鏡シリーズ⑥ | cocktail-lover

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ベルばらが好きで、好きで、色んな絵を描いています。pixivというサイトで鳩サブレの名前で絵を描いています。。遊びにきてください。

七月の夕暮れは、まだまだ外は明るい。でも、古く立派なこの屋敷は、数日前から深い霧の様な重々しさに包まれている。
 
 屋敷の使用人部屋の中でも一番広く、庭の薔薇がよく見える場所に位置しているこの部屋には、手入れの行き届いた幾つかの家具が控えめに、でも誇らしく整えられている。咲き乱れる薔薇が見える窓には桜色のカーテンと愛らしいレースのカーテンが掛けられている。
そしてその窓辺には、すっかりと老け込んでしまったマロン・グラッセが布団に沈み込む様に眠っていた。
胡桃材のどっしりとした寝台にチョコンと眠っている姿は、まるで眠れる森のお姫様のようだ。しかし、かつてのふくよかな胸とぷっくりとした頬の丸い顔はすっかりと小さく細くなってしまい、起きている間はただただ涙を流すマロンだった。
 先月まではクルクルとコマのように働いていた彼女の一日が、少しずつ少しずつ眠っている時間の方が長くなっていく現実を周囲の人間は悲しく受け止めていた。

 今…夏の夕暮れが惜しむ様に光を差し込んでくれる窓辺で、マロンは目を開いていた。また涙が込み上げてくる。
 

「こんなことでは旦那様、奥様に申し訳ない。私は女中頭なのに。」そう自分に言い聞かせてマロンは寝台の脇の小さなテーブルの上の鏡を手に取った。
 

「なんてこったい。しわくちゃのばあさんだよこれじゃ。」自分の顔を鏡にうつしたマロンは、思わず顔をしかめた。そしてよろよろしながらも、若い侍女が用意してくれた水差しの水を洗面器に汲み、濡らしたリネンで涙と目やにを丁寧に拭きとった。ほんの少し…張りを取り戻した顔を鏡にうつしてみると、急に想いが込み上げてきた。
 

「アンドレ・・・・」マロンは未だかつてない優しい声で、孫の名前を呼んだ。もう、二度とは帰ってこない孫の名前を。


 20数年前、マロンの一人娘はたった一人の幼い息子を残して死んだ。それがアンドレだった。涙にむせぶ暇もなく、馬車で揺られながらプロバンスの娘の家にたどり着いたマロンの目にはいったのは、眠っているような娘の姿と、母親に追いすがり泣いている小さなアンドレだった。娘によく似た優しい瞳の可愛い孫を,マロンは思いっきり抱きしめた。

 数日をかけて、マロンは娘の家の片付けをしていた。小さなアンドレを引き取り、ベルサイユの屋敷に戻るためだった。そんな作業中、手に取ったのは懐かしい手鏡だった。
 

「あ・・・これは。」ろくな家財道具もないこの部屋で、もしかしたら一番の贅沢品であろうその鏡は、若き日の自分をマロンに思い出させた。

 マロンがジャルジェ家に奉公してから数年たった頃、彼女は当主の部屋に呼ばれた。当主は…つまりオスカルの祖父にあたる人だが…豪放磊落、情に厚くて屋敷の使用人からも慕われていた。
 彼はマロンが恐るおそる部屋へ入ってくると、満面の笑みを湛えて彼女に小さな袋を渡した。中には数枚の金貨が入っていた。
 

「こんな…こんなもの、頂くわけにはまいりません。」元来義理堅く、遠慮深く、昔気質のマロンは飛び上がるほど驚くとともに、剣幕と言っていいほどにこの金を辞退した。そんな彼女の反応を見て、当主はアハハっと笑い、暖かい口調でこう言った。
「マロン?お前は実に真面目に働いてくれているよ。でも知っているか?花の命は短い、という言葉を。これはお前の働きへの褒美だ。その金でパリへ行って、少しは身に付けるものでも買ってくるがいい。当主としては、お前の幸せを見守る義務もあるからな。」そう言ってマロンが運んできたショコラを美味しそうに飲んだ。
 優しいけれど、こうと言ったら後にはひかない当主の性格を知っているマロンは、恐縮しつつも彼の好意をありがたく受け入れた。そして数日後、同じく特別手当をもらったという同僚のマリ―と共に、精いっぱいのおめかしをしてパリの街に出た。若い娘が好みそうな洋服屋や、カフェが立ち並ぶ通りに佇む、一軒の小間物屋へと迷わず入っていった。お屋敷の用事でパリに出かけるたび、その店のウインドー越しに並ぶ数々の小物を陶然と見ていた二人だった。その日とて、さんざん思いあぐねたのだが、ビーズを散りばめた財布を購入したマリーに背中を押されて、マロンが買い求めたのは手鏡だった。丸い鏡の周りは可憐な銀細工で蔦と名も知らぬ花が咲いている。鏡の裏には真ん中に小さな小さなクリスタルの石が嵌め込まれていてそこにも蔦と花が彫られている。
 部屋には姿見があるが、当時はまだマロンには個室を与えられておらず、自分だけの手鏡が欲しかったのだ。
 

