何気ない日常の中で、ふと顔を出す不安。



愛されてると感じてるのに、どうしても心がざわつく瞬間がある。


そんなとき、自分を責めるんじゃなくて、そっと寄り添うように話をしてみた朝のこと。

 

 

今朝、夫に不安な気持ちを伝えた。


案の定、返ってきたのは

「はー…なんでそんななるの?やめてくれー」

という、ちょっと呆れた声。

 


こうなる展開は想像してた。

でも、それでも話すのをやめなかった。

 


だって、不安になるんだもん。仕方ないじゃん。

ただ「あー、不安になるんだね」って言ってほしかっただけ。

 

 

 

私は双子として生まれた。


小さな頃から“私だけを見てもらえる”という感覚がなくて、


どこかでずっと「愛を私だけに」って思いにくかったのかもしれないんだ。

 


そういう背景があるから、

今でも時々、愛されてても不安になる。

 

 

 

言わない方がモヤモヤして溜め込むと、体に悪い。


そう伝えたら、夫は「俺の方が体に悪いわ」って笑って返した。

 


夫は健診で腎臓の数値が悪くて、少しでも改善しようとウォーキングを始めたところ。


汗だくで帰ってくる姿を見ても、

なぜか「本当に歩いてたの?誰かと電話してたんじゃ…」って疑ってしまうときがある。

 


わかってる。これは私の中の問題。


でも、そう感じてしまう心を、なかったことにはしたくなかった。

 

 

「不安は前より軽くなってるけど、また続くと思う」

そうも伝えた。

 


私は「あなたを信じてない」わけじゃない。


ただ、「こういう不安が私の中にあることも知ってほしい」

それだけだった。

 

 

話したあと、空気は思ったより重くならなかった。


たぶん、自分の不安を責めずに、ちゃんと口に出せたから。

 


相手にわかってもらえなくても、

自分だけはちゃんとわかっていてあげる。

 


その感覚が、心を少し軽くしてくれた気がする。

 


不安は、またやってくると思う。

でも、前よりは軽くできる。



今朝は、そのための、ほんの少しの勇気を出せた朝だった。

 

 

心の中の不安って、

愛されてても、理解されてても、

ふとした瞬間にまたやってくる。

 


でも、それを「感じてもいいもの」って思えたとき、

私は私をちょっと好きになれる気がする。

 


伝えるって、怖いことでもあるけれど、

自分の心を閉じ込めたままにしないでいられるのは、

すごく、大切なことだと思うんだおねがい

 

妄想が膨らんで、どんどん苦しくなるときって、ない?



見てもいないのに、頭の中で勝手にストーリーが広がって、



気づいたら不安やモヤモヤがいっぱいになってる。



そして、そんなふうに考えてしまう自分にまた落ち込んで…




もう、どこから抜け出せばいいのかわからなくなる。

 


私も、そんな状態になったときがあって、

そのときふと気づいたことがあるんだ。

 


「妄想してるってことは、何かが許せてないサインかも」って。



でも、それだけじゃなかった。



もっと深く、自分の中に大きな“怒り”があることに気づいたの。

 


怒りって、よく“二次感情”って言われてる。


その下には、悲しみとか寂しさとか、

怖れ、不安、虚しさ、恥ずかしさ…


そんな繊細で本当の気持ち(一次感情)が隠れてるんだって。

 


本当は、すごく悲しかったのかもしれない。

寂しかったのかもしれない。



でも、その感情を感じるのがつらくて、

自分を守るために「怒り」が出てきてくれてた。

 


だからまずは、「私、怒ってたんだな」って気づくこと。



そして、それを感じたうえで、

ちゃんと“解放してあげる”ことがすごく大事。

 


怒りなんか感じちゃダメって、思ってた。


「大人なんだから」って、ずっと蓋してた。


でも、本当はちゃんとあった。

たくさんあった。

 


怒りは、自分を守ってくれる大事な感情。


だから誰かにぶつけるんじゃなくて、気づいて、

紙に書いたり、声に出してみたり、体を動かしたりして、



自分なりのやり方で、少しずつ出していけたらいいと思う。

 


