アキラの映画感想日記

アキラの映画感想日記

映画を通した社会批判

JaniJani

 

 

長州ファイブ

 

別れのカットバックについて、あえて基礎的なモンタージュを厳密に語ってみよう。男が歩く足下と女が歩く足下のカットバック。どちらのショットも人物がカメラの前を通り過ぎる。あのショットではカメラが人物の前方にあってはいけない。映像文法上これではすれ違いの表現になってしまう。それどころか前方から捉えてる秒数の方が長いので出逢いの表現にすら見える。レンズの選択上、フィックスのカメラじゃこのショットは充分な長さを撮れないからこそ通り過ぎる足下をパンしたのだろうけど、こーゆーショットこそちゃんとレールを引いてトラックアップしながら撮らなければ。(ぬかるんだ地面の状態からしてドリーやステディカムじゃキツそう)ストローブじゃあるまいしそこまで厳密にしなくても前後関係やナレーションで充分説明されたるからええじゃないかって理屈も通る。でも、そーゆー妥協の積み重ねで映像自体は力を失っちゃうんだよね。

 

この人も最近は量産だなあ。とは云え前作から今作の間に園子温は三作も発表してる訳だけど。そりゃ園子温や三池崇史と比べちゃうと遅いけど、ちゃんと取材して撮る作家にしては早い。前作『アダン』からまだ半年位しか経ってないのにもう新作。実在の人物を好んで撮るって特徴の他にも五十嵐作品にはエイゾチズムを追うって特色がある。移民から見た日本や東南アジアだけでなく英国もその対象なのだろう。だからこそ一般的に興味深い伊藤博文のエピソードを省いて英国に残った人を中心に追ってる。それを差し引いてもエピソード自体はどの話も単にその後の彼らの活躍から逆算されたって感じで特に印象には残らない。印象に残ったのは船長が日本人を指した”JaniJani”の愛称。同じ島国同士どっか憎めない英国人。

Peer Gynt

 

 

半次郎

 

五十嵐さんが『長州ファイブ』に続いて再び幕末の英雄譚を描き出す。

これまたEXILEのAKIRAが主演って事で仕事の関係で拝見。

今回は不自然なほどにカッコ良く描かれ

『レジェンドオブフィスト』よりはちゃんと活躍していた。

まあ社会派監督として明治維新に至るまでの

日本の史実は重要かもしれないが

五十嵐さんの作品の多くは達観的でイマイチ意図が伝わらない。

"ソルヴェイユの唄"の平原綾香バージョンはなかなかナイス。

貧困を覆い隠すオタク文化

 

 

完全なる飼育 メイド、for you

 

かつて新藤×和田で始めた拉致監禁シリーズに深作Jrも挑戦。元祖誘拐犯たる竹中直人は今作では犯人が務めるネットカフェのオーナーとして出演。題名からも分る通り今作の舞台は秋葉原でいかにも健太作品らしく時代性を反映した面も多い。ヒロインがメイド喫茶勤務でネットカフェ難民ギリギリの貧しい失業者たちやリストラ親父。一般的にオタク文化とされる中で貧困にあえぐ若者たちという時代性を反映した現代のロマンポルノとでも呼ぶべき内容。

 

一般的にアニメやゲームを大量消費してる連中がオタクと呼ばれる変な傾向があるけど平成初期の映画オタクとしては奴らをオタクとは認めたくない。なぜならアニメやゲームがここまで文化として認められた時代にアニメやゲームにハマる連中は単なる皆がやっている事を追いかけるだけのミーハーだからだ。PVやCMや映画の仕事よりアニメやゲームの仕事の方が大量に入って来る今のクリエイティヴ業界の実感からすると、そっちの方文化の中心になってしまった。むしろ今の時代だったら絵画等のオールドメディアにハマる方がよっぽどオタクと云える。アイドルオタクとかにしても男性が女性に興味を持つのは当然の生理であり、それはオタクと呼ぶにはあまりに大衆迎合的。本来電子工作オタクや数学オタクのように知的好奇心を追求してノーベル賞撮るような連中こそオタクと名乗るべき。マジョリティの嫉妬による迫害を覚悟して自らの道を歩む有能なマイノリティこそオタクなのだ。

 

三枚目のキモいリストラ親父が警察無線を盗聴して警察より先に主人公たちを襲う所とかあからさまに時間軸おかしいだろってなご都合主義がやたらと目立つ内容ではあったけど、やはり普通に客が入っているネットカフェの一室に監禁という簡単に見つかりそうな設定はなかなかスリリング。イマイチ彼女が誘拐犯に心を開くきっかけは分り辛かったが、ヒロインのバックにも貧困という闇がある事だけで結構説得力を持ってしまう。まあ基本的にコスプレのソフトSMプレーに導くための御都合主義のポルノというジャンルの仕事なのだろうけど、なかなか誘拐サスペンスとして楽しめる内容ではあった。

