アトレーユのブログ

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■哲学 思想 詩■

哲学者の中には、我々人間は、感性の世界を離れず、感性と、理性によって思考し得る限りの世界に踏み止まるべきであり、それを超えて語るのは、神秘主義、あるいは、悪しき意味での形而上学であり、その誘惑を断ち切らなければならない、とする立場の人たちがいる。

哲学的には唯物論がこの立場、また、科学もこの立場が前提である。

感性の世界とは、感覚(五感)によって知覚出来る世界ということだ。
感覚(五感)によって認識出来ない領域は排除すべきだ、というのである。

このような見解に対し、何を言えば良いだろう。

確かにこう言った姿勢は素晴らしいものだと思う。真理を求める態度として美しい態度だと思う。真摯な態度だと思う。

しかし。

例えば、プラトンも超越的なイデアの世界に言及し、ヘーゲルは、やはりこの現象界を超えた絶対精神を説いた。
どちらも、感性の彼岸の世界についての言及である。

哲学には、2つの方法論がある。
帰納法と演繹法。

帰納法は、現前の事実から出発し、分析と抽象思考を経て、普遍的な結論を導き出す方法。

演繹法は、まず先に普遍的な命題から出発し、現前の現象を説明する方法である。

感性の世界の内に留まっていては、その彼岸へは到れない。
では、私たちは、彼岸の世界については妄想するな、想像するな、言及するな、と言うのだろうか。

感性の世界の内部で、その彼岸について思考してみても、それは不可能である。
ならば、それらについての認識は不可能と捨て去らなければならないのであろうか?

だとすれば、思考としての哲学は、真理へと到れない。

もちろん、それが哲学の領分であり、そこから外は我々の領分ではないと言うならば何の問題も無いのだが。
そこから先は宗教やオカルト、神秘主義にお任せします、と言うのであれば。


 

漫画家の楳図かずおさんが、「恐怖への招待」というエッセイ本を出していて、その中で興味深いことを言っています。

よく漫画でタイムマシンに乗って過去に遡るのがあるけど、その途中でパッと世の中を見ると、世界が止まって見えるというのがあるけど、あれには僕は笑ってしまう。止まってしまうということ自体、時間がそこにあるから止まって見えるんじゃないか。
僕はもし時間を止めたら、物体は全く見えなくなるんじゃないかと思う。
連続しているからこそ物体がそこに生じる。

と言っているんです。

さすが楳図かずおさん、哲学的センスもありますね。

これはどういうことかと考えてみると、時間の流れがあるからこそ、その上にこの物的世界が存在し得ている、という前提があります。

まあ、「見えなくなる」と言っているだけで、「無くなる」とは言ってないんですけどね。

それについて言えば、そこにもし何かがあっても、見えないのであれば、それが存在するとは何を意味しますか?とも言えるんですけどね。
観念論者に言わせれば、見えるということが存在するということであって、見えないということは存在しないことに等しい、と言うかも知れないですね。

もし時間があって物が存在するのであれば、時間と物は切り離せない、ということになります。

「時間」と「物」というように、切り離しては考えられないということ。

だから、時間が止まれば物質も消える、と。

これは、逆に、もし物質という物質が無くなったら、それでも時間は存在する?というのも同じです。

そもそも時間とは、物事が変化している過程があるから時間を認識出来るのであって、何事も変化しなければ、時間もまた無いじゃないか、となる。

ただ、これもまた同じで、それは認識出来ないだけであって、時間そのものは存在するかも知れないじゃないか、と言えるかも知れないですが、何も存在しない世界に(それはもはや「世界」ですらありませんが)、時間だけが経過しているというのは一体それは何ですか?とも言えます。

まあ、よくある世界創造論で、この世界が誕生する以前の叙述で、「そこにはまだ何者も存在しなかった。ただ時間だけが過ぎ去っていた。そこに突如、最初の存在が現れた。」なんて言う叙述がありますけどね。もっともそこには、神または創造主は存在しているんですけどね。

