2年すこし前になりますが、わたしはプライベートで、ものすごい閉塞感と戦っておりました。

でも楽しんでもいたのです。

すくなくとも、楽しんでいるつもりではありました。


今日、ひさびさに昔に書いたブログを読み返して

変わったなあ、わたし

と思ったことがありました。


当時、なにかに夢中になることで必死の抵抗をしていた私は

(今になってみれば、ですけど。。)

自分の心の内を投影するような漫画、銀魂が大好きでした。

(これも、今になってみれば、です。。。)


真心ブラザーズのヨーチが、その主題歌を歌ったことがあるんですが

その歌詞に、とっても心鷲づかみにされていたんですね。


その時の感想をかいた文章がこれです。



銀魂の世界観の、ちょっとアンダーな部分にぴったりなこの曲。
そうなんだよな~
銀魂ってそうなんだよな~

逃げて、逃げて、逃げまくってるわけです。
そこが物語として、私のとても好きな部分です。
けど、逃げながら、ちゃんと生活もしていってるわけです。
それってとても人間くさくて、銀時さんを愛しく思えてしまう、ひとつの理由だったりします。

だって、生活するって大変なことなんだよー
それだけで戦いだ。

戦いは、別に戦争なんかしなくたって、日常的に道端に転がっている。
それはいつでも、自分の歩く先にある。
そこかしこに、それはあるんだ。

過去だって、未来だって、じつは現在だって、ぜんぶ戦う相手。
でもそのすべてが愛しいと思えるようになるには、逃げて、逃げて、逃げて、逃げながら、愛して、理解って、抱きしめて。

色々あるんだよ。

ヨーチのこの「遠い匂い」という曲のなかに、暮らしを感じるわけです。
人間くさい弱さと、それでも強くあろうとする姿を、重ねてしまうわけなんですね、勝手に。


と、こんなことを書いていました。


心理学でいう、「投影」というものを、銀魂という作品に対して、わたしはしているわけです。


ヨーチがわたしの書いた文章のようなことを、意識してこの曲を書いたかどうかは

定かではないわけです。

ただ、わたしの心が勝手に、この曲からそんなメッセージを感じるわけなんですね。


当時の私にとって、意識していても、そうじゃなかったとしても

(意識はしてませんでしたねー、でも)


生活は、戦いであり

現在も、過去も、未来も自分の味方ではなく、戦うべき相手、敵だったわけです。


それって…


意識はしてなかったけど…


そうとう苦しい生き方だったなあ…って、この当時を振り返って、思うようになったんですね。



逃げて、逃げて、逃げて、それでも、歯を食いしばって、いつも何かと戦っている。


一生懸命だったんです。

あの頃。

もちろん、いまの私も一生懸命ではありますけれど…

でも、ちがうのは


逃げなくなりました。


そして、もうひとつ、大切なこと。。。


戦わないことを選ぶように、なりました。


自分を持たないとか、意見をもたないとか、

人に迎合するということとは、ちがうんですね


むしろ、今の私のほうが、イエス、ノーをはっきりと伝えるようになりました。

そして相手の思いをしっかりと受け止めるのと一緒に

自分の感情を、自分自身で受け止める、勇気をもつようになりました。

(意識はしていないものですが、自分のことって、わりと受け止められてるようで、怖くてできていないものなのです…)


