フーテンとデクノボウ
かつて永島慎ニの『フーテン』が私のバイブルでした。今から思えば「太宰治のコピー」という気もしないではありませんが、幼い私(雑誌「COM」の創刊号を手にしたのは、確か小学四年生頃だったと思います)はそこに描かれる青春群像に心酔したのです。勿論、私は「遅れてきた青年」に更に遅れたガキにすぎませんでしたが、昭和40年代の新宿は私の想像上の「魂の原郷」になりました。それは安保反対闘争に見られるような社会変革の嵐が過ぎ去った後の、ガランとした光景です。私のニヒリズムの根源は、そうしたフーテンたちの「祭の後のさみしさ」にあると思います。
では、フーテンたちのニヒリズムは如何にして克服されるのでしょうか。私はその可能性を、ずっと宮澤賢治のデクノボウに求めてきました。ここで改めて、賢治の「雨ニモマケズ」を読んでみたいと思います。
雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラツテヰル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジヨウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ陰ノ
小サナ萱ブキノ小屋ニヰテ
東ニ病気ノコドモアレバ
行ツテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ツテソノ稲ノ束ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ツテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクワヤソシヨウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒデリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボウトヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハ
ナリタイ
私も「サウイフモノニナリタイ」と思います。しかし、フーテンからデクノボウの間には質的な断絶があります。キルケゴール的に言えば、そこには実存的飛躍が必要になるでしょう。私はその飛躍を前にして、足踏みばかり続けている愚か者にすぎません。
アルカディア論に向けて
マルクスのことを初めて知った時、愚かなる私はその主著が『資本論』であることから、マルクス主義とは資本主義のことだと思いました。言うまでもなく、『資本論』は資本主義を克服するために書かれたものです。同様に、と言ってはおこがましいですが、アルカディアを克服するためには精緻な「アルカディア論」が必要になると思います。
尤も、アルカディアが克服の対象になる点については疑問の余地があるでしょう。克服の対象は競争原理に基く近代社会であって、アルカディアはむしろ「近代社会が克服された状態」だと見做すべきかもしれません。確かに、アルカディアの理想には「近代の超克」に値する魅力があります。しかし、問題はその次の一歩です。すなわち、「近代の超克」後に、アルカディアを克服の対象とせねばならぬ契機が必ず訪れると思うのです。その点を含めての「アルカディア論」を思耕しているところです。
ところで、俗流マルクス主義によれば、上部構造は下部構造によって規定されています。従って、下部構造さえ変革されれば、上部構造も自ずと変革されることになります。勿論、私はこのような二層構造を信じておりません。すなわち、下部構造が資本主義(競争原理)から共産主義(共生原理)へと変革されることで、近代市民社会からアルカディアへの移行が実現するとは考えられないのです。そこには実に複雑な様相が渦巻いています。しかし、「ユートピア論」に正しく接続する「アルカディア論」はその渦巻きからのみ生まれてくるでしょう。今の私は単に眩暈がしているだけですが…。
村の本質
先日の木曜会に、「新しき村」を卒論のテーマにしたいという女子大生が来られました。その際、村の長老のSさん(現在は村外会員)が言われたことが印象に残っています。Sさんは様々なアドヴァイスをされた後、「今は村に関する資料も揃っているが、新しき村は研究するものではない。実践するものだ。最終的には、村で生活してみなければ、村の本質はわからないだろう」と言われたのです。私もそう思います。と言うより、そう思ったからこそ、今も村で生活しているわけです。
