ピクニック
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ドレッドの男2

ドレッドを引っこ抜いてしまい、『髪型が変だからって別れるなよ』 こう言われた。
カレの寮で、ふすま1枚挟んで他の人が暮らしているのにも関わらず、
毎日セックスばかりしていた。

一緒に部屋を借りようとお金を貯めることにした。
月18万くらいの中から、5万くらい貯めていった。
2~3ヶ月して20万くらい貯まった時、月5万のボロいアパートを借りることにした。

不動産やの帰り、大げんか。
『部屋を借りるために、お金の為に付き合ってたんでしょ???』
などと、中傷した。
そもそもそこで別れていれば、なんの問題も無かった。

ドレッドを抜いてしまった事故。
ここからカレのDVが始まっていった。

ドレッドの男

美容室で働いていた頃、ドレッドの男と付き合い出した。
彼は同じ年で、エクステンションのドレッドヘアに、グッチのサングラスをしていて、
まるでレニー・クラビッツのようだった。
サングラスを外したら、マッチのようなかわいい顔をしていた。

そんな彼と、彼の寮で生活していた。
彼と、一緒に二人で暮らす為にお金を溜め出した。
でも金遣いの荒い彼は、人に奢らせるのが上手かった。
私もどれだけお金を出す羽目になったか・・・
『ま、いっか』という気にさせるのが上手いのだ。

そんな彼が、ドレッドを修復しに池袋の方に出掛けた。
一緒に着いていった。
数時間見知らぬ土地のカフェで待たされた。
その帰り道、何かで喧嘩をした。
先に帰ってきた私は、寮の鍵は持ってなかったけど、
他の住人に開けてもらい、中で待っていた。
すると帰ってきた彼と大げんかすることになった。
手を出された。
いわゆる取っ組み合いの喧嘩になったのだ!

どう考えても負ける。
私はとっさに修復したてのドレッドを思いっきり掴んだ。
痛がる彼。
こっちも痛い。
そして思いっきりねじってやった。
すると、一束・・・
地肌で言うと2センチ×2センチくらい、ごっそり根元から抜けた。
しかも、一番前。
中側ならわからなかったのに、よりによって一番前が禿げた。
しかも修復して3~4万払って帰ってきた時に。

その場でボウズにした。
3~4万は数時間の夢だった。

しかしその時、
そこから始まる悪夢には、まだ気が付いていなかった。

美容師時代

カリスマ美容師が流行る少し前。
美容師という道を選んだ私。
高校生のとき、カットやメイクのモデルをしていたのがキッカケだった。

地元では有名な大きな美容室に就職。
給料も何も出来ないのに月16万くらいもらえた。
当時の美容室の中では抜群に給料は良かった。

毎月16万の給料は、コムデギャルソンやヴィヴィアンに消えていった。
初任給で親にプレゼントなど、考えもしなかった。
本当に親不幸な娘だった。

周りはクラブに行ったりして遊んでいたけど、
私はそういう気になれなかった!
男と二人で遊んでいる方が好きだった。
先輩の男と朝帰りをしたこともあった。
ずる休みしたこともあった。
全然マジメに働いてなかった。

暫くして、ちょっと遅れて入社組が来た。
その中のヒトリと結婚することになるとか思いもよらなかった。

歓迎会の帰り、ある男の子の寮に泊まった。
3人で1つのマンションで、3つの部屋の1部屋に彼は暮らしていた。
というか、入居して初めての夜にお邪魔したようだった。
酔っていたので、もちろんセックスするような感じになった。
でも遊びでされたくなかった。

『付き合ってない人とはしたくない』

こう言った。
すると、『じゃ、付き合おうよ』

いわゆる、やりたいときにいう台詞。
でもそのままの流れで付き合ってしまった。
そこからズルズルと時は経ち、毎日彼の寮に帰る日々が続く。
親には友達の家に行くといい、寮に入り浸っていた。

そしてあるとき、事件は起こった!!!