ブラヴァツキー夫人の「シークレット・ドクトリン」なんかは確かそんな感じだったかと。まあ彼女の場合は、神とは言わずに、「ブラフマン」と言ったかも知れませんが、まあ同じことですね。
そういう存在があってのことであれば、何者も無いところに時間だけが経過していた、ということも無いとは言えないかも知れない。
そのように想像している神または創造主またはブラフマンが存在しているということです。
そういう絶対者の存在の意識の中で時間だけが経過しているということです。

そうなると今度は、「時間」と「無」について考察しなければならない。









 

昨夜は面白い夢を見ました。

日本中の経済が、ある悪の組織にジャックされ、経済麻痺してしまっているという夢なのですが、私は会社に電話をかけていて、隣には遠い名古屋に住んでいる知人がいます。

もしかして彼も同じ夢を見たのではないかとメールして聞いてみたのですが、残念ながら見ていませんでした。

もしそうだったら面白いですね。

世界中の人がもし同じ夢を見ていたら?と考えたことがあります。(それについて以前書いたかな?忘れましたが。)

そういう面白いことってなかなか無いですね、この世界。
「終わり無き日常」と言ったのは誰だったか…。

退屈極まりない日常が永遠に今後も続くと想像すると身震いしますね。

だから映画や漫画があるわけです。

日常が面白くて仕方無かったら、わざわざ映画や漫画を見なくてもいいわけです。

ところで、超売れっ子の有名人、芸能人やスポーツ選手、憶万長者、なんらかの世界的なトップにいる人たちは、決してそうではないでしょう。

夢を生きているでしょう。

夢見るような人生を生きたいとは、誰しも思うことではないでしょうか?

それとも、そんなのは本当に一握りの恵まれた人たちの話で、我々凡人は、つまらない仕事と安い給料と家のローン返済で日々が過ぎ去り、疲れ果てて死んでいくのでしょうか。

ほとんどの人が、「現実とはそんなもんだ。」と諦めながら、せめてもの週末に、趣味や旅行、レジャーを楽しんで、一瞬の満足を得て、まあこの人生、悪くも無かった、と振り返りながら死んで行くのでしょうか。

そうなんだと思います。

そうなんだと思いますが、果たしてそれで良いのかな?と、ふと思う瞬間は無いのかな。おそらく、あると思うんです。

あるんだけど、すぐに現実の生活がやって来て、忘れてしまうか、「だからってどうしたらいいの?何をすれば、どこへ行けばいいの?」となって、結局はそれも分らず、今までと何も変わらない日常がまた始まるんだと思う。

 

残念です。

 

このブログで、私は私の個人的なプライベートなことについては一切書いて来なかったのだけれども、初めてこのようなブログを書く次第です。

私は音楽をやっているのだけれども、何故か音楽仲間とトラブルを起こして仲間を無くすことが多い。

仲間を失うと、当然、出来なくなることも多くなり、活動範囲が狭まる。

これを問題だと考えれば、自分のどこが悪いのだろうか?と反省しなければいけなくなる。だが、それは本当に悪いことなのだろうか?

ところで、自分は、まだ残りの人生もあるこの人生で、一体何をやりたいのだろうと改めて思い直す。

少なくともそれは音楽ではない。大好きではあるけれども、音楽ではない。音楽で自分の人生を満たして、それで満足に死んで行けるか?と問えば、いや、改めて問うまでも無く、それは否である。それは、趣味ではあるが、趣味でしかない。趣味は飽くまで人生における余興であって、それが人生の、生きる目的にはなり得ない。

では、私は本当は何がしたいのだろう?と問うてみる。

すると、こんな答えらしきものが出て来る。

「空を飛びたい。」

何と言う破天荒な、子供みたいな願望。

しかしそれは、文字通りのそれとは少し違う。ただ空を飛びたいというのであれば、スカイダイビングでもやれば良い。でも、それではない。

だが、文字通り、空を飛ぶと言うのであれば、あとは、幽体離脱でもして、魂となって空を飛ぶしか無い。

それは、言い換えれば、肉体の束縛から解放されて、自由になって、空を飛びたいということなんだと思う。

では、そのためにはどうすれば良いか。

それには、瞑想以外に無いと思う。(不慮の事故による臨死体験などを別にすれば。)