3.11と原爆

 

 

夏休みの地図

 

いわゆるご当地映画…と呼ぶには少々メージャー過ぎる都市ヒロシマ。かつてそこで『仁義なき戦い』を撮った深作欣二を継いで息子の健太が現在のヒロシマを捉える…というのは後付けの理屈で単に鴨さんの企画モノに乗っかっただけ。子供たちを中心に地元民の個性を引き出し、そこから脚本を構築するという半ドキュメントに近い作風。近々失われてしまうものを映像に残す事が目的だから物語から外れた部分もある。それは被爆証言。地図を作るという宿題の為の取材であってリポートを作る訳でもないのに少年は地元民の証言を集めて回るのだ。そして物語には東日本大震災についてもヒロシマの原爆からの復興に自分の街を重ねる転校生という形で強引に絡めてある。だから脚本としては実に散漫。企画としては面白いけど。

 

まあ『僕たちは世界を変えることができない。』にしても普段リティパニュが扱っているような歴史の再認識や社会問題を散漫に描き散らしたパンク感があっただけに、これが健太という映像作家の個性なのかもしれない。スタイルという父とは別の形で弾けている。脚本としてはとても褒められたものじゃないが作家としてのパンク精神(とにかくやってみる精神)は嫌いじゃないし、映画を作るスタイルとしても機材の進歩で手軽に映画が撮れるようになった現代ならではの合理性があって軽快。構成を周到に作り込む事も大切だけど対象から弾け出すバイタリティを捉える事は実写ならではの強み。これを活かす事こそがドキュメント的手法を劇映画に取り入れる理想の形に思えるのです。インプロヴィゼーションを最大限に引き出す是枝さんや諏訪さんのようなスタイルに健太氏も足を踏み入れたかって感じです。

適切なポジション

 

 

延安の娘


<池谷薫監督について>

監督本人は『蟻の兵隊』とこの作品の共通点を「真実を追い求める人間の姿」と語っているが、あえて客観的にフカンしてみましょう。共通するキーワードは中国、老人、記憶って所だろうか。つまりは20世紀の激動の時代の犠牲となった証言者たちが引退によって箍が外れて被害を訴え始めた。それを拾って彼らなりの決着の付け方を追って映画にしている。これが大まかには池谷監督の方法。本人も語る通りその方法によって見えるのは歴史の細部であると同時にそこに生きた個人。証言と正確な史実との照らし合わせをきっちり入れてる律儀さにはいかにもTVドキュメント業界で叩き上げられた真面目なスタンスを感じさせられます。

 

<下放について>

私の親の世代(1940年代生まれ)は当たり前に知っている時事だが、私の世代では学校の授業でも意外と扱われなかった中国近代史なので一応触れておきます。下放(下卿)とは文革の一環として毛沢東が推奨した政策のひとつ。都市部の学生たちを辺境の農地に送り込み開拓の肉体労働に従事させた。文革も末期になると上層部の腐敗で不正が蔓延り今では悪政のひとつとも認識されています。ただ経済自由化で第一次産業が廃れた事と人口爆発で陥っている現在における世界的規模の飢饉の現状を目の当たりにすると一概にこの政策が間違っていたとは決め付けかねます。辛い労働に耐えてでも開拓せねば誰かが飢えるのです。経済的な勢いを失いつつある現在の日本にとっては他人事ではありません。食品価格の高騰で低所得層の食卓からはおかずが減る一方。日本政府には弱者切り捨ての障害者自立支援法や後期高齢者制度で事実上の間引きや姥捨て山状態でツケを埋める前に願わくば農民をもっと優遇してニートや役立たず官僚を下放して第一次産業を活性化させて欲しい所。

 

<作品について>

この作品の映像はまるで劇映画みたいに撮られています。池谷氏によれば対象者が皆顔見知りで、その中でもメインに扱った男性が仲間内のリーダー格だったのでカメラに対して皆が協力的に演じてくれたそうです。当然ながらドキュメントなので本人が事実を再現していてアドリブも大いに使われています。それにしても多数のディスカッションでのカメラポジションの取り方はとても上手く色っぽい。恋愛御法度だった下法先で生き別れた娘と父親の再会をセッティングしてそこに関わる人々から下放の詳細を炙り出す。革命の聖地でもある延安は特に下放した若者への監視も厳しく女子の妊娠が発覚すると中絶させられたそうです。だから密かに生んだ子は農家の協力で隠された。異議を唱えれば反革命のレッテルを貼られ更に辺境へと飛ばされる。そうやって離ればなれになった人々が集まり過去を明かし溶かされてゆく蟠り。その一方で実際に革命を行った後期高齢者世代は笑いながら語る。「奴らが従事していたのは単なる肉体労働じゃないか、パルチザンとして呑まず食わずで山中に立てこもり実際に命をかけて革命を戦った我々の苦労に比べれば屁でもないわい」

