本日は旧暦の四月一日ですが、仁徳天皇七年四月一日に仁徳天皇が出された詔があります。改暦は何度もありましたので、単純に現在の旧暦に当てはめていますが、この時期のことだったのはこれから農業が始まる春だったからだと思います。


仁徳天皇は、聖の帝として御歴代の天皇の見本とされてきた天皇ですが、それはこの詔の存在が大きいと思います。

 

その詔とは、「天の君を立つるは、是れ百姓(おおみたから)の為なり。然らば、即ち君は百姓(おおみたから)を以て本となす」。


「天皇は『おおみたから』のためにある」と詔されています。

 

「百姓」と書いて「おおみたから」と読みます。「百姓(ひゃくしょう)」が差別用語と言われて久しいですが、とんでもありません。「おおみたから」とも読む言葉が差別用語だなんて誰も思いません。そもそも日本語には基本差別用語はないと思います。むしろ差別ということが差別ではないかと思います。差別用語とは思考停止に陥った人の発想した言葉刈りで、私たちの言葉を奪うのを狙っているのではないか、と考えています。

 

 

その他にも「おおみたから」と読まれている民を表す言葉は、「元元」「民」「人民」「黎元」「兆民」「公民」があります。ほんのちょっと日本書記をめくって見つけただけでもこれだけあるのですから、他にも沢山あるかと思います。ここからわかることは、つまり「国民」も「おおみたから」であるということです。

 

民を「おおみたから」=「大御宝」と呼ぶような天皇のような御存在が当時はもちろん現代においても他にあるでしょうか?

 

その大御宝を想う心を「大御心(おおみごころ)」といいます。

 

現在も私達日本人は、そんな大御心で想われている大御宝です。「あなたは宝物」と言われて嫌だと思う人がいますか?ただ日本人として生まれただけで私達は宝物になってしまうのです。嬉しくまた有難いことだと思います。


仁徳天皇がこの詔を出された三年前に、民のかまどで有名な年貢の徴収を三年間禁止させる詔が出されています。この詔も「百姓(おおみたから)の窮乏を察し群臣に下し給える詔」となっており、民のかまどといわれるままの、「おおみたから」のための詔となっています。

 

そしてこの詔を出されてから三年後に、民のかまどの煙が増えたことを喜んで詔されたのがこの「天皇は『おおみたから』のためにある」という詔なのです。しかもここからさらに三年仁徳天皇は税の徴収の禁止を続けたのです。そのため宮の屋根の葺き替えもされず宮殿はボロボロになり天皇も窮乏しました。だからこそ、民のかまどから六年の後に税の徴収の禁止が解かれ宮が造られた時、民は昼夜を分かたず進んで材を運んで宮を完成させたのです。


そしてその翌年には「治水の詔」を出され土木工事が始まりました。仁徳天皇は民が豊かになるのを待ってから、今度は民をさらに豊かにし、水の氾濫を抑え稲作をより良くするための大土木工事を始め、それが現在の大阪の基礎を造ったといいます。そしてそのような大土木工事も民(おおみたから)のために行ったのです。


大御心とはなんて有難いのでしょう。


大御心の表れとして有名なものには、十七条憲法がありますが十七条憲法には「おおみたから」の言葉が13回登場します。

 

また崇神天皇の国体の詔にも「おおみたからを愛(めぐ)み育(やしな)う」とあります。

 

そもそも日本の始まりである神武天皇が、神武東征として日向(現宮崎)から橿原(現奈良)まで向かわれたのは、稲作の普及のため、人々が豊かになるため、つまり人々とは「おおみたから」なのです。だからこそ、各地でその稲作を教える期間とどまりながら移動したので東征の時期も長くかかっているのです。


ということは、日本は建国の時から「おおみたから」のための「おおみこころ」で建国されたおおみこころにあふれる国であったことがわかります。おおみこころにあふれるからといって、甘やかされた国であるという意味ではありません。自立自営のため、仁徳天皇も困難な土木事業のため人々を借り出しました。しかしその困難な仕事の後には、多くの収穫がもたらされ、少しでも生活が楽になっていったのです。そして、そうしたことをその後の歴史においても積み重ねてきたのが我が国の歴史、国史です。

 

こうしたことを皇室の家訓として読み解かれた『天皇と国民の歴史』。こうした教えが、形骸化した時代があっても、いつも基本に立ち返るための教えが潜在的に存在していたからこそ、たとえ窮乏するようなことがあっても天皇は存在し続け、また庶民もいざとなると天皇を頼みにしてきたのでしょう。

 

 

