アトレーユのブログ

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■哲学 思想 詩■

8/19にTV放映された「ほんまでっか!?TV 夏休みスペシャル」を観ていたのですが、その中で、タイム・トラベルについての実に興味深い発言がありましたので、それについて書きます。

まず、タイムマシン、タイム・トラベルは在り得るのかという話の中で、生物学評論家の池田清彦先生という方が、こんなことを言っていました。

「過去に行けないのは、過去は既に決まった事だからね、既に決まったところに行くと、決まりが無くなっちゃうでしょ?それはもう過去じゃなくなっちゃう。未来は決まってないから行ける。」

実に常識的な時間論の枠内だなとは思いましたが、示唆に富んで面白いご発言でした♪

確かにそれはそう。
人が生きているということは常に「今」に生きているのであって、過去や未来に生きることは出来ないばかりか、「ここに生きている」というそのことを「今」と言うであるから。
「生きていること」と「今」は、同異義語であって、切り離せないものです。
「人間」と「今」は切り離せない、と言っても良いです。


一方、タイム・トラベルとは、生きた人間が、未来または過去に行くことなのであるから、その人のいるそこは常に「今」であるわけです。

例えば、ある人が100年前の1926年にタイム・スリップしたとする。
すると、1926年が過去なのは、飽くまで、2026年の「今」を生きている人にとっての「過去」であって、1926年に行った人にとっては、そこが「今」です。

ですから、タイム・トラベルとは、そもそも、この「過去」を「今」にすることを「タイム・トラベル」と言っているのだから。

確かに過去は変られないけれども、今は変えられるのです。でしょう?

「過去」というのは、その時点から見て未来にいる人の視点からのものであり、その「過去」の中に生きている人にとっては「今」です。

過去に行くことが可能か?という問いは、技術的な問題の話であって、話はそれとは全然別の話です。

存在するのは常に「今」だけです。
過去は記憶や記録の中にあるだけであって、実在ではない。
「今」だけが実在です。

でも先生のこのご発言、

「既に決まったところに行くと、決まりが無くなっちゃうでしょ?それはもう過去じゃなくなっちゃう。」

そうなんですよ!
未来人が過去に行ったら、そこはもう過去じゃない。「今」です。
先生がおっしゃりたかったのとは意味が少し違いますが、図らずも真実を口にしているのです。

ですが、その後の結論、「だからタイム・トラベルで過去に行くことは出来ません。」、これについてはにわかには同意しかねるのであります。

何故なら、タイム・トラベルとは「今」から「今」に行くことだから。

楳図かずおの漫画作品はほとんど読んでますが、連作集「おろち」と、異色短編集「イアラ」が特に好きな作品です。

この2作品はほぼ同時期に描かれていて、絵も一番脂が乗っていて美しいのです。

この「イアラ」の中に、「きずな」という作品があります。

あらすじを簡単に説明すると、

まず二人の愛し合っている男女が現れ、そして女性がこう言います。

「愛って何かしら?わたしとてもこわいの…」
「愛って形のないものでしょう…」
「一生愛されるという確証は何も無いのよ。」
「だから恐い!」

さて、ある日の夜、二人は街で待ち合わせをします。
そこへ車が突っ込んで来て、二人とも轢かれ,気を失います。

やがて男は目を覚ましますが、女の方は意識が戻りません。
その後、女はずっと昏睡状態のままで、男はそんな彼女を何年も面倒を見、浮気をもしません。

場面変わり、今度は男の方が布団に横たわっています。
女はずっと何年も昏睡状態の彼を面倒見、叔母さんのお見合いも断ります。

最初にこれを読んだとき、私はショックでした。
一体現実はどうなっているのだろう?と頭が混乱したのです。

しかし今ならもう少し混乱せずに考えられます。
むしろ、何故そんなに混乱したのだろう?と思うほどです。

まず一つ目の解釈は、男が目覚めている方が現実、あるいは、女が目覚めている方が現実、そのどちらかであり、その相手の方が昏睡状態である。

二つ目は、どちらも昏睡状態であり、夢を見ていて、自分だけが目覚めたという夢を見ている。

まあこれのヴァリエーションとして、どちらも死んでしまっていて、死後の世界で、まだ生きているという夢を見ている、という解釈も可能ですね。

これを少し遠くから眺めてみると、実は、これは漫画の世界ですから、どれも虚構、真実は、楳図かずおが見ている夢である、と言えます。想像というのは昼間見る白昼夢のようなものですからね。