パチンコや

週休3日の高校をギリギリで卒業し、長めの春休みにパチンコ屋でバイトした。
年を1才ごまかして・・・

毎日来るお客さんは一緒。
新人は可愛がられ、そして誘われる。
当時、ちょっといかれたファッションをしていた私。
重たいドル箱を、厚底のスニーカーで運んでいた。
『転ぶなよ!』と常連さんにいつも言われた。

いつも来るおじいちゃんにお寿司屋さんに連れて行ってもらったりもした。
隣のラーメン屋に連れて行ってもらったり、可愛がってもらった。
たちまち、となりのラーメン屋の店長を体だけの関係になった。
そのまま、同じバイトの男の子とと付き合い出した。
二人はお互い知っている人同士だった。

一緒のバイトのJくん。
カレは母子家庭の長男で、親にかなりお金を渡しているマジメな男の子。
大した遊びも知らないような感じで、見た目はちょっと不良っぽい感じだった。
弟同士が友達だったらしく、ちょっと気まずかった。

親にだまって、カレと旅行に行った。
2泊の伊豆旅行。なにも言わず3日家を空けた。
流石に心配された。今思えば本当に心配かけたと思っている。
旅行にいく前、一度だけセックスした。
だけどね、

『入ったの??』

というほど超超超早かった。
だからしたくなかった。
伊豆で2泊したけど、させずに帰り、なんとなく別れた。
そして店も辞めた。
年誤摩化しているのに、住民票の提示を求められたのもあった。


4月のおわりだったと思う。
美容室に就職することになった。
前から美容師か、エステか、アパレルに行きたいって思っていたから。

乱れた高校生活2

次の男は、ファミレスでバイトしていた大学生だった。
可愛らしい顔をしていて、結構もてる感じだった。
その子と、よくわからないキッカケで遊ぶようになり付き合い出した。
当時の彼のポケベルを無視しながら遊んでいた。

セックスしてから、一緒にバイトに行った。
同じファミレスでバイトしていた。
彼はいつの間にか大学を辞めていた。
仕送りもなくなり、お金がなくなった。
彼は私の服などをカードで買ってくれた。
でも生活用品をそのかわり買ってあげた。
現金がないから、そうするしかなかったのだと思う。
私は大して重く受け止めず“ラッキー”と思っていた。

彼は、料理人を目指すことにしたらしく、よこはま中華街の有名な店で働き出した。
一緒に暮らそうって話になった。
彼は勝手に私の実家にデンワをし、“彼女は僕の支えなんです”とか言ってたらしい。
不動産やに行っても、中華街近くの部屋は、そんなに安くはなく彼には厳しいものだった。
しかも私が高校生ってことで、受け入れてくれるところなんてある訳もなかったのだ。
暫く経過し、お金がなくなり、家賃も払えなくなった。
彼は寮のある、ホストクラブに入った。
あまり会えなくなると、彼に魅力がなかったことに気が付いた。
久し振りに渋谷でデートした日、すごく楽しくなかった。
“ホテルに行こう”それしか言わない彼。
気乗りしない私は、ソッコー別れてきた。

帰りに最寄りの駅で、昔のバイト仲間に遭遇。
そのまま遊びにいって、セックスしていた。
その男は、コンビニのオーナーのバカ息子で、
バイトの私と、もうヒトリの女の子に手を出していた。
いわゆる三角関係ってやつだ。
もう一人の女の子とは顔見知りで一緒に働いたこともあり、
その男の奪い合いのようなスチュエーションになり、二人で会ったりもした。
一応、女同士知り合いだから、お互いバチバチ火花は散っているけれど、
それを隠して、お互いのろけるような感じになった。
よく考えると、たいしていい男ではないと気が付いたので、すんなり譲ってあげた。

その翌日には、また違う男が横に居たから。

乱れた高校生活

高校に入ると、モテるようになった。
色んな男の子と接するようになり、同じ日に違う男の子と、
近くのファミレスに行ったりもしてた。
最高一日3回、別の人と。

家出中は夜中まで遊ぶ。
彼氏の友達と麻雀。
男に混じって麻雀、カラオケ。
市民プールにまで麻雀セット持参で行った。
男(イケメンばかり)6人と自分。
面白かったな~あの当時は。
今思えばかわいい遊びだろう。

彼が教えてくれたアルバイト情報。
近所のレストランでの募集があると教えてくれた。
たまたまバイトを変えたいと思っていたタイムリーな情報に、
早速面接を受けて受かって働き出した。
直ぐさまある人と恋仲になる。
そして彼氏に内緒で遊ぶ遊ぶ遊ぶ。
当時は携帯なんて持っていなかった。
ポケベルの時代。
メッセージが来る来る来る。
“ドコニイルノ?” 
“ナニシテルノ?”
“デンワシテ”
無視して遊んでた。
当たり前にバレた。
隠してもいないけど。

