シケた世の中に毒を盛る底辺の住民たち

シケた世の中に毒を盛る底辺の住民たち

リレー小説したり、らりぴーの自己満足だったり、シラケムードの生活に喝を入れるか泥沼に陥るかは、あなた次第。


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キョトン。
という顔を、実際に見るのはこれが初めてだ。
母親は、突然ドアを開けた息子に反応できず、ただただ、キョトンとしていた。
そのキョトン顔は、完全に朝方までここにいたはずのいよかんそのものだが、母親は気づいていないらしい。


「下で一緒にご飯食べる?」
「いや、いい。」
「そう、じゃあ、ここ、置いとくわね。」


野太いいよかん声でそう言うと、いよかん、いや母親は、階段を降りていった。


どういうことだ。
あいつは何を考えてるんだ。
おけら様が俺に道を指し示してくれた、という流れで何の問題もなかったのに。
無理やり再登場させたのが丸わかりの展開だ。


とにかく、いよかん顔の母親については、無視の方向で生活することに決めた。
俺は、このすね毛を武器にできる職業を見つけて、アリ達のように懸命に働いてみることへの希望を抱いた。
しかし、それとは別に、頭の隅にずっとあった不安が、形になって俺の心を侵食し始めた。


まずは、高校へ行かなければ始まらないのではないか。
どんな仕事をするにしろ、中卒では選択肢は相当せばまってしまうだろう。
せっかくやりたい仕事を見つけても、社会ではきっとのけ者にされてしまう。
それぐらいのこと、中学に入りたての頃から分かっていた。



隣町に住む父親の親戚に、高校を中退した兄ちゃんがいる。
いじめか何かでやむを得ず辞めることになったらしいが、
その親が心配して、俺の父親に仕事のあっ旋を何度となく頼みに来ていたのを、俺は知っている。


父親は同じように心配そうな表情をしながら「できる限りのことはする」みたいなことを言っていたけど、結局兄ちゃんは全然似つかわしくないとび職になり、足場から足を滑らして全身打撲。
入院する羽目になったと聞いた。


この兄ちゃんのことを俺は、意識的に考えないように、記憶の隅へ隅へと遠ざけていた。
「俺も、兄ちゃんみたいになったらどうしよう。」
そう考えるのが、恐かったからだ。


しかし今、俺は確実に、兄ちゃんに近い道を辿っている。
いや、高校を受験することもままならない現状では、それ以上である。


まず、兄ちゃんに会いに行こう。
今、どこでどうゆう生活をしているか、どんな希望を抱いているか、どんなことを考えているか、聞かないことには始まらない。
そんな気がした。


しょうがなく、いよかん顔の母親に兄ちゃんの居場所を聞くと、
濃い顔に満面の笑みで、俺を送り出してくれた。



兄ちゃんの居場所は、電車を乗り継ぎ、最寄駅から1分ほど歩いた場所にあった。
「牟田国際ビルヂング」そう書かれた看板に、大きなビル。
26階ぐらいはありそうな建物を見上げ、俺は目を見張った。

起きた瞬間、チクッとすねをかじられた気がした。
「いてっっ」
思わずすねをさすると、信じられない感触が手のひらに伝わってきた。
「うわあああああっっ!!」
自分でも驚くほどの大声を出してのけぞり、自分のすねを数分間、凝視した。

「お、おけら様。。」
そう、おけら様が乗り移ったかのような素晴らしい体毛が植え付けられていたのだ。
くるりと巻かれたその毛は、明らかに剛毛と言われる部類のもので、自分の皮膚からこれほど丈夫な毛が生え揃うのかと疑いたくなるような硬さだったが、俺にはおけら様が残してくれた、最後の希望のように思えた。

小学生の終わり頃から、徐々に周りの男子の中にわき毛が生えてくる奴もいて、
そいつらは自慢気にアクビと伸びをしながら、体操服の袖からはみ出たわき毛をさらしていたものだった。
そんな中、俺は背も低く体も貧弱で、体毛というとヘソから出ているやたら長い毛1本だけだった。
からかわれることはなかったが、毛のある者に劣等感を感じていたのは確かだ。