しかし私たちは、漫画や小説、映画やアニメの世界では、それを現実のことと前提して、その世界を楽しみましょう、という暗黙の大前提があるわけですよね。

ですから、これは作者の見ている夢だ、などと言うのは本当はナンセンスなのですが。

ですが、こうも考えられるのです。

私は今、夢を見ていて、楳図かずおも、その作品も、全てが私の夢の中に登場している虚構に過ぎないかも知れない、と。

ところが、では、今、私のこの記事を読んでいる読者にとってどうだろうか?
もしかしたら、私も、この記事も、あなたの見ている夢の中なのかも知れないではないですか。

もちろん私はそれを否定します。

「いえいえ、私はあなたの存在や思考とは全く関係無く、ここに実在していますよ!」

そう主張しますよ、もちろん。


でも、それだって、あなたにとっては、夢の中の登場人物のセリフに過ぎないかも知れないではないですか。私のその言葉には何も説得力も無いじゃないですか。

という話。

どうですか?





夢…、夜見る夢の方の夢ですが、朝起きたときに、「ああ何かすごく印象的な夢を見た…。」と感じることはしばしばですね。その夢を何とか思い出したいけど、なかなか思い出すことが出来ないのは歯がゆいですね。

しかし、多くの夢は思い出すことが出来ず、忙しい日常の始まりである朝の身支度の中で、ほとんどが忘れられて行きます。

だとすると、それらの夢を見ることに一体どんな意味があるのだろう?とは感じませんか?

もちろん、これはよくある夢の存在理由の説明ですが、現実世界で満たされない欲求や願望を、夢の中で見ることでそれらを満たすのだ、という説明は確かに事実であろうと思います。

しかし、それだけでは説明のつかない荒唐無稽な夢や不思議な夢の方が圧倒的に多くは無いですか?
大好きな芸能人に会ったり、空を飛んだりする夢ばかりではないはずです。

だとすると、夢を見ることは、表面意識にとっては意味の無いものなのです。

だとすると、夢は、表面意識、言い方を変えれば、「個」を超えた何かのためにも存在していると言えるのではないでしょうか?

それは、個ではない普遍としての人類とか、あるいは、それさえも超えた宇宙的な規模の何かのための目的として見ていると言えるのではないでしょうか。

そうだとすれば、人が夢を見るというこのことをもって、人は個であるだけでなく、個を超えた存在なのだと言えると思うのです。

もしそうであるなら、私たちは、自分の欲望や願望の従属、実現のためだけに生きているわけでは無いということなのです。

だからこそ、個の意識である表面意識にとっては、障害と見えたり、不運と見たり、邪魔と見えたりする事情も起こるのだと思うのです。それらの事も、大きな視点では意味が合って起こっているということです。

以上が、夢を分析して分かった事です。
 

哲学者の中には、我々人間は、感性の世界を離れず、感性と、理性によって思考し得る限りの世界に踏み止まるべきであり、それを超えて語るのは、神秘主義、あるいは、悪しき意味での形而上学であり、その誘惑を断ち切らなければならない、とする立場の人たちがいる。

哲学的には唯物論がこの立場、また、科学もこの立場が前提である。

感性の世界とは、感覚(五感)によって知覚出来る世界ということだ。
感覚(五感)によって認識出来ない領域は排除すべきだ、というのである。

このような見解に対し、何を言えば良いだろう。

確かにこう言った姿勢は素晴らしいものだと思う。真理を求める態度として美しい態度だと思う。真摯な態度だと思う。

しかし。

例えば、プラトンも超越的なイデアの世界に言及し、ヘーゲルは、やはりこの現象界を超えた絶対精神を説いた。
どちらも、感性の彼岸の世界についての言及である。

哲学には、2つの方法論がある。
帰納法と演繹法。

帰納法は、現前の事実から出発し、分析と抽象思考を経て、普遍的な結論を導き出す方法。

演繹法は、まず先に普遍的な命題から出発し、現前の現象を説明する方法である。

感性の世界の内に留まっていては、その彼岸へは到れない。
では、私たちは、彼岸の世界については妄想するな、想像するな、言及するな、と言うのだろうか。

感性の世界の内部で、その彼岸について思考してみても、それは不可能である。
ならば、それらについての認識は不可能と捨て去らなければならないのであろうか?