むずかしい表現かもしれませんが、自分と戦わない、ということなのです。


自分と向き合う、ということとイコールでもあります。



もう少し前のことですが、傷心の自分自身をひきずって、沖縄に出かけたときのことです。


サンゴを切り出して作られた

真っ白なお城を見たときの衝撃を、思い出します。


そのお城は、お城であるのにもかかわらず

鉄砲窓も、何もないのです


自分を守るために戦うものを、なにひとつ装備していないお城でした。


わたし、理由はわからなかったけど、なぜか強い衝撃を受けたんですね。

たしかブログに書いた覚えがあります。


自分を守らない。

そのままでいる。

傷つかないおおらかさ、ふところの広さ

本当の強さ

本当の優しさ

自分自身でいる、ということ…


わたしたちの心は、傷つくと、防衛機能のようなものが働きます


男なんて…

結婚なんて…

自分なんて…

仕事なんて…

人生なんて…


あきらめたり、拒否したり、嫌いになったりすることで

距離を取ります


距離があれば、傷つかなくて済むからです。


でも、それは自分の心を、守ることはできても

いつか、さみしくなってしまう生き方でもあるんでしょうね


わたしが、無意識にですが、ぜんぶを戦わなくてはいけないものだ、敵だ、と感じていた時の

生きにくさのように。


あのお城を見たとき

あまりにたおやかで、おおらかで、優しいまなざしと、強い自分らしさ、みたいなものを感じたんでしょうね。。

しなやかな強さとでもいうのでしょうか


でも、それは当時の私には、憧れても手に入らないだろうと

諦めていたものだったのでしょう


そう感じているかどうかさえ、わかりませんでしたが


わからない、ということは、実は、怖いから見たくない。そんな自分に気がつきたくない。

ということとイコールの時が少なくありません


いまなら、あのお城を見たときに

どうしてそんなに強い衝撃を受けたのか…


なんだか、わかるような気がするのです


懐かしい、という表現が、もしかしたら一番しっくり来るかなあ…。


わたしにも、すべてにYES

すべてにOKをだしていた時が、きっとあったのでしょうね

自分自身にも、なににも、YESであること。


気がつかずに自分にNOを出していると、どこかで、生きにくくなってしまうもののようです。


そうそう



そのお城の名前は、首里城、でした。



こんど目にしたら、どんな感情を感じるのかなあ…



2年前のわたしとは、きっと違うことでしょう


違うといいなぁ…。








おわり













旦那さまと、わたしの間にぽっこりと”課題”が浮き彫りに。


ものごとには、プロセスがあるもんですが

まあこんなもんなんでしょうねー^^


傍目から見ると、まず間違いなく旦那さまが悪者、よーは加害者ポジションになります。

んで、わたしが被害者ポジションです。


暗がりにスポットライトあたってる中央に

よよよ…、みたいに泣き崩れるわたしがいるイメージです。


でもビジョン心理学のすごいところは、パートナーシップ間で、こーした『さてどーする?』が

登場してきたときに



『もし、自分自身がこの状況を望んでいたとしたら、なんでだろう?』



って、考える機会をくれるところです。



相手に問題があるのではなく

相手に、困らせられているのでもなく


もし、自分自身が、”この状況ウエルカム!ようこそ!”なのだとしたら。


これは、100%のうち、97%近くを占めている無意識層から、

自分で意識できるトコまで感情をひっぱりあげる、ひとつの方法なのですが

いやー

こー書いてみるとアヤシイですねー


でも相当に効果的です。


傷ついているときって、もう、頑張りぬいてて

心がぼろぼろなんです。。。。

だから、誰かのせいで自分がつらい目にあっている!って

恨みでもしないと

幸せになりたいだけなのに自分だけが不幸な目にあってる気がして

よけいに悲しくなります。


お前のせいだぁぁぁぁぁぁ!!!

お前がちゃんとしてればこんな辛いコトにならなくて済むんだよぉぉぉぉぉ!!!


って言いたいんです!


少なくとも私はそーでした。

きっぱり。


感情って、誰かのせいで、自分はこんな気持ちになっている、って考えがちなんだけど

実はどんな感情も、ぜんぶ「自分発信」です。


意地悪されたから

羨ましくなったから

嬉しくなったから

腹が立ったから

楽しくなったから


などなど


いろんな感情はあるけど


同じことされても、あなたと私では、感じ方が違うよねーっていうことが起きるのは

そーゆうことです。

だから、誰かのせいでこんな気持ちになるんだ!

ってことは、……じつは、無いのですね。。。。。


悲しいときに空を見ると「むなしい…」とか

ウキウキしてる時に見ると、「うーん爽快♪」とか


同じ空なのに、感じ方が違うのは、ぜんぶ感情が「自分発信」だからです。


なので、わたしも段々に心理学的な見方で、自分のこころと向き合う癖みたいなものが付きました。


今回、わたしと旦那さまの間で、「さてどうしよう?」って問題が浮き彫りになったのですが

それについて、わたし、どうしてそう感じるんだろう?

なんで、この問題が、わたしに必要だったんだろう?

って

じぶんの感情と向き合い始めました。


ずっと気になってる問題ではあったんだけど…

ずーっと先送りにしてたんです。


でも、そろそろ向き合いましょうね、っていう時期が来たのかもしれませんね^^


わたしが真剣に自分に向き合い始めたら…

あら不思議。

旦那さま、いままで逃げを打っていたのに、自分から向き合い始めましたよ^^

問題が勃発したら、相手に求めるより

まず!