あ、もしかして。

ふと思いつき、俺はおけら様がそうしたように、すねの毛をまるめて引き抜いてみた。

おおおぉぉ。アリだ。アリンコだ。

俺自身が、アリを生産できるようになった。
そう言えば、寝ていたアリ達はどうなっただろう。
やぶ蚊を食って、元気に働いているかな。

アリの巣を覗き込むと、アリ達の様子がおかしい。
動かないのだ。

・・・当然だ。このアリの実体は毛だからだ。
死んだやぶ蚊と一緒に寝転がって起きてこない。

きっと、野に放したアリ達は、野生の小バエや蚊を食べて、今頃せっせと働いているだろう。

かごの中のアリは俺みたいなものだ。
ただの毛は、おいしいエサを与えられたって食べる術さえ持たず、その場所までたどり着くこともできない。
野に放たれたアリのように、好きなものを食べ、生きる為に働く。
それがどんなに幸せなことか、おけら様は教えたかったに違いない。

確かにこの毛むくじゃらのすねは呪いとしか言いようがないが、おけら様は、前向きに捉えれば
俺のやるべき道を示唆してくれる、カカシのような存在だ。

それにしても、いよかんには何の意味があったのだろう。
おけら様に色々指示されると不満そうな顔をしながらも言うことを聞くが、
ダンスに関してはおけら様に対する優越感がみて取れた。

そんなことを考えているうち、外はもう朝になっていて、階下から母親がご飯を作る音が聞こえてきた。

あんまり寝られてない気がするが、とりあえず飯を食おう。そう決めた後、聞こえてきた声に俺はぎょっとした。

「笑助、ご飯置いとくわよ。」

いつものセリフ、いつもの抑揚だが、1つだけ違う。
声が、母親のどちらかと言うと甲高い声から、聞いたことのある野太く曇った声に変わっていた。

「誰だ!」

とっさにドアを開けると、そこに立っていたのは、昨夜まで俺の部屋で踊って寝ていたいよかん。
に似た、母親だった。

「おめぇ、こんなところでなにしてんだ?」


すねの毛を丸めながら、不可思議そうに眉を寄せながら尋ねた。


僕は、飼っていたアリを放す場所を探していたのだという説明をした。


おけら様は、僕がアリを飼うことになった動機、アリを放そうと思った

動機についてしきりに尋ねてきた。


アリが野生の蚊や小バエをどう扱うのかを見てみたかったこと、
この山でアリの仲間を探して放し、しばらく一緒に生活してみたくなったことを
説明した。



「なんで?意味が分からん!
 アリを野生に放しちゃったら、蚊や小バエを巣の中でどうするか見えんけぇ!


 その虫かごの中に、蚊を入れたらいんじゃね?