神武天皇の大御心を歌にした「あめのした」。こんな安寧な世界が表も裏もなく続くのが当たり前の日本になってほしいです。

 

こうした歴史が教えられないのはもったいないことです。ましてや、それを歪めるなど自ら己の首を絞めるようなものです。だからこそ、何度でもこうした話は機会がある度に伝えていくべきもの、とこのブログでは仁徳天皇のお話を繰り返しています。そうすること、先人達を知ることでその子孫である私達をも知ることができるからです。

 

すると、私達おおみたからは、おおみたからであることを誇りとして、そのおおみたからに恥じないようにしたいと考えるでしょうし、それを支えに意欲的になれるでしょう。つまり私達は大御宝として生まれただけで、他に生まれた人達よりも誇りと思え、意欲的にもなれるという幸運な環境にあるといえます。そしてそうした環境こそが、より良い生活を編み出し易い幸せな環境なのです。

 

人は意志力ではなく環境により造られると『FULL POWER』には書かれています。日本という環境が整っている国に生まれた私達日本人は、それだけで幸運な人間であり、そうした環境を作られてきた御歴代天皇の見本となられていたのが仁徳天皇です。

 

仁徳天皇について書かれている記紀

 

誇りをもって生きようと伝える「まほろばの国」

 

あらためてこの民の竃の時代をみれば、民の竃の時代は疲弊した民が復興する時代でした。復興のために仁徳天皇は税を免除し、民が豊かになった後に今度は豊かな国にするために課税し土木工事を行い国土を開発していきました。そして我が国のような災害大国では、同じことが為政者によって大なり小なり繰り返されてきました。現在の我が国の国土はそのようにして成ったものです。

 

そうした歴史を知れば、東日本大震災の時に課税されたのがいかに異常であったかがわかります。そしてコロナ禍やウクライナ侵攻に始まる世界的な物価上昇やインフラまでも値上がりしている中で、二十年以上景気後退し、人口も減少している我が国の為政者がなすべきことが見えてくるはずなのです。それができない、そのための努力ができないとしたら、日本のための為政者ではない、ということです。

 

 

大御心の表れた御製

後宇多天皇

いとどまた民安かれといはふかな

我が身世に立つ春の始めは

 

伏見天皇

代々たえずつぎて久しくさかえなん

豊葦原の國やすくして

 

後醍醐天皇

世をさまり民やすかれと祈るこそ

我が身につきぬ思ひなりけれ

 

光厳天皇

照りくもり寒きあつきも時として

民に心の休む間もなし

 

後花園天皇

よろづ民うれへなかれと朝ごとに

いのるこころを神やうくらむ

 

桜町天皇

思うにはまかせぬ世にもいかでかは

なべての民のこころやすめむ

 

桃園天皇

神代より世にはかはらで君と臣の

みちすなほなる国は我が国

 

後桜町天皇

おろかなる心ながらに國民の

なほやすかれとおもふあけくれ

 

光格天皇

たみ草に露のなさけをかけよかし

世をもまもりの国のつかさは

 

天皇陛下のお名前はその仁徳天皇の字からなっています。そのお名前は御尊祖父でいらした昭和天皇の命名によりますが、未来の天皇となるその皇孫のために、未来を言祝ぐ名前を贈られたのだと思います。それはそのまま令和の時代を生きる私たちへの言祝ぎでもあります。

 

なぜ天皇が祈られるのか?天皇陛下が、日々国民のために祈られるのは自発的であるからこそ素晴らしいと語る竹田恒泰氏。

 

日本は、有難いことに天皇と国民の紐帯が強い国です。それは、我国の色んな意味での強さの秘密ともなっています。そしてだからこそ、我国を狙い弱体化させたい輩はその紐帯を壊そうとしています。毎日毎日、皇室の誰彼かまわず中傷したSMSや週刊誌にて、あるいは片方はもちあげ、片方を貶めることが書かれ続けており、未成年者についてもいろいろあげつらっていることは見るに堪えません。質の悪いのは、持ち上げているように見せての下げ記事が多いことや、見当違いの憶測記事が多いことです。そして、天皇や皇室についてのある程度の知識がない、教えられてこなかった多くの日本人はそうした見出しからの印象を頭に刻んでいっていることでしょう。

 

私達をおおみたからとしてくれている、天皇と皇室の方々をお守りできるのは私達国民だけです。もし、天皇がいなくなったら、日本は日本でなくなってしまいます。そうしたことを私たちはもっともっと真剣に考えるべきではないでしょうか。

 

 

 

 

故郷がなくなった亡国の民の厳しさは、今も昔も変わりません。

 

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