で、その上で、もっと魅力的になるためのアイテム探しをしているのが、人生だったら…???


これはもう、自分と、未来に対する見方が180度かわります…!!!!


私はこれまで色んなことに対して、怒っていたのかもしれません。

自分じゃどうしようもないよ!もうなんとかしてよ!

って、誰かに何とかしてもらわなくちゃ、もー打開できない!って思っていたのかも知れません。

こんなに一生懸命やってるのに。

まだ足らないのかな、まだ頑張らなきゃダメかな、こんなに、つらくても苦しくても頑張ってるのに!

って、怒っていたのかもしれません。


うわ~


怒りは、モチベーションと密接なつながりがあります。

あったまくると、こ・の・や・ろ・~!って、俄然負けん気が働いたりする時ってありますが

これはわたしの今まで頑張ってこれた原動力は…怒りだったのかも…!


こんにゃろ負けてたまるか~


だったんだ。


うわ~

そういえば、わたし、静かでだま~ってるけど、りこさんて負けず嫌いなんだね…!って驚かれることが

よくありました…!!

静かで黙ってるのは、まあ、大人になってからの私の魅力箱のひとつです。笑

本来の私はおしゃべりで、ひとりでもずーーーーっと喋ってるくらいのお喋りでしたから。さんまか!ってくらいの。はい。


ちなみにですが、怒りん坊さんというのは、セクシュアルな魅力がものごっつい高い人でもあります。

怒りの感情と、セクシャリティというのは、す~ごく深い繋がりがあるのだそうです。

怒りんぼうなのに、女らしいと言われることに違和感や、抵抗感があるなら、それはもう、自分の女性としての魅力のすごさに、本能的に気がついていて、おっかねーので抑圧して、魅力を閉じ込めている可能性が


大!!!


です。笑


私も、自分自身が女であることを、認めたくないと思っていたなんて

この間まで気がつきませんでした。

だってふつうに女だもん、どこをどー見たって…。笑


でも、頭でわかっていることと、心が感じていることって、アホかってくらい差があるんだな~…。


心では、わたしは自分の女性部分を、大!!!否定していたのです。

こないだ気がつきました。


どーりで容姿をほめられたり

色気があるなんていわれたりすると、もう自分では何とも表現の仕様のない「イヤ」さを感じていたわけです…。

泣くほどでしたから…。


でも、自分ではおしゃれが好きだったり、お化粧品が好きだったりしてるんですよ?

かわいくなる努力をしようとしたり。


もし、心が自分の”女性”に対してYES!の姿勢だったら、色っぽいとか、容姿をほめられたりとかすると、恥ずかしさは感じても、「嬉しいな」って感じるものなんです。


はにかみながらも、「ありがと…♪」


って言えるものなんです。素直に。笑


あたしゃ、頭では女の子らしくなりたい!なんて思って頑張ってましたし、自分でもそーゆうことが好きだと思ってましたけど、よー考えると


「女の子らしくなりたい!」の前には


「私は女の子らしくないから」、がつかないと、そう感じないですよねー。はあ。


まずは自分の本来の女性、という部分を否定するところ。

NO!の姿勢から入っているわけです。


なんでもそうですが、土台を否定するトコから積み上げると、せっかく手に入れたその積み上げたものが、不安定で、崩れやすくなるんです。

これが、生活上で、なんか上手くいかないなー、頑張ってるのになー、しょんぼり…。


の、大きな原因になります。


まずは土台、ようは、自分自身に、深いところからYES!の姿勢を取れると

土台がしっかりして、本当の自信をつけていけるので、時間をかけて手に入れてきた、新しい魅力も、じゅうぶんなパワーで発揮できるようになるんですね。


わー


ブリスって始めて経験した。笑


ほんとーにあるんだー

うそくさーって思ってたけど!笑


心理学ってすごいね!



あははは!












