アニメ「かがみの孤城」を観る | アトレーユのブログ

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先日テレビ放映されたアニメ「かがみの孤城」を観ました。

ストーリーを簡単に言うと、それぞれに学校や家庭でイジメや暴力に合い、登校拒否や引きこもりをしている中学生の子供たち7人が、ある日、鏡をすり抜けて、島の上に建つ孤城へと来てしまう、というお話。

これはちょっとなかなか難しいアニメではないかな。特に、小学生くらいの子供には理解出来ないのではないかと思うけど、大人でも「?」だった人もいるんじゃないかな。

ネタバレになってしまうので、以下、ご注意。

観ていない人には意味が分からないと思うので、まずは観てみてください、絶対に観て後悔の無いアニメですから、と言っておきます。

まず、時間についての概念。

時間が過去から未来へと流れているもの、という前提と、そして、私たち一人一人が同じ「今」を生きているという概念を外さないと訳が分らなくなる物語ですね。

さて、物語の主人公である7人の少年少女たちは、1985年から2027年までの、それぞれ7年の間隔を経て集められた子供たちである。

したがって、彼らが鏡を通って、それぞれの現実へと戻ったときは、それぞれの時代へと戻っているが、この孤城に来たときは、共通の「今」を共有している。

7人の子供の中に、一人、お姉さんを病気で亡くした男の子がいます。物語のラストで、この子が、この孤城の世界の意味に気付く。そして言う。

「最初は、死んだ姉ちゃんがオレに会いに来てくれたのかな、と思ったけど、ようやく気付いた。姉ちゃんは、あの病室からここへ来てる、って。今も、たった今の姉ちゃんも、6歳の俺と一緒に病室の中なんだろ。このドールハウスの中で、姉ちゃん俺たちと、一緒に過ごしていたんだね。」

つまり、この孤城は、病室で横になっているこのお姉ちゃんの意識世界であると言える。
だから、この孤城における「今」は、西暦何年ですか?と問えば、それは、このお姉ちゃんが亡くなる最期の1年間における「今」である、と言える。
で、それぞれの時間軸を生きている7人の子供たちが、このお姉ちゃんの意識世界へと引っ張り込まれてるのだと言える。

そういう意味では、「今」というものは無いのと同時に、全ての人それぞれの意識世界の中での「今」はある、それ以外に、万人が共有している、ひとつの「今」というものは無いのだ、と言える。

孤城の世界は、お姉ちゃんが生きていた最期の1年である、という意味では、これは過去の出来事なんだけれども、それを「過去」と認識するのは、既にお姉ちゃんを亡くした弟の少年の意識世界にとっての「過去」であるだけであり、そのお姉ちゃんと孤城でのみんなにとっては、それはまさに「今」であるのですね。

途中で、ある男の子が、「そうか分かった、これはパラレル・ワールドなんだ!」と言います。
と言うのは、現実世界に戻って学校で会おうよ、という話になって、みんなが学校に行ってみたときに、それぞれが自分だけが学校に行って、他のみんなは来なかったから。
それで、これは、並行する別々の宇宙なんだ、と理解した。

これは間違いではあったのですが、では、何故、そのような勘違いが生じたかと言うと、人はみな、同じひとつの「今」を生きているという大前提があるからなのですね。それぞれが別々の時代を生きているという発想がそれそも無いところで、そのような理解が生まれるのはむしろ当たり前だと言えます。

というわけで、この物語は、時間についてのこれまでの常識的な固定概念を崩さないと理解出来ないということになりますね。

あと、この孤城で過ごした1年間の記憶は、お姉ちゃんが亡くなる3月30日をもって全て消されてしまうというところは、「時をかける少女」の、あの古典的定番ですね。

この孤城での1年間の体験を通して、それぞれの子供たちの孤独が癒され、友情が芽生え、気付きもあり、強くもなり、現実に戻った彼らが、孤城での全ての記憶を無くしたけれども、もう現実から逃げることは無く、しっかり生きて行くというところも
この手のSFものの定番ですが、それが無ければ、このような世界を作ったことのお姉ちゃんにとっての意味が無いので、これは、お姉ちゃんの救済物語。

余命1年のお姉ちゃんが、弟くんを含む7人の子供の心を救った、そのことによって、自身の生きた意味と証しを得たという、計8人の魂を救った救済の物語。

素晴らしいアニメでした。拍手。


P.S.原作を書いた辻村深月さんという作家さんにも興味を持ちました♪