だから、趣味の音楽で、人とトラブルを起こすのは、何か自分に問題があるのではなくて、本当の自分の、魂からの願いに向けて進みなさい、という天の計らいだと考えれば、それはそれで納得が行く。

問題は何か、という問いは、欲しいものや叶えたいことがこの先にあり、しかし、それを阻んでいるものがあるとすればそれは何か?と問う、それが「問題」ということではないだろうか。

つまり、問題というのは、視点が変れば、それは問題ではなくなる、ということ。

例えば、友達なんか必要無い、という人には、人間関係は問題にならないし、結婚したいという願望が無ければ、結婚していないことは何ら問題ではあり得ない、ということ。

余談ですが、私は結婚願望が無いので、未婚であることは何ら問題ではないですが、よくこう言う人がいますね、

「あの人、あの歳で結婚してないらしいよ。きっと何か性格に問題があるのよ。」とか。

そう言う人って、こういうことを言うと、

「それって負け惜しみに決まってるよ、絶対。(笑)」とか。

まあ、お好きにどうぞ、という話。(笑)

大幅に話が逸れた。(笑)
 

宇宙に果てはあるのか?という問いがある。

果たして果てはあるのか、無いのか。

しかしその前に、答えはそのどちらかなのだろうか?

「いやいや、あるか無いか、そのどちらかでしょう。それ以外に何があるの?」と言う人がいるかも知れない。いや、それがむしろ普通の反応じゃないかと思います。

でも、あるんです。それは、「どちらでも無い。決まってない。」という答えです。

何を言っているか分らないと思うでしょうね。


だが、「宇宙に果てはあるのか?」と問う前に、その宇宙は何なのか?と問う必要がある。
宇宙が何なのかが分らずに、それに果てがあるのか?無いのかとは問えない。

宇宙は、世界は確固たる現実で、確かなものであるとする、唯物論的な世界観、宇宙観、そして、それを土台にした近代・現代科学的な世界観からすれば、確かにその問いは、「あるか無いか」のどちらがでしか無いだろう。

だが、世界はマーヤーである、つまり、世界は、夜見る夢のようなもの、幻のような実体の無いものであるという東洋的な世界観で世界を見たとき、その答えは、必ずしも、いやむしろ絶対に、答えはそのような二者選択にはならない。

例えば、私が、夜、夢を見ているとしよう。
そして誰かに問うてみる。

「ねえ、この宇宙に果てはあるんだろうかね、それとも無いんだろうかね。」と。

その答えは、「どちらでも無い。決まってない。」」

これが正しい答えになるのは分りますね?

夢の世界では、今、目の前にある世界だけが実在であり、全てなのです。

例えば、自分の家に居るときは、自分から壁までが世界の全て。壁の外には何も存在しない。
だが、玄関のドアを開ければ、そこに世界が広がる。
あたかもそれは、ドアを開ける前からあったかのように思えるが、本当は、ドアを開けたその時だけ、外の世界はあるのだ。

言い方を変えてもいい。ドアを開けた時だけ世界があれば、それでいいのだ。

(アメリカのオムニバス・ドラマ「世にも奇妙なアメイジング・ストーリー」だったかな、その中にそういう短編がありました。世界を造る作業員がいて、人が来ると、慌ててその場所だけを造るという。)

例えば、街中の人が全て眠っているとき、街が存在する必要はあるだろうか?それは無くてもいい。

もし自分が神様だとしましょう。だとしたら、誰も見ていない世界を創造し続ける必要はありますか?それは創造の無駄ですね。誰かが見ているときだけ、世界は在ればいいのです。

夢も同じです。

したがって、夢の中の私は、超光速の乗り物に乗って、宇宙の果てまで行った時に、果ては存在するのであって(もしそれがあるという夢ならば)、または永遠に果てには辿り着けないのであって、行ってみて初めて、それがそこで決まるのです。何故なら、夢の世界の中で、世界は私が創造(想像)しているからです。