自分自身の感情と向き合うのが、一番の解決への近道。

わたし経験済みです。

(ちなみに、相手が逃げてるよう感じるときは、じつは、自分が逃げてる時です。自分が、本当の問題に気がついちゃうのが怖いと、批判してみたりカチンときてみたり、ほかのことに気をそらされたりと、無意識にそのテの話を避けます。これも経験済みなりよ。。(‐_‐;)


どーなるかはわかりませんが

きっと乗り越えていける

きっと、乗り越えた先には

素敵ななにかが待っている


そー、なんとなく思っています^^


なんとかなるずら~







おわり


いちばん気が付きたくないことって、あるものなんですねえ。


それと対峙した時、ちょっと経験のないキョーフです。


でも安心しました。

ずーっと胸の中でヤカンの熱いのがシュンシュン煙吐いてるみたいな

うまく言えないけど、そんな気持ちだったんですけど


帰ってきてから眠くて眠くて

どーしょもないので、もーあきらめて寝てばかりいたんですが

そしたらスッキリ。

安心?

してきちゃった。


あんなに大否定してたのに…


無意識とか、潜在意識っていうのは、なんかむずかしく感じるけど

寝ると調整されるもんらしいんですね。


わたしもそーみたいです。

よくあることらしいです。

なのでストレスが過ぎて、眠れなくなると、病気になるんですな。。。

ストレスの解消に、思考力はちょっと役に立ちずらいみたいです。

頭と心って

別なんだなあ~~~~。。。。。。


はー


数日あほみたいに寝たら、あれだけべそべそ怖がってたのに

どーでもよくなりました。

というより逆に、ぽん、て最後のピース?みたいなものがはまって


わあ


って安心した。。。。。


なんだかわからないけど

ふぬけのよーにゆるい気持ちです。笑


いろいろよかったなー

ぜんぶ用意されてたものでした。って感じです。


わたしが小さな子供のころに、はじめて学校帰りに寄り道したバーガーショップ。

まっすぐ帰らなくちゃいけないのにな…と

いくばくかの後ろめたさを感じながらテーブルについたときに流れていた曲を、ふと思い出します。



君はダンデライオン

傷ついた日々は彼に出会うための

そうよ

運命が用意してくれた

大切なレッスン

いま素敵なレディになる



当時、メロディと歌詞をいちどで覚えるという特技のあった私は

この曲をいつまでも、いつまでもおぼえていて、

大人になってから、ユーミンのダンデライオンだということを知りました。

10歳のわたしが、

意味も分からず強くひかれた曲でした。


曲では恋愛にフォーカスしてるけど

わたしは、いままでのぜんぶ、これでよかったんだ

って、なんだか胸の奥のほうで、よかったんだなあ…って、しんしんと深く、このメロディと歌詞を思い出していました。


そうか、よかったんだなあ。って。


誤解だったんだなあ…って。


大人になって、こうやって、良かったんだなあ、誤解だったんだなあ、って

仙台でお皿洗ってる。

この日を待ってただけだったんだなあ~って。


それには、ぜんぶ必要だったんだ、って。



しあわせになろうと思いました。









おわり



とても切実な、つらい心の傷を打ち明けた人へのお返事に


「とても不幸な経験をされたんですね」


と慰めている文章を読んで、ふと、自分の感情に変化を感じました。


あれ?

なんだ?この感情

わたし今、なんていうか…「カチン」とこなかった?

……なんで?


これだけのやり取りだと、わかりずらいけれど

決して上から目線というか、蔑むような文章でもなく

かえって、思いやり深いお人柄がにじみ出るような内容だったのに。


なんでだろう?


わたしは自分の心と向き合ってみました。


どんな気持ちになった?

何がそんなに気に障った?

なんて言い返したい気持ちになった?


そうしたら


自分がどんな経験をしようが、他人に不幸呼ばわりされたくない!

わたしは不幸だなんて思ってない!

わたしは一生懸命頑張ってきた、すくなくとも、どうしたら幸せになれるんだろうって頑張ってきた!

わたしの頑張りも知らないで、不幸でしたね、なんて、たやすくいわれたくない!


みたいな怒り方をしていました。


………。


そうとう、わたし、頑張ったんだろうなあ、と自分をほめることにしました。


昔だったら、なんてプライドの高いこと言っちゃってんだろう!恥ずかしい!自分の馬鹿!

