アメリカ留学記 ~アリゾナ州立大学へ~

●●日本の高校2年生が終了した時点で、アリゾナ州に留学しました。●●


Mesa High SchoolPhoenix CollegeArizona State University を何とか卒業しました。この留学が、私の人生のすべてを変えました。


mh

日本の一高校生が、留学を決意し、アメリカの大学を卒業し、帰国後、日本のサラリーマンになるまでの軌跡を綴ります。


かなり、不定期な更新になる予定です。

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ホームステイ先到着

空港から車で30分ぐらいで、Fさんの家についた。

奥さんは、Sharon、旦那さんはKenith、長男はKevinとい名前だった。


その当時で、Sharonが28歳、Kenithが30歳、Kevinが3歳だった。


モルモン教の信者だったと言うのが、ちょっとびっくりした。


というよりも、モルモン教自体を良く知っていなかったので、その宗教の中身を知った後になって驚いたと言うほうが、正しかった。



成田 - サンフランシスコ - フェニックス

確かサンフランシスコ経由でアリゾナへ行ったと思う。確かな記憶ではない。


海外に出るのはこれで2回目。一人で海外に行くのは、もちろん初めて。

サンフランシスコに着いたときはかなり緊張していたと思う。留学を斡旋してくれた業者の言いつけを守って行動したような気がする。


何とか無事、乗り継ぎを終えて、フェニックスに着いた。


サンフランシスコからフェニックスまでは、2時間ぐらいだったと思う。機内での記憶はまったくない。

とても緊張していたのだろう。それにかなり疲れていたのだと思う。

雲一つない、からっとした気候の、アリゾナ州フェニックスに着いた。

Sky Hourbor International Airportは結構、大きな、綺麗な空港だった。


サンフランシスコからは国内線なので、飛行機から降りるとすぐにロビーとなっていた。

そこに、Fさん一家が迎えに来てくれていた。旦那さんと奥さんと3歳の男の子。


私の名前を書いたカードボードを掲げて空港で待っていてくれた。


どんな挨拶をしたかまったく覚えていない。

かなり緊張していたのだろう。


挨拶をそこそこにして、今後のアメリカでの住まいとなる、Fさんの車でMesaにあるFさんの家まで連れて行ってもらった。


アリゾナへの出発 (その2)

午後のフライトだったと思う。

ギターは預けずに、手持ちの荷物として機内に持ち込んだ。その他には、小さなバッグ。


送りにきてくれたみんなに、
「じゃ、ちょっと行ってくるから。」と挨拶をして、『搭乗口』の表示があるエスカレータに向かった。
このエスカレータから向こうが、飛行機に搭乗する人しか行けない範囲になっていた。


エスカレータを降り、ゲートまでの通路を歩いた。ふと上を見上げると、見送りに来てくれた人たちがガラス越しに手を振ってくれているのが見えた。

私も、歩きながらみんなに手を振った。気が強く、普段はまったく泣かない母親が、目に涙をためているように見えた。


父親の姿が見えなかった。後日、その当時の彼女のから聞いた話では、父親は目に涙をためて離れた場所にいたそうだ。

飛行機はシンガポールエアラインだった。


飛行機に乗ってから読んでほしいと渡された彼女からの手紙を読んだ。
付き合い始めた時から留学は決まっていたので、覚悟はしていたけど悲しいということ。
大好きだということ。

待っていてくれるということ。

目標に向かって進んでいる、私(AZ)は素敵だったということ。

私(AZ)なら必ず成功するだろうということ。

その手紙には、そのようなことが書いてあった。


自然に涙があふれてきた。隣には、黒人の女性が座っていたのだが、その女性や、スチュワーデスに泣いているのを見られるのが恥ずかしくて、ずーっと下を向いていた。


飛行機に乗って、その手紙を読んではじめて自分が、かなりの覚悟を持って渡米しようとしていることに気付いた。
高校を中退してまで留学を決めたのだから、次に一時的にでも日本に帰るのは、ちゃんと生活が軌道に乗ってからになることを覚悟していたのだ。
ということは、次に彼女に会えるのは... と思ったら、彼女に感謝するとともに涙が止まらなくなっていた。