まあでも、ほとんどの人は、こう言うでしょうね。

「そんなこと、本気で考えてないですよね?」

と。

瞑想の合宿に参加したという知り合いが、無思考を体験したと言うので聞いてみると、「なーんにも起きないのでつまんないです。」と言うので、「それはあなたの希求する宇宙の消滅した世界ですよ。」と言ったら、「そうです!」と言う。

「なーんにも起きないと認識している純粋意識もそこには存在してないと思うので、純粋意識はそこでは長い長い眠りに入っているんじゃないですかね。では、その眠り姫を目覚めさせる王子は誰なのか?」と返しました。

ところで、宇宙が存在しないという世界を想像することは可能か。

簡単ですね、何も無い、したがって何も起こらない世界を想像すれば良い。

しかし、そこには、そのように想像する私の意識がまだあります。

それすらも存在しないと想像することは可能ですが、そう想像する意識がまたそこにはあります。

このようにして、宇宙、または存在は、それを想像、思考する意識としての私(意識)と切り離すことは出来ず、主客は、コインの表裏のように、どちらか片側だけが存在することはあり得ない、あるいは考えられないのですね。(ボルヘスが、片側しか存在しないコインをテーマに短編を書きましたが。)

これは、現代物理学が、素粒子のふるまいが、それを観測する観測者の意識と無関係ではなく、意識と存在はひとつに結び付き、別個のものではないと分り始めたそのことと同じです。

これは、哲学的には、「無は思考し得るか?」という問いとなるのですが、無は、このようにして、思考することが出来ません。

そして、どういう訳か、存在は既に存在してしまっている。
どのようにしてそれが始まったのかは分らないが、既に現前している。
あるいは、永劫の昔から存在は存在し、初めなどというものは無いのか。

だって、初めを設定してしまえば、そこには、「その前」が存在しなければならないではないか、というわけで、その前とは何かと言うと、それは「無」ということなのですが、無から有は生まれ得ないというのはしごく当たり前な話で、だから無なのだという話。

存在は永遠に存在であり続け、無は永遠に無であり続けるのか。
両者は互いに交流することなく、断絶の中にあるのか。

そんな言い方は詩の世界の話であって、言葉のお遊び。全然論理的ではない。

だがそれにしても、存在が存在するというこの不思議。こんな不思議なことは無い。

哲学者の池田晶子は、この、"存在が存在することの不思議"に比べたら、超常現象や超能力など、全く取るに足らない、というようなことを言っていたが、全くその通りで、この世の七不思議も、全て、存在が存在するというこの不思議の上に生じている一輪の花でしか無い。

存在は存在するが、無は存在しない。

これもまた変な言い方で、無は存在しないから無であり、存在しないことを「無」と言うのだから、存在しなくて当たり前という妙。

あるいは謙虚に、無は存在するかも知れないが、それを思考することは出来ない、と言えば良いか。

それを埴谷雄高は、「無は思考することは出来ないけれども、存在するんですよ。」と言い、池田晶子は、「無は存在しないから無なんですよ。(笑)」と笑い、埴谷氏は「ここが私とあなたでいつも意見が分かれるところだ。」と苦笑した。

だから彼は、「論理と詩の婚姻」と言った。
論理だけでは真理に到達し得ない。
だから、そこに詩を介在させる。
論理を詩と結婚させるのだ。

私は、埴谷氏に軍配を上げ、池田氏を、まだ若いと見たが、池田氏は飽くまで論理、あるいは思考至上主義者であったので、思考の、あるいは哲学の限界地点を我々に見せてくれたという意味で意味があったと私は思う。

論理と詩は、言い換えれば、左脳と右脳とも言い換えられる。

池田氏の場合、極左主義的に左脳の人であったが(ここはシャレではない)、同時にまた右脳=直感の人でもあったので、その辺のハランスは興味深く、分析してみたい気もする。