ぶーーーーん、と大きくふれたら、慣性の法則で、反対側にも、同じ速さ、同じ角度まで

ぶーーーーん、とふれます。


それは何度も、何度も何度もくりかえされて、やがて、まっすぐ糸の垂れた

”センター”にとどまります。


中心にたどり着くまで、なんどもなんども、振り子はふれて、右と左にいったりきたりします。


心も同じ法則があります。


心は、どちらかというと不変を好みます。


だから、どーにもこーにも変えなきゃいけない環境や状況がないと、人はなにか問題を感じていても、その問題を後回しにしがちなのです。


恋人ができたり


職場が変わったり


結婚したり


転職したり


離婚したり


引越ししたり


状況が変わって、はじめて、自分の抱えている問題が、明確になってしまいます。


それはずっと今まで自分が抱えていたけれど、見ないで済ませていた、『後回しにしていた問題』そのものです。


向き合い続けるのがつらくて、またそこから目を背けてしまうことが…

どれだけ多いことか…。


そして、その向き合うということが、どれだけつらく、苦しいものか…。


当然なんだ。

だって、つらくなかったら、簡単に終わる話だったら、さっさとやっつけてるもん、そんな問題なんて。

問題、っていうからには、自分の力ではどーにもできない、って感じてるから

問題なんだ。


だから、向き合うぞ、って決めるコトだって勇気がいるし

向き合い続けることにも、勇気も、決意も、愛情も、めちゃくちゃ必要。

ようは、腹をくくる、ってこと。

腹をくくり、つづける、ってこと。

なんど、「もうやめた!」って投げたとしても

もういっかい、それを拾いにいくということ。


それは、幸せになりたいから。


だれかを、幸せにしてあげたいから。


自分のために、とは、心はなかなか思えないもの。

最後の、最後の、最後のかせを振り切って、幸せな結末につづく選択をしようとすると

心は、「自分以外の、だれかのために」「自分以外の、だれかの笑顔のために」って、いうのをすごいエネルギー源にする。


振り子がふれて、また、もとの自分に戻ってしまったように思うとき

そのときは、いつだって、心の変化するプロセスを信頼するとき…。


右に、左に…


大きく変化した分だけ、大きく戻ります。


でも、また、大きく、その反対側へとふられていきます。


でもいつしか…


その振り子は、ゆっくり、ゆっくりと、中心へ、中心へと、その場所を定めていくのです。


心の変化は、慣性の法則と一緒です。


心の中心。


それは、一番、「自分らしい」場所です。


今まで無理していた、気がつかなかった、もしくは、怖くて隠していた、そんな、自分でも無意識のうちに感じていたすべての魅力や才能の、いちばんナチュラルで、パワフルな仕方で発揮される場所です。