実際に、この日から次に日本に帰ったのは、2年後のことになっていた。

アリゾナへの出発 (その1)

かなり後になって気が付いたのだが、もしかしたら、私は語学よりの方に素質があったのかもしれない。
私は、「音」が好きなのだ。楽器の音はもちろん、人間の声や自然の音も好きだった。
なので、違う言語の発音など真似するのが好きだったし、ネイティブに近いような発音ができると嬉しかった。
そして、何より人とコミュニケーションを取るのが好きだったのかもしれない。


社会人になって、フランスに3週間ほど出張に行ったことがあるが、フランス語の発音を含めた「音」自体がかなり気に入った。(でも、男がしゃべるフランス語は嫌い)


音の方でかなり敏感だったせいか、視覚の方はからっきしダメだった。
絵画を鑑賞しても、あまりありがたさは分からなかった。(今はむしろ逆かもしれない。「音」よりも写真に代表される「視覚」の方に興味がある。)


2年生が終了し、とうとう出発の日になった。
1982年4月5日(月曜日)、成田空港まで、兄の車で行った。
かなり大き目の海外旅行用のスーツケースが1つ。ギターのケース、それに肩から掛けられるバッグを持っていった。
両親、兄、友達が数名来てくれた。学校が始まっているので、ほとんどの友達はこられなかったのだが、彼女と数名の友達は、学校を休んで来てくれた。嬉しかった。


空港に着いて、いろいろな手続きが終わり、まだ少し時間があるので、みんなで簡単な食事をした。

だんだん、出発の時間が迫ってくる。

ホームステー先の情報

mh


あるとき、業者Aからアリゾナのホストファミリーや通うことになる高校に関する情報が届いた。確か冬のころだったと思う。


家族の名前はFさん。名前からして、イギリス系のような感じ。
Kevinという3歳の男の子がいる、旦那さんが30歳、奥さんが28歳の家族だった。
3人で写ってるポラロイド写真が送られてきた。
奥さんは2人目を妊娠しているかのような体型だった。(実際は妊娠してなかった。ごめんなさい。)

今、考えると30歳とか28歳の家族と言うのはかなり若いが、17歳にとってはかなり年上に感じた。
アリゾナ州のMesa(メサ。アメリカ人はメィサという感じに発音する)という町に住んでいて、私はMesa High Schoolに通うことになるとのこと。
高校からは結構近く、自転車で行ける距離らしい。
また、1つの部屋が与えられるらしい。


高校2年生の夏休みが終わってから、2年生の終わりまでの6ヶ月間ぐらい、いろいろ準備はしたが、要するに、留学の為に準備したことと言えば、


(1)神田外語学院に3回通った
(2)小林克也のラジオを聞いた
(3)英語の音楽(主にロック)を聞いた
(4)映画を見た


であった。


留学前の、私(AZ)の英語の成績は、そこそこ良かった。中の上ぐらい。
英語が好きだったこともあるかもしれないが、今、振り返ってみると、父親がことあるごとに、
「英語と数学は大切だ。」と言っていたので、その影響があったのかもしれない。
そのせいか、国語とか社会の成績はいつもボロボロだった。


日本の高校2年生、秋

「日本の高校は2年生が終わったら、もう行かないんだ...」と思った瞬間に、日本での高校生活を送ることに緊張感がなくなり、学校を休んで悪友と遊びふけったりしていた。


特に土曜日に学校を休むことが多くなり、土曜日に2時間もあった化学の出席日数が足りなくなり、単位を落とすかもしれない危険性が出てきてしまった。

はっきり言ってこの時期は、かなり不安定な時期だったと思う。


この時期に、学校は違うが、同級生の彼女ができた。A子という彼女ができた。
彼女は、私(AZ)が高校2年が終わったら留学することを、付き合うはじめから知っていた。


それでも、何とか単位は取れて、試験も何とか合格点を取れて、無事、2年生は終了することができた。

日本の高校2年生を終えるのにこんなにだらけていたので、留学に対する反対意見が続出するようになってしまった。

でも、もう高校には退学届けを出しているし、業者Aとも話を進めているので、後戻りはできなかった。


こんな不良学生をやっていても、まったく準備をしていなかった訳ではない。
少しでも、英語を上達させるために神田外語学院に通った...