無を知りたい。無をこそ知りたい。
どうか神様、私は無を知りたい。

だが、神は無を知っているのだろうか?
それが問題だ。


●参考文献「オン!埴谷雄高との形而上対話 池田晶子著 (講談社)」















 

長野に引っ越して来てからというもの、自然との触れ合いが当たり前のように多くなります。

今日は、以前一回行って気に行った場所に再度行ったのですが、そこは散策道を10分も登れば上がれる所なのですが、そこに気に入った樹が一本あり、その樹に背を付けて、樹と一体になる瞑想をする。

樹の気持ちになってみると、樹は誕生してから死ぬその日まで、同じその場所にずっと生き、死んで行く。言うなれば、その場所に縛り付けられているわけで、それは不自由極まりない生なのではないかと思いました。

でもどうなのだろう。
植物以外の生物は、確かに行きたい所に行くことが出来るのだが、どうして移動する必要があるのだろう。

樹は、地から水を吸い上げ、葉を実らせ、光合成をして、二酸化炭素を吸い、酸素を吐き出す。それが至福であれば、どうして何処かよそへと移動する必要があるのだろう。それだけで十分、至福ではないか。

一方、私たち人間は、幸せを得るために何をしているだろう。

幸せはお金が好きに使えるだけ持っていることだと思い込み、そのためには良い会社に入ることで、そのためには良い大学に入ること、そのためには良い高校に進学すること、というわけで、私たちは、中学の頃から、既に、幸せになるための戦いの生が始まり、常に心休まらない。

また、快楽という幸せを得るためには、ディズニーランドや海や山や川に行かなけば、家に居ても全然、至福は得られない。

樹は、ただそこに立っているだけで至福である。

人間と樹とでは一体どっちが幸せなのだろう、と考えてみると、自由に動き回れる人間の方だと必ずしも幸せだとは言えないのではないか、むしろ、もしかしたら全く逆なのかもしれないではないか、と、そんなことを思った長野でのある一日であった。
 

クマによる被害、市街への出没が、日本全国でほぼ毎日のように報道されていますね。

その分布図を見ると、九州、沖縄と、千葉や一部の四国の県を除く、ほぼ全ての県で出没していますが、不思議ですね、まるで示し合わせたかのように一斉に出没しているのにも関わらず、このことについて、「不思議ですね。」と言っているコメンテーターをテレビで見たことがありません。

まるで全国のクマがテレパシーで連絡を取り合っていて、どこかに中央司令部があって、

「さあ!出動せよ!」

と言っているかのようです。

ですが、それは実際にそうなのです。でなければ、一体どうしてこのタイミングで全国規模で一斉に出没することが可能なのでしょうか。

それこそ、ユングの言う、集合無意識、つまり、個々の生命、この場合で言えば、個々のクマは、肉体的にはバラバラに見えるが、無意識の領域ではひとつに繋がっている、ということ、今回のこのクマの現象は、このことの証明です。

「青い鳥」の作者、メーテルリンクの「蜜蜂の生活」については以前、当ブログでも書きましたが、彼は蜜蜂の詳細な調査、研究によって、そのことを明確に描いています。

蜜蜂の統率の取れた動きは、ひとつの大きな生命が統率し、個々各々の蜜蜂はそれに従って働いている、そのように考えなければ到底理解不可能であるほど、見事なひとつの働きをしていることがよく分ります。クマも同様で、クマにはクマの、個々の個別性を超えた、大きなひとつの生命によって生き、動いているのです。

こちらのブログでは主に哲学とスピリチュアルのことを書いているので、音楽のことは書かないのだけれど、「宇宙」のワードが出て来たので、こちらにも書いてみる。

 

こないだの関ジャム改め、EIGHT JAMで、まもなく新作が出るユーミンが出演するというので観た。

実はユーミン・ファンを自称してはいるものの、29作目の「スユワの波」(1997年発売)を最後にユーミンは不発続き…、ミュージシャンとして、コンポーザーとしてのユーミンはもう死んだかと思っていたが、それでもアルバム中に1曲は良い曲があったので聴き続けたけれども、それすらも無くなって来た、それでもファンのしがない惰性で聴いて来たけれども、とうとう前作の2020年発売の「深海の街」(39作目)は今に至るまでとうとう聴いていない…。