しかし、曲がりなりにも三年間村で生活してきた私に何がわかったのでしょう。もし「古きよき村」としてのアルカディアを維持することだけが村の本質であるなら、私の求めてきた実践は全く見当外れだったと言わざるを得ません。しかし、たといそうだったとしても、将来にわたってアルカディアとしての村を維持し続けることは不可能だと思います。勿論、時代の流れを超越して村が存続することには、それなりの意義があるでしょう。しかし、その意義は私の究極的な関心事ではありません。
何れにせよ、私はあくまでも「新しき村」の実現をこそ求めてきたのであって、 「古きよき村」の再発見・保存には余り興味がありません。従って、私の実践も空回りを余儀なくされているわけですが、せめて「新しき村」の真の新しさ、そしてその必要性についてだけは、思耕を尽くしておきたいと思っています。
善人との戦い
私は、自ら非力であるにも拘らず、偉そうなことばかり述べていることを自覚しています。また、「ユートピア(祝祭共働態)としての新しき村」こそ「真の新しき村」だと確信しているものの、「アルカディアとしての新しき村」を求める人の方が多ければそれでいい、と言うよりも私の出る幕などないと思っています。実際、「ユートピアの実現」を今の村に求めることにおいて、私は非常な迷いの中にいます。その迷いについて述べるために、少し長いですが聖書の譬え話を引用します。
天の御国は、しもべたちを呼んで、自分の財産を預け、旅に出て行く人のようです。彼は、おのおのその能力に応じて、ひとりには五タラント、ひとりには二タラント、もうひとりには一タラントを渡し、それから旅に出かけた。五タラント預かった者は、すぐに行って、それで商売をして、さらに五タラントもうけた。同様に、二タラント預かった者も、さらに二タラントもうけた。ところが、一タラント預かった者は、出て行くと、地を掘って、その主人の金を隠した。
さて、よほどたってから、しもべたちの主人が帰って来て、彼らと清算をした。すると、五タラント預かった者が来て、もう五タラント差し出して言った。『ご主人さま。私に五タラント預けてくださいましたが、ご覧ください。私はさらに五タラントもうけました。』その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』二タラントの者も来て言った。『ご主人さま。私は二タラント預かりましたが、ご覧ください。さらに二タラントもうけました。』その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』ところが、一タラント預かっていた者も来て、言った。『ご主人さま。あなたは、蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方だとわかっていました。私はこわくなり、出て行って、あなたの一タラントを地の中に隠しておきました。さあどうぞ、これがあなたの物です。』ところが、主人は彼に答えて言った。『悪いなまけ者のしもべだ。私が蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めることを知っていたというのか。だったら、おまえはその私の金を、銀行に預けておくべきだった。そうすれば私は帰って来たときに、利息がついて返してもらえたのだ。だから、そのタラントを彼から取り上げて、それを十タラント持っている者にやりなさい。』だれでも持っている者は、与えられて豊かになり、持たない者は、持っているものまでも取り上げられるのです。(マタイ25:14~29)
この譬え話について、私の学生時代の友人が「一タラントを地の中に隠しておいた者が非難されることには納得がいかない」と言っていたことを思い出します。すなわち、「この譬え話では、預けられたものを殖やすことが美徳とされているが、それを愚直に守り通す生き方だっていいではないか」ということです。確かに「一タラントを地の中に隠しておいただけの者」は何も悪いことをしていません。しかし、マックス・ヴェーバー的に言えば、「預けられたものを殖やす」ということはプロテスタント倫理であり、それに基く資本主義の精神からすれば、一タラントを殖やさなかった者は「悪い」と言えるでしょう。