 アリンコは俺が作ってやるけぇ。」


そう言うと、すねの毛を丸めて僕に見せてきた。


「ほら、アリンコ!」


そう得意げに言うと、おけら様はその毛で作ったアリンコをどんどん
虫カゴの中に、むしっては入れ、むしっては入れていった。


僕は、血を吸おうとしていたやぶ蚊を手の平でつぶし、虫カゴの中に入れた。


そうして僕とおけら様の共同作業が終わると、おけら様は興味深々と

虫カゴの中のアリを見ていた。


動かない…


アリは人間と同じで夜の間は休息を取るのだ。


そのことをおけら様に伝えると、


「なんでー?」と不機嫌そうに虫カゴを揺すった。


「そんなら、朝までおめぇの家で待つけぇ。」


あまりのやぶ蚊の多さと暑さに既にイライラしていた僕は、おけら様の
我侭を振り切るチカラもなく、適当にあいづちを打ちながら部屋へと戻った。


部屋に戻ると何故かおけら様の友達の”いよかん”もどこからか付いてきていた。


僕は、風呂の場所やテレビデオの使い方などを説明し、あまりの眠さに二人を放って
布団に入った。


二人は、最初部屋で変な振り付けのダンスを踊った。

おけら様は、いよかんの間違えには厳しかった…


ひとしきり踊り終えると、


「俺ら、明日朝早いけぇ~。いよかん目覚ましかけといて。」


そう言うと、おけら様は風呂にも入らず、僕の漫画を読み続けた。

いよかんは、風呂から上がると真夜中だというのに僕が録画していたトレンディドラマの

ビデオを見ていた。その後さらに、ドラゴンボールを見ていたのが、音で分かった…




朝、うるさい音楽が聞こえてきた。


「ぐごごごごぉ~」(いよかんのいびき)

「ラパパポカフェカ ポカカフェース…」(うるさい音楽)


5分置きにいよかんが起きて止める。


「ぐごごごごぉ~」(いよかんのいびき)

「ラパパポカフェカ ポカカフェース…」(うるさい音楽)


二人とも一向に起きる気配がない…

僕はだんだん腹が立ってきた。いったい、こいつらの生活のどこに目覚ましが必要だというのか…

しかも全然起きねーじゃねーか…


「ぐごごごごぉ~」(いよかんのいびき)

「ラパパポカフェカ ポカカフェース…」(うるさい音楽)


僕はまだ眠りたかったが、ついに我慢できずに、いよかんの目覚ましをぶっ壊すことにした。

決心し、目を開け起き上がると、部屋には誰もいなかった。

「ジリリリリ!」

最近あまり使っていなかった目覚ましが鳴り響いていた。


はて?

部屋を出るどころか、家を出ることにした。


出発は深夜だ。家族に気づかれぬよう、こっそりと。

虫カゴのアリ達を、外の世界へ放り出すのだ。


人に飼われた生物が野生に還る。ここに、俺が成長するための
ヒントがある気がした。



部屋には”待っていてください”と一言置き手紙を残した。

これは家出ではない。自分の殻を破るための、修行だ。




音を立てぬようこっそりと家を出ると、近所の通称”おけら山”へ向かった。


おけら山はキャンプ、バーベキューなどのスポットになっており、夏は人で賑わう。

しかし、初冬の今は、双眼鏡で野鳥観察を行う男がちらほらいる位で、ひっそりとしていた。




山には立ち入り禁止区域がある。

そこに立ち入ると”おけら様”の呪いをかけられるとの言い伝えは有名な話で、決して立ち入らない様、幼い頃からきつく言われていた。


俺はこの立ち入り禁止区域の奥でアリを還し、しばらく暮らす事にした。
誰にも見つからない為だ。




おけら山へ入り、”立入禁止”と札の下がっているロープの前で立ち止まった。


この奥は明かりもついておらず、三歩先も見えない状態だ。

持ってきたペンライトで先を照らすと、ロープをくぐり、自分の背丈以上の草木をかきわけ、立入禁止区域へ進入した。



小一時間程あるいただろうか。振り返ると後ろに見えていた明かりは既に見えず、辺り一面が
真っ暗となっていた。


「ここにしよう。」


独り言をつぶやき、土の上にどかんと座った。

ライトで土を照らし、山アリをさがした。

虫カゴのアリ達の友をさがしてやらねば。




ふと、黒いものを発見し、つまみ上げた。   アリではない。
よく見ると、このあたり一面、その黒いものでいっぱいになっているようだ。



「・・・・毛?」



ぞっとして振り返ると、後ろに人が座っていた。


その男は、毛むくじゃらで、すねのあたりの毛を手でぐるぐると纏め、ブチっと引っこ抜いては
捨てていた。
このへんに捨ててある毛は全てこの男のものだろうか。にわかに信じがたい毛の量だった。