もし、怒りを出すのが怖いなら、


「怒りを感じるのが怖い私」がいるってことを、まず認めてあげよう。



感情って、何層にも重なってるからゆっくりでいい。

 


そしてね…


怒りの下にいる“この子たちの声”を、どうか聴いてあげて。



悲しみ、寂しさ、怖さ、不安、愛されたい気持ち。



見つけてもらえるのを、ずっと待ってるかもしれないから。

 


妄想って、ただの悪者じゃない。



「もう限界かも」「本当の気持ちに気づいて」っていう、心からのサインだったのかもしれない。

 


自分を知るって、ほんとに一歩ずつ。

がんばらなくていい。いっきにできなくていい。

そのままのスピードで、少しずつ少しずつ、ねおねがい

 

「気分よく過ごしてね」

「出したエネルギーが返ってくるよ」

「感謝・愛・祝福の波動でいよう」

 


そんな言葉を、セッションやスピ系の本でたくさん見てきた。


私もそれを信じて、頑張って、気分を上げようとしてた。

 


嫌なことがあっても、すぐに「ありがたいこと探し」をして、



怒りや悲しみが湧いてきた時も、「そんなこと思っちゃダメ」って押し込んで、



とにかく“いい気分”でいようとしてた。

 


そうしないと、また嫌な現実が返ってくるって思ってたから。



必死だった。



笑えてないのに、笑おうとしてた。

嬉しくないのに、「私は幸せ」って唱えてた。

 


一瞬はそれで楽になることもあった。



でも、そのあと、また戻るんだよね。

イライラ、もやもや、不安、不信感…

 


それってつまり、ちゃんと感じきってないから、

奥に残ったまま、何度でも顔を出してくるんだよね。

 



気分よくいる」って、

感情を押し込んで、上書きすることじゃないんだ。

 


イラッとしたら、「あ、今、イラッとしてるな」って気づいて、



モヤっとしたら、「ここが引っかかってるんだな」って、



その感じを、身体のどこで感じてるのか探してあげる。

 



私は最初、これが全然できなかった。

感じるのが怖かった。



泣きそうになるのも嫌だった。



でも、感じずに飛び越えようとするほど、あとで苦しくなった。

 


だから最近は、ちょっと立ち止まるようにしてるんだ。

 


「ねえ、どうしたかった?」

「何が悲しかった?」

「何が一番つらかった?」


って、自分に聞いてみる。

 


ときには、ノートに「ふざけんな!!!」って書き殴ってみたり、


ひとりになった時に枕を殴りまくって、声にならない声で叫んだり…

 


そうやって、ちょっとずつ、自分の本音を取り戻してきた気がするんだ。

 


無理やり気分をよくしようとしなくていい。



むしろ、自分の本音を無視してまで“いい気分”でいようとすると、

どんどん、自分の感覚が麻痺してしまう。

 



「気分がいいことを選ぶ」って、


その場で“笑ってるふりをすること”じゃなくて、



ちゃんと自分の感情によりそってあげること。

 


その先に、本当の意味での「気分のよさ」があるんだって、


今なら少しだけ、わかる気がしてるおねがい

 

 

「正規の値段で買うなんてもったいない」

 

そう言って、夫は洋服もバッグも、基本は“割引品”しか買わない。

 


わからなくもない。

私も、お金を使うことにブロックがあるタイプだから。

 


でも最近は、「これだ!」と思えるものを、自分に選ばせてあげたい気持ちも出てきていて、

 


そんな私が「割引じゃなくても、いいなって思ったもの買ってみたら?」って言ってみると、

 


夫はいつも「うーん…」と、微妙な顔をする。

 

 

いっぱい働いてるのになぁ。

それだけ頑張ってるんだから、自分が本当に好きなもの、選んだっていいのに。


私はそう思ってた。

 

 


だけど、気づいたの。


私も実は、“割引”の世界にしっかり片足突っ込んでた笑い泣き

 

 

昨日、夫がパチンコでちょっと勝ったらしくて、

「リュック買ってあげようか?」って言ってくれたの。



実はちょうど、通勤用のリュックが欲しいところだったから、ラッキーっおねがいて思って。

 

