ずっと昔に見たのだと思うのですが、改めて見て、マリアンのイモっぽさとか、貴族の暮らしに気後れする様子とかが、綿密に意地悪に描かれているなぁと思いました。

 

ローレンス・オリヴィエという人は、そんなにたくさん見ているわけではないのですが、この作品だとちょっと「軽っ」という印象を持ちました。時々級に不機嫌になるところなど、メリハリはちゃんと付けているのですが、トータルで見ると「ととのった顔だけど、薄味」と思ってしまいました。

 

当初は理想の貴婦人と思われていたレベッカの実像が次第にわかってくるところにはやはりカタルシスがあり、終盤に真相が明かされるところがもっぱら会話劇なのも気にならないくらいです。

エンディングもいまならもっとねちっこくやるんでしょうが、上品です。

 

BSプレミアムで見ましたが、もしかしたら4K用にマスターを作り直したのかな、と思うぐらいに画質がよかったです。

ひとつ注文があるとしたら、ロールかけかえのつなぎがフェードイン・フェードアウトなんですが、これがちょっと電気的というか、ビデオ編集上での処理に感じられる現代的なものなので、すこし人工的に感じます。

この時代のカーチェイス、車載カメラには限界があるので空撮が活躍しているのですが、それにしても疾走感はすごい。ブラウン管時代のテレビでNTSCでみても、空から見た車はほとんど視認できなかったでしょうね。大画面化とHDの普及の恩恵で家庭でもより楽しめるようになったと思います。

ケーリー・グラントとグレース・ケリーの黄金コンビ。グレース・ケリーの品位と謎めいた雰囲気が作品を通じての魅力でしょうね。ケーリー・グラントは、正直なところ彼女には歳を取りすぎているんだろうと思うんですが、それが彼女の好み、と納得するべきなんでしょうね。

謎解きもまあ読めてしまうんですが、それでも楽しく一気に見られるエンターテインメントだと思います。

 

1993年にはドイツ映画でも描かれたスターリングラードの市街戦、ロシア側からの話というのはなかなか貴重なんじゃないかと思います。

どうも原作とまでは言えないようですが、ソ連の作家グロスマンの「人生と運命」という本を下敷きにしているようです。

冒頭が東日本大震災の救援部隊のロシア人の話から始まって、彼の5人の「父親」の話につなげる、なかなかうまい語り口だなと思いました。

どうみても圧倒的に不利な戦況のスターリングラードのアパートで孤塁を守ったロシアの寄せ集め軍隊の物語。中心になるのはそのアパートの最後の生き残りの少女カーチャ。極限状態でもはや逃げることすらあきらめたような最底辺の暮らしを送るソ連の市民たちを挟んで、モラルの低下したドイツ軍と武器弾薬も尽き欠けて絶体絶命のソ連軍がにらみ合いをつづける。

そのなかで、少女をなんとか守り通そうとする奇妙な絆が年齢も境遇もさまざまな男たちの間でできあがる、というのがドラマの核になっています。

そしてもう一つの綾が、ドイツ軍のはぐれ者将校カーンで、かれは自分の死んだ妻によく似たソ連人の女性マーシャに入れあげる。初めは志の高い軍人だったはずの自分が、戦線の膠着とともに堕落しつつあることに自覚があるが、それをソ連のせいだと思いこもうとするあたり、人間の弱さをうまく表しているなと思いました。

誰も絶対的に正しくはないし、味方のはずの人間まで見境なく狙撃したりする軽率さや弱さを見せつつ、「自由のために」譲れない一線を守り抜こうとする人々を描いています。途中でドイツ軍は市民を無差別に列車に乗せて「処分」しようとするとか、ヴォルガ川を越えたらその先はインドだ、と思っているとか、そんな雑な考え方だったのかなぁ、と疑問に思えるところはありますが、でもいろいろと面白い視点を提供してくれる一本でした。