「これ、全部おまえの毛か?」




俺はペンライトで男を照らし、聞いた。
めがねをかけている。いや、めがねが顔と一体化している。




「わし、おけら様じゃけぇ」




毛むくじゃらの男はそうつぶやくと、丸めたすねの毛を抜いてまた捨てた。





元々、小学生の時から、アリと遊ぶことが好きだった。




小さいカラダで大きな獲物を必死に運ぶアリをいじめたり、

なめていたアメ玉を放っておくと何秒で何匹のアリがタカってくるか

計測したり、踏んでも踏んでもなかなか死なないアリの生命力も、

魅力の1つだった。


外に出なくなった俺は、自然とアリに接触する機会がなくなり、

そんな楽しみも半分、忘れかけていた。




同級生が中学2年にあがった頃、良子先生が今度も担任になったことを

告げに来てくれた。

毎週、熱心に家へ通い続けてくれる先生に、母親も心を開き始めたのか、

リビングでお茶飲み友達のように話す笑い声が聞こえてくるようになっていた。




母親が何か要らないことを話すんじゃないかと、気が気でなかったが、

憧れの良子先生が家にいると思うだけでそわそわし、

あの石鹸の香りに誘われて、ドアを開けられるんじゃないかとさえ思えた。




良子先生は、数ヶ月に1度、プレゼントを買ってきてくれる。

最初に持ってきてくれたのは、ダパンプの新曲"Rhapsody in Blue"のCDだった。

もちろんその夜は、めちゃくちゃに暴れながら、大声でその曲を熱唱した。




"ヒュー巻き込む風♪ 君の髪から香る夢だぜ♪"




ある日のプレゼントは、アリの飼育キットだった。

薄い水槽みたいなケースの中に、土が入っていて、

横からアリの巣が見える構造になっているアレだ。




ドアの前にそれが置いてあった時、そのまま階段を駆け下りて、

良子先生に「ありがとう」「うれしい」と伝えたい衝動に駆られた。

だが、できなかった。まだ、俺には何か足りない。




しかし、アリを飼い始めた俺は、明らかに以前とは変わってきた。

心が、軽い。沈んでいたオモリが、浮かび上がってきたようだった。

アリの生きることへの懸命さ、女王アリへの忠誠、家族での助け合い、

その巣の構造にさえ神秘を感じ、食い入るように毎日、アリ達を見ていた。




俺は、アリにえさをやるため、母親に手紙を使ってあれこれ指示を出し、

しらすや煮干し、水などを与えていたが、

ネットで調べたところ、蚊や小バエなどを好むアリもいることを知った。




もっともっと、アリの働くところ、生きるところを見たい。

そうすれば、俺にもどんどん活力が湧いてくる。そんな気がしていたのだ。

野生の蚊や小バエなら、きっと、アリももっと元気になるだろう。

しかし、さすがに窓を開けただけでは採取することは困難だ。






中学3年生を控えた2年生の冬、とうとう、俺は部屋を出る決心をした。

アリのために。良子先生のために。

そして何より、自分自身のために。

ふわっと、石鹸の香りが階下から漂ってきた。そんな気がした。
昔、近所にいたおばあさんの家のトイレを借りた時、嗅いだ香りに似ていた。
少し古臭く、うっとうしいけど懐かしいあたたかさ。


そんな香りを身にまとって、金八先生さながらの熱血指導で有名な
良子先生は、母親と対峙していた。

「笑助君と、話をさせてください。」
「それが・・、今、あの子は、誰とも話したくないようで・・。」


俺は、ドアに耳を押し当て、2人の声を聞いていた。
母親は、多感な俺に気を使っているのか、先生を拒んでいる。
おっとりとして地味で素朴な母親にとって、
キビキビと生徒を指導し、しっかり化粧して香水をふりかけたような
同年代の女性は苦手だったのかもしれない。


しばらくして、根負けして諦めた良子先生が、帰る気配を見せた。
ホッとしてドアから耳をはずした瞬間、けたたましく大きな声が
俺の体の芯を震わせた。


「笑助くーん、先生、また来るから!!
今度は笑助君の大好きな、ダパンプのCD、持ってくるわね!!」



・・・聞かれていた。・・・聞かれていたんだ。
気づいたら、ベッドの毛布にくるまって、自慰行為に及んでいた。
俺が夜な夜な、街全体が寝静まった頃に大音量で歌を歌っていることを
良子先生は知っていた。
両親は、俺が当時流行の曲を聴いているなんて思ってもいないだろうし、
歌っていることだって、絶対に知らないはずだ。
まさか、ドアは閉めていたけど、窓は開けていたのかもしれない。
夜中に俺の様子を見に来ていたって言うのか。



良子先生!!良子先生!!!良子先生!!!!



