スッキリとまとまっているダイニングルームで、ポコポコと香りのよい黒い液体が降りてくるのを二人はワクワクしながら見ていた。二人掛けのシンプルなテーブルに向かい合い、オスカルとアンドレは食後の珈琲を楽しむところだった。
今夜、スーパーマーケットでばったり会った二人は夕食を共にした。「おままごとセット」という、妙齢の女性にはいささかちぐはぐなプレゼントを貰ったオスカルは、アンドレを自分の部屋に招待した。
「今夜食べるつもりで、チキンのクリームシチューを仕込んでいたの。それでいい?」すまなさそうにたずねるオスカルにアンドレは破顔した。「もちろん!君の手料理が食えるなんて今日の乙女座の男は超ラッキーって、どこの占い師でも答えてくれるだろうな~!」
そう言いながら、彼はスーパーで買い求めたパンとお気に入りのチーズを取り出した。
シチューとパン、チーズとグリーンサラダに軽めの白ワインで二人のプチ・デイナーが始まった。テーブルの真ん中には来る途中でアンドレが買った花が飾られているので、ちょっとした贅沢感もあり、二人の会話も不思議なくらい弾んだ。
「お待ちどうさま。」 ジノリのやや厚手の白いマグカップにつがれたコーヒーがアンドレの前におかれた。「メルシ」そう言ってアンドレがテーブルに置いたのは、ゴディバのチョコレート。「嘘でしょ。私これ、大好きなの。」冷たく見える程整っているオスカルの顔が少女のようにほころぶのを見て、アンドレは嬉しくて笑ってしまった。
馥郁とした香りがなんとも幸せな時間を運んでくる。
「どんなに腹一杯になってもさ、珈琲は別腹なんだよね。」アンドレは言った。
「本当にね。でも、いつもはこんな風に楽しむことはないの。景品のマグカップにインスタントコーヒーを入れて、レンジでチン。パソコンの前で啜りながら調べ物。どうしたら悩める子供達を救ってあげられるのか、いつも模索してる。不思議だなあ、あなたといると時間が優しく流れていく。忘れていたような気がする、時間の流れが本当はすごくいとおしいものだってことを。」そこまで言ってオスカルはハッとして顔を赤らめた。
「ごめんなさい。なんだか物欲しそうな女だと思った?忘れて。」
照れくさそうに下を向いていたアンドレはキッと顔を上げた。
「何故、忘れなきゃいけない?俺だって同じことを考えているのに。」そして、ふと、彼は
不思議に思った。
「そういえば、ショコラは飲まないの?この前、ショコラを飲むと切なくなる・・・そんなことを言ってたよね。でも好きなんだろ?」
「そうね・・・作るのが面倒くさい・・・ううん、ちがう。なんだか自分の作るショコラ、
違うっていうのかな、自分が欲しいものと。」
「オスカル、ショコラの材料は、ある?」アンドレは立ち上がった。
「え・・・?インスタントココアと牛乳くらいしか、ないわ。」オスカルが答えると、キッチン借りるよ、と言ってアンドレは小鍋を火にかけた。
甘い香りが部屋を包む。「よかったら、飲んでみて。」アンドレが差し出すショコラの入った
カップをオスカルは両手で持ち、フーフーと冷ましながら、一口。
「美味しい・・・何かコツがあるの?」
「恋の媚薬・・・です。」真面目くさった表情のアンドレにオスカルは目を丸くしたが、
ほどなく二人、ぷっと吹き出してしまった。
彼女の部屋にはこれと言って装飾がない。それだけに壁に掛けられている艶やかな女性の写真がアンドレの目をひいた。
「この人って・・・あの伝説の大女優のジョルジェット・ノアイユ?」
「・・・・私の母。そしてレニエ・ド・ジャルジェ、映画監督の妻。」
「すごい。あの名監督と大女優の娘だったんだね、君。」
「映画、見たことあるの?母の。」
「見たも何も。俺は物心ついたころから親父に君のお母さんが出ている映画を何回も何回も見せられたものさ。お袋が親父と知り合ったのは、映画館でその映画を見ていて、二人とも感動のあまりポロポロと涙を流している隣同士の客だったそうだから。」
「うわあ、なんてロマンチック。」
「親父はね、社会の歪みや弱者がいることを世間に知ってほしいといつも言っていた。その反動か、ロマンチックな映画を見ることが何よりの楽しみだったらしい。」
「素敵なお父さまだったのね。」