ってなるところなんですが、もう、それはやめました。。。


だって、誰かからネガティブな言葉を言われたときに、激しく反応する自尊心は

じつは、そうとうに自尊心がないことと、どうやらイコールなんです。

それは、自分で「自尊心」、という名前をつけてはみたものの、本当は「無価値感」や「自己価値の低さ」、そして「自己嫌悪」だったりします。

本当の自尊心は、誰かに何かを言われたくらいでは、揺らがないのです。

誰かに認めてもらわなければならないものではないからです。

自分の内側から、滾々と湧き出てくる、揺るぎのないものが、自信だったり、信頼だったり、自尊心だったりするから…。


そうとうに、頑張ったのでは、ないかなぁ…と思うのでした。


もし、わたしが、「誰かに対して、不幸だったね、というのは失礼だ!」と強く感じているなら

自分のことを「不幸だった」と感じることも、強く禁止していることになります。

(心理学でいう”投影の法則”であります)


あー、そうかぁ…。


と、腑に落ちました。


子供のころ、私が周りの大人たちに、かわいそうに、かわいそうに、と言われ続けたのは

最近も書いたような気がしますが、その時の私の感情といえば、


「誰か私以外の、違う子のことを言っているんじゃないだろうか」

「わたしは毎日楽しいし、自分をかわいそうだなんて思ったことないけどなあ」


でした。


感情というものは不思議なもので、これ以上感じたら心が壊れる、と本気で心が感じると

感情を抑圧して、感じることの無いように感情の回線を切ってしまいます。

辛い時期のことを、あとから思い出そうとして、記憶があやふやだったりするのはこの為だったりします。

でも、心のつくりは、


ゆってみればミルフィーユケーキのような構造になってるのです。


なので、自分で感じられる感情からひとつひとつ処理して、無意識に選択されてしまうような感情の層まで処理するようになると、むか~しに抑圧して、感じないようにした感情が、ひょっこり顔を出すことがあります。

(それがまた、しんどいんだ。これが。)


どうやらわたしは、悲しい、つらい、さみしい、自分は、恵まれていない子供なんだ、と感じること自体をタブーとしたみたいですね。

自分が元気で、明るく、誰にも迷惑をかけず、お母さんのお手伝いをしながら、なんの悩みもなく過ごすこと。

これが子供のころの私にできる、最大限の、お母さんへの愛情表現だったのでしょう。


いまならわかるのですが、私は同席している誰かが、さみしそうにしてたり、つまらなさそうにしてることに

異様~なほどの「なんとかしなきゃ!」が働きます。。。

笑わせてあげなきゃ!

元気にしてあげなきゃ!

楽しい~ってきもちにさせてあげなきゃ!

みたいな感じです。


誰に求められてるわけでもないのに、勝手にそういう気持ちになるんですね。

そりゃもう強迫観念的に。


笑顔にしてあげられない原因になってしまった…


と感じると、この世の終わりみたいな絶望感を自分に感じておりました。

あほか、と思うのですが

それはきっと、この子供のころの感情パターンの名残だったんですねー

お母さんを笑わせてあげなきゃ!

元気にしてあげなきゃ!

助けてあげなきゃ!


この一心だったんでしょう。


自分と向き合い始めるまでは、自分が感じられる意識としては「母親のようにだけは、死んでもなりたくない」だったので、心は本当に、自分を上手にだますよなぁ…

と、しみじみ。

そして、同時に、そんなにも誰かの為に頑張ってきた自分を

小さなころから、小さいときの頭と体で、一生懸命に愛そうとした心のパターンを


”なんてプライドが高いんだ!自分の馬鹿!最低!”