さて、この譬え話に基いて言えば、愚直に現状維持を守り通しているアルカディアの村人を批判する私は、徒に現状を打破して「発展」を求める資本主義者に等しき者だと言えるでしょう。その意味において、私はドストエフスキイの「おかしな男」――平和な村に「発展」の思想を持ち込み、延いてはその村に争いをもたらしてしまう男なのかもしれません。実際、アルカディアの村人は宮澤賢治の「デクノボオ」とかトルストイの「イワンの馬鹿」のような人間だと思います。従って、「ユートピアの実現」を目指す私の活動は、結果的にそうした善人に対する戦いにならざるを得ません。そこに私の迷いの根源があります。
アルカディアとしての新しき村
今私が生活している新しき村は「理想社会」の類型としてはアルカディアに属します。と言うのも、村は今年で創立87周年を迎えましたが、かくも長きに渡って存続し得たのは、偏に外部との交流に余り積極的ではなかったせいだと思われるからです。勿論、基本的に「来る者拒まず、去る者追わず」をモットーとする村は決して閉鎖的であったとは言えないでしょう。しかし乍ら、「新しきこと」に積極的に挑戦せず、主として自分達の「平穏な生活」の維持に忙殺されてきたという点では、これまでの村の在り方は内向的だったと思われます。
おそらく、この点に関しては異論があるでしょう。「鎖国の天下泰平で何が悪い!」という意見と同様、「実篤先生の教えに遵って、自分達が人間らしい生活を日々送ることに努めて何が悪いのか」と反論される人も少なくないと思います。私もそれが悪いとは言いません。むしろ、以前にも述べたように、今の村は全体として見れば「善人の村」であり、その意味では実に貴重な場所です。ただ、誤解を恐れずに敢えて言えば、「善人の村」だけでは「新しき村」にはならない、と私は考えます。この点について、少し視点を変えて述べてみます。
先日、或るテレビ番組で、長く引きこもり状態を続けている30代半ばの男性が被害妄想に陥り、「自分は何も悪いことをしていないのに、皆が非難の眼差しを向ける…」と言っている場面を見ました。私は、この男性が「自分は何も悪いことをしていない」と繰り返し主張しているのに考えさせられました。言うまでもなく、彼は自立できずに両親の世話になり続けているという点で「何も悪いことはしていない」とは言えないわけですが、それとは別に何かおかしいと感じたのです。それは例えば、ペーパードライバーが「無事故・無違反」を誇っているのと同じ「おかしさ」です。すなわち、何も悪いことができない状況に引きこもって、何も悪いことをしていないのを誇るのは全くの無意味だという「おかしさ」です。
さて、私が今の村に感じているのも、この「自分は何も悪いことをしていない」と繰り返す男性に対するものに似ています。確かに村人は誰も悪いことをしておらず、むしろ「人間らしい生活」を実践しているという意味で「良い事」をしていると言えるかもしれません。しかし、その「良い事」を村の外に(全世界に!)広げていくという活動が欠けているのです。それが私には残念でなりません。と言うのも、自分達が「人間らしい生活」を送るだけではなく、更に全世界の人間が「人間らしい生活」を送ることができるように骨折ることにまで至って、初めて「新しき村」と見做すことができるからです。これは決して私の独り善がりの見解ではなく、「財団法人 新しき村 寄付行為」に明記されていることです。
何れにせよ、今の新しき村は「アルカディアとしての村」ですが、私はそれをディコンストラクトして「ユートピアとしての村」を実現したいと思っています。それこそが「真の新しき村」だと確信しているからですが、アルカディアの村人がそれに不信感を抱くのは当然でしょう。次第に居場所がなくなっていく感じがします。
アルカディアの問題点
アルカディアはかつて実在しましたし、今も世界の各地に点在しています。それに対して、ユートピアは未だ存在していません。私にとっては「ユートピアの創造」こそ問題中の問題ですが、その前にアルカディアの問題点について考える必要があるでしょう。
