アキラの映画感想日記

アキラの映画感想日記

映画を通した社会批判

大艦巨砲主義

 

 

アルキメデスの大戦


「数字は嘘をつかない」だが嘘つきは数字を使う。いわゆる大東亜戦争の敗戦を分析する上で戦後幾度となく左翼メディアに検証された論旨、大艦巨砲主義の幻想を具体的にマンガ化したものを山崎貴が実写映画化。思想云々ではなく単なるCG屋の山崎だけあって同じ大東亜戦争でも百田みたいな国辱ゴミウヨの原作も三田みたいな教条バカパヨの原作も似たような娯楽に仕上げてしまう。いきなり冒頭から亀井文夫の『日本の悲劇』でプロパガンダ批判として使われていたミッドウェイ海戦の着水映像の再現から始まり血の海になって沈む大鑑と撃墜された戦闘機から難なく脱出する米兵の対比という日本側の精神論批判から始まる。そこから話は遡って政財癒着による非合理的な予算配分と戦う山本五十六が描かれる。

 

もし五十六の案が通れば日本は勝てたかと考えると微妙で少なくとも彼が目論んだ短期決戦が成り立てば泥沼化は防げたという程度。対して大艦巨砲主義の妄想に大衆が毒されなければ大戦は起きなかったかと云えば、それこそバカパヨの妄想です。どちらにせよ鬼畜米は日本を食い潰すつもりなのだから日米開戦は避けられません。それは東西冷戦が終わり存在価値を失った今の日本も同じです。ただただ食い潰され絶滅するか寸分の勝機を探して抗うか。かつての日本人は抗う賢さと度胸があったからこそアジア全域を配下にして欧米列強と対峙すべく大東亜戦争に突き進んだ。それに比べ敗戦利得者メディアに侵された今の日本人は愚かで臆病だからFTAに従い黙って絶滅する道を選んでいます。どうか五十六や東條のような立派な日本人が安倍や麻生みたいな親米売国奴を一刻も早く引きずり降ろして手遅れになる前に再び抗米救国の日米開戦に向かう事を願います。

特撮からCGへ

 

 

リターナー

 

この頃からVFXにより完全に日本の特撮のクオリティが変わった。ハリウッドレベルの資本がなければチープな絵しか撮れなかった時代が終わったからこそ今世紀に入って以降は多くの作家がハリウッドから引き上げたのだろう。この作品は今見ると完全に現在の山崎貴映画のスタイルが完成された最初の作品って感じ。

 

 

 

BALLAD 名もなき恋のうた

 

分り易いVFXに定評がある山崎貴が劇場版くれしんシリーズの一遍を実写リメイク。この頃のくれしんシリーズって結構ちゃんとした感動的な作品も多かっただけに実写化してみたくなるのも無理はない。ただアニメだからこそあった説得力が実写になった事で失われて違和感だらけ。これじゃオリジナルには敵わない。

キモいアプローチ

 

 

勝手にふるえてろ


『ただいまジャクリーン』『でーれーガールズ』と最近なかなか良い仕事をしてる大九作品を拝見。今回は結構はみ出した表現も意欲的に盛り込んでる。いわゆる妄想の中の恋愛に生きる処女を追った女性映画な訳だが、そりゃ現実の男とは恋愛したくなくなる気持ちは男たちの浅ましさを見てると充分に理解できます。いきなり冒頭で職場でアピって来る男とかマジありえねぇ。お前ら雑用と違ってこっちは大事な仕事任されてるんだから尊敬して惚れろとでも云いたげなアピール。

 

この手のクズって大企業では結構見かける訳だが、こんな零細企業にもいるのかって感じ。いやその企業に入ってる時点で同じ負け組だろ。ただの性別や入社タイミングで与えられた地位くらいしか誇るものがない無能ほど、この手のパワハラまがいのアピールかますんだよね。さっさとリストラされろって感じ。

 

そんなクズ男が多いと女性は現実の男に愛想を尽かす。そんで妄想の彼氏と付き合う訳だが、これがどこまでが回想でどこまでが妄想なのかイマイチ曖昧な表現をしていて、それどころか色々なジャンルの手法を入れるから女性の心境が分かり易い一方でストーリーライン自体を見失いそうにもなります。その中でも印象に残ったのはショーウィンド越しのミュージカルシーン。あれって明らかにジャックドゥミの『シェルブールの雨傘』を模してる感じ。ヌーベルバーグってのはロケ中心で低予算で撮られていたから普通はスタジオにセットを組んで撮るような屋内シーンも無理やり屋外から本当の家屋の中に向かってカメラを回したりもした。それがあのショーウィンド越しの名シーンを生んだ訳だが、その再現力が妙に高かった。

