実はもう数年前から手書きの年賀状はほとんど送らないようになっています。メールアドレスが分かる人はすべてメールで済ませているので。もともと、そんなに字がキレイでもないので、というのもありますが、やはり面倒な割にオリジナルの工夫をするのが得意でないというのが一番の理由でしょうか。

それでもアドレスが分からない人から来てしまうともう観念です。自分で書くしかありませんな。だからこんな時期に慌てて年賀状の残りを買いに郵便局に行ったりして。もうしょうがありません。

高校生のころは、知り合いがアルバイトで年賀状の配達をするのをみて、「なんであんなにつらいことをやるんだろう、なんて思ったものです。あんな分量のはがきを間違えずに律義に配達するなんて、絶対続かない、と思ったものです。そんなのが続くから、郵便配達の仕事はやっぱりすごい人たちがやってるんだなぁ、とも思ったものです。

ところが、やっぱりできない人はいるもので、高校生のアルバイトが雪の中などに年賀状を隠して配達をさぼっていたらしく、懲戒免職処分になったそうです。アルバイトでも懲戒免職になるというのも初めて知りましたが、627通というのは半端な数ではありません。ちょっと前にも、去年の年賀状を年末になって配る、なんいう不祥事もありましたが、この世の中、守られているのが当たり前の約束、というものが少しずつほころび始めているようです。あるいは、前からほころびていたのが、今ごろになって分かってきたのか、どっちなんでしょう。

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カンヌのグランプリをとった話題作。日本人の漫画が原作の韓国映画であるというのも話題の一つでしょう。

平凡な一人の男が、妻殺しの汚名を着せられて、ある部屋に15年間も監禁されていた。突然開放された後に、復讐を誓ったその男は、すし屋の女性板前と恋に落ち、ともに謎を探っていく、という筋立てです。

韓国の女優・俳優は表情の振幅が日本人に比べてやはり大きいので、そういう意味で分かりやすい物になっている、と思うのですが、時々出てくる残虐シーンにはちょっとヒきました。歯を抜く拷問シーンとか、○を切り取るシーンとか、少しずつ僕の感覚ではやり過ぎの印象が。これが原作の漫画にあるのか、映画ならではのアレンジかは知りませんが。

記憶が戻ってくるにつれて、次第に主人公の業の深さも明らかになってくるのですが、それにしても…。

いくつか、設定上になんでこんなことが可能なのか、ということが説明つかない荒っぽい部分があり、もっと飛んだサイバーパンクな映画ならそれなりに受け止められるのですが終わりに近づくにつれて道具立てがすごくちゃちになっていくというか、単純な情念の映画になってしまいます。ちょっと見始めた瞬間の期待は裏切られたような気もしますね。最後にロジックのどんでん返しがあるかというとそういう切れもないし。

モチーフとしては、復讐を目的に生きていたのは本当は誰だったのか、という話でしょうか。ちょっとブラッド・ピット主演の「セブン」を思い出しました。後味の悪さはちょっと共通したものがあるような気がします。

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ふとテレビをつけたらなんか懐かしげな映画をやっていて、沢田研二が主演なのでちょっと見ていたらそのまま目を離せなくなってしまったのがこの「太陽を盗んだ男」。

監督は長谷川和彦といって、監督作は2本しかないらしいのですが、本人の話では角川春樹にケンカを売って以降、商業映画の世界では仕事が来なくなったのだとか。

話は、普段は中学校の教師として過ごしている主人公(沢田研二)が、自宅でひそかに原爆を作り上げ、それを元に日本政府を脅迫する、という物騒なピカレスク・ロマン。リアルとアンリアルの狭間を揺れ動きますが、何が面白いかというと、犯罪の手口とかがずいぶん丁寧に錬ってあって、最近のスパイ映画ほどハイテクに頼ってはいませんが、そのプロセスと警察とのおっかけっこがドキドキします。警察はもう少しスマートにやろうと思えば出来そうな気もしますが。

テーマは、「何がやりたいのか分からない」、なのかな?物質的にはある程度豊かになった日本で、これ以上何を望めばいいのかが分からず、原爆を造る技術があれば作ってしまう。でも作ってしまったからにはそれを爆発させないと持っている意味がない、という、ある意味では日本の、ある意味では世界のおかれている閉塞状況の暗喩として主人公の存在があるのだろうと思います。だから、原爆を持っても要求するのは、ナイターの中継を延長しろだとか、金を東急デパートの屋上からばらまけとかそんなオバカな要求ばかり。