若い世代と出会う

 

 

蟻の兵隊


先日、某左翼新聞が靖国に関する天皇ヒロヒトの発言を公開し波紋を呼んでいるが、皮肉にもこの作品やソクーロフの『太陽』にとっては良い宣伝効果になったのではないだろうか。冒頭に靖国で初詣に来た女の子達と話しジェネレーションギャップで笑わせてくれるシーンがあるが残念な事に映画としてはそこだけで完結している印象がある。このドキュメントの肝は欲望の変化に迫れていないから純粋に若い世代との出会い以上の地点には至っていない。現地の中国人たちの言葉は主人公の中に何かしらの変化をもたらしているかのように見えたが、その部分が帰国後の行動で見せていないのは残念だ。撮れなかったのだろうか。

 

初日はシアターイメージフォーラムの前に蟻の様な老人たちの長蛇の列。大東亜戦争の生き残り組だ。一体どこで情報を仕入れたのか公開初日にちゃんと集まり戦友会状態。この世代は戦争を肌で知っている。虐げられもせず分るふりをして戦争を体制批判の道具にしてる偽善者とは違う。とは云え、この作品の主人公は終戦当時初年兵。つまり敗戦前の土壇場で召集され大陸に送られた。だからまだ戦争経験者としては比較的若い。ところが彼らは終戦後A級戦犯が東京裁判を逃れる為にマッカーサーへの口利き料として国民党に売られた。どこの上層部にも豚はいる。国家の財産である軍隊を横領し賄賂にするとはとんでもねえ売国奴だ。

 

この作品は反戦ってよりも戦後国際犯罪の告発。重大な国際法違反を恐れた政府側が沈黙するのも仕方ない。もし彼らが騙された通り天皇陛下の為に戦っていた事を認めて賠償したら日本国家の犯罪になってしまうのだから。前作やこの主題からしてこの監督はAP系かな?中国には詳しいけど日本に暗い印象を受ける。日本国内を中心に報道やドキュメントに関わる人だったら高裁前で止められる映像なんてあまりない。あえてやる事はあるけど古くから日本の報道の常識だから。撮る側に今風の軽さを感じるのは魅力だが、この主題はやはり遅過ぎる。同じ大東亜戦争の棄民を追う話でも『無法松故郷に帰る』には到底敵わない。

末期資本社会に抗え

 

 

パラダイス 人生の値段

 

ドイツのデストピア系SF映画。米国で社会課題をSFとして描く作家といえば近年ではアンドリューニコルが有名だが、その作風に近い内容。特に今作は『タイム』にソックリな設定です。ただ米国産と違って欧州産は多少なりとも文学的。今作で商品化されてるのは単純な寿命だけではなく若さ。それもドイツ周辺の東側途上国の難民から市民権と引き換えに搾取している。そんな卑劣な市場を始めた民間企業に勤めるエリート社員が高級住宅の火災でローンの担保にしていた妻の若さを40年分失った事から社長を狙った誘拐事件を起こし寿命の売買に抵抗するテロリスト側に流されてゆく。それまで散々搾取して来た側でも自分が収奪される側になると変わるものです。この主人公は典型的な微温湯人生タイプなので痛みを知るまで分らなかったのだろう。そして他人事になってしまえばポリコレやコンプラを並べようとする。ただ最後のナレは本心だろう。この男は子供を持ち損ねたという犠牲を払った。だからこそ自分の子供ではなく未来の世代全般の為に命を捨てる側に回るのだ。どちらにせよ大切な人を失えば誰もが特定の誰かではなく信念の為に命を捨てる無敵の人=アローンガンマンになってしまうのだから。

 

この作品中には寿命を商品化する事の先に人間の奴隷化もあるみたいな事を云う奴がいたが、それは大昔にマルクスが危惧した現象の一部。米国のニコルは時間の商品化のほかにも『ガタカ』で格差社会を『シモーヌ』でフェミニズムを『アノン』でメディア問題をと様々なテーマを扱っているようにも見えるが、その根底は一貫していて全ての問題が資本社会の自滅局面で起こる現象としてマルクスが提示していた問題です。あらゆるものが商品化され巨大資本に収奪され庶民が生きる術を失い生産不可能状態になりプロレタリア層のみならず、その恩恵を受けていたブルジョワ層も破滅する。そんな自滅に抗う知恵が人類にあった前世紀ではナチズムやファシズムやコミュニズムによって国際巨大資本に全てが踏み潰される末期資本社会に抵抗した。それが必要な局面が今再び目の前に迫っているが痴呆化した現代の人類は頑なに目を背け続けています。この映画は皮肉を孕みつつもテロリストを肯定する側面がある訳だが、それは当たり前だと云いたい。クズやバカでなければ「テロリストにならねば次世代を救えない」と考えるのは当然の歴史的局面に我々はいるのです。

