最近、とても不安になることがあって、しばらく胸に引っかかった小骨のように
それは存在していました。
旦那さまと私、パートナーシップの問題です。
このところの私は、問題は、じつは贈り物と一緒にやってきているんだなぁと気がついて
だからでしょうか、あまりどっぷりと落ち込むことが少なくなったように思います。
もちろん、悩みますよ~
でも、いつでも希望の小舟が心の中につながれている感覚があるのです。
それは、わたしに「だいじょうぶ、何とかなる、今の私には見えないだけで、ある日この問題はとっびきりのプレゼントにぼぼん!て大変身するよ」って、ささやいて、励ましてくれます。
今回の”贈り物”は、わたしにとってどんなものなんだろう?
問題を抱えたとき、いつも私はそんな目線で見てみます。
私が気がつけていない、見てあげられていないとこって、どこだろう。
怖がって、近づかないようにしているとこって、どこだろう。
怖がっていたり、自分の心の痛みばかりがズキズキしてると
相手の愛情を、その半分もわかってあげられないことって、生活の中でよくあることです。
なんていうんでしょうねー
大きな傷から出血して、痛くて、どうしようもない!っていう傷が体のどこかにできていたら…
その部分が手当てもされずに疼いているとしたら…
なんか、自分の気持ちも、目線も、そこに行っちゃうじゃないですか。
だから、自分以外の、細やかなことに気がつけなくなっちゃうんです。
大まかなことは分かったとしても、繊細な優しさ、きづかい、周囲のひとなりの、優しさ…
そういうものに、気がつけなくなっちゃうんです。
余裕ないと、自分のことは分かっても
周囲のことって、見えなくなりがちっていうのは、私がそーなので
すごいよく分かります。
クローズアップで写真撮ると、自分はくっきり写るけど、まわりの風景の細かいところはぼやけちゃうのと、同じかもしれません。
わたしは今回、こんな経験をしたんだな、って初めて気がついたのです。
自分の傷ついたこと、腹が立ったことを注視するよりも
相手の感情や、思いに目を向けようと思うと、いままでの私は、”痛み”で繋がることならできていたのです。
だって、自分の痛みはめっちゃ分かるから(^^)
相手も、痛かったんだろうなあ…、って分かってあげられるわけです。
でも、自分の努力したこと、一生懸命やったことを本当に自分自身で認めてあげられてないと
相手が、相手の仕方で一生懸命だったんだ、ということに、気がついてあげられないんだということに
はじめて、実生活で気がついたのです。
なぜ気がつかないかって…
それは、『相手は自分とは違う人』、って事実が、ぼやけて見えているから。
気がつけていないから、です…。
こんな単純なこと、頭ではわかってるはずなんです。
だって、相手は私じゃないですから。
でも、これが、自分の傷だけを見ている状態なんだ、ってはじめてわかったんです。
自分が何かを一生懸命やって、裏切られたような気持ちになったとき、
わたしは、こんなに一生懸命な気持ちをわかってくれないなんて、と「自分の気持ち」だけを見てしまいがちでした。
それが、だんだん「相手の痛み」と繋がれるようになってきました。
『私がこれだけ痛いんだから、相手も、心のどこかが、同じように痛んでいるんだろうな』って。
でも、今回はもう一段、気がつけたのです。
私が一生懸命だったように、「彼も」私とは違う、私が得意にしているやり方や分野とは「違う分野で」うんと一生懸命だったんだ…!
ってことに。
それは、私にとっては、得意なことかもしれません。
得意なら、できて当たり前と感じているかもしれません。
でも、それが相手の、めちゃくちゃ不得意分野だったら…?
不得意ながらも、一生懸命に取り組んでいるんだとしたら…?
それが、まさに、私への愛情ゆえに、だとしたら、相手だって私と同じように思わないでしょうか。
「こんなに一生懸命やっているのに、あなたはわかってくれない」
って。
私だけがそう思ってるのではないのですね…。
相手も、私が、私の痛みばかりを見ていたなら、同じように「わかってくれない」と感じるんじゃないかな、って…。
そんな風に気がつきました。
不得意ながらに一生懸命やってくれたこと。
あまりにも不器用で、へたくそで、ちっとも上手じゃない。
いつになっても上達しない。
もし、自分の大切な人に、そんなところがあったら、どうしたらいいですか?
それが、自分にとっての、
できて当たり前
できない人がいるなんて信じられない
ていうか、出来ないなんて最低
って感じる分野だったら、どうしましょうか?