楽で、いきいきとしてて、生きてるなー!って感じられるポジションでもあります。


心の変化していくプロセス。


信頼していきたいです。







どれだけ自分が、母親のことを愛していたか

母親の役に立つ自分でいたかったか

助けて、笑顔にしてあげたかったか


そんなことに

そんな他愛もないけど

自分のほんとうの、本当の思いというものに気がつきました


ようやくです


今まで、さんざん抵抗してきたことでしたが

ようやく、全面降参。

ほんとうにそうだったんだ…ってかんじです。


どっかでね


こんなに母親のことを好きだったんだな、って気がつき始めたころ


「なんて可哀そうなんだろう」


って感じてたんです。


あんなにつらく当たられていたのに

あんなに、ひどいことを言われたり、されたりしてきたのに。

そんな母親のことを、それでも大好きで仕方がなかっただなんて。

大好きすぎて、自分の母親に対するネガティブな感情をできるかぎり切り捨てて

なんとか母親の笑顔の元になろうとしていたなんて。


って。


感情で、自分が母親のことを助けたかった、大好きだった、ということにOKは出ているけど

まだ、母親への恨みつらみ、とでも言ったらいいんでしょうか。

そういうものにしがみついている状態だったんでしょうね


なにか、自分の感じていることに

恨みがましさを感じます。


頭ではわかってるんですよね、母親も、最初から親だったわけじゃないこと…。

失敗したり、後悔したり…

悩んだり、がんばってみたり…

その繰り返しで、いっしょうけんめい、私を育ててくれたこと…


つい数日前のことです。


とつぜん、妙な思いがふっとわいてきたんです。



『わたしの大切な人は、わたしを大切にしてくれないはずだ』



これには面食らいました。

でも、どーやら私はこの考え方をかたくなに信じているみたいだし、頭ではそんなはずないでしょ~って考えても、もう、頑!!!として、この感じ方を手放そうとしない、みたいな感じだったんです。


なんだ、どーした。

あたしどーした。

え、あたしって、こんなこと考えてたの?

うっそだぁ…


とは思うものの、すーごい頑強なかたちで、それは意識にのぼってきました。

じょーだんでしょ、と思えないほど、めちゃくちゃ怖いわけです。


自分と向き合い始めてから、自分がどんなに母親を愛していたか、笑顔にしたかったか

わたしがどれだけ愛されていたか、大切にされていたか

今までのことが、どれだけ幸せなことだったか、必要だったのか

自分の深いところと見つめあうことで、人と人との、もしくは自分の中の愛情というものに、気がつき始めていたんですね


癒される時が来たんでしょうねー、きっと。。。


しょーじき、自分の知らない自分です。

なのに、かんっぜんに、自分の中からふいっと出てきた思いなわけです。


わたしの大切な人は、わたしを大切にしないはずだ、と自分を納得させなければ、感情的にどうしても傷つきすぎてしまう過去があったはずです。

納得することで、「だったら仕方ない。だってそういうものなんだから」と思えさえすれば、嫌な思いをしつづけたとしても、そーゆうものとして受け止めますから、100%傷つかなくて済みます。80%とか、慣れれば60%、30%と、痛みを鈍化させていくことができてしまうのです。

(これが感情を切っていく経過でもあります)


この感情と向き合って、しばらくは、


怖いし、この考え方を手放してしまったら、もう逃げ場がない、しんどい、最後だ、終わりだ、おしまいだ私は…!


みたいな追い詰められた感?


を感じた私は、怖くて怖くて、どーしょもなかったんですね。


でも、感情は、感じつくすと消えます。


わかってくれてありがと~、って感じなんですかね…。


自分で自分をわかってあげるって、大切なんですね、拒否しない、優しくしてあげる、まるで、大好きな友達に対するみたいに…。


女性性を使う、感情のど真ん中にはいったままでいる、っていう方法を使って向き合いました。

しんどかった~

つらかったもん。


でも、ふわっと、わかったんです。

きゅうに。


誤解だったんだ、って。


もういいんだ、もう、頑張らなくてもいいし、みんな誤解だった。

みんな頑張ってた。

わたしと同じように、いまの私と同じようにつらい気持ちをかかえて、

ただただ、お母さんも、頑張りぬいただけだったんだ


って。


いっしゅん、死ぬんかな?

って思うくらい、わたしが接して、傷ついた、もしくは傷つけた、と感じている人たちの顔、顔、が、走馬灯のようにイメージですけど、走り抜けて、みんなすごいいい笑顔で笑ってたんですね。


わたしが、好きだなぁ、この顔


って、その人を見ながらいつも思っていた、最高の笑顔で。



そしたらね、自分だけが、大好きで頑張ってたんだ

っていう認識から

みんな、頑張ってたんだ…


っていう、ふんわりした穏やかさに、感じ方が変わっていることに気がついたんです。


それまでは、お母さんと小さい子供のやりとりとか見ていると

わたし、毎回ちいさい子供の感じ方の味方だったんです。


お母さん!

大変なのはわかるけど、子供のつらさをわかってあげて!

