先日の、私と友人Kさんとのやり取りから。
私「Kさん、私が心臓手術してから今日で丸1年です!早いですね…と言いたいところですが、ん?そうかな?という思いも出て来ます。
なんか最近、時間の感覚が曖昧になって来た感じがあるような、無いような、なのですが、これが私個人のものなのか、集合意識レベルで起こっているのかどうか。
Kさんはどうですか?
時間の経過がよく分からなくなって来ているような感じ?」
K「おっと~、手術から1年が経ちますか~早いですね~
元気そうで何よりです!!!
私はそういうのはないですね~
アトレーユさんの言われる時間は、内側の時間でしょうかね。
以前瞑想しながら、内側の時間は止まっているけど外側の時間は動いているな~って感じた事があって、アトレーユさんの感じるのは内側の時間の事かな~って思ったりもしました。」
私「内的時間と外的時間と分けられるのか、考え行くと分からなくなりますが、確かに、自分だけのものなのか?集合意識レベルなのか?という問いが、もうそのような分離を既にしてますね。(笑)
あ、私の宇宙があって、その宇宙の中に、私の内と外があるので、内的と言えば内的、外的と言えば外的なのかも?
つまり、私の宇宙の中では、時間経過が曖昧になって来ている、と。客観的に。…という主観において。(笑)」
…といった具合ですが、いつもこんな会話をしているのですか?と聞かれると、そうですね、いつもこんな会話です。(笑)特にこの友人とは。
ここで私が言っていることは、自分自身、上手く表現し切れていなくて、それは私自身が、それを明確に理解し切れていないことから来ているのですが、ここは非常に重要な部分に触れているというのは分かります。
要するに、普段、私たちが当たり前のように口にしている「客観的」とは何なのか、ということですよね。
個人個人が感じている時間の外に、客観的な時間というものがあたかも流れているかのようですが、それは本当にあるのでしょうか?
グリニッジ天文台で正確な時間を刻んでくれているから、それが客観的な時間であり、客観的な時間が存在するからこそ、我々一人一人が主観的な時間を感じれるんでしょう?…というわけですが。
でも、それは、誰が感じるのでもない時間だから、それは早くも感じないし、遅くも感じない、誰も感じることの出来ない時間…。
時間とは感じるものであり、だから時間なのではないか?
誰も感じない時間って何???