現代人がアルカディアを「究極的な理想社会」と見做せない理由の一つは、その閉鎖性にあります。先日の木曜会でAさんが「人間にとって堪え難いのは貧しさそのものではなく、等しくないということだ」と発言されていましたが、確かにその通りでしょう。具体的に言えば、「終戦後の皆が等しく貧しかった時代には、貧しいことはそれほど苦痛ではなかったが、やがて社会が少しずつ豊かになり、隣の家はテレビを買ったが、自分の所は未だ買えない…というような事態になった時に、貧しさが苦痛になる」ということです。アルカディアについても同じことが言えるのではないでしょうか。すなわち、外部と隔絶された世界の片隅で皆が平等に暮らしている限りアルカディアは維持されますが、外部の物質的に豊かな社会との接触が始まると同時に、アルカディアはその崩壊の一歩を踏み出すのです。私は以前に、そうした事情をドストエフスキイの「おかしな男の夢」という作品に基いて述べたことがありますが、もはやアルカディアの理想は言わば「鎖国の天下泰平」にすぎないと思われます。
尤も、「鎖国の天下泰平で何が悪い!」という意見も当然あるでしょう。確かに、「鎖国であれ孤立主義であれ、平和が維持されるのなら、それでいい」というのも一つの立場ではあります。しかし、いくら鎖国の存続を願っても、黒船の到来は避け得ないのではないでしょうか。その意味において私は、現代においてアルカディアをそのまま維持することは不可能だ、と思うのです。
アルカディアと現代人
私の根本テーゼを確認しておきます。
根本テーゼ:かつてムラはアルカディアであった。しかし新しき村はもはやアルカディアではあり得ない。新しき村はユートピアとしてのみ実現する。
私は以前に、アルカディア(ムラ)からユートピア(新しき村)に至る過程を「円環―直線―螺旋」の弁証法として述べました。(http://www5a.biglobe.ne.jp/~atarasi/muraron/ronkou11.htm ) 今、それを繰り返すことはしませんが、重要なことは螺旋は円環と直線の対立の止揚であり、ユートピアはアルカディアの「前向きの反復」だという点です。
また、「アルカディアが自然楽園であるのに対して、ユートピアは人工楽園だ」という私の主張から、ユートピアという言葉で手塚治虫が描くような未来都市を連想されるかもしれませんが、私のユートピアのヴィジョンはむしろ田園に近いものです。ただし、その田園は「人間的に再構成された自然」であり、言わばムラと近代都市の逆説的統合に他なりません。
何れにせよ、少なからぬ人たちが農的暮らしを見直して帰農を志している現在、 アルカディアが現代人にとって一つの希望となっていることは間違いないと思います。問題は、その「希望の原理」です。
アルカディアの没落(3)
振り返ってみれば、学生時代から「ニヒリズムの克服」をテーマにしてきた私にとって、共時的アルカディアは一つの壁のようなものでした。と言うのも、私はエリアーデの「古代人―近代人」という対立図式に基いて思耕してきたからです。周知のように、エリアーデによれば、現代人のニヒリズムは近代の歴史主義に発するものであり、それは古代人の宇宙論を反復することによって克服されます。私のこれまでの思耕は、こうしたエリアーデのテーゼに対する挑戦だったと言えるでしょう。
確かに古代人の宇宙論には「生の充実」があります。そして現在、それは共時的アルカディアに見出すことができます。しかし、そこで生活している未開人は、その精神性において、現代人と言うよりも古代人と言うべきでしょう。勿論、これは差別ではありません。あくまでも未開人の実存に現代人が失った「野生の思考」が未だ息づいているという意味で言うのです。私は共時的アルカディアのリアリティを決して否定するものではありませんが、現代人がそこで生活するためにはその現代性を脱ぎ捨てる必要があると思っています。言い換えれば、現代人が現代人のままアルカディアで生活することは不可能だということです。「現代人にとってアルカディアの没落は不可避だ」というのは、そういう意味です。
アルカディアの没落(2)
現代人における「アルカディアの没落」を論じるために、私はアルカディアの意味を通時的と共時的の二つに分けようと思います。それは次の通りです。
通時的アルカディア―各民族の歴史の古層にある理想の共生状態
共時的アルカディア―現代において、近代化から取り残された人々の営む共生状態