あなたのこと、大好きなのよ!


って感じです。


自分の深いところの感じ方を、その親子さんに投影しちゃうわけですね。


けどねー

抜けた。

ばちっと。


また、同じようなチャレンジがあることを、わかってはいるけど…。


でも、頭では、お母さんたちも、大人の人たちも、大変だったんだ、でも頑張ってたんだ、ってわかってもどうしても批判的になってしまう自分にへきえきとしていたけど…


感情面で、みんな、いっしょだったんだー

がんばって、がんばって、どーしようもなかっただけだったんだー

それでもどうしようもなくて、だけど、やっぱり大好きで、ちくしょー!うまくいかない!いかないよー!って泣きながら、涙も見せずにがんばってただけだったんだー


みんなそうなんだ…

お母さんも…


って、思えたんですね。

感情レベルで、納得できたんです。


すごく、嬉しかったんです、

これでよかったんだーって。


誤解が解けたんだーって。


あの考え方を捨ててしまったら、また傷ついてしまう!って、わたしの意識は必死でした。

それだけ辛かったんでしょうね。。


だから、親しくなると、もしくは恋人に対してさえ、一定の距離を保って、それ以上親しくならないことを、無意識に選択するようになっていたのかもしれません。


大切な人は、わたしを大切にしない。


そんなことは、なかったのです。


それは私が傷つかないようにするために、必死で着込んだ、ただの鎧でした。


ずいぶんと、重い鎧きて人生あるっていたなあ~って

お疲れ様、わたし。


って、してあげたいです。


あはは。








昨夜、迎え入れた罪悪感は、どうやら離婚時のものだったようです。

それが意識の一番上にある罪悪感だったんでしょうね


罪悪感というのは、ひとつ処理すると、順番待ちのように、次、さらにその次、とぽこぽこ顔を出します。

そうやって、少しづつ時間をかけて薄めていくようなイメージで癒されていきます。


人間には、女性性、男性性という特質がもともとどんな人にも備わっているのですが、わたしは女性性をつかってパワフルに癒していくタイプのようです。


女性はもともと、お産があるせいか痛みに強い、なんて表現がありますが

これは女性性の特質のひとつでもあります。


男性は、悩みがあると、仕事やお酒、ギャンブルなどで気分を変えることを優先しがちなのですが、女性というのは、どんなに苦しくても、解決の為に、なぜ?どうして?と苦しみながらも、問題そのもの、感情そのもの自体に向き合い続けていくことができます。


占いやスピリチュアルな関係のものに、女性のほうが多く関心を持つというのもその為です。

女性性は、自分の弱さに向き合っていける”強さ”をもっているのが特徴です。


女性でも、あまり女性性を活発に動かしていない人は、わりと仕事中毒、ワーカホリックになりがちです。

男性性のほうがエンジン全開なわけです。

これで、自分の女性性を成長させることができると、じつは、男性性だけで進めていた時よりも仕事自体も、もっとうまくいくようになるし、恋愛もスムーズに進むことが多いです。


女性性は、人の営みではオアシスのような役割を持っています。


わたしは女性性が、もともと強いタイプだったようなのですが

男性性だけを伸ばしていたので、バランスが悪かったんですねー

そうすると、いろんなことで上手くいかないカンジを覚えるようになるんです。


なんでこうなっちゃうんだろ…

なんでうまくいかないんだろ…

自分なりに一生懸命なのに…


みたいな感じです。


感情は、感じつくすと消えてなくなります。

嘘のようなホントのおはなしです。


ただ、心は、感じないようにすることで自分が傷つくのを守っているくらいですから、自分が傷つくとわかっている感情と向き合うことは、じつは、アホほど…


アホほど、怖いものなんです…!!!