主役というかリーダー格のグロモフ大尉が、少し小柄で威厳がないので、え、この人が主役?となかなか馴染めなかったのですが、それに慣れるとすっと入っていけました。カーチャ役のマリヤ・スモルニコワというひと、それほど出演作がないのですが、なんか既視感がありました。「メンタリスト」のヴェガ捜査官に似てるからですかね。

 

こどものころに大ヒットしたアドベンチャーなので、今まで見ていないことに関して負い目を感じていたので、やっと見られて肩の荷がおりました。もう一つは「タワリング・インフェルノ」でしたがこれは2年ほど前に見ています。

巨大な地震が原因の津波で転覆した豪華客船。上下真っ逆さまの世界で、どうやって生き残るか、権威に反乱するのが好きな牧師役でジーン・ハックマンが乗客グループを率います。

本当の正解はわからず、船内の様子も分からない中で、何を信じるか、ということで、そういう時に願望に引きずられる正常値バイアスに負けずに自分の頭で考えた人だけが生き延びる、という話でもあるのですが、同時に主人公にとっては神との対話でもある、という点が面白いと思いました。

 

新しい要素って大してないと思うんですけど、それでも見せる要素がありますね。

かつての「007」シリーズがもっていたおおらかなバカバカしさとタフさとご都合主義を巧妙に取り入れて、ビジュアル的にもダイナミックさ、悪役にもスケールのデカさがあって、気楽にみられるエンターテインメントに仕上がっていると思います。

ヴィン・ディーゼル、アーシア・アルジェント、サミュエル・L・ジャクソンがそれぞれにいい味を出しています。ギボンズに関しては、後年のMCUのニック・フューリーのキャラクターを先取りしているともとれます。

プラハを舞台にしたところで、後半のクライマックスに向けて、市民の平和な暮らしを随所に挟み込むなど、映像的な美しさも備えた魅力があります。

 

ジェイソン・ステイサム無双のいつものやつかな、と思って見ていたのですが、意外に深みがあるというか、ラスヴェガスという街との縁をなかなか切れないギャンブル依存症の用心棒、という弱みをうまく使った話になっていました。彼にボディガードを頼む億万長者との意外な友情は、少しだけ「ミッドナイト・ラン」を思い出させます。

メインの縦軸は、知り合いの女性の復讐に力を貸したことでマフィアの小ボスに狙われることなのですが、そこの細かいつばぜり合いは割にコンパクトにスマートにまとめたと思います。

惜しいのは二つの軸があまり交わらずに終わりまで行ってしまうことですかね。

 
1月1日に届いていた、スウェーデン放送所蔵の「バイロイトの第九」をやっと聞いた。
 
ご存じの人はご存じの曰く付きの1951年7月29日のバイロイト音楽祭での演奏。元々はEMIが録音していて、フルトヴェングラーの死後の1955年にLPがリリースされて、以降、「人類の至宝」的な扱いをされていたもの。
 
ただ、このEMIのレコードが「編集されたもの」ではないかという疑惑はけっこう前からささやかれていた。そこにきて、バイエルン放送が保管していた「実況録音テープ」が2007年に世に出て、これがEMI音源の演奏と一致する部分とそうでない部分があったので、「やはりEMI盤は本番とゲネプロの編集だった」というのはほぼ確実ということが明らかに。
 
そこで問題は新発見のバイエルン放送盤が、本番なのか、ゲネプロなのか、という問題。
 
EMI盤の特徴の一つが、4楽章の一番最後のテンポがものすごく速くてアンサンブルの一部が崩壊している、という点で、わざわざゲネプロからそういう部分を持ってきてつなぐのは不自然ではないか、というのは説得力があった。
 
バイエルン盤の音源に客席の咳払いがある、というのが根拠の一つだったけど、ゲネプロにも相当数の人が入っていたらしいので、決定的な証拠にはならない。真相はうやむやになっていた。
 