 それからというものは、マロンは朝に夕に、この手鏡で顔を整え、柔らかい布で鏡を毎日磨き大切にしていた。手離さなかった、一人娘が嫁ぐ日までは。娘はこの鏡で毎日髪を梳いてもらっていたが、嫁入り道具としてどうしても譲ってくれと母に頼んだ。娘の熱意に負けて、マロンは彼女にそれを譲った。そして今回、ばあやはアンドレと共に、この手鏡を大事に持ち帰ってきた。


 「帰って来たかったのかね、この鏡は。」マロンは孫の巻き毛を丁寧に梳きながら、思ったものだ。母親の死後、使用人見習い兼、お嬢様の護衛兼、遊び相手としてアンドレを引き取ったマロンは「見苦しい姿でご奉公するんじゃない。」と毎朝アンドレを椅子に座らせ、手鏡を持たせて髪を梳いてやった。「痛いよ、おばあちゃん。」と言いながらも、マロンに髪を梳いてもらうのが気持ちよくて足をぶらぶらさせていたあの子。そんな彼も、やがて私室をあてがわれるようになると、マロンの髪梳きの”儀式”は終わりを告げた。


 それから20数年が経った夏の夜。
 アンドレはマロンに感謝のキスをして、彼女の部屋から出ていった。
 それは、7月12日の夜。翌日はオスカルと共に、アンドレもまたパリへ出動するという日の夜だった。心づくしの手料理で、マロンはアンドレと水入らずの夕食をとっていた。鳥のハーブ焼き、洋梨のタルトといった懐かしい料理に舌鼓をうち平らげた後、アンドレは今まで大事にしてくれてありがとう、と礼を言うとともに、その夜オスカルの部屋へ赴くことをマロンに告げた。
「アンドレそれは…。いけないよ。だってオスカル様はまだ…それにあんたは平民だよ?それなのに…。」
「おばあちゃん。おばあちゃんの気持ちも言いたいこともわかってる。でも俺もオスカルも、もうお互いが離れては生きていけないんだ。それほど深い、精神の深い部分でつながっているんだよ。さっき、晩餐の時にオスカルから告げられた。『後で、私の部屋へ。』と。」
「…アンドレ…」マロンは孫を見据えた。
「さあ、今のうちに叩くなり、蹴るなりしておくれ。おばあちゃんの蹴りなら甘んじて受ける。でも、俺の気持ちは変わらない。」
アンドレもまた、自分の祖母を見据えた。
すると、マロンは自分の化粧台の引き出しから手鏡を取り出した。
「そこへおかけ、バカ息子。」
「お祖母ちゃん‥‥?」
「何だい?そのぼさぼさ頭。そんな…そんなむさくるしい姿でお嬢様の所へ行ってはいけないよ。」
そう言うと、マロンはアンドレに手鏡を持たせ、彼の髪を丁寧に梳き始めた。
 

櫛をいれるごとに、孫との楽しかった日々を想い出す。

小さなアンドレがオスカルにコテンパンにやられ、べそをかきながら自分に愚痴をこぼしたこと。
小さな手で、薪割を覚えて、褒めてもらったことを嬉しそうに話したこと。
庭師の手伝いで、薔薇に水を撒いていたら、奥様に頭を撫でてもらったことを得意げに話してくれたこと。

お前は優しく、逞しく成長したんだね。

涙が溢れそうになるのを孫に見られまいと、下を向きながら髪を梳いてやったマロンだが、彼女は気づかなかった。
手鏡にうつるアンドレの瞳から、大粒の涙がこぼれていたことに。

そして‥‥娘の死後、あの家にぽつねんと残されていた手鏡のように、マロンもまたアンドレの戦死と共にぽつねんと屋敷に残された。

”お前は今、オスカル様と共にいるのかい?”
あの夜、アンドレの姿をうつしてくれた鏡に向かってマロンは語りかけた。まるでアンドレがそこに居るかのように。

”そうだよ、おばあちゃん。安心して、二人とも幸せにしているから。そして俺達の分まで、長生きしてね。”そんな声が聞こえたような気がした。

マロンはそっと、暖かく微笑んでもう一度孫の名前を呼んだ。そして、そろりそろりとベッドからおりると、ゆっくりと身支度をはじめた。
「お前に恥じないように一日でも長く、旦那様と奥様のためにご奉公するよ。」
そしてマロンは、化粧台の前に座ると手鏡を持って、白い髪を丁寧に梳き始めた。

夏の空のはるか高く、オスカルとアンドレは懐かしい老女にあたたかく微笑んだ。

FIN.