アメリカ留学記 ~アリゾナ州立大学へ~ -2ページ目

選択肢 (その3)

(3)はその当時通っていた日本の高校に断られた。と言うか、留学(の準備)のようなもので、休学は許さないとのことだった。しょうがない。
まったく、多様性、個性を尊重する時代に、頭の固い学校もあったもんだ。
まあ、その時代は、偏差値バリバリの時代だから、多様性だの個性だのは、邪魔者扱いされてましたけどね。

...と言うことで、(3)はなし。


(5)~(8)までは、いずれも大学に入ってからの話なので、そんなに長い間、待つことはできないと思った。善は急げ。思い立ったら吉日。
留学することを前提に大学受検なんかしたくなかったし、日本の大学に入ったからといって、TOEFLでいい点が取れるわけでもない。


実際問題、もし、あのまま日本の大学に行っていたら、アメリカに留学と言う欲求にも似た願望を継続できていたか分からない。
じゃあー、「それぐらいで継続できない願望ならば、上手くいかないよ。」と言う意見もあるかもしれない。でも、私(AZ)は、タイミングと言うのは非常に大切だと思っている。やる気が起きたときが大切!


文句、苦情、批評をする人は、たくさんいる。でも、本当に自分が正しいと思ったことならば、自分の判断で「いつ」と「どのように」を決められると良いと思う。


ということで、(4)の日本の高校は2年生で退学して、米国の3年生に編入することにした。

もちろん、この方法でも、米国の高校3年生の終わりでTOEFLでいい得点が取れると保証された訳ではなかったが、その当時は、
「何とかなるだろう」と思っていた。少なくとも、日本で学生をやりながらTOEFLの勉強をするよりは、確実な方法であろうと思った。


さて、と言うことで方針は決まった。とにかく、アメリカの高校3年に編入する!


ここから、その方法を探すことになった。


高校2年生の秋のことです。


続く...

選択肢 (その2)

「高校3年生の1年間でTOEFLで550点ぐらい取るぐらいの努力もできないようでは留学なんか成功するはずがない。」と、私(AZ)の母親は言っていた。
当然の主張である。AZの能力を考慮しなければ...(笑)


さて、ここで私(AZ)が考えたことは、


・日本の高校には未練はない。卒業にはこだわらない。
・アメリカの大学を卒業すれば、日本での就職は何とかなるに違いない。
・もし、アメリカの大学を卒業したことが、日本での就職で不利になるのであれば、アメリカで就職してもいいし、外資系に就職しても構わない。
・できるだけ、早くアメリカに行きたい。
・語学勉強だけで留学はしたくない。

・TOEFLで550点以上取るには、アメリカで生活しても1年以上はかかるだろう。
・できるだけ短期間で大学卒業したい。


であった。


選択肢の(1) を主張していた人たちは、
「とにかく高校だけでも卒業しておけ。」と言うことだった。
万一、留学がうまくいかなくても、少なくとも高卒の学歴はあるのだから、と言うのが彼らの主張だった。
確かに、高校2年で中退してしまったら、学歴としては「高校中退」すなわち「中卒」になってしまうわけだ。
このような助言をしてくれる人たちの意図は十分理解できた。


次に言われたのが、(2)。これも、助言してくれる人たちの趣旨は、(1)と同じ。
要するに、
「高校だけは卒業した方がいい。」って事だった。


続く...

選択肢 (その1)

要するに、高校2年生の夏休みが終了した時点で、私が取り得る選択肢は以下のようだった。


(1)高校3年生のうちにTOEFLで550点以上を取得し、日本の高校を卒業したら、アメリカの大学に直接入る。


(2)高校を卒業し、アメリカの大学付属の語学学校に1年間行き、TOEFLをパスして、そのまま正規の大学のコースに入る。


(3)高校を休学して、1年間アメリカの高校に通い卒業し、そのまま大学に行けそうであれば、日本の高校をそのまま退学してしまい、アメリカの大学に行く。


(4)高校2年で退学し、アメリカの高校3年生に編入する。その後、アメリカの大学に入る。


(5)とりあえず日本の大学に入学し、休学しその時点でのTOEFLの点数によって、語学学校に入るか正規に留学するか決める。


(6)日本の大学から、アメリカの大学に編入する。


(7)日本の大学を卒業してから、アメリカの大学に留学する。


(8)日本の大学を卒業してから、アメリカの大学院に留学する。


当時の自分で考えられる範囲で、これだけの選択肢があったのだから、両親を含め、高校の担任の先生からもいろいろなことを言われた。

周りの人から言われたので一番多かったのが、(2)ではなぜダメなのか?と言うことだった。


TOEFLの難しさなど、私の周りの人は誰も知らなかったのですが、知らないながらも(1)は無理なんだろうと推測していたのでしょう。
要するに私の実力を過大評価していなかったわけです。(-_-;)