 

で、自分のお気に入りを探しながら気づいた。

 


無意識に「割引されてるやつ」ばっかり見てた私アセアセ

 

私も同じじゃねーかって

笑っちゃった気づき

 

 

「損したくない」って、

もしかすると「ちゃんとしていたい」とか「無駄にしたくない」とか、

そんな思いの裏返しなのかもしれない。

 

 

それって、すごく健気な感情でもあるんだよね。

 

 

でもときどき、自分にこう聞いてあげようかなスター

 


「今、損しないことより、大事にしたいことってある?」って。

 

 

それはたとえば「ちょっと高いけど、見るたびにときめくもの」だったり、

 


「誰に共感されなくても、私が感じたワクワク」だったりするのかもしれない。

 

 

 

夫婦って、不思議。

似てるようで、全然違うと思っていたら、

案外、同じとこで足踏みしてたりする。

 


笑っちゃうくらい、愛おしい飛び出すハート

損したくない私たち照れ

 

「自由になりたい」

 

 

朝、ノートにそう書いていた。

何から、というのは正直よくわからなかったけど、

何かが、窮屈に感じていたのかもしれない。

 

 

そのあと、いつものようにお気に入りのブログを読んでいたら、

ある投稿に目が止まった。

 

 

その方は、メンタルヘルスのジャンルで上位にいる方で、

前から「なんて余白のある、素敵なブログなんだろう」って憧れていた人。

 

 

今日は、その人がアートセラピーの資格をとったという報告で、

描いた絵も一緒に載せてあって、

もう、言葉にならないくらい素敵で、静かで、でも強くて

 

 

気づいたら、コメントしていた。

「素敵です」ってラブ

 

 

初めて、その人に。

初めて、自分から。

 

 

ドキドキした。

正直、どこかで「上位の人にコメントしてる自分」に気づいてる私もいた。

 

 

目立ちたかった?

そうかもしれない。

腹黒いなって、ちょっと思った。

 

 

でも、それでも伝えたかったんだ。

素敵だと思った気持ちも、

そこに自分も触れていたいと思った気持ちも、

どっちも本当だったから。

 

 

 

今、思う。

 

「自由になりたい」って、

何か大きなことを変えるんじゃなくて、

 

 

こうやって、自分の気持ちをちゃんと受け取って、

 

小さな一歩を出すことから始まるんだって。

 

 

 

私は今日、

自由になりたいと願った自分の背中を、

ちゃんと押してあげられた気がしている。

 

 

小さなコメントひとつが、今日の私をちょっと自由にしてくれた照れ

怒りがこみ上げて、

悲しみが溢れて、

自分の中の感情が、

もうどうしようもなく暴れてるとき。

 


そんなときに「深呼吸しよう」って言われても、

正直…ムリ!って思ったりしない?

 



私はそうだったんだ…


むしろ、静かに呼吸するなんて、逆に苦しくなることもあった。

 



でもね、ある時気づいたんだ。


「思いっきり吐く」って、それも立派な呼吸だって。

 


鼻からゆっくり吸って

口からふぅ〜って吐くんじゃなくて、



もう、とにかく、

「はぁーーーっムカムカムカムカムカムカ!」って、

声にならない声で息を吐き切る。

 

何度も何度も




それでやっと、自分の内側に溜まってたエネルギーが抜けていくのを感じた。

 



怒りが湧いたとき、

私がやるのはこんなことなんだ



とにかく思いっきり息を吐き切る

誰もいないところでエアーで文句を言いまくる

枕に馬乗りになって、ボッコボコに殴る

滅多刺しにする(もちろんエアーでおいで

あと、全速力で走るのもいいかもしれない

 


最初は「こんなことしていいの?」って罪悪感あったけど、



むしろ、我慢していい人でいようとした時の方が、自分がしんどかった。

 


怒りをぶつける相手がいない時こそ、

自分の体にある「出口」を使ってあげること。



誰か近くにいる時は、ちょっとトイレに行って、思いっきり息を吐き出す。



これだけでも、身体がスッキリするんだウインク




それが、自分と繋がるってことでもあるんだと思う。

 


静かに整う呼吸もあれば、

吐き出して解放される呼吸もある。

 



今の自分には、どっちが必要?