親バカ映画

 

 

風の外側


奥田瑛二が実の娘である安藤サクラをヒロインに撮った青春ノワール。やはり芝居の面からすれば安藤は父親以上のキレがあり優れた才能だと云えます。ただお世辞にも容姿に恵まれているとは云えない。だからブスなのに何でこんなにモテるの?って疑問は廣木隆一作品でも付いて回る。この作品では一応、地方の漁村でミッション系女子高の制服が珍しいから寄って来る男も少なくないというエクスキューズが付いてはいたが、やはり同じ学校でも他の同級生と比べると格下な容姿の主人公がモテるのは不自然に感じるのです。この主人公と彼女が惚れたヤクザ者には朝鮮人の血が流れているという設定。代表作『かぞくのくに』でも彼女は在日朝鮮人を演じてた訳だが、そのせいか彼女の芝居の鋭さには朝鮮映画に通じるボルテージの高さを感じてしまいます。

 

チョン高で番張ってた腕自慢の成れの果てのようなヤクザ者に世間の風は冷たい。この男は最初は闇金の取り立て屋をやっているが仕事を下ろしてくれる暴力団員に云われるままに麻薬取引や鉄砲玉に利用される。そんな底辺のドラマと合唱の夢を追う少女の青春ドラマが交差する。ヒロインと競い合うライバルは卑劣にも在日ヘイト発言で彼女を貶めようとする訳だが、こんな地方の小さな町でも朝鮮ヘイトはダサいという当たり前の価値観は浸透してるようです。その手の嫌韓嫌中は孤立化した負け犬老害のマスタベーションに過ぎない。どうも奥田瑛二が今作で監督デビューするにあたって主演女優が突然降板したから実の娘をヒロインに使ったと云われてるらしいが、この作品での安藤サクラを見ていると、どうしても親のひいき目を感じてしまいます。

先輩いい人

 

 

東京喰種

トーキョーグール【S】


前作では悪役だった先輩が実は人間の恋人を守ろうとしてる良い奴で主人公と共闘するという何とも典型的なヤンジャンならではの少年マンガパターンに流れるシリーズ第二弾。前作が何が云いたいのかよく分からないという意味でも中途半端な所で終わったのは最初から続編を想定しての事だったって訳だ。それにしてもまだまだ色々と次に繋がる複線を残していて今回も脚本に一本にまとめようとする気概が感じられません。ただただ連載に忠実にユルユルのホンで一応は区切れの良い所まで尺調整しましたって感じ。あらすじとしては今回は半グールーである主人公の味に興味を示した美食家の大物グールーが主人公を襲うってな内容で、そこに前回の悪役たる先輩も巻き込まれるってな感じ。

 

このグールーである先輩と人間であるその恋人の過去のエピソードにはそれなりにグッと来る。むしろ今回の主役はコイツ等だって感じ。それに対して前回から引き続き主人公はイマイチ優柔不断な感じで、この設定ならでは生まれ得るテーマの根幹に迫るような所へは至らない。それこそ捕食する側と捕食される側の間にいる存在だけに、その両面の社会を知る苦悩を語るだけで、そこに起こるドラマをチマチマ拾うよりもよっぽど作品としての根幹に迫れる気がする訳だが、やはりヒットコンテンツはなるべく無意味に引き延ばすのが業界の鉄則。連載終了は作品の人気がなくなった時。商業主義の事情で観客は極度に薄められたワインを振舞われるって訳です。

駆除は非情なのか

 

 

東京喰種

トーキョーグール


あまりキャラに魅力を感じられなかったのでスルーしてた話題のマンガを手っ取り早く実写映画版でチェック。タイトルの通り人間を捕食する人間と同じ外見の怪物が都会に潜み夜な夜な人間を襲っているってな設定。主人公は怪物の内臓を移植された事で怪物の力を手に入れるが怪物の側に付くか人間の側に付くかで苦悩する。まあ普通に考えれば理不尽に一般市民を虐殺して捕食するような連中は駆除すべき人類の敵な訳だが、そいつらに対する人間側のジェノサイドも非情で冷酷。

 

