ご存じの人はご存じの曰く付きの1951年7月29日のバイロイト音楽祭での演奏。元々はEMIが録音していて、フルトヴェングラーの死後の1955年にLPがリリースされて、以降、「人類の至宝」的な扱いをされていたもの。
ただ、このEMIのレコードが「編集されたもの」ではないかという疑惑はけっこう前からささやかれていた。そこにきて、バイエルン放送が保管していた「実況録音テープ」が2007年に世に出て、これがEMI音源の演奏と一致する部分とそうでない部分があったので、「やはりEMI盤は本番とゲネプロの編集だった」というのはほぼ確実ということが明らかに。
そこで問題は新発見のバイエルン放送盤が、本番なのか、ゲネプロなのか、という問題。
EMI盤の特徴の一つが、4楽章の一番最後のテンポがものすごく速くてアンサンブルの一部が崩壊している、という点で、わざわざゲネプロからそういう部分を持ってきてつなぐのは不自然ではないか、というのは説得力があった。
バイエルン盤の音源に客席の咳払いがある、というのが根拠の一つだったけど、ゲネプロにも相当数の人が入っていたらしいので、決定的な証拠にはならない。真相はうやむやになっていた。
そこにきて、昨年の秋にこのスウェーデン放送盤リリースの情報。しかも生中継の冒頭アナウンスから放送終了まで、放送をそのまま収録するという。なので、この演奏が本番に違いない、とするとバイエルン盤が本番なのかゲネプロなのかもハッキリする、ということで期待が持たれていた。
ぼくはバイエルン盤も聞いていて、確かに演奏としての流れの一貫性はLPよりもあるな、と思ったけれど、本番かゲネプロか、の結論を出すには材料が足りないと思っていた。
で、このスウェーデン放送盤を聞いてみたところ。
演奏の善し悪しの評論は飛ばして、この音源の特徴で気づいたところを以下に。
・冒頭のアナウンスで「バイロイト音楽祭からの生中継」など演奏の基本情報が、ドイツ語、英語、スウェーデン語で読み上げられる。たぶん一部は録音で一部(スウェーデン語部分?)はスタジオで生で読み上げたのか、声のクリアさに差がある。バイロイトから伝送しただけでも音質は特性に変化があるはずだから、スウェーデン放送のスタジオでの音声が一番クリアなのは自然だ。
・アナウンスが終わってすぐに演奏が始まったら不自然だな、と予想していたけれど、そんなことはなく、一通り案内が終わったあと、しばらく間があって、アナウンサーがもう一度演奏者の名前を読み上げた。おそらく時間調整のためのアドリブだろうから、これは自然だ。
・1楽章の冒頭のレベルが非常に低いのだけど30秒くらいで急に大きくなる。卓でのレベル設定が低すぎたと、エンジニアがボリュームをいじったのではないか。生放送だと事前には読みきれない部分もあるからこれもないことではないだろう。バイロイトの送出側の処理か、スウェーデン放送の受けて側の処理か、はバイエルン盤との比較でわかるかもしれない。
・音質的には、伝送の特性があって、当時の記録テープの特性、さらに時間による劣化、保存状態などがあるのでけっしてよくない。全体には低域不足でハイ上がり。特性上周波数的には上もどこかでスパッと切れているのだろう。ただSACDということもあって、収録には余裕があって、楽器が重なってきても厚みが自然に出る。
・楽章間の客席の咳払いを聞いた感じからは、これはゲネプロの関係者ではなく、お金を払って聞きに来たお客だ、と思う。ゲネプロで、出演者の知り合いとかだと、たとえ曲間であっても、咳払いはもっと遠慮がちにするはずだと思う。ましてや演奏中に聞こえるような咳は控えるだろう。
・演奏が終わってからの拍手が自然。しかも長時間収録されている。当時の拍手・歓声の入り方も、案外いまに近いのだな、という感覚になった。一点だけ、初めて歓声が聞こえるタイミングが妙に揃っているのはなぜかな、と思ったけど、これは舞台上でどういう動きがあったか、がわからないと理解できないかもしれない。
というわけで、自分の感覚としてはほぼ間違いなくこれがノーカットの本番の演奏で、バイエルン盤もそうなのだろう、という結論に落ち着きました。
昨年亡くなった柳家小三治師匠のドキュメンタリー映画を見たときに、「噺ってのは、一度始めたらもう止められない。その先を続けていくしかない」と語っておられた。
どの噺にもその時だけの命がある、という趣旨だと思うけれど、フルトヴェングラーの演奏にも似たようなところがある、とバイエルン盤を初めて聞いたときに思った。どんな演奏になっても、その時にはその時だけの理由がある。下手にハサミを入れていいとこどりしようとするのは全体を間違える、ということなのではと。
なので、自分の中ではもう結論は出たけれど、謎がもう一つ残った。「なぜEMI盤はああなったのか」ということ。フィナーレのラストのアンサンブルが特徴的な崩壊を起こしているようなテイクをつないだら、実際に聞いた人が「自分が聞いたのはあんな演奏じゃなかった」と気がつくと思わなかったのだろうか。
仮説として一つあるのは、「EMIの技術陣が酷いミスをして、全部本番の演奏を使いたかったが、不可能だった」という可能性。放送用の録音とEMIの録音はマイクも収録機も別だったのかもしれない。EMIからバイエルン放送にテープを貸してくれ、とお願いをするのは屈辱的すぎたのかもしれない。
もう一つの仮説はやや当て推量だけど、ウォルター・レッグの妻のエリーザベト・シュヴァルツコップが何らかのリクエストをした、ということ。自分の声の状態か音程かアンサンブルの精度かで、「ゲネプロの方が出来がよかった」と強く思ったとしたら、プロデューサーの夫に圧力をかけたかもしれない。だって、歌った本人なら、LPが出たときに音源が差し替わったことぐらい、すぐにわかったのではないか?
でも、もう時間が経ちすぎて、EMIの編集に関与した人物や家族の証言が出てこない限り、真相は藪の中かもしれない。