彼が対峙するのは菅原文太が演じる刑事。冒頭で鮮やかにバスジャック事件を解決したり、体を張った人情デカぶりを発揮します。ダイハードどころではないしぶとさなので、ちょっと「これはありかよ?」と思うシーンもありましたが、主人公の、気味が悪いまでの無感動ぶりとの対比のためには、このくらい濃いキャラでもいいのかもしれません。

一番意外だったのは、FM?の人気パーソナリティー役をやっていた池上季実子がすごくかわいいこと。ある時期以降、時代劇の常連になって大奥などでつんとすました役を演じているイメージしかなかったのですが、こんなかわいい時代があったんだぁ…。

制作は1979年と、もう80年代が見えるような時期。当時の映画のスタイルとしては、風俗などはむしろ古くさく見えるような映画だったかも知れません。実際、この映画は、戦後の日本から失われつつあったある「時代の精神」が潜伏した結果として「魂なきテクノロジー」が何を作り上げるのか、という観点から描かれているのでは、と思うのですが、そういう意味での70年代文化へのノスタルジーにも満ちているように見えます。ジュリーを起用したこと事態がその現れでしょう。彼の演技は、飛び抜けています。新世紀を迎えた現代の日本にこういう若者が現れてもなんら不思議はない、むしろ現代においてリアリティーをもつキャラクターなんじゃないかとさえ思います。

公開当時は不入りで早々と打ち切りになったそうですが、どうしてどうして、これは沢田研二畢生の名演であると思います。DVDも出たそうなので、興味のある方はどうぞ。

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これのリメイクである「タクシー/NY」を先に見てしまってから、リュック・ベッソンのオリジナルを見たのですが、これは失敗しました。

確かにドライビングテクニックの部分はいろいろと楽しいし、主人公の彼女役はキュートなのですが、縦軸の強盗団がらみの部分がネタが割れすぎていて、あまりドキドキしないのです。フランスの警察のドイツ人嫌いというネタは笑えましたが。

あと、フランスの警察全般がだいぶアホに描かれていますが、ベッソン監督なんか恨みがあるんでしょうかね。冗談の質にしても、ハリウッドとはちょっと違うテンポで、タクシーの乗客がモドすところなどは、けっこう露骨に描いています。普通はああいうの隠しますよね。派手に銃を撃ちまくる映画の割にだれも撃たれたシーンはなかったりとか、そういう意味での上品さはあります。

刑事のあこがれのマドンナ兼上司がいかついドイツ女で、ちょっと和田アキ子に似てました。このカップルは別にうまくいって欲しくもない、というのがやや魅力減でしょうか。

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引き続きWOWOWで以前録画してあった物の中から、「パルプ・フィクション」を。

全然先入観なしに見たんですが、豪華な顔ぶれですな。とはいってもタランティーノの作品としては2作目で、トラボルタもこの作品で初めて長いトンネルを抜けたのではなかったかな。

オープニングがレストラン(というかコーヒーショップ)の強盗で、最後にそこに帰ってくるまで、その設定をほとんど忘れてました。時系列をばらして見せる、というのが当時は新しかったかどうか。ストーリーテリング上どうしても必要なギミック、という訳ではなさそうです。トータルでオチをつけるためにサミュエル・L・ジャクソン演じるジュールスの改心、というモチーフを最後に持ってきたのだとは思いますが。

レザボア・ドッグスが、ギャングの中の侠気やプロフェッショナリズムというものに焦点を当てたものだとしたら、こちらはもう少しゆるく、その世界に生きる人々の生態を点描したものでしょうか。筋としては他愛もないものがほとんどで、そういう意味でのメッセージ性は何もないのですが、役者の力とカメラワークだけでも十分見れてしまいます。

一番かっこよかったのは、ハーヴェイ・カイテル演じるMr.ウルフでしょうか。他にも、「レザボア・ドッグス」以来の共演になるティム・ロスもいい安っぽい味出してます。ブルース・ウィリスだけはちょっと違うんじゃないかなぁと思ったりしましたが。一人だけ間がもっさりしてるんですよね。この世界の人じゃないというにおいがぷんぷんするというか。