そうやって自分に問いかけてみるだけでも、

ちょっと生きやすくなる気がするよ照れ


週末、ワンコを室内ドッグランに連れて行った。

最近は暑すぎて、日中のお散歩もままならなくててへぺろ

 

 

初めて行く場所だったから、

運転に自信がなくて、夫にお願いして車を出してもらった。

 

 

うちのワンコは、人見知りもしないし、犬見知りもしない。


新しい場所でも物怖じせずに、すぐに馴染んでしまう。


その無邪気な姿のおかげで、たくさんの人に可愛がってもらえていた。

 

 

他のワンちゃんたちとも自然に打ち解けて、

遊びを仕掛けに行く姿がとても可愛らしかったラブ

 

  




 

その姿を見ていたら、ふと、娘の幼い頃を思い出した。

 

転勤族で、実家も遠くて、頼れる人もいなかった私は

娘を連れて、よく育児サークルに通っていた。

 

 

けれど、娘は人見知りも場所見知りも強くて、

なかなか輪の中に入ることができなかった。

 

 

いつも私のそばに立って、黙って、まわりをじっと観察していた。

 

その姿を見るのが、私はたまらなかった。

心がざわざわして、落ち着かなくなった。

 

 

それはきっと、自分の幼少期と重なって見えたから。

 

 

私も、小さな頃は輪の中に入れなかった。

楽しそうに遊ぶ子たちを、指をくわえて、ただ見ていた。

 

入れないことを責められた記憶、

 

わかってもらえなかった寂しさ、

 

心細さや、あの体がこわばるような緊張感──

 

 

全部、まだ私の中に残っていたんだと思う。

 

 

だから私は、感じたくなかった。

もう一度あの体感を味わいたくなくて、

 

娘の手を引っ張って、輪の中に連れて行った。

 

「大丈夫だよ」「一緒に遊ぼうね」って。

 

先回りして、お友達に声をかけていた。

 

 

でも、ふと思うんだ

 

 

あの時の娘は、

 

ただ静かに観察を楽しんでいたのかもしれない。

 

自分のペースで、世界を感じようとしていたのかもしれない。

 

そう思ったら、胸がズキンって少し痛くなった。

 

 

娘の前に立っていた私は、

本当は、そっとそばにいてほしかった“幼い私”の気持ちに突き動かされていたのかもしれない。

 

 

手を引いて、輪の中に入れてほしかった。

 

ひとりで指をくわえて、見ている私に、

 

「それでいいよ」と言ってほしかった。

 

否定も、急かしもせず、ただ隣にいてほしかったんだ。

 

 

あの日のドッグランで

遊ぶワンコの姿を見ながら、私は思いがけず、

娘と私、そして私の中にずっといた“かつての私”と、再会していたおねがい

 

 

娘と、ソファの上でゲラゲラ笑いながら思い出した。

あの頃、マリオカートを「楽しいふり」してた私。


今なら素直に言えるんだよね。

「つまんなかったよーえーって

そんな私たちの、とある一日。

 


先日、家族でラウンドワンに行ってきた。



バドミントンに卓球。

身体を動かす遊びが、ほんとに楽しかった爆笑

 


いろんなアトラクションがある中で、

ゲームも少しやってみたんだけど、

あれ?全然楽しくない…。



唯一、太鼓の達人みたいなリズム系はちょっと面白かったけど、



それ以外の、乗り物系とか、速さを競うもの、ちょっと考えなきゃいけないやつとか、もう全然ダメだった。

 


画面を見るのも飽きちゃうし、

「これ何が楽しいんだろ?」って

思ってしまってる自分がいた。

 

 

でもね、そのあと、ふと昔を思い出したんだ。

 


私、小さい頃からゲームが苦手で、兄がゲーム好きだったのに全然ついていけなかったんだ。



できないことを責められたり、イライラぶつけられたりした記憶もあって。



それもあってか、ゲームに夢中になってる人を見るのもちょっと苦手。

 