なんて、いじめることはよそう…

それだけ辛かったんだ、頑張ってたんだ…

よく頑張ったんだから、もういいんだよー…


って、そう感じるようになったんですね。


感情って、日本の学校で、どう扱ったらいいのかなんて

教えてくれるところはどこにもありません。


ただ、日本の伝統の文化があって、”我慢が美徳”という根本的な考え方が

根底に流れているだけです。


でも、どうやら算数や国語と同じように

心にも法則があるみたいなの

です。

自分ではどうにもできない感情を抱えたとき、それをどう処理すればいいのか、日本もそれを健やかな子供たちを、健やかな大人へと成長するために、大切にしてくれたらいいなあ。


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心、感情というものとの付き合い方って、

うんと大事なんだな…って思うようになりました。


人って、心でできてるから。

頭じゃなくて、心で。


「不幸だったね」と言われると、大急ぎでそれを否定する感情が動く私。


それは自分の無価値感、自己嫌悪からくるものではあります。


でも、その先を見てみる。


その無価値感、自己嫌悪を抱えるようになった、最初のパターンを。


そうすると、そこには、小さな子供だった私が、小さいなりに自分の母親を助けようとした姿しかありません。


お母さんが怒ったり泣いたり、悲しそうな様子をたくさん見てきましたから


子供の私は、いっしょうけんめい楽しい自分をお母さんに見せているのに、お母さんを助けてあげられないような気持ちになって、自分を嫌いになり、無価値感や、無力感をもったのでしょうね。。。


