アルカディア論に向けて
マルクスのことを初めて知った時、愚かなる私はその主著が『資本論』であることから、マルクス主義とは資本主義のことだと思いました。言うまでもなく、『資本論』は資本主義を克服するために書かれたものです。同様に、と言ってはおこがましいですが、アルカディアを克服するためには精緻な「アルカディア論」が必要になると思います。
尤も、アルカディアが克服の対象になる点については疑問の余地があるでしょう。克服の対象は競争原理に基く近代社会であって、アルカディアはむしろ「近代社会が克服された状態」だと見做すべきかもしれません。確かに、アルカディアの理想には「近代の超克」に値する魅力があります。しかし、問題はその次の一歩です。すなわち、「近代の超克」後に、アルカディアを克服の対象とせねばならぬ契機が必ず訪れると思うのです。その点を含めての「アルカディア論」を思耕しているところです。
ところで、俗流マルクス主義によれば、上部構造は下部構造によって規定されています。従って、下部構造さえ変革されれば、上部構造も自ずと変革されることになります。勿論、私はこのような二層構造を信じておりません。すなわち、下部構造が資本主義(競争原理)から共産主義(共生原理)へと変革されることで、近代市民社会からアルカディアへの移行が実現するとは考えられないのです。そこには実に複雑な様相が渦巻いています。しかし、「ユートピア論」に正しく接続する「アルカディア論」はその渦巻きからのみ生まれてくるでしょう。今の私は単に眩暈がしているだけですが…。