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ある待ち合わせに相手が遅れることが分かっていたので、新宿駅南口の本屋でぶらぶらしていたら店頭に平積みにおいてあったので、なんとなく手に取った本です。帯には「P.コーンウェルも裸足で逃げ出す」みたいな露骨な比較広告的な文言が踊っていて、ずいぶん威勢がいいなぁ、と思ったら、それがどこかの本屋さんの店員のコメントだったりして、強気なんだか弱気なんだか。でも、こんなコメント店名入りで載せたら、講談社から意地悪されたりしないんですかね。いまは小売店の方が立場が強いのかな。

で、この「報復」。物語としては1988年にレイプ事件の被害者だった主人公が、検察官としてキャリアを築き、12年後の2000年に出会った連続殺人事件の被疑者が、このレイプの犯人だったと知るところから起きる葛藤をメインに描いています。過去の事件に関しては担当の州も違えば時効も成立していて、もはや過去の犯罪で裁くことはできない。では現在の殺人については…?

有罪である、という心証はあっても決定的な物証はない中で、大きな善のために小さな悪に手を染めざるを得ない主人公、裁く側が犯罪を犯している、という皮肉なシチュエーションには興味がありました。また、裁判の手続きをきちんと描いているので、捜査の手続きに不備があるといくら決定的な物証でも証拠として採用できなくなることがある、などの豆知識も利いています。

ただ、いくつかの賞で被疑者目線、あるいは犯人目線の段落があり、ちょっとネタバレっぽいので、途中からは謎解きよりもサイコ・ミステリーの方に重心が移っているかも。あとやはり主人公の心情を描くのに非常に多くのページを割いていて、丁寧ではあるのですが、もうすこしぐいぐいとストーリーで展開してくれた方が読みやすかったかな、と思います。

作者のジリアン・ホフマンは、結婚して退職した元検察官なので、実際の手続きについても詳しいものと思います。そのあたりはコーンウェルとかと共通点がありますね。多分こういう、元業界(法律・医学・検察)の作家、というものの流れを作った人物の一人がジョン・グリシャム(「ザ・ファーム」「ペリカン文書」ほか)ではないかと思いますが、現実を知りすぎていると想像力が足りず、想像力だけで物を書くと飛躍しすぎる、このバランスは難しいですな。しかもアメリカでヒットする小説というのは、多民族を相手に分かりやすく書く必要があるので、たいてい冗長で説明過多なものが多くなります。最後の落とし方なんぞは、ちょっとご都合主義すぎないかな、と思う部分もあるんですが、まあ面白かったんでは。

あと、カバーがちょっと派手なので、電車の中ではエロ小説と間違えられそうです。ちょっと変えてもらえませんかね。
実家でごろごろしていたら「紅白の舞台裏」という番組を流していたので、ながら視聴でなんとなく全部見てしまいました。

普通に見れば「ああそうか」で終わってしまう位の内容なんですが、ときどき「ん?」と思う瞬間があり、それが面白かったです。たとえばリハーサルの最中に急にモザイクで隠されている人物が出ているカットがあって、ステージの上を見るとSMAPがいるので、ああこれはかの有名なジャニー喜多川氏に違いない、と思ったり、モーニング娘。の再結成話が完全に中澤裕子メインで描かれていて、それはきっと夏まゆみやら他の現役メンバーでは、他の仕事が忙しすぎて追っかけ切れなかったからではないか、と思ったり。

あと顕著だったのは、「猛獣」みのもんたをどう使うか、という部分。3人ぐらいプロデューサーがいて、この番組の本当の責任者は誰か、というとこれがよく分からない。その都度みのの言うことに対してその場では対応するのだけど全部受け身になっているというか、そもそもキャスティング時点で予想されたに違いない事態に本番前日になって対応しているのはどういうもんでしょうな。もう一つ思ったのは、やっぱり詰め込みすぎということ。曲と曲の空気がちゃんと切り替わらないうちにつぎつぎと現れて余韻がない。本当にこれで曲を大切にしているといえるのかどうか、かなり疑わしいですな。