自分の大切な人が、いつまでたっても上達しないように感じる、そんな苦手分野に
出来ない自分と向き合って、取り組み続けてくれていた、とい事実に
これは、彼の愛情だったんだ
って、気がついてあげられるでしょうか。
それとも、こんなことも出来ないの?
あなたが出来ないことで、わたしがどれだけ傷ついているか、わかっているの?
と、責めるでしょうか。
わたしは、どっちを選びたいだろう。
『積極的に待つ』
という言葉が、すごく胸に響きました。
待つ、っていうのは、何にもしないことのような気がしちゃいます。
手を差し出す、助ける、相談に乗る、一緒に頑張る、のように「何かの行動をする」ことが
愛情のような気もしちゃいます。
実際、それはほんとうに豊かな愛情の形です。。
けど、待つ、ということには
”自分とは違うペースかもしれないけれど”
相手のしていること、チャレンジしていることを
『認める』
といことも、含まれるんじゃないかなあ…って、思うようになったんです。
小さな子供が、自転車の補助輪をはずすときのように。
何度も何度も、転ぶかもしれない。
ほかの子達は、あっという間に、補助輪なんてなくたって、自由に自転車を乗り回しているかもしれない。
わたしの大切な彼だけ、ずっと、ずーーーーっと補助輪なしの自転車を上手く乗れない。
ずっと、ずーーーーっと転び続けて、かっこわるい。
でも、もし、そのチャンレンジが、転んでも転んでもチャレンジするその姿勢が
私への愛情ゆえだったら?
それこそが、自転車を上手に乗ってやるんだ!っていう、モチベーションの元だったら?
転んだっていいよ
きっとできるよ
また失敗した、って自分のこと嫌にならなくたっていいよ
俺ってかっこ悪いな、なんて思わなくていいよ
私には、王子様だよ
って、言えるんじゃないかって思ったんです。
わたしは算数が苦手です。
ほんとうに、ほんとうにできません。
苦痛すぎて、いつもやらなくていいように、逃げてきました。
掛け算でさえあやしい時があります。
けど、彼への愛情をモチベーションに、まいにちまいにち、数学の勉強できるかなって、想像してみたんです。
しょうじき、吐きたくなりました。
まいにち憂鬱だし、そんなことしないで、別のやり方で、何かないかなぁ、なんて
やる前から逃げ腰になりました。
旦那さまは、まさに、それをやってくれているのです。
これが私への愛情でなく、なんだというのでしょう。
わたしは、つい今まで、自分の痛みばかり見ていて、旦那さまがどれだけ自分のエンジンをふかし続けていてくれたか、気がつかずにいたのです。
もちろん、旦那さまが抱えている問題は
わたしにとっては、チョチョイのチョイ、で解けちゃう問題です。
なーんにも難しくないし、できない人がいるなんて、あきれちゃう、くらいの問題です。
でも、ここで思い出す必要があるのは
『私と彼は、まったくの別の人間』
ということなのでしょう。
こんなの当たり前だよね、は、じつは、世の中にはひとつも存在しないのだということです。
当たり前は、自分にとってだけなのです。
だから、当たり前なんてこと、ほんとは無いのです。
正しいとか、悪い、とかで判断すると、この「当たり前と感じる罠」にはまっちゃいます。
でも、この罠を抜けていきたい。
旦那さまが、苦手で苦手で、どーしようもなくずっと取り組んでくれている
その問題に向かう姿勢に、いつもいつも、一番の味方でいたい。
そんな風に思うようになりました。
ついつい、自分の傷だって痛すぎて、そこばかり見てしまいがちになるけれど…。
痛いもん。
気にならないはずも無いんだけれど…。
でも、愛する人の、何度も転んで擦りむけた膝の傷にも…
ちゃんと、目を向けて上げられる自分でいたいな、って思うのです。
そして、そのためにはまず、血だらけの自分の傷をちゃんと手当してあげること。
そうして、いつだって元気に動く手で、腕で、指で、彼の膝小僧の傷にガーゼを張ってあげられるような。
そんな自分になっていきたいと思う。
なによりも、出来なかろうが、苦手だろうが、失敗続きだろうが、それでも自分の足で立ち上がることを止めない、あきらめない、旦那さまの”強さ”と”愛情”を、もっともっと、信頼できる私になりたい…!
そんな風に、思ったのでした(^^)
旦那さま、ありがとう。
これからも私は、あなたの一番の味方です。
(折りしもBGMはミスターチルドレンの『くるみ』でした。この曲大好きなんだな~)
おわり