だとすれば、思考としての哲学は、真理へと到れない。

もちろん、それが哲学の領分であり、そこから外は我々の領分ではないと言うならば何の問題も無いのだが。
そこから先は宗教やオカルト、神秘主義にお任せします、と言うのであれば。


 

漫画家の楳図かずおさんが、「恐怖への招待」というエッセイ本を出していて、その中で興味深いことを言っています。

よく漫画でタイムマシンに乗って過去に遡るのがあるけど、その途中でパッと世の中を見ると、世界が止まって見えるというのがあるけど、あれには僕は笑ってしまう。止まってしまうということ自体、時間がそこにあるから止まって見えるんじゃないか。
僕はもし時間を止めたら、物体は全く見えなくなるんじゃないかと思う。
連続しているからこそ物体がそこに生じる。

と言っているんです。

さすが楳図かずおさん、哲学的センスもありますね。

これはどういうことかと考えてみると、時間の流れがあるからこそ、その上にこの物的世界が存在し得ている、という前提があります。

まあ、「見えなくなる」と言っているだけで、「無くなる」とは言ってないんですけどね。

それについて言えば、そこにもし何かがあっても、見えないのであれば、それが存在するとは何を意味しますか?とも言えるんですけどね。
観念論者に言わせれば、見えるということが存在するということであって、見えないということは存在しないことに等しい、と言うかも知れないですね。

もし時間があって物が存在するのであれば、時間と物は切り離せない、ということになります。

「時間」と「物」というように、切り離しては考えられないということ。

だから、時間が止まれば物質も消える、と。

これは、逆に、もし物質という物質が無くなったら、それでも時間は存在する?というのも同じです。

そもそも時間とは、物事が変化している過程があるから時間を認識出来るのであって、何事も変化しなければ、時間もまた無いじゃないか、となる。

ただ、これもまた同じで、それは認識出来ないだけであって、時間そのものは存在するかも知れないじゃないか、と言えるかも知れないですが、何も存在しない世界に(それはもはや「世界」ですらありませんが)、時間だけが経過しているというのは一体それは何ですか?とも言えます。

まあ、よくある世界創造論で、この世界が誕生する以前の叙述で、「そこにはまだ何者も存在しなかった。ただ時間だけが過ぎ去っていた。そこに突如、最初の存在が現れた。」なんて言う叙述がありますけどね。もっともそこには、神または創造主は存在しているんですけどね。

ブラヴァツキー夫人の「シークレット・ドクトリン」なんかは確かそんな感じだったかと。まあ彼女の場合は、神とは言わずに、「ブラフマン」と言ったかも知れませんが、まあ同じことですね。
そういう存在があってのことであれば、何者も無いところに時間だけが経過していた、ということも無いとは言えないかも知れない。
そのように想像している神または創造主またはブラフマンが存在しているということです。
そういう絶対者の存在の意識の中で時間だけが経過しているということです。

そうなると今度は、「時間」と「無」について考察しなければならない。









 

昨夜は面白い夢を見ました。

日本中の経済が、ある悪の組織にジャックされ、経済麻痺してしまっているという夢なのですが、私は会社に電話をかけていて、隣には遠い名古屋に住んでいる知人がいます。

もしかして彼も同じ夢を見たのではないかとメールして聞いてみたのですが、残念ながら見ていませんでした。

もしそうだったら面白いですね。

世界中の人がもし同じ夢を見ていたら?と考えたことがあります。(それについて以前書いたかな?忘れましたが。)

そういう面白いことってなかなか無いですね、この世界。
「終わり無き日常」と言ったのは誰だったか…。

退屈極まりない日常が永遠に今後も続くと想像すると身震いしますね。

だから映画や漫画があるわけです。

日常が面白くて仕方無かったら、わざわざ映画や漫画を見なくてもいいわけです。

ところで、超売れっ子の有名人、芸能人やスポーツ選手、憶万長者、なんらかの世界的なトップにいる人たちは、決してそうではないでしょう。

夢を生きているでしょう。

夢見るような人生を生きたいとは、誰しも思うことではないでしょうか?