そして、今回の「Wormhole」。そして、名義は、何と、「荒井由実」。

アルバム「Voyager」しかり、「宇宙図書館」しかり、また曲単位で言えば、「朝陽の中で微笑んで」、「青い船で」等、宇宙という舞台での人間存在とその儚(はかな)さ、私とあなたの出会いと別れ…、永遠と一瞬、と言ったスケールの大きな曲が多く、それは他のアーティストには見られないユーミンの特性のひとつであると思うのだけれど(またそこが私がユーミンを好きな理由のひとつなのだけれども)、今回は「ワームホール」という物理学の概念をアルバム・タイトルに持って来た。

簡単に言うと、ワームホールとは、宇宙空間のある二つの点と点を結むトンネルのようなもので、アインシュタインも、その仮説のひとつのモデルを考えた。直訳すれば、「虫の穴」、つまり、"宇宙の虫食い穴"ってことですね。

一説には、UFOは、このワームホールを通って、何億光年の距離を一瞬にして移動可能にするため、遠い銀河の彼方の星からでも一瞬で地球に来れるのだと言う話もあります。(でなければ、光を超える超高速だって隣の銀河から私たちの銀河まで数千年も数万年もかかるので、だからUFOなんて仮に居たとしても地球に来るはずが無い、来れない、と主張する科学者もいるわけ。)

で、この「ワームホール」、まだあんまり普及していない言葉なので、この言葉をアルバム・タイトルにすることに一瞬迷ったとユーミン本人は言っているが、私はもう十分に市民権を得ていると思っているのだけれど、どうですか?私がSF好き、物理学好きだからなのかな?

ちなみに、「リインカーネーション」のときも少し、どうかな?と思ったらしい。輪廻転生のことだけど、これはそんなに普及はしてなく、「輪廻転生」は「輪廻転生」ですね。
あと、「宇宙図書館」は、「アカシックレコード」で良かったのにね。こちらの方が普及している気がする。(でもないか?)

そして、ユーミンは、「今回は私の最高傑作」と豪語しているのだけれど、前々作の「宇宙図書館」でも同じようなことを言っていて、「このアルバムは多分、後世語り継がれるような傑作になると思う。」と言っていて、聴いてがっかりしたので、またか、と思ったけれども、この番組の中で、おそらく全曲に近い曲が、少しずつ断片的に流されたのだけれど、どれも、この10作くらいずっと無かった、まさにユーミン節が蘇っていて、どれもが良くて、これは今回は本当に奇跡的にユーミンが復活したかも知れないと期待しています。

なお、アルバム・ジャケットの「Y」は、もちろん、「Yuming」の「Y」を型取っているのだけれど、無限を表すメビウスの輪にもなっていますね。ユーミンは無限が好きだからな。そう言えば、「無限の中の一度」という曲もあったな。
ユーミンの世界観の基本的なところに、無限の中の一瞬を生きる私、人間存在も無限の中の一瞬…と言った視点がある。常にそれがバックボーンにあるんだと思う。












 

シンクロニシティは何故、また、どのようなメカニズムによって起こるのでしょうか。不思議ですね。

心理学者のユングが提唱した概念、とても偶然とは思えないような偶然の一致、「共時性」と訳されたりもしますが。

過去に一度、連日のようにシンクロニシティが頻繁に起こった時期があり、その頃は、私にとって大きな内面的転換期で、ちょっとした神秘体験や内面の開けがあった時期だったので、自分の内面に大きな変化が起きたときに起こるのがシンクロニシティだと思っていました。