そこにきて、昨年の秋にこのスウェーデン放送盤リリースの情報。しかも生中継の冒頭アナウンスから放送終了まで、放送をそのまま収録するという。なので、この演奏が本番に違いない、とするとバイエルン盤が本番なのかゲネプロなのかもハッキリする、ということで期待が持たれていた。
 
ぼくはバイエルン盤も聞いていて、確かに演奏としての流れの一貫性はLPよりもあるな、と思ったけれど、本番かゲネプロか、の結論を出すには材料が足りないと思っていた。
 
で、このスウェーデン放送盤を聞いてみたところ。
 
演奏の善し悪しの評論は飛ばして、この音源の特徴で気づいたところを以下に。
 
・冒頭のアナウンスで「バイロイト音楽祭からの生中継」など演奏の基本情報が、ドイツ語、英語、スウェーデン語で読み上げられる。たぶん一部は録音で一部(スウェーデン語部分?)はスタジオで生で読み上げたのか、声のクリアさに差がある。バイロイトから伝送しただけでも音質は特性に変化があるはずだから、スウェーデン放送のスタジオでの音声が一番クリアなのは自然だ。
 
・アナウンスが終わってすぐに演奏が始まったら不自然だな、と予想していたけれど、そんなことはなく、一通り案内が終わったあと、しばらく間があって、アナウンサーがもう一度演奏者の名前を読み上げた。おそらく時間調整のためのアドリブだろうから、これは自然だ。
 
・1楽章の冒頭のレベルが非常に低いのだけど30秒くらいで急に大きくなる。卓でのレベル設定が低すぎたと、エンジニアがボリュームをいじったのではないか。生放送だと事前には読みきれない部分もあるからこれもないことではないだろう。バイロイトの送出側の処理か、スウェーデン放送の受けて側の処理か、はバイエルン盤との比較でわかるかもしれない。
 
・音質的には、伝送の特性があって、当時の記録テープの特性、さらに時間による劣化、保存状態などがあるのでけっしてよくない。全体には低域不足でハイ上がり。特性上周波数的には上もどこかでスパッと切れているのだろう。ただSACDということもあって、収録には余裕があって、楽器が重なってきても厚みが自然に出る。
 
・楽章間の客席の咳払いを聞いた感じからは、これはゲネプロの関係者ではなく、お金を払って聞きに来たお客だ、と思う。ゲネプロで、出演者の知り合いとかだと、たとえ曲間であっても、咳払いはもっと遠慮がちにするはずだと思う。ましてや演奏中に聞こえるような咳は控えるだろう。
 
・演奏が終わってからの拍手が自然。しかも長時間収録されている。当時の拍手・歓声の入り方も、案外いまに近いのだな、という感覚になった。一点だけ、初めて歓声が聞こえるタイミングが妙に揃っているのはなぜかな、と思ったけど、これは舞台上でどういう動きがあったか、がわからないと理解できないかもしれない。
 
というわけで、自分の感覚としてはほぼ間違いなくこれがノーカットの本番の演奏で、バイエルン盤もそうなのだろう、という結論に落ち着きました。
 
昨年亡くなった柳家小三治師匠のドキュメンタリー映画を見たときに、「噺ってのは、一度始めたらもう止められない。その先を続けていくしかない」と語っておられた。
 
どの噺にもその時だけの命がある、という趣旨だと思うけれど、フルトヴェングラーの演奏にも似たようなところがある、とバイエルン盤を初めて聞いたときに思った。どんな演奏になっても、その時にはその時だけの理由がある。下手にハサミを入れていいとこどりしようとするのは全体を間違える、ということなのではと。
 
なので、自分の中ではもう結論は出たけれど、謎がもう一つ残った。「なぜEMI盤はああなったのか」ということ。フィナーレのラストのアンサンブルが特徴的な崩壊を起こしているようなテイクをつないだら、実際に聞いた人が「自分が聞いたのはあんな演奏じゃなかった」と気がつくと思わなかったのだろうか。
 