感じたくない感情は、無意識に回避します。

なので、自分では全くといっていいほど、自分が逃げているとは感じません。


もし、逃げていると意識できるようであれば、それは相当に意識の上のほうに感情が上がって来ている証拠で、まだ根も深くないので、癒してしまう絶好のチャンスになります。


女性性を使って、感情の傷をいやす、というのは、この


『怖くて感じたくない感情を、みずから受け入れて積極的に感じていく行動』


ってものです。言ってみれば。


ごおおおおっついパワーもエネルギーも要るのですが、癒すスピードは格段に速いです。


女性だからこその得意分野と思ってもいいと思います。

男性でも、女性性が活発な人は(オカマさんてことじゃないよ)出来るのかもしれませんが、まだ私にはわからないなぁ…

どうなんだろ?

ちょっと聞いてみたいなー


昨夜、もう、自分が何で泣いているのか分からなくなるくらい泣いて、泣いて、泣いて…

泣きとおして、目と頭が痛くて、眠くて眠くて仕方ない…という状態で寝ました。

(ごはんはほとんど旦那さまにつくってもらいました。。感謝。。)

(お散歩にも連れて行ってっくれたよ。やさしいね。。ありがとう。。)


ちなみに、寝ても寝ても、眠い!

眠くて仕方ない…!

まだ眠れる!


というのは、感情レベルでいうと、いい兆候なんです。


なぜかというと、人間はすごくよく作られていて、感情がバランスを取りはじめると、脳に『眠りなさ~い』って命令がいくようになっているんですね。


眠っている間に、感情のバランスを大量に処理するんです。

なので、鬱のように感情のバランスを崩し始めてしまうと、ほとんどが不眠に悩むようになります。

眠れないと、人間は感情のバランスをとれないんです。

眠りの質が重要!っていう理由は、こんなとこにもあります。


ん~

夜勤が人間の生理に反しているっていうのは…

そーゆー意味でもそうなんだろうなあ…

だからこその夜勤明け、だね…

やっぱ、眠るための日なんだなー、夜勤明けは…。


話がそれましたが、そんなわけで、眠い…、眠いよう…、って勢いでお布団に入ったんです。

もうぐったり。

わあ~わあ~泣くと、めちゃくちゃ疲れるでしょう?

ものすごいエネルギー消費なわけです…(笑)

体重減るくらいですから、そうとうパワー使うんです。感情のど真ん中に入ったままでいる、っていう行動は。

(でも、そのサインを受けて、脳が眠れ~って命令を出し始めるわけですね)


