以前ロイヤルホストの近所に住んでいたことがあり、夜が遅くなると他に食事どころがなくなるので頻繁に通っていました。その関係で会員カードなどもつくり、ときどき食事の割り引きのダイレクトメールなども送られてきます。9月中に期限切れになる、6名まで優待の割引券が1枚手元にあったので、職場の同僚と一緒に行こうか、という話だったのですが…。

今日も夕べのうちに終わるはずの仕事が機材トラブルなどで朝の9時頃になり、家に帰って夕方まで仮眠をとったのですが、その間に参加者の一人からメールがあり、家族が入院したのでちょっと行けないと。さらに、海外から帰ってきたばかりの元同僚も仕事が延び延びでちょっとしんどいという話があったのでやむなく中止ということに。あわててあちこちにメールで連絡したのですが、すぐに連絡がつかず、ちょっと焦りました。

そんなわけで今日は夕方に目覚めてからはあまり動きのない一日になってしまいました。

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先日オーシャンズ12を先に見てしまった行きがかり上、これは見ておかねば、と思ったのでDVDで見ました。

豪華スターの面々が、豪華な場所で豪華な犯罪を繰り広げる、というのが適度なバランスで達成されている、というのはなかなか楽しいものです。特に、最後のベネディクトとの電話での交信、金庫がもぬけの殻となっていた、というくだりでは、練習のために金庫を丸ごと再現していたことの意味が別な形でわかったり、どんでん返しをうまく使っていたと思います。

ただ、世界観的にはこの前にもう1作あるのでは?という気分にもさせるものがあるのは、次から次へと過去の因縁が飛び出してくる設定の使い方にあるのかもしれません。特にジュリア・ロバーツ演じるテスとアンディ・ガルシア演じるベネディクトと、オーシャンの関係にはやや緊張感が欠けていたかも知れません。一つにはジュリア・ロバーツが痩せすぎてちょっと貧相に見えるのと、ガルシアにもう一つすごみと貫録がない点、そして、なぜテスがオーシャンよりもベネディクトに魅力を感じているのかがよくわからない点です。ここが腑に落ちないと、最後のテスの改心もあんまり効いてこない、と思う残念なポイントでした。

適度なユーモアは随所にあっていいと思ったのですが、犯罪を企んだ本人がプロジェクト全体を危機に陥れる、という仕込みはどうなのだろう。マット・デイモンをしっかりさせるため、だますならまず味方から、というのはご都合主義の一歩手前の際どいトリックかも知れないな、と思いました。

実は1960年作「オーシャンと11人の仲間」のリメイクだったんですね。オーシャンズ12は完全なオリジナル続編だったんでしょうか。出来はどちらかというと「12」の方が上かも、と思ってしまうのは先に見たひいき目でしょうか。
ちょっとビックリしたのが、昨日発覚した万引きイレブンに対する、世の中全般の空気。「万引きは犯罪だ」というのは正論にしても、校長のコメントとか、学校の発表に関して「甘すぎる」「重い処分を」「廃部に」と、学校を責める空気がかなり支配的だということです。

まあちょっと、お待ちになって。

「泥棒をしてはいけない」「万引きしちゃ駄目よ」とかいうことを教えるために、高校があるんでしょうか?あるいは、練習が終わった後に、「こいつら万引きしたりしないだろうか」と心配して放課後の彼らの様子を尾行するのが学校側の管理責任でしょうか?

そういうことの原因とか根は、もっともっと前に育ってしまっているんでしょう。お店も気の毒だし、処分も必要だと思うんですが、学校が処分をどうにかしたから決着がつく、としたらそれは周りの人々の感情に決着がつく、というだけの話ではないのかなぁ、とかえって憂鬱な気分になりました。

まあ、学校がそういう強い部活動には甘い顔をする、という現実があるにしても、です。

高校球児の不祥事も後を絶ちません。短絡的にエラーをしたからシバく、というのはもちろんいやなもんですが、もっと前の段階で根本的に大事なことを分かっていないこどもが多いから、シバかざるを得ないこともあるのかなぁ、とか先生にも同情したくなったりもします。