怪物は怪物になりたくてなった訳じゃない。ただ人間を喰わなきゃ餓死してしまうから本能に従わざるを得ない。インサイダーとして怪物たちの事情を知ってしまった主人公からすれば人間の方が理不尽な虐殺者に見えてしまうという訳です。コミュニティや家族の助け合いは人間社会と同様に怪物たちの中にもあるから情が移ってしまう。ただ「君はこれを愛せるか?」と食べかけのドーナッツを見せた刑事の一言に尽きる。どんな生き物が相手でも万物の霊長に牙を剥くモノは害虫として駆除し続けるのが人類なのだ。そんな当たり前の営みも見る角度を駆除される側に移すと非情に思えてしまうという皮肉を語るタイプのフィクションの典型。同類のメッセージ性を持つマンガ『寄生獣』と比べてしまうと陳腐に思えてしまいます。

灯を点そうランダムに

 

 

大停電の夜に


ラグジュアリー感について語ってみたいと思います。休日に映画館に出かける事は一般的な家庭にとって行楽レジャーの一種でもあります。狭い空間で汚れた空気を吸いながらの娯楽よりは観光地に出かけてゆっくりと癒されたいと考える消費者も沢山います。つまり商業的に考えると映画に描かれる世界のライバルは実際の観光地って事にもなります。集客の為には現実よりもキレイで清潔感のある世界を用意しなくてはなりません。登場人物の自宅ですらインテリアデザイナーが入っているとしか思えないトレンディドラマみたいに少し贅沢な舞台を用意する必要がある。最近TV業界からデビューした監督たちにはその手の気遣いがあります。この源孝志監督も例外ではないようです。彼の作品は他に『東京タワー』を素材にした仕事でついでに見ただけだが、この作品と同様にレジャーとしての映画をちゃんと認識してラグジュアリー感が出る画面作り。

 

グランドホテル式の作品として脚本はあまり上手くはない。説明的な台詞やご都合主義的な泣かせやら人物の出し入れが多い。それでも豪華キャストな作品だけあって役者の魅力でついつい惹き付けられます。乳がんのモデルと知り合う少年、エレベーターに閉じ込められた香港人、隠し子の存在を告げられた夫、出所直後に恋人の別の男との結婚と出産を知る男、ジャズバーでかつての恋人を待ち続ける男、母の生存を知らされた男。それらに様々な女性が絡み合いバラバラに始まった物語がつながりを見せる。後悔先に立たずな男性像を演じるトヨエツと哀川翔はツボでした。思いやりって必ずしも相手を幸せにするとは限りません。もう少し傲慢に愛していた人を引っ張っていたら一緒になれたかもしれないと後悔する事はよくあります。ちょっとしたすれ違いで掛け違えたボタンのような人間関係ってストーリー自体は嫌いじゃありません。ただジャズ演奏をやるならば、もっと和田誠先生の『真夜中まで』みたいにヘイジーなイメージの方が個人的には好み。

脱線エリート

 

 

RAILWAYS 49歳で電車の

運転士になった男の物語

 

遊人のエロマンガを実写化した『校内写生』でデビューした錦織氏も最近は割とマトモな商業路線で撮る事が増えた。タイトルだけで内容のほとんどは分ってしまう訳だが、まあ鉄道業界に入り損ねたテツに夢を与えるって意味でその層をターゲットにしてるのだろう。ただこの主人公は大企業の出世頭だった超エリートが倒れた母親や親友の急死をきっかけに「死ぬ前に本当にやりたかった事をやらねば後悔する」と思い立ちキャリアを投げ捨てて地元の小さな鉄道会社に就職って事でスペックが高い人間だからこそできる転職。妻との離婚で続編が作られる訳だが、この一作目から主人公の無意識的な家族に対するぞんざいな扱いが出てる。この主人公は基本的に優しいのだがエリートコースを外れるなんて大変な決断を独断で行い後から告げる。これじゃ家族に不信感生まれるでしょ。

 

 

RAILWAYS 愛を

伝えられない大人たちへ 

 

前作では49歳にして運転手になった男の話だが、今回は熟年離婚を切り出された定年間近のベテラン運転手の話。前作を見ていると、「これだけ独断で好きな事しちゃったんだから愛想尽かされても無理はないか」と思いきや全くの別人の話。一流企業の管理職辞めて地方の運転手に転職って、とんでもない一世一代の決断を妻に全く相談せずにやってしまうような独裁者は家庭を失って然るべきだが、この主人公は独善的な所もあるものの基本誠実な人間。定年後はゆっくり妻と余生を楽しもうと思っていた矢先に青天の霹靂。妻は離婚して介護士の仕事を始めるという一世一代の決断を夫にほとんど相談しないでやってしまったのだから。一作目は夫の身勝手だが二作目は妻の身勝手って訳だ。

