昨年来折に触れて書いていますが、このところの私の活字本のトレンドは何故か「山岳遭難本」となってします。
もともと「八甲田山 死の雪中行軍」にはまり込んだのがきっかけだったはずですが、私自身登山もキャンプも縁がない人間ですから不思議と言えば言える現象です。
(強いて共通点を上げれば「学生時代の冬場の通学が殆ど雪の低山登山と変わらなかった」事くらいでしょうかw)
その中で以前からわたし自身が愛読してきたのが加藤文太郎の「単独行」です。
これもまた、出会ったのが偶然と言いますか、たまたま青空文庫に出ていたのを読み始めたらぐいぐいと引き込まれた」という口です。
何しろ原作が結構なボリュームなのに、それをまる一日で読破してしまったほどに強い吸引力のある一篇(と言うか山行の記録)でした。
作者の加藤文太郎は昭和初期のアルピニストの中でも突出した実力を持つとされる一人なのですが、その山行の殆どは夏冬を問わず「単独で山脈を縦走する」独特のスタイル。しかもその殆どが殆ど超人的ともいえるペースと過酷な気象条件をただ一人でこなしてゆくものでした。
それゆえに当時「地下足袋の文太郎」の異名を取り山岳界ではよく知られた人物でした。
後に彼をモデルとして新田次郎が「孤高の人」という一編をものしているので戦後派の一般にも知られる様になった存在です。
その加藤文太郎自身が自らの山行記録をつづったのが「単独行」なのですが、たった一人でひとつの山脈を縦走した記録だけでなくその過程で何を感じたか、或いは山行の過程での遭難寸前の経験や失敗談、或いは人間関係のふれあいや軋轢などのネガティブな要因もそのまま記録しています。
そこには作者なりの誠実さが感じられましたし。
何より感銘を受けるのがこれだけの山行が単なる冒険とは異なり、普段の生活や事前の準備の段階で十分な情報収集と十二分な準備、創意工夫の積み重ねの上に為されている事が文章のそこここに透けて見える事です。
いわゆる華々しい登山記録を期待すると肩透かしを食うかもしれない。ですがそれ以上の感銘や教訓が得られる一篇ではないでしょうか。
なので今でも年に数回は読み返していますし、青空文庫でただで読めるというのに後から文庫本も買い足してしまった一篇でもあります。
実はわたしの場合、本編を読んでから「孤高の人」も読み始めた(世間とは逆のパターンですね)のですが、本編の後に読むあちらの方は小説的な脚色・誇張やドラマ性が逆にわたしには馴染めず、1,2度読んだ程度にとどまります。
本書に私が惹かれたのは恐らくですが、独身時代、片道数百キロの帰省を車中泊込みで何度もやっていた事も関係していたと思います。
「単独行」ほどの凄い事ではないでしょうが、当時も今も一人で帰省するというのは一種の冒険に近く、どこでどんなアクシデントに遭遇するかわからないという不安に常にさらされるものです。勿論事前の準備や計画もするのですがそれでも不安なものは不安でした。
そういう時に本書を読み、その心構えに学んでいると多少なりともその不安が落ち着けられるのを感じたものです。
さて、ここまでは単独行の金字塔とでもいうべき記録ですが、現実には単独行で山岳遭難するケースは年々増加しています。
ツアーやパーティの様に複数のメンバーが支えあってリスクを回避、軽減させることができない(勿論パーティやツアー故に遭難リスクが高まるケースも「大量遭難」という形で表面化していますが)ゆえに単独行自体が本来ははるかに危険なものであることも間違いありません。
先日入手した羽根田 治著「単独行遭難」(山と渓谷社)はまさに近年起きた単独行遭難の実例を集め、どこにミスがあったのか、どんなきっかけで遭難に至ったのかを浮き上がらせるものです。
あるケースでは道に迷い、あるケースでは滑落に伴う負傷で動けなくなり、またあるケースでは何度も行き慣れた低山で遭難してしまう。
それらの実例を読んで気づかされるのは遭難者の一人一人は事前にかなり周到に準備と情報収集をしており、中には遭難した山に過去何度も行った経験のある例まで存在している事実。
ですが、それが遭難に至るきっかけというものが実に些細な所から始まっているという事です。
加藤文太郎なども単独行を何度も繰り返し、その過程で遭難寸前の局面を複数経験していた様ですが、それを突破できたのも単に周到な準備の賜物というよりも究極のところでは運の成否に左右されていた事をそれとなく告白しています。
こうした「きっかけ」を全て確実につぶしてゆくのは困難かもしれません。がそれゆえにそれをカバーしうるだけの準備と計画性が必要だという事は昔も今も変わらないのではないでしょうか?
これらの本を読んでいるとそういう事も考えさせられます。