そしたら、今朝突然に。


ふっ…、と霧が晴れたように思ったんです。


じゅうぶん、愛したなあ、って。

前の人に関して…。


つらいことも、大変なことも、乗り越えなきゃいけないこともあって

どうしたら、この人と一緒に、笑顔で、たのしく、ずーっと一緒にいられるだろう、って

一生懸命に工夫もしたし、努力もした。

やったことないことだって、いっかいも嫌だなんて思わなかった。

むしろ、楽しかった。

一緒にいられて、楽しかった。

一緒に笑えることが、めちゃくちゃ嬉しかった。

だから、ちっともつらいなんて思わなかった。

楽しんでできた。

みんな楽しかった。


それは、わたしが、ちゃんと愛していたからなんだ…


って…。


わたし、離婚はイーブンで、どちらかだけに責任があるわけじゃない、って頭ではわかっていたんです。

友人たちも、どれだけかばってくれたことか…。

わたしに、お前が悪いんじゃない、と、なんど声をかけてくれたことか…。

どれだけその言葉に支えられてきたかわかりません。


けれど、ずっと心の奥に引っかかっていたんでしょうね…。


わたしは彼を、裏切った。


ずっと一緒にいるって誓ったのに、約束を守らなかった。


思いを貫き通せなかった。


そんな私が、のうのうと再婚して、彼に悪い…、悪い…、…。


そんな自分を責めたてる感情が、すごくあったんですね、きっと…。


失恋の時とかもそうなんですが、人の感情っていうのは、つらい立場に立つと、自分のしてきたポジティブなことには、ほとんど目が向かなくなることがあります。


「自分に悪いところがあったんじゃないか」

「魅力的じゃなかったんじゃないか」

「どこを直せば、彼と幸せになれたんだろう」


頭では、わたしは自分のできることをやってきたつもりだ、と考えていても

心は納得していないことがあるのです。


もちろん、ほかのパターンもありますが、わたしは罪悪感が強いタイプみたいなので、なにか事があると、相手を責めるパターンには、ほとんどと言っていいほど、なりません。

ぜんぶ、自分が悪いんだ、と感じるタイプなんですねー

(相手を責めるタイプの人は、罪悪感を感じていること自体に自覚がないことが多いです)


んで、


2年以上。


2年以上、彼のことを引きずってしまうほど…


わたし、彼のことを、愛してたんだなあ…


って


結婚しても


ほかの男性を愛していても


それでも、忘れられないくらい、愛してたんだなあ…


って


そんな自分がいたんだなあ…


って


はじめて、心の底から、自分の愛情や、彼との時間を認めてあげられた感覚になったのです。


感情とは不思議なもので、自分に対してNGを出しているときは、ほぼ、なにも認められないんです。

自分のことも、他人のことも。

頭でわかっているというような、表面的なことではなく、感情レベルで、ぱっ、と気がつく、腑に落ちる、という”感覚”がないと、人って成長しないんですね。


わかっていても出来ない!


って感じるのがそれです。

頭では分かっているけど、感情レベルで納得していないので、ものすごいジレンマになるんですね。

なので、わかっていても出来ない、と感じることには

その裏に、自分だけの心の傷が隠れていると思って、まず間違いがありません…。つらいんですけどね…、これを認めること自体が…。


だから、わたし、今朝はすごく清々しいんです。


ひとつ、罪悪感を抜けました…。


彼を愛していた、という事実を、心の底から認めることができたみたいです。

離れてしまった自分にNGを出し続けていた(これが罪悪感ですね)ようですが、自分の傷よりも、たしかに一生懸命愛して、そして、卒業するようにして、つぎのステージに進んだんだ…って


やけに、穏やかな思いで朝を迎えたのです。


しずかで、優しい涙が流れて、いまの旦那さまが愛おしくて、過去の、彼を大切にしていた自分も愛おしくて、この積み重ねで、いいんだなあ…、よかったんだなあ…、って思えたのです。