それとも、そんなのは本当に一握りの恵まれた人たちの話で、我々凡人は、つまらない仕事と安い給料と家のローン返済で日々が過ぎ去り、疲れ果てて死んでいくのでしょうか。

ほとんどの人が、「現実とはそんなもんだ。」と諦めながら、せめてもの週末に、趣味や旅行、レジャーを楽しんで、一瞬の満足を得て、まあこの人生、悪くも無かった、と振り返りながら死んで行くのでしょうか。

そうなんだと思います。

そうなんだと思いますが、果たしてそれで良いのかな?と、ふと思う瞬間は無いのかな。おそらく、あると思うんです。

あるんだけど、すぐに現実の生活がやって来て、忘れてしまうか、「だからってどうしたらいいの?何をすれば、どこへ行けばいいの?」となって、結局はそれも分らず、今までと何も変わらない日常がまた始まるんだと思う。

 

残念です。

 

このブログで、私は私の個人的なプライベートなことについては一切書いて来なかったのだけれども、初めてこのようなブログを書く次第です。

私は音楽をやっているのだけれども、何故か音楽仲間とトラブルを起こして仲間を無くすことが多い。

仲間を失うと、当然、出来なくなることも多くなり、活動範囲が狭まる。

これを問題だと考えれば、自分のどこが悪いのだろうか?と反省しなければいけなくなる。だが、それは本当に悪いことなのだろうか?

ところで、自分は、まだ残りの人生もあるこの人生で、一体何をやりたいのだろうと改めて思い直す。

少なくともそれは音楽ではない。大好きではあるけれども、音楽ではない。音楽で自分の人生を満たして、それで満足に死んで行けるか?と問えば、いや、改めて問うまでも無く、それは否である。それは、趣味ではあるが、趣味でしかない。趣味は飽くまで人生における余興であって、それが人生の、生きる目的にはなり得ない。

では、私は本当は何がしたいのだろう?と問うてみる。

すると、こんな答えらしきものが出て来る。

「空を飛びたい。」

何と言う破天荒な、子供みたいな願望。

しかしそれは、文字通りのそれとは少し違う。ただ空を飛びたいというのであれば、スカイダイビングでもやれば良い。でも、それではない。

だが、文字通り、空を飛ぶと言うのであれば、あとは、幽体離脱でもして、魂となって空を飛ぶしか無い。

それは、言い換えれば、肉体の束縛から解放されて、自由になって、空を飛びたいということなんだと思う。

では、そのためにはどうすれば良いか。

それには、瞑想以外に無いと思う。(不慮の事故による臨死体験などを別にすれば。)

だから、趣味の音楽で、人とトラブルを起こすのは、何か自分に問題があるのではなくて、本当の自分の、魂からの願いに向けて進みなさい、という天の計らいだと考えれば、それはそれで納得が行く。

問題は何か、という問いは、欲しいものや叶えたいことがこの先にあり、しかし、それを阻んでいるものがあるとすればそれは何か?と問う、それが「問題」ということではないだろうか。

つまり、問題というのは、視点が変れば、それは問題ではなくなる、ということ。

例えば、友達なんか必要無い、という人には、人間関係は問題にならないし、結婚したいという願望が無ければ、結婚していないことは何ら問題ではあり得ない、ということ。

余談ですが、私は結婚願望が無いので、未婚であることは何ら問題ではないですが、よくこう言う人がいますね、

「あの人、あの歳で結婚してないらしいよ。きっと何か性格に問題があるのよ。」とか。

そう言う人って、こういうことを言うと、

「それって負け惜しみに決まってるよ、絶対。(笑)」とか。

まあ、お好きにどうぞ、という話。(笑)

大幅に話が逸れた。(笑)
 

宇宙に果てはあるのか?という問いがある。

果たして果てはあるのか、無いのか。

しかしその前に、答えはそのどちらかなのだろうか?