だから


自分を責める前に…。


もういいよ

がんばったよ

うんと頑張ったんだから、もっと頑張らなきゃ、って焦らなくていいんだよ

大人になった今なら

もっと違う方法で、あなたの大好きなお母さんを、

助けてあげることだって

できるよ…

幸せなふりをするんじゃなくて

不幸な自分を禁止するんじゃなくて

もっと、違う方法で…


そう言って

自分に優しくしてあげたいなあ…


と思ったのです。


よくがんばったよ


だいじょうぶ、だいじょうぶだよ











きのうは結婚記念日でした。


おしゃれをして、主人と待ち合わせをしてお出かけしました。


ふざけて言ってた、


夜景の見える雰囲気のあるダイニングで

今日の気分でつくってくれるカクテルで

うんとオシャレして

うんと小洒落て

バラの花なんてプレゼントされたりして


ぜんぶ叶えてくれました。


あの朝から夜遅くまでのお仕事の合間に

あんな素敵なお店をみつけるなんて、どれだけ大変だったろう

どれだけ、頭の中を、記念日のことでいっぱいにしてくれたんだろう


主人のよくいう


「山あり谷あり、また谷ありだね」


それでもふたりで歩いていきたい、という気持ちがすべてなのでしょう


男と女って、夫婦って、恋人同士って

いろんなことがあります


でもね、正しい、悪い、間違ってる、間違ってない

そうやって見るより

何が幸せなんだろう、って考えるようになりました。

間違っていても、幸せなことって、どうやら、世の中にはたくさんあるみたいなのです。

ただ、間違うだけの、それだけの事情があって

心がその事情に、耐えられなくなるから、”間違える”ことだってあるんだって…。


人間は、心で生きてるのね…。


なんて強くて、弱くて、それでも

なんども立ち上がれる生き物なんだろう、心は強いね。


主人も私も、もうじゅうぶんに傷ついてきました。


自分が愛されるはずがない、と信じれば

愛される状況が怖くて、無意識にこわしたくなるのも、わかりました。

愛されるはずがない、と感じていると、そのぶん、誰かを愛そうともしなくなります。

それは無意識の復讐だから。

誰かに愛されても、それに気が付きません。

愛されない自分を、無意識に、つよく信じているから、届かせない、受け取らないのです。


きのう、ムーディーなジャズが一瞬やんで


ベイビー、アイラブユーが流れるなか、結婚記念日1周年、いつもありがとう、とチョコで書かれたプレートに

花火を散らしながら、カラフルでちいさなケーキがたくさん乗せられてやってきました


恋人同士のようですね、とバーテンさんが、私たちをイメージしたカクテルを

サービスしてくれました


おふたりが、とても情熱的に見えたので…


と添えてくれました


店員さんから、「こちらはお隣の王子さまから…」と、透明のセロファンにくるまれた、一本のバラが手渡されて

わたしは泣き出してしまいました


幸せになってもいい、それを心の底から受け取ることは

わたしの課題です。

主人の課題でもあります。

ふたりとも、傷つきすぎて、猜疑心、不安、不信、保険をかけること、に自分のエネルギーを注いでばかりいます

でも、それが強ければ強いほど

ほんとうは、心の底から誰かを一生懸命に愛したい、愛されたいということの

裏返しなのだということに

一年かけて、すこしづつ、すこしづつ、気がついてきたのです


もう限界だ、これ以上は乗り越えられない、というような醜くて、ひどい状況も

死んでしまいそうになりながら超えてきました

主人も、わたしも。


そうして、ほんとうにあたたかい気持ちで一日を終えて、翌日のわたしの心にぽっかりと浮かんだことは…


『わたしが愛されないなんて、それは、本当のことなんだろうか…』


でした。


こんな感覚は初めてでした。


そんなことを思うのも初めてでした。

自分と向き合い、心をいやすことを始めて、自分がいかに、自分を嫌っていて、価値がなく

いやらしい生き物だと感じていたのか、それに傷ついていた自分を、自分の過去を、疎んでいたのかに

きがつきはじめていた私は、主人のことも、自分のことも


許したいけど、許せない

気持ちが悪い

怒りを感じる

信じたい

信じたくない

そんなはずがない

幸せは怖い

近寄りたくない

もっと近づきたい


本当に感情のごった煮で、混とんとしすぎて疲れ果てていました


でも、今日、ぼんやりと昨日のことを思いめぐらせながら…


愛されてるのでは、ないだろうか…


ほんとうは、私は、お母さんからも、お父さんからも、主人からも…


友人たちからも、今までに出会ったたくさんの人たちから…たくさん、愛されてきたんじゃないだろうか…


今までの自分がにっこりと笑って、バイバイしているような気分になったのです


なんだかおかしな気分です…。


自分なりに大切にしてきたはずだった。

愛されないなんて、おもったこと、ないはずだった。

でも、いっしょうけんめい自分と向き合ってみたら、気が付きたくない自分を見つけてしまった。


お店の方が、とても若い方だったのですが…


「ぼく、ここの社長と出会って、大きくじぶんの考えが変わったんです。一期一会、というか…。なんでも必然だって。出会うことに意味がすべてあるなら、そこからきっと、なにかが始まろうとしてるんだって」


そんなことを仰っていました



そうなのかもしれません。

ぜんぶに、意味があるのかもしれません。

それは小さなサインになって、じぶんの向かい合うべき課題を、”ここに傷があるよ、癒してあげて”って

わたしたちに、呼びかけてくれているのかもしれません。


だからでしょうか


パートナーシップは、まったく違う個性で惹かれているようでいて

同じ心の傷をもつもの同士で、くっつくそうです。


まだまだぼんやりとした感覚だけど…


わたしが主人に癒されているなら…

主人も、私に癒されてくれているのかも…


自信を持っていいのかも

愛されているって思っていいのかも


愛されない、っていう感覚が、自分の中からはずれていくのを、はじめて感じました


受け取らない、ってこういうことだったんだ

はじめて、感覚として知ったような気がします


心の成長の記録、わたしたち夫婦の、歩みの記録

いつか振り返った時に、あれがわたしたちのターニングポイントだったと

笑って話せるようになるために…




久しぶり


学生のころ、季節が変わることにとても胸が揺さぶられるのを感じていました。


春が来ますね




あいかわらず、一歩、一歩、のまいにちを暮しています。

でも、たくさん泣くこと、たくさんたくさん、楽しい、うれしい、かなしい、くるしい、さみしい、そして


”わたしは、怒ってるよ”


ってこと


いろんな感情を、きちんと、じぶんのものとして感じられる

心のタンクに、雨水みたいにちょっとずつ、生きている実感をとりもどしています


じぶんでふりかえっても、感情の豊かだったわたしは、

とてもエモーショナルなエネルギーで、せいいっぱい、自分の感情を殺してきたようで…

とくに、怒る自分というものを、自分に許さなかったみたいです


カウンセリングを受けてね、

いちばん驚いたのは、わたしがこんなに怒っていた、悲しんでいた、ってことに

じぶんが気が付かなかったこと


自分らしさをとりもどしていく過程で…

ふつふつとわきあがる怒りの感情には、自分でもとても戸惑ってしまいました


怒ってるっていうのは…


それは、言い換えれば、さみしかったということ。

悲しかったということ、

それを、わかってほしかった

助けてほしかった、ってことなんだね…


それだけ、心を寄せていた、ってこと。

大切な存在、ってこと。


いつでも、自分は自分を、ほんとうに上手にだましてしまうね


自分の本音に気がついてしまうのは

あまりにも怖すぎるから。

きっと、本能的に見ないふりをしてしまうのね…


ありがとう


よかった


感謝してる


嵐ばかりなのは、わたしが、穏やかな草の原にいくことを、どこかで怖がっていたからだと気がつきました。


幸せになっちゃいけないなんて、もう、思わないよ

『幸せになってもいいんだって』


毎日、毎日、まるで、横に並んで座って、一生懸命に話しかけてくれる友だちのように、

じぶんに話しかけています


ちょっとこわい?笑


でも、効果あるんだよ(^^)