で、思ったのは、紅白というのは歌の「おせち料理」みたいなもんではないのか、ということです。個別の料理の完成度、というのは二の次で、それが「おせち」であることに意味がある。この料理が好かれるか、おいしいか、というのはまあそこそこの路線を追っかけておけばよくて、仕切りがあって、重箱にほぼ等分にならべてなんとなく見た目がお正月っぽい。

僕は昔からお節料理はそんなに好きではなくて、食べるなら栗きんとんを腹いっぱい食べられればそれでいい口なので、お節料理万歳、とはならないのですが、つまり紅白もそういうことなのではないかと。それがトータルとして「紅白」という枠組みに収まっていれば、個別の楽曲の完成度やメッセージ性はあんまり問うても仕方がない。みのもんたというのはまさにお節料理の重箱と仕切り板が豪勢になったみたいな感じなんでしょう。

だからなんだと聞かれても困るんですが、視聴率がどうの、と言う風に言うときも、僕はそういうことなんじゃないか、と思うのです。つまりお節料理は家族そろって食べることだけに意味があるのと同様、紅白もいろんな世代向けのいろんな歌があって、それが一つのパッケージになっていることに意味がある。いまは番組だってせち辛くなって、ターゲットは何、とか、スポンサーがつくのつかないの、ということを考えないと作れない時代ですが、本来紅白は大勢で見ながら、あの歌手のどこがいいの、とかあの歌は聴いたことがないけどなんかいいね、とか、わいわい雑談しながら見れればそれでいいんじゃないかと。

そういう世代を隔てた家族の形態が次第に崩れていることの象徴としての、紅白の視聴率低下があるのであって、紅白をどうするか、なんてのはおいといて、この日本の家族のありかたをどうするか、を考えた方がよっぽど意味があることなんじゃないかなぁ、と思ったりしたわけで。

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「破滅への銃弾」なんていうサブタイトルがついてたの、初めて知りました。1993年の映画ですが、古いVHSを整理していたらひょっこりWOWOWで録ってあったのが見つかったのでそのままなだれ視聴。

パリに金庫破りの仕事をしに来たゼッド(エリック・ストルツ)が、タクシーの運転手の計らいで出会ったコールガールのゾーイ(ジュリー・デルビー)と過ごしていると、そこに乱入してきた友人のエリック(ジャン・ユーグ・アングラード)がゾーイを部屋から追い出し、金庫破りの計画を打ち明けるという話。11年ぶりに再会した友人だというのですが、過去にどんな大きな仕事をしたのかは、あまり語られません。

冒頭のタクシーのシーンから、このゼッドの顔がマイケル・J・フォックスに似てるなぁと思っていたのですが、それはもともとエリック・ストルツが「バック・トゥ・ザ・フューチャー」のマーティー役にキャスティングされていて、その代役にマイケルが選ばれたのだから当然でしょうか。

ゼッドとゾーイが愛し合うシーンでカットバックする「ノスフェラトゥ」、これから起きる事件の予兆としてインサートされているのでしょうか。

エリックが来てから明かされる銀行襲撃計画のずさんさと、その前夜とも思えない麻薬パーティー、なんていい加減なんだろうと思わざるを得ませんが、「実はおれエイズなんだ」と一言つぶやくエリック。破滅願望を匂わせて同時にゼッドへの同性愛告白ともとれるシーンがあり、これはゾーイとエリックの間の「ゼッド争奪戦」と受け取るべき物語なのでしょう。タイトルのKilling Zoe(ゾーイ殺し)にしても、主語は明らかにエリックを指しています。金庫を破ることは目的に達するための手段に過ぎず、真の目的は恋のライバル・ゾーイを殺して、ゼッドの愛を独占することだったのでしょう。

ちょっとはっきりわからなかったのが、銀行の中でエリックが初めてゾーイを見たときから彼女を前夜のコールガールと認識していたかどうか。見せしめに殺そうとするときにははっきり意識していますが。本当ならゾーイの方はあんなにじろじろエリックを見たら生命が危ういので、たとえ見覚えのある顔だと気付いたとしても顔を伏せるべきなんじゃないかと思うんですが、そうしたらドラマが始まらないですよね。むしろゼッドを彼には渡すまい、という決意の現れがあの毅然とした態度になっているととらえるべきでしょう。