が、3回ぐらいしか行かなかったと思う。授業料をドブに捨てるようなものっていうのは、まさしくこのことだった。トホホ。


小林克也のラジオはよく聞いた。アメリカの音楽と絡めながらの英語の番組はとても面白かった。もちろん、それほど英語が聞き取れる訳ではなかったが、それなりに為になったと思う。


●英検についてついての回想
自慢ではないが、私(AZ)は中学3年生の時に、英検3級に落ちている。
周りの人たちはみんな受かっていたのに、AZだけ落ちた...
これに関しては「思い当たるふし」を、今でも思えている。
スピーキングかリスニングで試験管から質問をされたときに、「Yes」とか「No」とかしか答えなかったのだ。
多分、回答は正しかったと思う。ただ、Yes, it is.とかNo, I don't.とか、後ろになにかしら付ければ合格していたと思う...(多分)

実は、英検3級に落ちたことは、かなりのトラウマになっていて、いつかはリベンジをという気持ちをいつも持っていた。

留学から帰って来たとき、社会人に成りたてのときに英検を受けた。3級はもちろんのこと、2級も、準1級も全部飛ばして、1級を受けた。
1次試験は1回で合格した。ところが...

2次試験は2回落ちた... はい、ショックでした。8年近く留学して、英検1級が取れないのです。
「俺の8年はなんだったんだ~っ」と夕日に向かって涙しながら叫びたい気分でした。

1回目は解答する問題を間違え、2回目は解答を解答用紙に書く場所を間違えた。

確か、英検1級の二次試験は、パート1とパート2に分かれていて、パート1は3つの問題から2つを選択して解答し、パート2は2問とも解答する、みたいな形式だったと思う。


1回目は、パート1で3つの問題を全部解答したら、パート2を完成させる時間がなくなり落ちた。
2回目は、パート1とパート2の解答記述場所を間違えて落ちた...

かなり沈みました。

でも、何とか、3回目を受検して、合格しました... 

「何事もすんなりいかない」これがAZの人生を象徴しています。

アリゾナ行き決定

さて、業者Aに頼むと決まると、あとは話が早かった。

まず、どこの場所を選択するかだった。
アリゾナか、ユタか、シアトルか。
「どこがいいですか?」と業者Aに聞かれたが、そもそもアメリカで知っているのはサクラメント近辺だけ。

あと聞いたことがあるのが、サンフランシスコ、ロスアンジェルス、ニューヨークぐらい。

高校2年生なので国内だってそれほど旅行したわけでもないし、正直言って、アリゾナか、ユタか、シアトルなんて言われても、まったくと言っていいほど知らなかった。
アリゾナはサボテンと西部劇、シアトルはスペースニードルと雨、ユタに至っては、まったくイメージすらなかった。


そんな状況なので、逆にこちらから業者Aに、
「どこがいいですか?」と聞くと、
「どんな所がいいですか?」と禅問答のような回答。なので、
「うーーん、向こうに行って寂しくなるのは嫌なので、天気の良い所がいいです。」と何とも自己主張をしているようでまったくしていない回答をすると、
「アリゾナは、天気は良いよ。」と業者A。今、思うと、「天気は」の「は」が気になったけど、まだ純粋?で未熟な私(AZ)は、
「じゃ、アリゾナでいいです。」と回答し、いとも簡単に私(AZ)のその後の運命が決まった。


後は、高校の2年生を無事に卒業するだけ... っと思ったら、これがまた一筋縄に行かなかった。
アメリカの高校の3年生に編入するのだから、日本では2年生は絶対に終えている必要があった。



再度、情報収集 (その3)