家庭だったり、近所だったりから放置されて、大したしつけも受けずに、大人のモラル、というものをちゃんと目撃せずに育つことの弊害というのがもっと大きくはないでしょうか。言葉で「あれしちゃ駄目、これしちゃ駄目」というのもありますが、もっと広い意味で「親の背中を見て」育っていれば、そんなに目茶苦茶なことにはならないように思うのですが。
昨日の晩、職場の同僚と食事をしながら、ある女性にハリウッド製の映画を勧めるという成り行きになりました。この女性は、とにかくミーハーな文化が嫌いなので、ハリウッド製のものは食わず嫌い、そのため我々の意見によればずいぶん損をしている、ということになり、無理やりオールタイム・ベスト10をひねり出すことになったのです。とはいえ勧める面々にずいぶん偏りがあるため、全然まとまらなかったのですが、それでも部門別にまとめると、それなりのタイトル数になりました。

SF:「ブレードランナー(ナレーション付き)」もしくは「ターミネーター」
ホラー:「シャイニング」もしくは「キャリー」もしくは「サスペリア」
青春物:「スタンド・バイ・ミー」
ロマンス:「シザーハンズ」もしくは「めぐり逢えたら」
アクション:「ダイ・ハード」もしくは「プレデター」
刑事物:「ビバリーヒルズ・コップ」もしくは「張り込み」もしくは「ダーティー・ハリー」
ロードムービー:「ミッドナイト・ラン」
ファンタジー:「ネバーエンディング・ストーリー」もしくは「フック」
大河物:「ゴッドファーザー」

こうしてみるとスティーブン・キングって冗長な所はありますが大したものですね。ただし、シャイニングはキューブリック版の方がこわいとおもいます。
今日はまた夕方から合唱の練習があったのですが、その前に仕事を入れていて、すぐに終わるかと思ったらこれがなかなか決まらなくて、ずいぶん遅れてしまいました。

それはともかく、その打ち合わせをやっていた部屋に、ドイツのリンツに出張していた人からの土産があり、ドイツといえばグミ!例のハリボー社のグミがあったので知らない人のお土産なのに、おいしくいただきました。

そして、ふと見るとそのシリーズで見たことのない、黒いクマのグミがあったので、喜んで食べたらこれが…。

リコリス味のグミだったのです。オエェ。

日本人に比べて欧米のお菓子が全般的に大味なのは、まあ、ちょっとした繊細さの違いと思って納得がいくのですが、リコリス味の駄菓子が蔓延しているのは一体どういう差なんでしょうね。昔は砂糖が手に入らなかったから、代替物として普及したということなんでしょうか。

日本のこどもにリコリスが受け入れられる時代が来るとはとても思えません。
映画のタイトルとしてもいけますな、「万引きイレブン」。

やっぱり、今日一番笑ったのは、市立尼崎高校のサッカー部の部員がスポーツ用品店で万引きした品物を学校の中で友人に売りつけていた、という話ですな。よっぽど小遣いがほしかったんでしょうか。その品物を自分で使うためだったら、まだ少しは同情したくなる部分もあるんでしょうが。

しかも、県大会で準優勝するほどの強豪チームだった、というのがだまされたような気分になりますな。こういうチームが強い理由を考えました。

1)審判の目を「盗む」のがうまい。
2)それだけハングリー精神がある。
3)試合中も隠し持ったボールをたくさんゴールに入れていた。

うーん、どれも当てはまりそうです。まあ、マラドーナだって「神の手」ですからな。神の手が万引きぐらいするんでしょ。
デザイナーの森英恵さんの孫が逮捕されたそうですな。24歳とありますから立派な大人です。職業がデザイナーで、一緒に捕まったのが28歳のカナダ人の英語教師だそうです。

で、逮捕された理由が、マンションの壁にスプレーでアルファベットを書きなぐったからだそうなんですが、職業デザイナーの人がそういうことで捕まってしまうのはちょっとトホホですな。いやしくもデザイナーのやったことなら、感謝されこそすれ、人におこられるような出来栄えではちょっと空しい。回りの人々が無理解なだけなのか、それともデザイナーというのは祖母の七光りでついた肩書きなのか。
先週大変な遅刻をした若者が、今週は無事にもう1件仕事を終えたので一緒に昼飯を食いました。そのなかで、数十年来疑問に思っていた謎が解けて、ずいぶん世の中がハッキリ見えるようになった気がしました。

