不登校 | ピクニック

不登校

このへんも、若いころのエピソードだから面白くないけど、
段々面白くなっていくよ。
私のこと調べたくなるよ、きっと。



学校にいけなくなった子の為のフリースクールが今はある。
そんな感じのモノは当時あまりなかった。
でもそんなような施設があって、母が調べてきた。
そういう子のクラスがある中学があり、そこの教師をしていた人が、
その当時の担任だったのだ。

引きこもる私を連れ出し、母はそういう施設に連れて行ってくれた。
カウンセリングなども受けたりした。
そして、その中学校に通うことにしたのだ。

制服は着なくてよく、私服で電車通学。
遅刻しても良くて、授業はない。
ピアノを引いたり、卓球したり、、家庭科室で料理したりする。
要は、ヒトリにさせないように配慮されたクラスで、先生も引退間際の人2人と、
養護学校の先生の3人体制だった。
『相談指導学級』こう呼ばれていた。

中3になったころ、行けなくなった学校に弟が入学した。
『姉ちゃん元気か?』など、私の同級生から声を掛けられたようだった。
今思えば可哀想なことをしたものだ。
その当時はそんなこと思いもしなかったけども。

中3になると受験ってことが出てくる。
勉強もある程度しないといけない。
本来行く学校の中3の担任の先生が、タマに勉強を教えに来てくれた。
相談指導学級の行事にも参加してくれたり、非常にお世話になった先生。
偶然にも私と誕生日が同じだった。
でも彼はもう居ない。亡くなったそうだ。

勉強を少しづつ始め、制服を着るようになった。
相談指導学級の出席日数が、本来の学校の出席日数に加算されるというシステムだった。
それでも中2の引きこもり期間があったため日数が足りなくて、公立は絶望的だった。
当時、相談指導学級の生徒の中のエリートが行く学校があった。
単位制の学校で週4日出席する学校で、都内にあるという。
毎年卒業する生徒の中で1人か2人くらいが行くことができる私学だった。
そこを受験することになった。一応公立の一番レベルが低いところにも願書を出した。

そんなに勉強しなかったけど、なんとか合格出来て、公立は受けずにすんだ。
母は泣いて喜んでいたと思う。
私も、嬉しかった、本当に。