「いやいや、あるか無いか、そのどちらかでしょう。それ以外に何があるの?」と言う人がいるかも知れない。いや、それがむしろ普通の反応じゃないかと思います。

でも、あるんです。それは、「どちらでも無い。決まってない。」という答えです。

何を言っているか分らないと思うでしょうね。


だが、「宇宙に果てはあるのか?」と問う前に、その宇宙は何なのか?と問う必要がある。
宇宙が何なのかが分らずに、それに果てがあるのか?無いのかとは問えない。

宇宙は、世界は確固たる現実で、確かなものであるとする、唯物論的な世界観、宇宙観、そして、それを土台にした近代・現代科学的な世界観からすれば、確かにその問いは、「あるか無いか」のどちらがでしか無いだろう。

だが、世界はマーヤーである、つまり、世界は、夜見る夢のようなもの、幻のような実体の無いものであるという東洋的な世界観で世界を見たとき、その答えは、必ずしも、いやむしろ絶対に、答えはそのような二者選択にはならない。

例えば、私が、夜、夢を見ているとしよう。
そして誰かに問うてみる。

「ねえ、この宇宙に果てはあるんだろうかね、それとも無いんだろうかね。」と。

その答えは、「どちらでも無い。決まってない。」」

これが正しい答えになるのは分りますね?

夢の世界では、今、目の前にある世界だけが実在であり、全てなのです。

例えば、自分の家に居るときは、自分から壁までが世界の全て。壁の外には何も存在しない。
だが、玄関のドアを開ければ、そこに世界が広がる。
あたかもそれは、ドアを開ける前からあったかのように思えるが、本当は、ドアを開けたその時だけ、外の世界はあるのだ。

言い方を変えてもいい。ドアを開けた時だけ世界があれば、それでいいのだ。

(アメリカのオムニバス・ドラマ「世にも奇妙なアメイジング・ストーリー」だったかな、その中にそういう短編がありました。世界を造る作業員がいて、人が来ると、慌ててその場所だけを造るという。)

例えば、街中の人が全て眠っているとき、街が存在する必要はあるだろうか?それは無くてもいい。

もし自分が神様だとしましょう。だとしたら、誰も見ていない世界を創造し続ける必要はありますか?それは創造の無駄ですね。誰かが見ているときだけ、世界は在ればいいのです。

夢も同じです。

したがって、夢の中の私は、超光速の乗り物に乗って、宇宙の果てまで行った時に、果ては存在するのであって(もしそれがあるという夢ならば)、または永遠に果てには辿り着けないのであって、行ってみて初めて、それがそこで決まるのです。何故なら、夢の世界の中で、世界は私が創造(想像)しているからです。

まあでも、ほとんどの人は、こう言うでしょうね。

「そんなこと、本気で考えてないですよね?」

と。

瞑想の合宿に参加したという知り合いが、無思考を体験したと言うので聞いてみると、「なーんにも起きないのでつまんないです。」と言うので、「それはあなたの希求する宇宙の消滅した世界ですよ。」と言ったら、「そうです!」と言う。

「なーんにも起きないと認識している純粋意識もそこには存在してないと思うので、純粋意識はそこでは長い長い眠りに入っているんじゃないですかね。では、その眠り姫を目覚めさせる王子は誰なのか?」と返しました。

ところで、宇宙が存在しないという世界を想像することは可能か。

簡単ですね、何も無い、したがって何も起こらない世界を想像すれば良い。

しかし、そこには、そのように想像する私の意識がまだあります。

それすらも存在しないと想像することは可能ですが、そう想像する意識がまたそこにはあります。

このようにして、宇宙、または存在は、それを想像、思考する意識としての私(意識)と切り離すことは出来ず、主客は、コインの表裏のように、どちらか片側だけが存在することはあり得ない、あるいは考えられないのですね。(ボルヘスが、片側しか存在しないコインをテーマに短編を書きましたが。)

これは、現代物理学が、素粒子のふるまいが、それを観測する観測者の意識と無関係ではなく、意識と存在はひとつに結び付き、別個のものではないと分り始めたそのことと同じです。

これは、哲学的には、「無は思考し得るか?」という問いとなるのですが、無は、このようにして、思考することが出来ません。

そして、どういう訳か、存在は既に存在してしまっている。
どのようにしてそれが始まったのかは分らないが、既に現前している。
あるいは、永劫の昔から存在は存在し、初めなどというものは無いのか。