「さてねえ。最後は流れ弾を食らいそうになった現地の子供を庇って死んだそうだ。立派だけどね・・・残された最愛の奥さん・・・俺のお袋の嘆きを見ていた俺は、親父を恨んだこともある。なんでも、『お父さんにはフランス革命の時、正義を貫いた新聞記者の血が流れているんだ.。』それが口癖だったよ。どうもね、あの頃の気骨ある新聞記者の末裔らしい、俺は。」
オスカルはその話を聞いて、目を丸くしていた。
「どうしたんだ?オスカル。ごめん、俺何だか湿っぽい話をしちゃったかな?」
「違う。違うのアンドレ。」オスカルは叫んだ。「私は・・・私にはわかる。あなたのお父さまの気持ちが。」
「オスカル?」
「私は・・・私の父の先祖は由緒正しい貴族だったそうなの。派手な事を嫌い、真摯に王家に忠誠を誓っていた。でも彼の子供の一人が・・・女性だったのだけれど・・・後継ぎとして
男性として育てられた。彼女はやがて、貧しい庶民が苦しみ、自分達貴族が恵まれた生活をしていることに矛盾を感じるようになって、やがてフランス革命では国民側についた・・・と
聞いているの。」
「オスカル・・・。」
「私も詳しい事は知らないのだけれど、当時はジャルジェ家の裏切り者として彼女の事は封印されていたそうよ。でも彼女の行いを尊いと思っていた彼女の姉の一人がね、手記に残していた。それは亡命先にも大事に持ってきていた宝石箱に入れられて代々、引き継がれてきたの。外気に晒されることもなく、丁寧な筆跡だったために、20世紀になってから、開けられても十分読めた。その潔い彼女の行動に私の父は深く心酔したの。そして・・・。」
「・・・そして、君も、その女性に感動したんだね?」
「うん・・・。私は小さい頃から背が高くて、運動神経がよかったから、母は女優の道を歩ませたくて色々な習い事をさせた。でも、色んなことがあって・・・私はいじめられている子供や悩んでいる子供を救う仕事がしたくて教育の仕事にすすんだ。多分、彼女の影響は私のDNAに刻まれているのだと思う。」
「そうだね、俺も君の清廉さを見ているとそう信じるよ。それに君が、女優にならないでくれて
本当に良かったって思ってる。」
「え・・・?」オスカルはアンドレを見つめた。
「たとえ芝居ってわかっていても、君が他の男とキスしたり抱き合ってる姿なんて想像したくない。その相手は。」オスカルの手をぐっと彼は包んだ。
「この俺だ。そうしてくれ。」夜の湖水の様な瞳が彼女を射止めた。
オスカルは大きく目を見開いた。そして顔を赤らめ、目をあちこちにさまよわせた。そこには怯え、迷い、そして喜びや恥じらいといった感情が混沌と入り混じっていた。
アンドレは椅子から立ち上がり、座っているオスカルを後ろからそうっと抱きしめた。
「強引過ぎたか?ゴメン。だけど君は、俺の恋愛感情の全てをかっさらってしまったよ。」
彼はそう言って、彼女の肩に顔を添えた。彼女はおずおずと彼の方へ顔を向け唇を近づけた。
やがて、若くせっかちにはずむ二つの唇は深く奪いあった。
二つの唇が名残惜しそうに離れると、オスカルは小さな声でつぶやいた。
「素敵な恋人がたくさん・・・いたんじゃないの?」
「付き合った女は何人もいた。でも、心が焼ける様な気持にはならなかった、今まで。」
「私は、付き合いベタだよ?洒落たお店だって知らない。」
「そんなことが関係があると?そんな君を愛してしまったんだ。」
オスカルはクッタリと、彼の胸に全体重をかけた。
「あちらで・・・君を抱きたい。」彼が目をやった先にドアがある。
「アンドレ、ごめんなさい。・・・私もそうされたいのだけど・・・さっきアレがはじまってしまって。」
そろそろ来る頃だとは思っていた。このドラマチックな展開に彼女の中の女の機能が猛烈な勢いで覚醒したらしい。
アンドレは少しの間、彼女を後ろから抱きしめほうッと息を吐いた。そして彼女の頭を
子供の様に撫でると頬に再びキスをした。
「わかったよ。じゃあ、その代わり1週間後に俺の部屋へ招待していいかな?」
もう!1週間ってそういう計算してる?そう思いながらも、オスカルは次の逢瀬にときめいた。
その時は、多分、彼に抱かれるんだわ。
「1週間後・・・ね。うん、約束する。」
別れを惜しみながら、二人はその日の夜遅く、おやすみなさいのキスを交わして
アンドレは部屋を出た。
まるで、たった今激しく愛されたかのように、オスカルは彼を送った後、熱いシャワーを浴びた。猛烈に溢れてくる彼への感情を冷まさねば、今夜は眠れない。
つづきます。