公開当時はタランティーノ・ブランドの一つ、みたいに見られて、実際総指揮にタランティーノが名前を連ねてもいるんですが、仏・米の合作ということで、一味違うテイストに仕上がっています。会話の大部分がフランス語で進むので、むしろ「勝手にしやがれ」などのヌーヴェルバーグテイストを念頭において作られたんじゃないでしょうか。銃撃シーンも、撃つ瞬間をグロテスクに見せることは避けていて、「レザボア・ドッグス」などのタランティーノ物とは一線を画する作風です。血が見たくない人にはお勧めしませんが。
日中関係について、アメリカがずいぶん気にしているようで、靖国参拝を「やめろ」とは言わないまでも「やめるのも一つの方法だ」と、日米首脳会談で懸念を表明していたそうです。で、小泉首相もそれに配慮したのか元日の靖国参拝をやめたのだとか。

なんか、こどものケンカに大人が出てきた、という構図なのか、ちょっと物悲しいばかばかしさがありますが、アメリカの見方は「中国は歴史問題で日本を悪玉に仕立て、孤立化させるカードとして使っているが、日本にはこれに対抗する戦略が十分ではない」ということだそうです。対アジアの「戦略」という言葉づかい自体がすでに穏やかでないし、アメリカの物の見方を象徴しているとは思いますが、同時に歴史的な経緯と切り離した逆説的な「正論」を持論にして押しきりたい小泉首相の主張も、外交的には「稚拙」と取られていると言うことなのかも知れません。

さて、国内向けには「変人」でもいいから自分の持論を押しきりたい小泉首相、アメリカから言われたらたまに親に叱られたわんぱく小僧みたいに「シュン」としてしまうのでしょうか?

ところでしかし、アメリカがあえてこういう外交問題に言及してくる、というのはまあ、極端な話、内政干渉ですよね。それでもあえて言わざるを得ないのは、貿易などの経済的な依存関係から日本と中国の間で揺れ動くアメリカの立場、という物があるのだそうです。それを聞いてしまうと、上から物を言う立場ではないのかも、と思えてきます。「こら、おまえらいいかげんにしろ!」みたいなことではなく「ちょっとは仲良くしてくれないとおいらこまっちゃうよ」みたいな。

そこへ来てこの間の外交官の自殺問題があるし、一朝一夕にはどうもならん感じですな。

ていうかひき逃げの事ちゃんとあやまったの?アメリカは。
どうも雲行きがあやしいですな。在上海日本総領事館の男性館員の自殺事件のその後のお話です。外交機密に関する情報提供を強要されたという遺書があったらしいのですが、それ以上の詳しい情報はニュースとしても公開されないので、そもそもの問題の本質が見えなくなっているというか。

しかしながら、これがニュースとして流れるということ自体、表ざたになっている事を表すわけで、こうなると正しいのはどっちか、というのは事実の開示をもって証明するしかないのですよね。遺族のプライバシーへの配慮からか、そのあたりの手口の詳細も明かされないので、余計な詮索が横行する事にもなっているようです。

中国側は当然ながら疑惑を全面否定してますな。こうなると国同士の威信の問題なので、ちょっとしてから「勘違いでした」では済まされない。北方領土や台湾問題と同じく、寝た子を起こさないように、他の問題と切り分けて少しずつ忘れていくしかない問題になってゆくのでしょうか。

不思議なのは、世の中の外交の手練手管の中には、たとえば色仕掛けで篭絡して情報を入手する、なんてのは日常茶飯事にありそうで、そんなの引っかかる方が悪いんじゃないの、という面も多々あるような気がする事です。

で、多分そういう事は近代国家の歴史の中では無数にあるはずで、しかも表ざたにはならないのが当たり前なのでしょう。こういう事を表に出して抗議の材料にする、というのは放課後の反省会で給食の時間にデザートをとられた事を言いつけるような無粋な行為ではないのかなぁというのが、今回の事件を見ながらの正直な感想なわけです。あるいは表ざたにせざるを得ないような、悪らつな行為があったんでしょうか。しかもそれをはっきり告発する証拠があると。そこまで勝算がないと、これは表で争ってはいけない事柄なのだと思います。

一番まずいのは、これを表ざたにする、という決断をした人がものすごくうぶな人で、物事を四角四面にしか受け取れず、先生に言いつける、ぐらいの感覚で決断を下してしまったケースですが、まさか、ですよね。