カウンセリングは、わたしの、考え方の癖

心の感じるパターンをきづかせてくれるきっかけになりました


なにが私の石ころだったのか…

わかって嬉しいよ


親子関係のルーツは、ほんとうに子ども心を深く傷めるんだね…

わたしは父親がいないことなんて

ちっとも問題だと思ってなかったし、さみしいとも感じたことないと思ってた。


でも違った


さみしさを感じさせないように、心は、耐えられなくなると感情のスイッチを切るという

そうとうに高等なことを、子供だからこそ、するらしいのです

だから感じなくなります

それが当然のようになって、でもしまいこまれたその感情は

大人になるころ、まるで感情のオバケみたいになって、生きにくく、生きづらく、させていくみたい…

昔に抱えたままの心の傷は、

心の感じ方のパターンとして、わたしたちの行動や感情、ものの捉え方ぜんぶを選択させていくから…


とくに

父親との距離は、異性との距離の取り方になるそうです。

わたしがある日、父親に対してなにも感情が動かないことに疑問を持って

自分と向き合うことをしてみたとき


そこにあったのは

まるで人間ではないもの、生ゴミのようにわたしを蔑視して立ち去る、父親の顔をした

じぶんとは違う生き物(イメージだと女性ではないもの、って感じ)でした

すごくひんやりとした、ひとりぼっちで、捨てられて、孤独だけどだれも私の心のうちなどわからない

そんなイメージがあふれてきて、ちょっとゾッとしたのを覚えています


だからなのか、わたしは男の人、というと

普段は大丈夫でも、感情的になると男性を宇宙人のように感じたり、怖くて、わけがわからなくて、いやらしいだけの気持ちの悪い生き物、と嫌悪感丸出しになることがありました。


ああ、これが理由の一つだったのかもね…って

すこし、そう思ういました


嬉しい報告が一つ。


母親が、はじめて、わたしの父親について話してくれたのです。

母に父の話の深いところをするのは、私にとっての絶対のタブーでしたが

カウンセリングで母親との心の距離をやさしいものへと変えていけていたので

きっと準備ができていたのかもしれません


初めて聞きました。


『ふたりが離婚を決めたときね、いい?初めてあなたに言うよ』

『お父さんはね、あなたを抱いて、”この子は俺が育てる”って言ったのよ』

『あなたを嫌ったり、捨てたりしたんじゃない。逆よ、うんと子煩悩だった。とてもお金の少ない人だったから、お母さんにはあまりなかったけど…、いつも、あなたには何か小さなものでも、買ってきてくれていたのよ』


わたしは泣きました

はじめて、父親のことで泣いたのです

自分でもびっくりするほど、まるで子供みたいに、しゃくりをあげて泣き続けました


父親に、自分が愛されていたことなど

ずっとわたしは信じていなかったのです

それどころか、嫌われていたのだと、そう感じていたのです


でも、両親を嫌うことは、子供の心にとって、あまりにもあまりにも、大きくて、深すぎる傷になるのだそうです。


だから、子供はその小さな心の回線を切ります

さみしさを感じる、その感情を…

自分のありったけのエネルギーで、なかったことにするのです。


じぶんでも、そんなものがあったことを忘れてしまうくらいの心の奥深いところに仕舞い込んで

そして、大人になって、男性とうまくゆかないパターンだけが、残っていくそうです…


提案型のカウンセリングは、日本では少ないけれど

恋愛、対人関係、親子関係、仕事…

いろんなものに効果があるようです


怒り、悲しみ、わかってもらえなかった、愛されなかった、という誤解かもしれないことで

すこしづつ自分の生き方のもとになってきた

”心のパターン”