続く。

情報収集

問題は、ホームステイ・プログラムから帰ってきてからだった。
かなりカルチャー・ショックを受けた私は、また、アメリカに行きたいと思うようになっていた。
しかし、ただ遊びに行っても面白くない。どうせなら、アメリカで学生をやってみたいと思うようになった。

要するに留学したいと思い始めたのだ。


そこで、留学に関する雑誌を購入する。その当時は留学に関する図書などほとんどなく、確かアルク社の雑誌が一つだけあり、それを購入した。
情報を得ていくうちに、留学するには、TOEFLというテストでそれなりの点数を取らなくてはいけないことが判明。


中学校3年間程度の英語はそれなりにやってきたが、今すぐにTOEFLで550点以上取るのが無理であることは明白だった。正直言って、残りの1年間、高校に行って卒業しても、TOEFLで550点以上取ることは難しいと思った。

確かに1年間の準備期間があるわけだが、その当時はTOEFL対策のための講座も、対策本などほとんどなく、勉強方法すらもよく分からない状態だった。

さらに日本語しか使わない日本人に囲まれた生活をしていては、1年間の準備期間があっても、TOEFLで高得点を取ることは、ほとんど可能性はないことが、直感で分かった。


ということは、高校を卒業してから留学するとなると、まずは語学を勉強してからということになり、どうしても1年以上の「留学浪人」になる可能性がある。


また、アメリカで語学を学んだとしても、英語を学ぶのは英語が話せない人たちであるわけで、アメリカにいながらにして、英語が話せない人たちと友達になる可能性が非常に高いということが分かっていた。

最悪の場合、アメリカで語学学校に行きながら、周りは日本人の友達だらけなんて可能性があることが予想された。


きっかけ

そもそも、アメリカに留学したいと思うようになったのは、1981年の高校2年生の時に行った、3週間ぐらいのホームステイ・プログラムがきっかけだった。


確か、近畿日本ツーリストが主催していたのだと思う。当時の金額で70万以上かかったのではないかと記憶している。

父親が新聞か何かの広告で探してきて、私に参加するように勧めたものだった。

父親がわざわざそんなものを見つけてきて、私に勧めてきたのには理由があった。

さかのぼること5年前、兄が同じように、ホームステイ・プログラムに参加し、かなり楽しんできたことがあり、私が幼いながらにかなり羨ましがってしたのを記憶していたのだ。

「長男に行かせたのだから、次男にも行かせないと、後々どんな文句を言われるか分からないから、行かせることにした。」と父親が言っていた。


当時の私は、品行方正ではなく、性格もかなり捻じ曲がっていたので、アメリカでのホームステイなど最初は断っていた。
父親が半ば強引に申し込みをして、主催者のツアー説明会に行くまでまったくその気はなかった。


こんな経緯でホームステイに行ったにも関わらず、このプログラムはとても楽しいものだった。
ホームステイは、カリフォルニア州のサクラメントという都市だったのだが、良い気候、カリフォルニアの人々の明るい気質、可愛い女の子、格好良い音楽、すべてが新鮮で刺激的だった。


このプログラムの終わりには、「自分を表現するには、その国が一番良さそうだ。」と確信を持つまでになった。


4月5日

1982年4月5日にアメリカにたった。


その後、1990年の2月に帰国するまで、約8年間の留学だった。
この留学が、私のその後の人生すべてに大きな影響を及ぼすことになりそうだということは、行く前から薄々感じていた。


1982年の当時は、日本では、まだ国際化の「こ」の字も言われていないころで、アメリカの大学を出ても、就職等でむしろ不利になるのではないかと言われていたようなご時世だった。


その当時の心境としては、

「そんな就職なんてはるか遠い未来のことなんか心配してもしょうがないさ。」ぐらいの気持ちでいた。


本来ならば、4月2日から日本での新学期が始まるのだが、高校2年生が終了した時点で、退学届けを出してしたので、もちろん日本の高校には行かなかった。

アメリカの高校に編入することになっていたのだが、アメリカの新学期は9月から。夏休みは6月中旬から。なので、4月5日から6月の中旬までは、アメリカの高校の2年生(junior)に編入することになっていた。