その彼は、大学でフランス幻想文学を専攻していたので、いろいろと19世紀の文学者たちの妄想気質や、作品の中にあることないことを書く特性などについていろいろと説明してくれました。現代の小説家のように、一つの小説の登場人物が、全く違う小説の中に脇役で登場するような自由なキャラクターの使い方、現実の中に生じる奇妙なズレやパラレルワールドへの陥穽。その話を聞きながら、「やはり、当時のフランスの貴族社会が安定して太平楽をむさぼっていたからこそ、不安定への幻影が育ったのではないか」などと思っていたものでした。そんな中で、数十年間謎に思っていたある人物に関する物の見方が分かったような気がしたのです。

その人物とは、「サン・ジェルマン伯爵」です。

最初にこの人物の名前を見たのは、『サイボーグ009」の巻末に着いていた石ノ森章太郎さんのおまけマンガにサン・ジェルマン伯爵が登場したからなのですが、要するにこの人物は「人類最初のタイム・トラベラー」とうたわれることもある、謎の人物です。才気あふれる会話とやわらかい物腰で社交界の花形になったかと思えば、無尽蔵とも思える財産を有し、なによりも、変わらぬ若さでさまざまな時代の文献に現れた、とされているのです。

現代のSF好きの研究者は、これを何よりのタイム・トラベルの証拠、としたがります。しかし、これは一種の錯覚なのです。

どういうことかというと、当時のフランスの文学界、貴族界全体に、分裂症的な遊びの精神があふれていた、とすると、さまざまな日記や小説の中に、「オレも登場させてやれ」とばかりに「サン・ジェルマン伯爵」が登場してもなんの不思議もない、ということなのです。何も本当に人をだましてやろう、とは夢にも思わなかったかも知れません。「あいつも書いてるからオレも出してやれ」ぐらいの精神で、「サン・ジェルマン伯爵」の登場は当時の文学の世界では何よりの「遊び心」の証だったのではないでしょうか。そういう時代が長く続き、100年後の作家が同じようなノリでサン・ジェルマン伯爵を登場させてしまったことが、残された文献には真実が記されているものだ、と信じて疑わない後の研究者を困らせているに違いないのです。

言ってみれば、これは清涼院流水の集団殺人偽装のトリックによく似ている、「集団偽証」により生まれてしまった錯覚なのではないでしょうか。別に当時の人々が、後世の研究者を困らせようと思ったかどうか、定かではありません。遊びの精神、というか時代の常識というものは明文化されない、という例のように思われます。
そういえば、21日(水)の朝、人の仕事のチェックがずっとずれ込んだので朝の11時頃に職場に戻るために渋谷のハチ公前を通ったのですが、そこで下着姿の髪をメッシュにした女の子の大群とすれ違いました。

何なのかな、と思っていたら、センター街の入り口をみて合点が行きました。みんな倖田來未のコスプレをしていたのです。ベストアルバムのキャンペーンかな、とは思っていましたが、22日のスポーツ紙には、本人が100人のニセ倖田來未の前にいる写真が写っていましたね。ということはもう少し粘れば本人も見れたかもしれなかったのですな。
NHKの名物番組として、いろんなパロディーを生み出した「プロジェクトX」が終了する予定のようですな。ときどきあの番組の田口トモロヲさんの語りを聞くと、「明らかにふざけてやってるな」と思うような、意味あり気に深刻ぶったナレーションがあって、いつの間にか「セルフパロディー」芸の世界に行ってしまった感じはしていました。

そもそも、ああいう「一見地味な題材が意外に感動的なことがある」というのがメインコンセプトの番組で、そうそう名作が生まれるわけはないし、そうそう感動的である訳もないのです。あるいは、当事者にとっては大事件でも、社会的、世間的にはそうでもない、というのが現実であったりしますよね。

だから、毎回感動的に描こう、というのは自己矛盾でしかないのですが、それを大まじめにやってしまおうという愚直さがすでに十分に「プロジェクトX」的であるわけですな。番組がセルフパロディー化していったのも仕方ないのだと思います。

また、誰かを褒め称えて、持ち上げることで、「誉めてもらえない人」がひがむ、というのもこういう番組の特徴で、ライバル会社、競り負けた歴史の敗者、あるいは主人公の敗者によって不当に貶められてしまう勝者、というものが無数に生まれるところが、この番組の根本的な弱点でもあります。

ひっそりとあまり気づかれずに細々と続けられれば良かったのでしょうが、評判をとりすぎるというのも考えものです。分相応に、というのはなかなか難しいものです。