もう一つ、別の業者Bも調査した。確かこれも、雑誌の広告から見つけたものだと思う。

この業者Bも、特にうさん臭い所はなく、まっとうな商売をしているように感じた。


この業者Bの売りは、私立の高校に編入させるところだった。
ご存知の方も多いと思うが、アメリカにも当然私立の高校はあるが、日本ほど割合は多くない。
この業者Bと話をして以下の事が分かった。


(1)その私立高校は基本的に、お坊ちゃまとお嬢様が行くような所
(2)寮での生活となる
(3)学費が高い


一般庶民である私(AZ)として、まずIVYリーグみたいな雰囲気にはなじめないだろうと感じていたし、そもそも、かなり高い授業料を親に出させる気はさらさら無かった。


この業者にも、直接行って話しを聞いてきたが、話を聞くなり
「ダメだ、こりゃ~ぁ。」と感じたので、あまり詳細まで覚えていない。


確かこの業者は、渋谷のどっかにあったように記憶している。


これらの2つの業者を調査した。

条件を比較し、結局、業者Aにお願いすることにした。


再度、情報収集 (その2)

その業者(以下、業者Aと呼ぶことにする)から話を聞いて以下のことが確認できた。

(1)業者Aは確かにアメリカの高校への編入手続きの代行を行っている。
(2)アメリカの高校に入るためには、TOEFLは必要がなく、公立高校に行くことになる。
(3)公立高校とはいえ、その市の住人でない人が通うことになるので、地元の人以上に教育費を払う必要がある。(現地で自分で支払ったが、確か、1年で2000ドルぐらいだったと思う。)
(4)ホストファミリーの関係で、アリゾナ、ユタ、シアトルから選択する必要がある。
(5)ホストファミリーはボランティアではないので、月に200ドル程度の費用を支払う。
(6)業者Aには、行きの飛行機代も含めて120万ぐらいの手数料を支払う。

その当時は、1ドルが240円ぐらいだったと思う。
そう考えると、高校の費用も馬鹿にはならず、その業者に支払う120万円も大きかった。

日本では私立の高校に通っていたので、学費は日本の公立高校ほど安くはなかったが、この出費が親に受け入れられるか、かなり心配だった。

私が日本で通っていた高校ではアルバイトは禁止だったし、もちろんこれほど巨額な小遣いを高校2年生が貯蓄しているはずも無く、留学にかかる費用は全面的に親に頼るしかなかった。

もちろん、できの悪い頭のおかげで、国や県などの奨学金制度などにも当てはまらないので、完全に私費での留学となる。

続く...

再度、情報収集 (その1)

また、アメリカの高校に編入するという観点から情報収集を開始した。


まず、どうしたら米国の高校に編入できるのか考えた。
しかし、なにも情報もないところで考えても良いアイデアが浮かんでくるはずもなかった。
そこで、留学や英語、英会話に関する本や雑誌を、再度くまなくチェックすることにした。


すると、ある業者の広告が目に留まった。

ほとんどの広告は、大学への留学を斡旋(サポート)する業務を有償で行うことを宣伝していたが、その中に1つだけ、高校への留学(編入)も斡旋するという会社があった。


アメリカの大学への留学と、アメリカの高校への留学(編入)が大きく異なる点は、高校の場合、一部の私立等の高校を除いては寮のような宿泊施設もなく、かといって17歳という年齢的なことから一人暮らしもできないとだった。要するに、自分の知り合いや親戚か、アメリカ人の家庭に滞在することが必要となる。


アメリカに知り合いも親戚もいないので、ホストファミリーを探してくれる斡旋業者を、どうしても使う必要があった。こればっかりは、つても情報もなかったので自分で探すわけにはいかなかった。


さっそく、業者と連絡を取った。はじめはパンフレットを取り寄せた。
その業者は、個人経営のような小さな会社だった。その時は、信用できる会社なのかはよく分らなかった。
ただ、とにかく、高校への編入手続きをしてくれて、ホストファミリーを探してくれれば、あとはどうにかなると思っていた。