入学後、1週間しか顔を合わせていない良子先生のおぼろげな
熟れたボディラインを無理矢理にフラッシュバックさせながら、
羞恥心と怒りの織り交ざった複雑な感情を
ダパンプの軽快なリズムに乗せ、激しく揺さぶった。


そういえば、俺が学校に行かなくなってから家に訪問してくれたのは
良子先生が初めてだった。
まー君からは最初のうち、何回か電話があったが、
ずっと居留守を使っているうちに音沙汰がなくなった。


「俺じゃなくたって、友達、いるんだろ。」


そう言ってやろうかと、電話を取りかけたが、できなかった。
まー君は、大人なんだ。俺よりずっと。
負け犬の遠吠えを聞かせられる程、まだ心の傷は癒えていない。


俺も、早く大人になりたい。
そんな焦燥と良子先生への想いが、俺を新たな道へいざなった。



それが、アリの世界だった。



死を覚悟したこの際、全てを包み隠さず表現しておきたい。


学校には行かなかったが、クラスの奴等が俺のことをどう思っているかはだいたい察しがついた。
いや、自分の想像が勝手に自己像を作り出していた。しかし、自意識なんてそんなものだ。

誰も他人の心は覗けない。自分で自分を作り出しているのだ。


何事にも引っ込み思案で臆病な自分、女の子からはダサイ奴だと思われている自分…

その一方。否定的な自意識を超越して、明るくクラスの中で自己表現する自分も創造してみる。

毎晩、そんな”鬱”の考えと”躁”の考えが繰り返された。


物音が静まり返り、他の生命達が眠りにつく頃、俺の魂はようやくそのような煩わしく
動き続ける”時間”、”大人になることへの焦り”から開放され、ようやく自由になる
のだ。


”躁”になる真夜中には、溢れ出す期待感や、たまりたまったリビドーを抑えきれずに、
部屋の中で当時流行の歌であった、「ダパンプ」や「ラルクアンシエル」を大声で歌った。
体を、力が尽きるまで動かし続けた。まるでピアノを目茶目茶に弾くように、その動きは
ビデオで撮ったなら、見るものに嗚咽のようなものを感じさせたに違いない。

それでも、鏡に映る自分のエネルギーを確かめることで自分の”生”を実感することができた。


自慰の時には、パソコンの音量を自分でも聞き取れない程の最小限にするような臆病さ
であったが、真夜中のその時間だけは羞恥心を忘れ、部屋の中で自己を露わにした。


そう… 僕は外の世界に出たかったのだ。


正確に言えば、部屋の中で過ごす自分への焦燥感、夕方近くに楽しそうに下校する同世代の
中学生達を部屋の窓からみたときの劣等感、まー君のように女の子と楽しく話せる男に対する
嫉妬、当時の僕の中でのアイドルであったテニスプレーヤーの「マルチナ・ヒンギス」への憧れ。
そんな感情をどうすることもできなかった。


小学校で対等だと思っていたまー君から感じた裏切られたような思いは、嫉妬であることに
前から気が付いていた。そしてタローの死が偶然であったことも…


僕は、神を憎んだ。この世界を創造した神も、この世界そのものも。全てが滅びればいいと
思った。同時に、この世界に対する誰よりも強い憧れをもっていたのだ。

僕は、決して静かな存在ではなかった。人間に存在するだろうありとあらゆる感情の要素が
他の誰よりも強いエネルギーを持ってミックスされ、辛うじて肉体という固体の中に収められていた。

出来上がる前の星のように…


否定的な自意識と羞恥心が、核爆弾のような僕の”外の世界に対する思い”を強く押さえ込んだ。
”時”がその殻をコンクリートより強固なものとして作り上げてしまったのだ。