仮説として一つあるのは、「EMIの技術陣が酷いミスをして、全部本番の演奏を使いたかったが、不可能だった」という可能性。放送用の録音とEMIの録音はマイクも収録機も別だったのかもしれない。EMIからバイエルン放送にテープを貸してくれ、とお願いをするのは屈辱的すぎたのかもしれない。
 
もう一つの仮説はやや当て推量だけど、ウォルター・レッグの妻のエリーザベト・シュヴァルツコップが何らかのリクエストをした、ということ。自分の声の状態か音程かアンサンブルの精度かで、「ゲネプロの方が出来がよかった」と強く思ったとしたら、プロデューサーの夫に圧力をかけたかもしれない。だって、歌った本人なら、LPが出たときに音源が差し替わったことぐらい、すぐにわかったのではないか?
 
でも、もう時間が経ちすぎて、EMIの編集に関与した人物や家族の証言が出てこない限り、真相は藪の中かもしれない。

 

前の3作をおさらいしてから見てよかったなと思いました。

前提として何が起きていたかを覚えていないと、たぶん話がぜんぜん分からなかっただろうなと思いますが、わりにフラッシュバックとかで丁寧に振り返ってはいたと思います。

最初の1本がビジュアルの斬新さとコンセプトで革命を起こしたのに比べると、どう話をたたむか、という観点から見てしまう部分もありますが、その意味では前ほどCGの物量に頼り過ぎずに、カタルシスが得られたのかな、と思います。

それにしても、ネオもトリニティーも、これだけ時間が過ぎたのに、相変わらずの美しさは、さすがだなと思いました。

メロヴィンジアンの変貌ぶりにはちょっと笑ってしまいました。スミスに関しては、少し印象に残りにくいキャラクターになったかなと思います。ヒューゴ・ウィーヴィングをそのまま出すと年齢感が不自然になるという判断だったかもしれませんが。

 

犯人の動機が本当の革命、という点を除けば、最初の「ダイ・ハード」が作った、「閉鎖環境で一人でテロリストに立ち向かう」というフォーマットに極めて忠実に作られたヒーローアクションものです。その分、謎解き要素は少なくて、犯人側のテクノロジー戦に終始してる感じもあります。

いっぷくの清涼剤、というのはファイザルという中東系のスタジアム係。知的かつユーモラスなキャラクターで本当なら悲惨な現場で和ませてくれます。

デイヴ・バウティスタはこの手のタフ・アクションものをこれからも続けていくんでしょうかね。推理力とか、洞察力、よりもより直感とか本能とかで勝負する方が「らしさ」が出せる、というキャスティングなのかもしれませんが。

フットボールのウェストハム・ユナイテッドのホームグラウンド、アップトン・パークの最後の試合、と銘打っていたので、スタジアム移設のタイミングに合わせた撮影だったのでしょうか。プレーのシーンもふんだんにあって、よくこれだけ試合のプレーのシーンを撮ったな、と感心しました。

ピアース・ブロスナンが、意外な役柄で登場して、けっこう後半はなまりの強い英語で見せ場があります。こういう器用なこともできるんだな、と発見感がありました。

 

見直してみて、いろいろとよりよくわかるようになったとは思うのですが、やはり前作からのつながりでないと成立しない要素がたくさんあって、少しごちゃごちゃしてます。預言者のキャストが変更になったのは前の人が亡くなっていたからなんですね。

マシンとの戦いだったものが、いつの間にかエージェント・スミスとの一騎打ちにすり替わる、という点は、初めて見たときも、見直してもあまり説得力がないかなと思ったりします。

実は奥が深いな、と思う会話は、冒頭の駅のシーンでのインド人の父親のセリフの中に言い尽くされている感じがして、これがモチーフなのかな、と思うと最後のザイオンの攻防やスミスとの対決の物量作戦に紛れてしまって、どっかに忘れられてしまう、というのが惜しいなと思ったところです。