具体的に言えば、通時的アルカディアは始源の楽園であり、共時的アルカディアは未開人(この言葉は不適切かもしれませんが、「未だ開発されていない」という文字通りの意味だけで使いたいと思います。差別的な意味合いのないことをご諒承下さい)の社会です。勿論、両者における「アルカディアの構造」自体に差異はありません。すなわち、エリアーデの構造主義的な宗教学に基いて、通時的アルカディアに生きる人間を「古代人」(archaic man)と称するならば、共時的アルカディアに生きる未開人は現代の「古代人」だと言えるでしょう。その意味において、「アルカディアの構造」とは人間的生の「祖型」(archetype)に他なりません。
さて、様々な「楽園喪失の神話」が示しているように、古代人が「始源の楽園」を失うのは一つの運命です。それは人間実存から「祖型」を失う悲劇(原罪)ですが、同時に人間に智恵(文明)をもたらしました。非常に大雑把に言えば、そうした両面価値的(ambivalent)な運命が現代人を生んだと見做すことができます。
何れにせよ、通時的アルカディアの喪失とともに自らの「祖型」をも奪われた現代人はニヒリズムに陥っています。確かに、恰もそうした喪失と引き換えに発展させてきたかのような科学技術文明の御蔭で、現代人の生活は古代人のそれに比べて遥かに豊かになりました。しかし、それは果たして「本当の豊かさ」でしょうか。月並みな言い方をすれば、物質的に豊かになればなるほど、精神的にはむしろ貧しくなっていくと感じる人も少なくないでしょう。その時、共時的アルカディアが現代人にとって一つの救いになると思われます。では、共時的アルカディアは現代人のニヒリズムを真に克服できるでしょうか。
アルカディアの没落
辞書でアルカディアという語を調べると、「ギリシャ南部、ペロポネソス半島中央部の山がちな地域。高山や峡谷で他の地域から隔絶され、古くから牧歌的理想郷の代名詞とされた」と記述されています。私はこの辞書的意味に基いて、「現代文明とは一線を画し、自給自足生活を中心とする共同体」という意味にまで拡大してアルカディアという語を使っています。従ってアルカディアは、空間的にギリシャに限定されないことは言うに及ばず、時間的にも各民族の歴史の古層にのみ見出されるものではありません。
例えば、テレビの紀行番組でアジアやアフリカの奥地で暮らしている少数民族の社会が紹介されることがありますが、私はそうした社会もアルカディアに含めて考えています。一昔前には「未開社会」という差別的な語が用いられていましたが、今ではそこに「開発された社会」(先進国)には見られない「生の充実」を感じ取る人も少なくないと思われます。実際、最近流行の「スローライフ」とか「オルタナティヴな社会」ということで一般的に求められているのは、近代化以前の生活や社会であるような気がしています。その意味において、アルカディアは人間にとって一つの「理想社会」であることは間違いないと言えるでしょう。
しかし我々は近代化(もしくは現代文明)を否定して、アルカディアへと戻ることができるでしょうか。確かに近代化が地球そのものを破滅に導いていることからすれば、このままでいいわけがなく、「自然に還れ!」というルソーの言葉はますます力を得ていくことでしょう。しかし、繰り返し述べているように、現代人はもはやアルカディアへと後向きに戻ることはできない、と私は思っています。この点、よく誤解されるわけですが、私はアルカディアそのものを否定するつもりはありません。そもそも先に触れた少数民族の社会などが実在している事実からしても、アルカディアを否定することなどできないでしょう。「アルカディアへと後向きに戻ることはできない」という私の認識は、あくまでも近代化の洗礼をうけた「現代人の生き方」の問題です。
勿論、ソローのように、現代文明に背を向けて「森の生活」を求める「現代人の生き方」もあります。これを「アルカディアへと後向きに戻ろうとする試み」と見做すかどうかに関しては議論の余地があるでしょう。この問題についてはこれから時間をかけて述べていくつもりですが、私の基本的立場は「現代人にとってアルカディアの没落は不可避だ」というものです。更に逆説的に言えば、「現代人が失われたアルカディアの理想を回復するためには、ユートピアの創造しかない」と思っています。これが私の基本テーゼに他なりません。