象の夢を見たことはない -326ページ目

体を使うイメージ

仕事で、体をつかった作業をする場合、『頭と体を隅々まで使っているか?』を自問しながら作業を行うと、集中して作業できるようだ。


ちゃんと両手を使うこと。足を動かすこと。体を動かすことで頭も活性化する。


ある作業者を見ていて、彼は頭がいいなあ、作業がはやいなあと感じたことがあったが、そのとき彼は、両手をちゃんと使っていた。両手を使うと、作業効率が良いのである。

日々そういうことを自分に課していると、日常のどんな作業でも、効率よく作業できるようになる。


よい職人さんは、体のあらゆる部分を有効に使う。親父の仕事を見ていたが、体の使い方に理があるのだ。

そういうのは自分でやってみないとわからない。こういうのは、訓練でしか覚えられない。頭だけで、考えてもどうにもならない。


どんな作業でも、最初はイメージ通りにうまくはいかない。そんなに、簡単なものではない。

そういうときにどうするか。

『頭と体を隅々まで使っているか?』

たぶん、そこから始まるし、作業で迷ったらそこに戻ってみること。

信ずることと知ること

考えるヒント3 『考えるヒント3』は、小林秀雄の講演集だが、一番最初に「信ずることと知ること」という題での講演が書かれている。


科学的な経験というものが、人間の経験というもののすべてではない。人は何かを信ずるものだが、その信じるもののなかに人間の経験というものがある。人間の経験というものはもっと豊かなものだ。もっと戦慄すべきものだったりもする。

異常体験であれ、自分が確かに経験したことは、まさに確かに経験したことであるという、経験を尊重するしっかりした態度。自分の経験した直観が悟性的判断を超えているからと言って、この経験を軽んずる理由にはならぬ。柳田国男さんの学問とはそういうもので、私はそれに感銘を受けたと。そして、柳田さんのお化けの話を引用し、こう結んでいる。


「…と、柳田さんははっきり言っています。懐中にあるものとは、言うまでもなく、私達の天与の情(こころ)です。情操教育とは、教育法の一種ではない。人生の真相に添うて行わなければ、凡そ教育というものはないという事を言っている言葉なのです」


灰谷健次郎は教育について、「子供に添う」ということをよく言われていた。教えるという姿勢では、知識は与えられるけれど、知恵は与えられない。

「相手の身に添う」ことではじめて生きたなにものかを共有できる。それは、自らを伸ばす方法でもある。

知恵というのは、教えることで与えることもできなければ、与えられるものでなく、みずからが得るものである。

どうせなら共有しようぜっていうのが、たぶん灰谷さんが言おうとしてたことでもあり、それがこの小林秀雄の人生の真相に添うという言葉にどこかでつながってくるんじゃないのかなとも思う。

テンパらないこと、マニュアル

テンパらないことの極意は、以外にも、集中することである。


テンパっている心の状態を考えればわかる。

なにかに囚われているからテンパるのだと思ってしまうのだが、実はちがう。テンパる、それは状況に意識を集中していないからである。

浮き足立っていること。それがテンパっていることの実態らしい。


集中すれば、瞬時におのずと何をすべきか判断できるように動物はできている。


野性というのは、テンパらない。キジも鳴かずば撃たれまいというのは、己が発見されそうになってテンパったから鳴いたわけでなく、発見されそうになったヒナから注意をそらすために鳴いたのである。己を犠牲にして。

そういう状況でも、何を一番にすべきかわかっているのが野性というものだ。


そういう追い詰められた状況以外のときに、人であればよい。問題を枠組み化し、作業計画・行動を立てる。マニュアルは必要だから存在する。実態に合わなければ変えていくものがマニュアル。追い詰められたときにも、指針になるようなものが本来のマニュアルのあるべき姿である。だが、そこまで練られたものは本当に数少ない。


追い詰められたときに集中すべきもの、よいマニュアルには、多分、そういうことが書いてあるものなのだろう。キジにとって、自分の命よりヒナの命といったような。

何に集中すべきか、そういう暗示を読む人に与えられないマニュアルは、よいマニュアルとはいえない。


テンパらないためには、集中すること。

「テンぱらないことマニュアル」っていうのがあれば、そういうことが書いてあるかも知れない。

まだ、よくわからないけれど。


考えることと、行動すること

文章は、想像により膨らますものだが、行動は、削るものである。


行動原理が違うので、必ずしも文章でいろいろなことを考えられる人が、それを行動に移せているか、行動が彼の思想を反映しているのかと言うと、自分のことを考えても、はなはだ疑問である。


なにかをあるレンジで計画して行動するということとは別に、普段なにげなくしている行動は、その場でのいろんな情報・情況から、即座に判断を下して、体が反応するようにして実施される。

その場合、基本的に出来ることは限られている。それは、今、その人が持っているモノに大きく影響される。

長い間のトライアルアンドエラーで自身が経験してきたモノが出てくる。

このモノが、想像で培ったものであることはまずない。普段の行動で実際に得てきた、自分の中にある経験を削りだして出てきたモノが行動となる。


行動することにおいて、人が己の中に持てるものというものは少ない。そこに、想像していた何かを付け加えていくとしても、付け加えたさきから、変節させられたり、削られたりする。そういう意味で、想像していることなどは、行動する上でほとんど役に立たない。


行動する瞬間に、なにかが体の中から突然出てくることがある。これは、一体なにに起因しているのだろうか。

普段考えてたことが蒸留されて、それが、心理情況によって出てくるのかと甘いことも考えたが、頭で考えたようなことは出てこない。自ら経験したことのエッセンスが出てくるのみである。そう、やはり、経験したことしか出てこないのである。

深く考えたことでも、体の内部にまで、行動を手助けする何かになるまで、落とし込むということはほとんどできない。いろんな哲学書を読んだけれども、その著者である彼らが実際にした行動と彼らの哲学に開きがあるのはそういうことであろう。

彼ら自身が実践できていないことと、彼らの哲学とは関係がない。それでも彼らの哲学や思索にも意味はあると、誰かは言っていたけれど、それは自分の行動の合理化のために言っているようにしか聞こえない。自分は、誰だってかわいいし、そういう自己を守るための行動原理からは逃れることは、思っているよりはるかに難しいのだ。


ためになる哲学書なんてほとんどない。河合隼雄さんが、

『桑原武夫さんが「文学でもホンマにおもろいのを読むと、脇から汗が流れてくるんでっせ」といわれたのは本当に印象的だった。逆に言うと、身体にまで効果を及ぼさないような書物は、オモロナイのだ』

と言われていた。

そういう腹にこたえる、人間全体としてインパクトを受けるものしか、オモロイものしか、経験にはならない。経験にならない書物は、たいして、ためにもならなければ、役にもたたない。


逆に言えば、自分で文章を書いていて、そういう身体にまで影響を及ぼさない文章など自分の役にもたたない。

そんな文章は、まだ書けない。

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