いつでも出ていけるはずだった部屋の扉は、いつしか、厚く重くなり自分の力では動かせなく
なっていたのだ。もはや、自分から外へ出て行くのは不可能であった。


そんな折、おせっかいな女の担任の先生が、僕の家に家庭訪問としてやってきた…

タローがいなくなった夜、俺は生まれて初めての自慰行為に及んだ。
何の知識も参考文献も、もちろん肴になる対象さえなかったが、

力任せに掴み、衝動のままに振り回した。

庭にお墓を建てようと言う母親の言葉も聞かず、

泣くことも忘れ、自分の部屋にこもり、
体の奥から押し上げてくる「生」への計り知れない欲求を

抑えきれずに至った結果だった。

それまで、自分の周りの生ある者がこの世から消えてなくなること、

つまり、「死」に直面したことがなかった。

人は、いつか死ぬものだ。
という見識ぐらいはいくらかあったが、実際に冷たくなっていく様を何もできずに見ている、
あの索漠とした感情は、中学生になりたての俺には、

到底どこにもぶつけようのない大きなものだった。

まー君の裏切り、タローの死。
俺の大切にしようとするものは、全て離れて消えていってしまう。
それならいっそのこと、何も大切にしない、何にも関わらない、

決して自分以外のものに信用を預けたりしない。
そうすれば、俺は傷つけられることはきっとない。

そう考えるようになったのは、それから2年ほど経ってからのことで、
その当時の俺には、何か一つの事象について考えを巡らせる余裕なんて、

持ち合わせていなかった。

今、改めて思い返してみると、キッカケとなった出来事は全て必然であり、

この世界の動物として最低限の生理現象が、

年相応の一番柔らかい表現で提示されただけだ。

そんなことを言えるようになった今でも、きっと他人を信じることはできない。
仲良くなれそうな人がもし現れても、まー君やタローのように、

見えない部分を隠される不安や消えてしまう焦燥に駆られ、

心から信用することなんて、到底無理だと思う。

だから、俺は外へ出ない。出たくない。

20年以上も前から、俺は何も変わっていない。
俺は、誰にも傷つけられたくないんだ。




つい、今の自分の感情を登場させてしまった。癖は治らないものだな。
中学生の俺の話に戻ろう。

かくして俺は、ピアノも弾かなくなり、両親とも口を聞かず、

部屋に閉じこもりきりになっていった。

数千という月日をかけて、夕陽が日々沈むように、

日々スペルマと共に、朽ち果てていったのだ。

果たして、学校へ行かなくなった俺は、外には一歩も出ず、
自ずと、家にいるタローと接するようになった。

タローは、飼い犬だ。
物覚えのつく頃にはもう家にいたから、犬にしては大往生といった年齢だった。

それまで、母親に何度、散歩に連れていけと言われても嫌がり、
あまり撫でてやることも名を呼ぶこともなかった。
俺はタローが苦手だったのだ。

家庭内での優劣をはっきり態度で示し、
無垢な目で人を見つめ、臭い息を吐いて食事をねだる。
そんな潔いまでの狡猾さに、
子どもながら怯えのようなものを抱いていたことは確かだ。

特にタローも小犬の頃は気が弱かったのか、
事あるごとに吠え散らかしていたので、
単に噛まれたりしないか怖かったのもある。

特にその頃、まー君に裏切られたような気持ちでいっぱいだった俺には、
言葉を持たない犬でさえ、信用できないでいた。

学校に行くとまー君に会わなければならないし、他に友達もいない。
まして新しい友達を作ろうなどと思うはずもなく、
勉学への意欲はとうに失っており、
色々な感情や悪い妄想が頭の中を交錯して、
こめかみをドクドクと伝う血流の異常な速さが、
頭痛に似た痛みを伴って俺を苦しめ続けた。