心から、隣で眠る旦那さまを抱きしめて、ほっぺにキスしました。


旦那さまを、愛しているなあ…って気持ちを、今まで以上に純粋に、そしてうんと強く感じました。


罪悪感があると、自分が幸せになることを、無意識に避けるんですね。

なので、罪悪感というブレーキがはずれて、いまの旦那さまを愛しているなあ、と感じることにOKが出た状態なのでしょう。


すごくすごく、すごく、嬉しかったです。


今までとはちがう、穏やかな気持ちで、第2の故郷、山梨県を思うことができるんですね…。


感謝と、愛おしさをこめて、山梨県を思うことができるんです…。


山梨県に対して、山梨の友人たちに対してさえ、引け目を感じていたわたしです…。


こんな、嬉しいことはないのです…。


みんなみんな、ありがとう。

本当にありがとう。


ちゃんと幸せになってます、わたし。


幸せになってもいいんだ、って感じる道を、べしょべしょしながらだけど…、それでも、確実に歩んでいる自信があります…。


ゆっくり、ゆっくり…。



ありがとう。


ありがとうね、みんな、ありがとうね。






インナーチャイルドに向き合う


無価値感に向き合う


怒りに向き合う


嫌悪感に向き合う


お金に対するイメージに向き合う


自分のセクシャリティと向き合う



ずいぶんと向き合ってきました。

短い期間に…


そしてすべて、解決に向かっています。

とくに、自分のセクシャリティと向き合った時は、無価値感がセットのため、ものすごい葛藤がありましたが、一番ストンと意識がかわったことを感じています。


同じものを見たり、聞いたり、言われたりしても、セクシャリティに傷があったときの自分と、癒されてきた今では、まったくと言っていいほど感じ方が違います。


自分では全く気がついていませんでしたが、自分は女性として失敗作品だ、という感覚が、ものすごく強かったようです。

気がついてないって、こーいうことを言うんだな…って

一番身をもって経験した感情だったし、癒されると、世界がひっくりかえるみたいに、物事の捉え方、自分の感じ方が変わることもわかりました。

感じ方が変わるので、じぶんの反応も変わります。がらっと。

以前だったら、カチーンときてたことも、なんにも気にならないので余裕のある冗談で返せたりします。

むやみに嫌うことも、自分を蔑むこともなくなりました。


セクシャリティに関しては、感情ととことん向き合ったので、

『感情は、感じつくすとネガティブからポジティブに変換する』っていうのが、経験としてよくわかったなぁと思います。


そして今向き合い始めたのが…


罪悪感。


わたしにとっての、キモの感情のようです。


これが相当つらい。


今までの感情群と向き合うのも、もう本当にしんどくて、死んでしまう…!って感じるくらい怖くて嫌なものだったのですが、かなり、嫌な感情です。


無価値感は、わたし、逃げたいなーいやだなーって気持ちにならなかったんですけど、この感情の正体って、もしかして罪悪感かも…って気がついた途端に逃げ出したいです。


初めてです。

そんな気持ちになったの。

わりと、勇猛果敢に取り組んでいたほうなので…。


相当怖いです。


感情が癒されはじめると、それと同時に、忘れていた記憶をバンバン思い出し始めます。

それが特徴です。


なんで忘れているかって、覚えていたらやってられない位にしんどいから、わざわざ心は忘れさせてくれるわけです。暮らしていけなくなっちゃうから。

でも、忘れるだけで、なくなったわけじゃないので、心に受け止める準備ができると、その感情は処理してほしくて、待ってました!とばかりに再登場します。


その、リアルタイムで辛かった時の感情を、増幅させる形で、です。


じつは感情のつくりというのは、感じたその時に処理してあげると、小さいままで消えてなくなるのですが、しんどすぎて、処理するのを後回しにすると、当時の感情より増幅される特徴があります。


だから、ほんの子供のころに閉じ込めた感情なんかは、そりゃあもうオバケみたいな気味の悪いパワーを持っています。

呪いといっていいくらい、知らないうちに自分の感じ方を縛り付けている感情になっていたりします。

(それが、観念、といわれる、いわゆる自分ルールです)


私の場合もどうやらその例にならっているようです。


助けてもらいながら

支えてもらいながら


進んでいきたいと思います。


そうとう、怖いのですが…。


わたしのところに、愛情そのものの赤ちゃんが来てくれたことには

きっとそんな意味もあるのだと、信じています。


準備ができたとき

本当に必要なとき

赤ちゃんは来てくれるそうです


だから子供は、どんなに小さくても、親の助けになりたくて一生懸命になります。

大人になるころは、

そんな自分の感情を忘れてしまうことが、多くて…

親との関係で傷ついて、ぎゃくに、恨んでしまった感情のほうが、強く残ったりするのだけれど…


わたしも、わたしの親との関係で、そうとうに傷ついていることはわかってきました。


小さいころから、悪い子だ、いらない子だ、と言われて育ってきたということも、うっかり思い出してしまいました。

(そりゃ忘れてたいだろうなあ…)


でも!


赤ちゃんのために頑張りたいのです。


わたしが癒されることは、赤ちゃんのしあわせに、自分の幸せに、家族の幸せに、そして

私の大切なひとたちみんなの幸せにつながります…


がんばります


こんどは逃げません