あぁ、私って、昔から「ゲーム嫌い」だったんだな〜って、妙に納得。

 

 

でね、昨日その話を、娘にしたんだ。

 


「私さ、ゲームほんと苦手なんだよね」って。

そしたらもう、めちゃくちゃ笑ってて。

 


昔、娘に「マリオカート一緒にやろう」って誘われたとき、全然楽しくなかったこと。



なのに、「いいお母さん」でいようとして、「楽しいね〜」とか言って頑張ってたこと。



それを思い出しながら話したら、ふたりで爆笑。

 


その時間が、なんかすごくよかった。

 


「いいお母さん」でいようと無理してた昔の私も、


それを今、笑いながら娘と分かち合える今の私も、


どっちも愛しいなって思えた。

 

 

 

そしてやっぱり私は、身体を動かして、リアルな空間で笑い合う時間がいちばん好きなんだな飛び出すハート

 


今はそれが、はっきりわかるから心地いい照れ

 

 

娘はお友達と出かけていったから、

昨日は夫とふたりで、花火大会へ。

 


並んで歩いて、場所取りして、

暗くなっていく空の下で、ふたり並んで座った。

 


花火があがる前、ふと、3年前のことを思い出した。



あのときは、娘と見た花火だったけど、

夫とのことで気持ちが沈んでいて、



華やかな光も音も


心には届かなかった。

 



未来への不安ばかりが大きくて、

「あの頃に戻れたら…」って、



過去と未来ばかりを行き来して、

“今”という瞬間の感覚なんて、どこにもなかった。

 


でも、今日は違った。

 



息を吐いて、力を抜いて、

音が身体にずしんと響くのを感じながら、



次はどんな花火があがるんだろうって、

一つ一つに小さなワクワクを感じてた。

 


「きれいだったね」


「一緒に見れて嬉しかったよ」



素直に、言葉にして伝えられたことが、何より嬉しかった。

 



夫の反応はあっさりしてたけど、

それでも、私はちゃんと自分の気持ちを大事にできた。

 



そういえば


娘が生まれてから、2人きりで花火を見に行ったのは初めてだった。


なんだか、恋人気分だったな照れ

 


そして気づいたんだ。



私と夫って、よく2人で出かけるし、

無言の時間も心地よくて、2人の空間が好きなんだって。

 


けれど、喉の奥の違和感はやっぱりあって。



きっと私は、もっと本音を話したい。


もっと、心を開きたいんだと思う。

 

だから、また話そう。


焦らず、無理せず、少しずつでも。

 


今日のこの時間が、そのきっかけになってくれた気がしている照れ

 

今日ね、朝からジリジリと暑くて。

 

 

さすがに冬布団がそのままなのはもう無理だなって思って、

思いきって、コインランドリーに持っていくことにしたの。

 

 

 

そのとき、夫に「一緒にお願い」って声をかけて、

近くのコインランドリーまで、2人で歩いて行ったんだ。

 

 

たったそれだけのことなんだけど――

 

 

「近所を、2人で並んで歩いている」っていうことが、

私にはなんだか、とても嬉しくて。

 

 

思わず、夫の目を見て言ったの。

「こうやって、近所を2人で歩けるの、嬉しいな」って。

 

 

ちょっと照れくさそうに笑ってたけど、

その表情も、なんだかよくて。

 

 

お出かけのときに並んで歩くことはあっても、

こうして“いつもの道”2人で歩くって、案外ないんだよね。

 

 

 

しかも今回は、私ひとりで頑張らなくてよかった。

重たい布団も、2人で持ち手を分けて運んだら、ぐっと軽くなった。

 

 

ほんの数分の時間だったけど、

身体だけじゃなく、心の荷物も少し軽くなった気がした。

 

 

こういう“なんてことない日常の中の嬉しさ”って、

気づかなければ通り過ぎちゃいそうだけど、

 

 

 

味わえばちゃんと、心をあたためてくれるんだよね。

 

 

だから今日は、それを忘れたくなくて、ここに書きとめておくことにしたよ照れ