当然別れることになる。
家出の同棲生活もおのずと終わっていった。
その彼は、今思えば今までの男の中で一番将来性のある男だった。
高校生と大学生のころじゃ、そんなところまで考えるわけもなく、仕方の無いことだろう。
風の噂で聞いたには、“森ビル”かな?、確かその辺りのランクの建築関係に就職したとのこと。
何度かよりを戻したいと言われたが、断っていた。
理由は歯並びが悪いし、爪が長くて汚かったから。

母のこと

母のことを少し書く。

母は、小学校の低学年の時に病気で母を亡くした。
その頃から料理や洗濯など、一通りのことはやっていたらしい。
お父さんとお兄さんと3人で暮らしていたところに、新しいお母さんが現れる。
本当の母のように慕っていたし、仲が良かった。

私が生まれてからも、色々連れて行ったりしてくれて、
まさか血が繋がっていないだなんて、思いもしなかった。
仏壇に、母とよく似た写真があった。
そのことはそんなに気に留めていなかった。
真実は、多分中学生のときに、母の口から聞いたんだと思う。

苦労人なのだ。
嫁いでからも、苦労は絶えなかった。
お見合いで知り合った父と、両親と同居。
父は無口な人だったから、親になにか口答えすることもなく、
口で何かかばってくれることもなかったようだ。
父の母は、自宅から歩いて1分くらいのところで働いていて、昼休みには帰って食事をした。
毎日決まった時間にお昼ご飯の用意をしなければならない。
出掛けることも出来ない。

父は、海外出張ばかりで、愚痴すら聞いてくれない。
ギリの親にご飯を作りに嫁いだわけじゃない!!こう思っていたらしい。
そこに私が生まれたのだ。
母はこう思ったらしい。『やっと私の味方が出来た』と。
私の誕生で、やっと少しは家に居る意味が出来たようだった。

小さいとき、私を連れてどこかへ遊びに行くときも、
朝早く起きて、自分の居ない間の食事の支度、お風呂の支度、全て文句言われないように、
一通りやってからでかけたらしい。
普通なら『ゆっくりしてらっしゃい!』これくらいのことは言ってほしいところだ。
そんなことは、口が裂けても言ってくれない。
それは28年経った今でも続いている。

こんな苦労人の母に、また苦労を掛けている私。
なぜ母は、こんなにも沢山の試練を与えられているのだろうか?

私が不登校していたとき、『学校に行きなさい』こんなことは言わなかった。
買い物に連れて行ってくれたり、私を引きこもらないようにしてくれた。
何も言われないことは余計辛かったけど、
そうしてくれた母に、今は感謝している。

母の子供に生まれていて良かった。
こんなふうに思っている。

でもまだまだ私の悪行は続くのだった。

アルバイト

高校に入るとすぐに出来た彼氏といろんなことをした。
それと同時に、アルバイトを始めた。
いろいろ交際費も掛かるし、服も買いたかったから。
彼は埼玉に住んでいたけれど、週に1くらいのペースで通った。
毎日の長電話で、電話代が大変なことになり怒られた。

段々、男を見る目が厳しくなっていく。
その彼氏では物足りなくなっていったのだった。

最初に始めたアルバイトはお寿司やさんだった。
家から歩いて2分くらいのところにあるお寿司屋さん。
結構若い男の子も働いていた。
私がバイトしてからすぐに大学生の男の子が入ってきた。
そして何人かで飲みに行ったり、バーベキューに行ったりすることが増えた。
高校生からしたら、大人に見えたのだ。
お金も持っていた、ただ親の仕送りがあっただけなのにね。

そして間もなく、バイト先の子に告白される。
初めて一緒にランチしたあと、彼の部屋に行った。
そこで後ろから抱きつかれ、セックスした。
すっごく下手だった記憶がある。

彼の家は、バイト先の隣のアパートで、そのアパートの1階の店で母がパートしていた。
非常に狭い一角のお話だけど、住居と職場が笑えるほど近かった。
毎日彼の家に寄る。
遅くなったりもしたけど、母は知っていたので怒らなかった。