だって、初めを設定してしまえば、そこには、「その前」が存在しなければならないではないか、というわけで、その前とは何かと言うと、それは「無」ということなのですが、無から有は生まれ得ないというのはしごく当たり前な話で、だから無なのだという話。

存在は永遠に存在であり続け、無は永遠に無であり続けるのか。
両者は互いに交流することなく、断絶の中にあるのか。

そんな言い方は詩の世界の話であって、言葉のお遊び。全然論理的ではない。

だがそれにしても、存在が存在するというこの不思議。こんな不思議なことは無い。

哲学者の池田晶子は、この、"存在が存在することの不思議"に比べたら、超常現象や超能力など、全く取るに足らない、というようなことを言っていたが、全くその通りで、この世の七不思議も、全て、存在が存在するというこの不思議の上に生じている一輪の花でしか無い。

存在は存在するが、無は存在しない。

これもまた変な言い方で、無は存在しないから無であり、存在しないことを「無」と言うのだから、存在しなくて当たり前という妙。

あるいは謙虚に、無は存在するかも知れないが、それを思考することは出来ない、と言えば良いか。

それを埴谷雄高は、「無は思考することは出来ないけれども、存在するんですよ。」と言い、池田晶子は、「無は存在しないから無なんですよ。(笑)」と笑い、埴谷氏は「ここが私とあなたでいつも意見が分かれるところだ。」と苦笑した。

だから彼は、「論理と詩の婚姻」と言った。
論理だけでは真理に到達し得ない。
だから、そこに詩を介在させる。
論理を詩と結婚させるのだ。

私は、埴谷氏に軍配を上げ、池田氏を、まだ若いと見たが、池田氏は飽くまで論理、あるいは思考至上主義者であったので、思考の、あるいは哲学の限界地点を我々に見せてくれたという意味で意味があったと私は思う。

論理と詩は、言い換えれば、左脳と右脳とも言い換えられる。

池田氏の場合、極左主義的に左脳の人であったが(ここはシャレではない)、同時にまた右脳=直感の人でもあったので、その辺のハランスは興味深く、分析してみたい気もする。

無を知りたい。無をこそ知りたい。
どうか神様、私は無を知りたい。

だが、神は無を知っているのだろうか?
それが問題だ。


●参考文献「オン!埴谷雄高との形而上対話 池田晶子著 (講談社)」















 

長野に引っ越して来てからというもの、自然との触れ合いが当たり前のように多くなります。

今日は、以前一回行って気に行った場所に再度行ったのですが、そこは散策道を10分も登れば上がれる所なのですが、そこに気に入った樹が一本あり、その樹に背を付けて、樹と一体になる瞑想をする。

樹の気持ちになってみると、樹は誕生してから死ぬその日まで、同じその場所にずっと生き、死んで行く。言うなれば、その場所に縛り付けられているわけで、それは不自由極まりない生なのではないかと思いました。

でもどうなのだろう。
植物以外の生物は、確かに行きたい所に行くことが出来るのだが、どうして移動する必要があるのだろう。

樹は、地から水を吸い上げ、葉を実らせ、光合成をして、二酸化炭素を吸い、酸素を吐き出す。それが至福であれば、どうして何処かよそへと移動する必要があるのだろう。それだけで十分、至福ではないか。

一方、私たち人間は、幸せを得るために何をしているだろう。

幸せはお金が好きに使えるだけ持っていることだと思い込み、そのためには良い会社に入ることで、そのためには良い大学に入ること、そのためには良い高校に進学すること、というわけで、私たちは、中学の頃から、既に、幸せになるための戦いの生が始まり、常に心休まらない。

また、快楽という幸せを得るためには、ディズニーランドや海や山や川に行かなけば、家に居ても全然、至福は得られない。

樹は、ただそこに立っているだけで至福である。

人間と樹とでは一体どっちが幸せなのだろう、と考えてみると、自由に動き回れる人間の方だと必ずしも幸せだとは言えないのではないか、むしろ、もしかしたら全く逆なのかもしれないではないか、と、そんなことを思った長野でのある一日であった。