いろんな嘘や言い訳をしながら学校を休むようになると、
母親から遠回しに、学校で嫌なことがあったかなかったか、など
詮索されるようになったが、
あくまで平然と、「鉄分が足りないみたい。」などと言い、
立ち眩みしたような演技をし続けていた。

そんな子どもの様子がおかしいことを母親はもちろん見抜いてはいたようだが、
無理に家から連れ出すようなことはせず、静観の態を貫いていた。

父親にも相談していたようだが、
のどかな片田舎に長年暮らしてきた温和な家庭しか知らない両親にとって、
俺のような、社会からはみ出しかかった異端児を軌道修正する術は、
到底なかったのだろう。

そのうち、家にいることが当たり前になり、
母親が買い物などで出掛ける際、タローの面倒を見させられることが増えてきた。

老犬のタローは、一度、庭へ出てしまうと家への入り方が分からなくなるらしく、
ご飯の時間になると、家の中でエサを食べるのだが、
入れずに軒下でくんくん鳴くのだ。
サッシをカラッと開けてやると、勢いよく家に走り込み、
俺の足元で回り出す。
それが面白くて、何度も助けてやっているうちに、
タローの俺に対する態度が変わってきた。


学校へ行かなくなって1ヶ月が経ったある日、
久しぶりにピアノを弾いてみようと思いたった。
暗くなる気持ちをどうしていいか分からず、
何をするでもなく過ごしていた俺にもまだ、
その頃はそんな前向きな感情が残されていたのだ。

何となく、ドナドナを弾き始めた。
自分で自分をいじめるように、暗く物悲しい曲を黙々と弾いた。
楽譜がなかったので途中で手を止めたが、その手の先、ピアノの真下に、
タローが佇んでいるのが目に入った。

タローは、売られ行く仔牛たちを見届けるように、
前を向き、じっと動かず、ただ荒い息を吐いていた。
心なしか、観客がいてくれている安心感が湧き、
俺は再び同じメロディーを奏で始めた。

小学生の頃、ピアノ教室へ行っても、母親が側にいないと何度となくミスをし、
不安感からか、泣き出してしまうことも多かった。
横に立っていてくれているだけで、随分となめらかに手が動いたものだった。

今、タローが同じ役目を果たしてくれている。犬でも家族なんだ。
「よし、今日はタローと遊んでやるか」
苦手なものに立ち向かう、いや、調和する、努力をする気になっていた。
そんなことを考えながら弾くドナドナは、先程までの印象とは
遥かに違った曲に聴こえた。