ブルジョワ還って来んな

 

 

プロジェクト:ユリシーズ

 

ドイツのアポカリプス系SF映画。環境変動で住めなくなった地球を捨てた一部エスタブリッシュ層が生殖能力を失って、それを取り戻す為に地球に帰還。厳密には女性の生理が起きなくなったらしく生殖の為に地上で生き残っている少女たちを拉致して自分たちの子供を産ませるという何とも胸糞な方法で生き残ろうとしている。この物語のヒロインは純粋に生殖能力を取り戻す調査と信じて地球へ向かうが、そこにでは消息不明となったはずの父が捕えられていた。どうも同族のやり方に反感を覚えて原住民を守る側に回ったらしい。マトモな倫理観が残っていれば当然の判断です。とにかく地球に取り残された庶民からしてみれば「ふざけるな」って話ですよ。この地上の資源を食い潰してイナゴのように新天地へ移った盗人どもが還って来て子供を性奴隷にするんだから。それこそテメーのエゴを剝き出しにする前に「地上の人類が生き残っているなら異星へ逃げた我々は絶滅しても構わない」とか「子供を産めなくなったのは天罰なのだと諦めよう」位には謙虚に考えて欲しいものです。

 

それこそコロナが蔓延した時にも我々ロスジェネは「天罰キタ――(゚∀゚)――!!老害ざまー」と思ったものだが卑劣な老害どもは誇大広告を流し自粛を強制し若者を経済圧殺する事で保身を図った。クズは何処までも性根が腐っているのです。この国を食い潰した戦後の親米売国奴老害は女子供殺し。それに近い薄汚さを今作の調査隊にも感じました。テメーらだけ勝手に逃げておいて生き残りの為に戻って来て子供をさらうって今のネオリベ連中並に鬼畜外道の人非人。生殖能力なくなるのも神の意志なんだから甘んじて受け入れ絶滅しろよ。だがこの手のウジムシ連中は私利私欲の為なら道理を捻じ曲げる。それこそ今の鬼畜米に似ています。ただただ腐敗堕落して負け犬と化したのに、その現実を受け入れられずにポリコレ振り回す老害暴力装置。庶民としては、この手のクズは地球から消えて欲しい所です。そんで2度と戻って来ないで欲しい。ブルジョワって人種は土地に根差してるから資本家としての価値があるのです。それこそ文字通り大地を捨てた連中は百害あって一利なし。そんな連中は野垂れ死ねば良いのです。だが鬼畜米がそうであるように連中はテメーのエゴの為ならいくらでも庶民を殺す。そりゃ地元民に殺されても文句は云えません。この手の連中は害虫なので問答無用で叩き殺しましょう。

オージー魂

 

 

マッドマックス 怒りのデス・ロード


今更の続編でメルギブソンもユダヤ人に干されて年食い過ぎたせいかキャスト交代って事でスルーしてたけどwebで拾ったので拝見。渡米して以降ジョージミラーは『ベイブ』シリーズだの『ハッピーフィート』だのCG使いまくって無臭殺菌された子供向けの動物映画ばかりで野性味が失われていたので期待してなかったけど、これは意外にも初期を思い出させるというかマルケイの『レイザーバック』やらプロヤスの『スピリッツオブジエア』等の80年代オージー映画を思い出させるようなアングラ感があって見世物小屋的には楽しめました。

 

その一方でキャストの方は当時の役者と比べて野性味が薄れてる気がします。それこそ日本で時代劇が似合う役者がいなくなってるように全体的に妙に清潔感のある上品な表情の作り方になっちゃてます。いくら虫を食うという指示を受けても殺さないように歯を立てないで口に入れてたりして。それにしても、いくらタイトルに名前が入ってるとはいえ、この主人公ってマックスである必然性があったのだろうか?むしろキャストを変える位なら世界観だけ引き継いだ反逆話にした方が無理がない。ちなみに、この副題を聞くと安保法制の際にヒゲの隊長の詭弁に突っ込みを入れるあかりちゃん動画を思い出してしまいます。

 

 

ヘリコプター男

 

 

マッドマックス/サンダードーム

 

シリーズを追う毎に残酷さ過激さの面はパワーダウン。

いきなりアポカリプス系にシフトチェンジした

前作にも火あぶり描写とかでギョッとさせられたが

今回は割と安心して見ていられる感じです。

ティナターナーの悪役っぷりが話題になったが、

むしろ前作に続いて子分ポジションの

ブルーススペンス演じる出っ歯でブサイクな

空飛ぶヘリコプター男の方が印象に残りました。