これが、感謝に書きかえられたとき、はじめて人は、そのパターンから抜け出して

すこしだけ、楽な生き方になるのかもしれないな…って思いました


わたしも、パートナーとの問題を抱えているけれど

でも、パートナーシップって、不思議なくらい、自分のパターンが変わると、相手も変わるんです…。

それくらい、心って共鳴しあうみたいで…まるで、音叉みたいに。


いまはね、本当にふたりとも、幸せになる自分、ていうものが怖くて仕方ないんだけど…

幸せは、まるで、絵に描かれたものなら怖くないけど

本気で手に入れようとすると、まるで猛獣の口に手を突っ込むような感覚がするくらい、怖いもののようです

最初はわからなかったけど

すごくそれを、わかるようになりました


わたしのパートナーも、パートナーシップで起こる問題は、

”問題”なのではなくて

ひとりで生きてきたときに表面化しなかった、気付かないようにしていたことに、”気が付くときがきたよ。。”というヒント、または、チャンスを与えられてるんだと、思うようになったそうです。


一人で生きていても、生きづらいな、うまくいかないな、と感じることはあるけど…

自分一人なら、無視しようと思ったらできるもの…。

でも、自分以外の人を大切にしようとすると、とつぜんうまくいかなくなるのね

自分の抱えている課題が、表面化してしまう。

だから、誰かを愛そうとしたときは、それは、きっと、自分自身としっかりと向き合う時期がきたのかもしれない。

そう思います。


いつごろからか、体は自分の一番古い相棒、そう思うようになっていたけれど…

心も、もうひとりの相棒だったんだなぁ…って

さいきん、ようやくわかってきました


そしてその心の動きで、わたし、という思考回路が動いて、それを実現するために、体が、今度は動き出すのね…


思考からスタートさせて

心を置き去りにすることが、知らず知らずのうちに多くなっていたんだね…


そう思うようになりました


まだまだ自分の感情に振り回されてしまいそうになる時も

それがプロセスだということを信頼するように、すこし、なってきたように思います


渦中にいるときは、とてもじゃないけどそうは思えないことも多いけど…


けど、もう、一人で頑張ろうって、思わないよ…

みんなありがとう


お母さん、お父さん、わたしの大切な人たち…


みんなみんな、ありがとう

私らしさを取り戻すたびに、一歩一歩、元気になっていくからね


みんなみんな、ありがとう



ようやく気が付きました。

わたしは、自分が価値がなくて、生きていていいのかどうかも分からず、

愛されているのかどうかも分からず、さみしくて、さみしくて仕方がなかったのです。


でもそんなこと、ちっともわからずにいました。

そんなことを自分が感じていることに、ぜんぜん、まったく気が付きませんでした。


だけど、もうこれは、おかしい。

いつもなにかに転ぶ。

でもそれは、いつも状況は違っても、おんなじ形をしている。


わたしはどうしちゃったんだろう?

今までのことがそんなに悲しくて、つらくて、どうにかなっちゃったんだろうか。

そう思ってました。


でもそうじゃなかったんですね。

わたしは、私の心が悲鳴を上げていることに、ぜんぜん、気が付かなかったんです。

心は、わたしが子供のころから助けて、と一生懸命わたしに訴えていたけれど、完全に無視したのです。

だって、それと直面したらつらいから。

つらいから、見たくなかっただけだったんだ…

そうわかりました。


なんてことだろう!

思い切り衝撃を受けています。

でも、納得がいく。

だからだったんだ、あれも、これも、だからだったんだ。


むかし、大人たちはこぞって、私のことを、かわいそうに、かわいそうに、と言いました。

でもわたしは、なにか私以外の、誰か知らない子供にそう言っているのだと感じていました。

そのころから、わたしは自分のさみしさ、つらさ、悲しさを見ないようにしてきたのだということが

今はじめてわかりました。


あんな小さな自分が、精一杯、毎日を元気で明るくすごすために

がんばって、自分のつらさを閉じ込めていたなんて


なにをそんなに…

がんばって…

どれだけつらかったんだろう…


私自身のことなのに、わたしは、私を助けてあげませんでした。


でも、ようやくわかった。

私の問題は、わたしが、私を無視し続けたことにあったんだ


自分でも忘れていたことを、どんどん思い出しています。

それはもう恐ろしいくらいに、わたしはさみしさを閉じ込めていました。

ある日、それが爆発して、とうとう自分で抱えきれなくなった日のことを、

すっかり忘れていたはずの昔の記憶を思い出しました


こんどは抱きしめます。

わたしと、私の大切な人たちのために。



『わたしたちが好きだったこと。』-Image1441.jpg

光がさんざめいてます
まどろみタイム
おなかいっぱい
『わたしたちが好きだったこと。』-Image1421.jpg

びーまじかる終わってビュッフエたいむ