 

副題に「愛を伝えられない大人たちへ」とあるが、正確には伝えられない訳じゃない。むしろ愛情自体は見透かされている。ツーカーの仲だから分っていると思い込み過ぎているだけ。なぜ決断したか夫は妻に尋ねもしない。ガン検診に引っかかって死ぬ前に悔いが残らぬようにやりたかった介護士をやろうとしてるなんて妻も自分からは語ろうとはしない。だから伝える気がなかったとはいえ伝えられない事があったのは妻の方。ひとり抱え込んでしまうから夫の方は訳が分からない。視点は夫を中心に描いているが、これは妻の側のドラマなのだろう。一作目の主人公が親友の死を目の当たりにして自分に正直な生き方を見出したように、この妻は自分に正直な道を模索している。伝えられない気持ちとは自分でも気づかない気持ち。自分の生き方に対する正直な想いと夫に対する正直な想い。このドラマの中では、それが少しずつ明確になる。それに夫の側はただ振り回されるだけ。周りは辛抱強く見守るしかない。正直に生きようとすれば身勝手になって周りに迷惑をかけてしまうのは必然なのだから。

本気で惚れてよ

 

 

渾身 KON-SHIN


タイのムエタイが格闘技であると同時に舞踏や祈祷でもあるように日本の相撲も本来は国技である前に神事です。だからトランプのような欧米人という蛮族は土俵が汚れるから招待すべきではなかった。これは陛下も神道の神々をも冒涜する行為であり保身の為にそれを行った朝敵売国奴安倍晋三は万死に値する。この物語はそんな神事としての相撲が残る地方集落を舞台にした群像劇。最初にナラタージュで相撲の意義が語られる通りこの物語は別にスポ根ではない。スポーツとしての勝敗や力士の強さは関係ないのだ。ただこの地に生きる者が肉体をぶつけ合う祭事のようなもの。だからそこに関わる人々の心の移り変りこそが大切という訳です。

 

ただ最近は結構娯楽性が高い作品も撮るようになった錦織監督だが、この作品のトーンは『白い船』の頃に戻っちゃった感じで、やたらと余白が蛇足に感じられました。ずっと片思いして酒を呑まないと告白できないオッサンや出戻りオバサンのエピソードなど掘り下げれば面白そうな人間ドラマが集まっているのに何となく表層をさらった上で相撲に参加させる事で何となくケジメ付けた感を漂わせるって感じで、イマイチ掴み切れない内容でした。オープニングのナラタージュと告白に応えるシーン位しか見所を感じられません。

製紙で就学支援

 

 

ミラクルバナナ


ハイチとタヒチというありえない勘違いから始まる導入部は軽快でユーモアたっぷりの内容を期待させるが、だんだん物語が進むに従って真面目臭さが鼻につき始める。もっと主人公のあっけらかんとしたキャラを押して良い意味での無神経さで笑いをとる方向へ進んで欲しかった。逆に真面目にやるならば暴動シーンにはヴァイオレンス要素が足りないし妙におセンチに走る葬式の後の一連はいりません。単なる媚びによるオブラートに包んでいるようにしか見えないからです。オブラートに包むのであれば脚色としてひと工夫欲しい所だが、普段は捨てられているバナナの繊維から子供たちにノートを作らせるって活動だけが丁寧に描かれていて後半はまるで金のかかったPRビデオみたいになってしまい、人物の肉薄を全く感じられないのが残念。

 

それにしてもハイチにしても日本の製紙職人宅にしても、ここでもやたらとラグジュアリー感が出てるってのはいかにも最近の流行。トニースコット、エイドリアンライン、アランパーカーみたいな80年代ハリウッドの広告と映画に二股かけて心地良い映像を贈り続けていた作品群を今更模倣したかのような逆光と埃の効果。この手の映像って生理的に嫌いな人はあまりいないだろう。私もこの手の絵作りは嫌いじゃない。むしろ撮り方に自由が利く仕事では自発的にこの手の映像を狙います。ただこの作品に関しては、そんなに心地良く撮っちゃっていいのかなって感じ。心地良くする事で逆境の要素がほとんど薄まってしまっています。