足の先に硬いものが当たった、その時までは。

俺、笑助。いわゆるニート、38歳。


第1回目では、俺のこれからやろうとしていること、

そして、その途中までを時系列順に書き、次回へ続くとした。

今日は第2回目ということもあり、通常、続きを書くべきなんだろうが、

少し、補足をしておきたい。俺のいつもの悪い癖だ。



現在、俺は、仕事もせず、これといった趣味もなく、

暇なのでとりあえず、ネットサーフィンなどをして1日を過ごしている。

日々の生活資金は、70近くになる父親の、早朝からの駐車場管理の

アルバイトと年金で、賄われている。

母親も、60半ばで健在だ。俺の分の食事も3食、毎日作ってくれている。

ただ、思春期の頃から、一度も食卓を共にしたことはない。

もちろん、俺がリビングへ足を踏み入れていないだけなのだが。

毎日、同じ時間、同じ場所に、俺の食事を届けてくれて、

同じ場所に食べ終わった食器を置いておくと、いつの間にか片づけてくれている。

そんな生活が25年間も続くと、当たり前、いや、日常の一部と化してくる。


はっきり言ってしまうと、俺は、今回、自伝を書く気になるまで、

両親に感謝などしたことはなかった。

「してくれている。」などと、先ほどからさも、ありがたみを感じているような

書き方をしているが、ほんの数週間前まで、「平常通り、やっている。」程度の認識だった。

俺に自伝を書かせるに至ったきっかけは、今後、順を追って書いていきたいと思うが、

俺の現状は、このような、社会の底辺以下の状態であることを知っておいてもらいたい。



さて、中学生になった俺は、当然、今まで通り、まー君との

虫取りやカードゲーム、テレビゲーム、ガチャポン、ガンダム合体遊びなどを

しながら、平和な中学生活を送る気でいた。


まー君とクラスは別々だったが、小学校の時も同じクラスになったことはなく、

お互い、新しい環境にすぐ馴染めるタイプではなかったので、

何度かクラス替えはあったが、それでもまー君以上に気の合う友人はできなかった。

もしかしたら、俺だけがそう思っていて、まー君としては無理矢理、俺に付き合ってくれて

いた可能性もあるが、当時から思い込みの激しい性格だったため、

当然、まー君にも、俺以外に気の合う友人がいるなんて、微塵も思っていなかった。



入学式のちょうど1週間後だった。今でも鮮明に思い出せる。

まだ花びらが散り切れていない桜の木の下で、俺はまー君を待っていた。

待ち合わせ場所として、何となく分かりやすい場所、ということで決めたのだが、今思えば、

花びらが散って緑の葉がしげり始めると、もしかしたら目立たないのかもしれなかった。


授業が終わり、ゆっくり教室を出て、だいたい15時半には落ち合えることを

この1週間で分かっていた俺は、40分を過ぎても出てこないまー君に、苛立ちを覚えた。

どんくささは天下一品で、2度も忘れ物をして、教室に取りに帰ったかと思ったら、

最初に取りに行った忘れ物をまた置いてくる、といったこともよく目の当たりにしていた。


「いつまで待たせる気だよ。」

小声でつぶやきながら、まー君の教室へ足を向けた。

その日は早めに帰って、FFⅤのパーティの職業の組み合わせについて、

お互いの分析結果を報告し合う日だったので、楽しみにしていたのもあり、

いつもなら少々待とうが気にもしないところを、教室まで迎えに行ったことが間違いだった。



まー君が、女の子と2人で話し込んでいた。

確か、小学校も同じだった、なんとか原、とかいう名前の子だ。

それまで、まー君が、俺以外の同級生と話す場面を見たことがなかった。

ましてや女の子と対等に、いや、むしろ主導権を持って話している、

そんな様子を、テレビの向こうの映像かのように錯覚しながら、扉の外で突っ立っていた。


急に、女の子が泣き出した。まー君が泣かせたわけではなさそうだった。

小学校2年生の時、まー君が、茂みでお尻を拭きながら泣いていたことを思い出した。

吹き出しそうになるのをこらえ、回想から頭を戻し、もう一度、目を2人に向け直すと、なんと、

まー君が、女の子の頭に手を置き、ぽんぽんと、なぐさめてあげている。

「!!!!」


衝撃だった。大人の男の手に見えた。まー君の手だ。

昨日、一緒にカードゲームをして遊んでいた時、冗談で

俺の欲しいカードをまー君のカードホルダーから抜き取って天高く持ち上げると、

まー君は小さい体を跳ねさせながら、一生懸命、女の子のような白い手を伸ばしていた。

その手が、今、人を癒すべく、なぐさめるべく、異性の頭に伸びている。



思わず逃げ出していた。

もしかしたら、世間一般では大したことではないのかもしれない。

ただ、俺は、38歳になった今でも、目の前で泣く女の子に手を伸ばすことはできないだろう。

そもそも、俺の前で悔しさや悲しさなどをあらわにするような関係の人間は、周りにほとんどいない。

それは、俺の器の問題でもあり、人間関係の構築がうまくできていないからだ。


中学生になったばかりの俺にとって、いつまでも幼く、弟のような存在だったまー君が、

俺の知らないところで大人になっていた。

本当なら親友として喜ばしいことであるはずが、俺こそ幼く、下を見ることによってしか、

生きていけないような人間だったのだろう。

とにかく、この「頭ぽんぽん事件」は、卑猥な響きを持って、俺を執拗に固い殻へと閉じ込め続けた。


まー君との付き合いもだんだんと薄れるようになり、いつしか俺は、学校へ行かなくなった。