ところで、今回は2回目の頻繁なシンクロニシティで、その回数も期間も半端でないのです。

今年の2月10日に、東京での会社を退職し、生まれ故郷の長野に帰ろうと決めたんですね。で、その翌日からそれは起こりました。記録をつけているのですが、2月は28日までなので、18日間で8回、その後は、3月に18回、あとは、4月に13回、5月は引っ越しでバタバタしていて、テレビやネットをあまり見れなかったので情報量が少ないために6回でしたが、あとは順次、毎月、15回、27回、27回、22回、27回という頻度。27回というとほぼ毎日ですね。これは驚異的です。

どのようなシンクロかと言うと、ほとんどが、PCやスマホで文字を打っていると、今打ったまさにその言葉を、テレビやラジオなどで誰かが言う、と言ったもので、ほとんど、宇宙におちょくられてるような気になりますよ。

例えば、「善は急げだね。」と書いた瞬間、テレビで「善は急げ。」とか、「ネパール」と打った瞬間「ネパール」、「退職金」と打った瞬間「退職金。」、「海鮮丼」と打った瞬間「海鮮丼」…と言った具合ですが、これは、まさにその文字を打った直後であって、決して、2秒後や5秒後ではなく、必ず全てその直後なんです。絶妙なタイミングなのです。

すごかったのが、台所で水を出し過ぎて水しぶきを浴びた瞬間、テレビで「水しぶきを浴びる。」(笑)
メールで「コツが掴めない。」と打った瞬間、テレビで「コツを掴んだ」。
メールで「そのエネルギーはどこから来るんだろうね。」と書いた直後に、テレビで「エネルギーは霊から。」。(これに到っては完全に問答になってる。)
ベランダに置いてある青いスーツケースを見た直後、テレビで同じような青いスーツケースが映ってる。

などなどです。

もうそろそろ終わるんじゃないかな、と思ってましたが、まだ続いてます。もう8ヶ月半ですか。さすがに死ぬまで続くことはないとは思いますが…。(それもあり得るのだろうか?)

最初は、何故これが起こっているのかということを考え、

「退職と帰郷を決断したことは正しいよ。」

という天からのメッセージだろうと理解したんですよね。でもそれは、ある時点で、「うん、もう分かったよ。これで正しかったんだね。」と天に伝え、それでそろそろ終わるだろうと思っていたのです。ところがこれが終わらない。

そして、このシンクロニシティは一体どういうメカニズムによって起こっているんだろう?と考えたのです。
それを起しているのは誰なのか?天なのか。天とは、宇宙あるいは神と言い換えても良いのですが。
テレビでそれを言う時間が既に決まっていて、それに合わせて私が文字を打つのか。
それとも、私がその文字を打った瞬間に、世界の方がそれに合わせて、それを言うのか。

しかしある時、「待てよ、これは自分が起こしているのではないか?」と思ったんですね。
その考えに到ると、「私は今、夢を見ているのではないか?」と思ったのです。
だとすれば、夢の中でなら、完璧なタイミングでシンクロニシティが続けて起こっても何の不思議も無い。何故なら、人生は私が創造しているのだから。どちらがどちらに合わせる、といったことも全く必要無い。私と世界は、別々の二つの側面なのではなく、世界は私の創造、私の内にある。

だとすると、もうそろそろ自分が夢を見ているということに気付きなさい、というメッセージなのだろうか?と思って来るのです。

人生はもしかしたら私の見る夢なのではないか?という疑問はこれまでに何度も思ったことなのですが、そのたびに、「いや、まさかね~。」と疑っていたのですよね。

もし私が今、夢を見ているのなら、かつて事故にでも合い、植物人間になって病院のベッドの上で長い長い長い夢を見続けているのか?

ドラえもんの主人公、のび太くんが、実は交通事故に合い、病院のベッドの上で「ドラえもん」という夢を見ているのだ、という都市伝説をかつて聞いたときのショックは半端では無かったですが、そのとき私は何故あんなにもショックを受けたのだろう。

(あ、今、テレビで、「夢を見る」と言いました。笑)

そろそろ夢から目覚める時なのでしょうか。
そして、夢から醒めたそこに、真実の世界が待っているのでしょうか。