彼は、もうひとつバイトを始めた。
歩いて5分、駅前のカラオケボックス。
オーナーが居ないときは、タダで入れてもらえたし、タダ酒、タダごはん。
大学生も沢山バイトしていて、高校生の私はみんなにかわいがってもらえた。
パラダイスだった。
カラオケにお金を出すなんてこと、暫くしないですんだのだ。

日に日に帰る時間が遅くなっていった。
都内で遊んでいるわけではなく、地元には一応居る。
だけど朝方帰る日々が続き、遂に父親に殴られる。
私は殴り返そうとした。すると起きてきた弟に止められる。
そのまま私は荷物をまとめ、歩いて2分の彼の家に転がり込んだ。

いわゆる 【家出】である。
その部屋の真下では、母がパートしてるというのにねw

高校生

入学した高校は、都内にあった。
週休3日、通学は週4日。
バイトに明け暮れた。
制服のない高校で、バイト代はほとんど洋服と飲食代に消えていった。
今思えば、親にプレゼントのひとつもすればよかったのに、
当時はそんなことを思いもせず、使いたいだけ使っていた。

入学して間もなく、高3の男の子に声を掛けられた。
格好よく見えた、まだ垢抜けない私からしたら。
流れで付き合うことになった。
初めての彼氏である。
途中で気が付いたけど、その子は学校の中であまりいいポジションではなかった。
制服のない普通じゃない高校の中は荒れ放題だった。
当時よく耳にした『パー券』とか『チーマー』とか、もろにそんな世界だった。
彼はそういう意味でもいい立場ではなかった。

そんな彼と、初体験。
埼玉に住む彼の家に遊びに行った時に初めてした。
オナニー大好き少女だったので、早くセックスってやつをしてみたかった。
真っ暗な部屋で、なにがどうなっているかわからないまま挿入。
『初めてだから・・・』
そう言うと、優しく入れてくれたような気がする。
そんな痛くもなかったしね。
初体験の帰り道、早速近所の中学校のプールの更衣室で2ラウンド目が開始。
ここからすでに変態への道が始まっていたのかもしれない。
初めてのセックスの刺激で、生理が来ていた。
2ラウンド目は中断し、彼の家に慌てて戻る。
そして彼のお姉さんのパンツを拝借して帰宅。

こんな初体験だった。

不登校

このへんも、若いころのエピソードだから面白くないけど、
段々面白くなっていくよ。
私のこと調べたくなるよ、きっと。



学校にいけなくなった子の為のフリースクールが今はある。
そんな感じのモノは当時あまりなかった。
でもそんなような施設があって、母が調べてきた。
そういう子のクラスがある中学があり、そこの教師をしていた人が、
その当時の担任だったのだ。

引きこもる私を連れ出し、母はそういう施設に連れて行ってくれた。
カウンセリングなども受けたりした。
そして、その中学校に通うことにしたのだ。

制服は着なくてよく、私服で電車通学。
遅刻しても良くて、授業はない。
ピアノを引いたり、卓球したり、、家庭科室で料理したりする。
要は、ヒトリにさせないように配慮されたクラスで、先生も引退間際の人2人と、
養護学校の先生の3人体制だった。
『相談指導学級』こう呼ばれていた。

中3になったころ、行けなくなった学校に弟が入学した。
『姉ちゃん元気か?』など、私の同級生から声を掛けられたようだった。
今思えば可哀想なことをしたものだ。
その当時はそんなこと思いもしなかったけども。

中3になると受験ってことが出てくる。
勉強もある程度しないといけない。
本来行く学校の中3の担任の先生が、タマに勉強を教えに来てくれた。
相談指導学級の行事にも参加してくれたり、非常にお世話になった先生。
偶然にも私と誕生日が同じだった。
でも彼はもう居ない。亡くなったそうだ。

勉強を少しづつ始め、制服を着るようになった。
相談指導学級の出席日数が、本来の学校の出席日数に加算されるというシステムだった。
それでも中2の引きこもり期間があったため日数が足りなくて、公立は絶望的だった。
当時、相談指導学級の生徒の中のエリートが行く学校があった。
単位制の学校で週4日出席する学校で、都内にあるという。
毎年卒業する生徒の中で1人か2人くらいが行くことができる私学だった。
そこを受験することになった。一応公立の一番レベルが低いところにも願書を出した。

そんなに勉強しなかったけど、なんとか合格出来て、公立は受けずにすんだ。
母は泣いて喜んでいたと思う。
私も、嬉しかった、本当に。